リストボタン(347)若葉の一つ一つに
神は
復活の約束を
聖書のうちばかりでなく
春の若葉の一枚一枚に書き記しておられる。(マルチン・ルター)

・次のように言うこともできるだろう。
神は、夜空の星の一つ一つに永遠の光の存在と、罪清められたのちの姿をも書き記し、野草の花の一つ一つに救われた魂の姿を書き込んでいる…と。
自然の事物は、神のさまざまの思い、ご意志、その約束を書き込んだものであり、一種のバイブルなのである。

リストボタン(173)良心の曇った者たちは、お前の言葉を厳しすぎると思うだろう。しかし、お前は一切の偽りを捨てて、
お前が見てきた一切の姿を明るみに出せ。…
お前の言葉は、はじめは苦いかもしれない。(*)
しかし、ひとたび体内に取り入れられるならば、
それは命の糧となるものを後に残すはずだ。
お前の叫びは、さながら疾風のごとく鋭く、
高い頂きを強く打つ。(ダンテ「神曲」天国編第十七歌より)
○ダンテは自らの著作の重要な使命の一つは、高い頂き、すなわち当時のローマ教皇など、地位高い人々の不正、さらには当時の多くの人たちの間違いを明らかにし、神の真実を指し示すことだと知っていた。彼は永遠の真理を語ることが自らに託されていることを自覚していた。ダンテが語る言葉は、それゆえに預言者的であり、聖書における預言者のように、聞く者に苦みを感じさせるであろう。しかし、それを心開いて聞き取ろうとする者には、霊的な栄養となり、新しい歩みをもたらすことになる。
神の言葉、真理はこうした特質を持つ。はじめの苦い味わいを退けて、表面的にあまい言葉を追いかけ、取り入れようとする者は、そこに魂の栄養はなく、害悪を取り入れたことを知らされていくであろう。
しかし、真理の言葉を取り入れ、内に消化する者は、たしかに命の糧を得ることになる。
なお、ヒルティはこのダンテの言葉を、最晩年の著作である、「眠れぬ夜のために」の扉に掲げていて、彼がその著作の真理性を確信して世に送り出したのがうかがえる。

(*)参考のために、以下三行の原文と、英訳をあげておく。
・Che se la voce tua sara molesta
nel primo gusto,vital nutrimento
lascera poi ,quando sara digesta.

・If thy voice is grievous at first taste,
it will afterwards leave vital nourishment when it is digested…
リストボタン(172)すべての行為の前に、神のみ言葉を思い浮かべることは、なんと大切なことであろう。そのような人はどんなに試みられても心配はない。
み言葉のない人は、天から声が届かないゆえに、最後には絶望に陥る。
ただ、空虚な心に駆り立てられる。(ルターの「卓上語録」167頁 教文館)
○神の言葉によって導かれることは、神の祝福を受ける。まず神の国と神の義を求めよ、そうすれば他のことは添えて与えられると主イエスは約束された。このルターの言葉は、何かを行おうとするとき、まず自分の考えや知識、欲求で行動しようとするのでなく、神の言葉を思い浮かべることによって、神のご意志を知った上で、神ご自身に導かれていくことの祝福を説いている。
リストボタン(192)私が今死ぬことになれば、私の死後、友たちがみ言葉を熱心に求めることしか彼らには勧めない。
なぜならまず神の国を求めるべきであり、私たちは自分が死ぬときに、妻や子どもたちのことを心配すべきでないからである。
「これらのものはみな与えられる」とある。神は私たちを決して見捨てない。(「卓上語録」 ルター著 教文館)
○ルターは最期のときであっても、周囲の人々に対して「み言葉を熱心に求めよ」というのが願いであったのがわかる。まず家族のことでなく、まず周りの人たちを支える神の言葉を求めるべきとした。現代の私たちも同様に言える。まずみ言葉を求める、それは生きたキリストから直接に与えられる霊的な言葉であるとともに、聖書に書かれた神の言葉をも意味する。
リストボタン(217)この信仰のなかでは、いっさいのわざが等しくなり、互いに同等のものとなる。わざが大きかろうと小さかろうと、長かろうと短かろうと、あるいは多かろうと少なかろうと、そうしたわざの区別はいっさいなくなってしまう。
 わざが神に喜ばれるのは、わざそのもののためではなく、信仰のためであり、そしてその信仰はわざがどんなに数多く、またどんなに異なっていようとも、すべてのわざの一つ一つの中に、唯一のものとして存在し、生きて働くからである。(「善きわざについて」ルター著 聖文舎刊 ルター著作集第一集第二巻15頁)
・私たちが何かよきことをしようとするとき、それがどれほど目に見える効果があるかとか、相手や周囲の人々に評価されるか、などを考えてするなら、それは自分の判断や人間の評価を重んじてやっていることである。
しかし、自分のなそうとすることが神の御心にかなうという確信があり、万能の神、真実の神の力を信じて、その神が用いて下さるなら、無から有を生じさせるのだから、小さくとも神は必ず祝福して用いて下さる、と信じてすることは大きなわざと同じ意味を持ってくる。
重い犯罪人であっても最後のときに、イエスへの信仰をあらわした人は、キリストとともに今日パラダイスに入ると、約束されたが、ここにも信仰がどんなわざにもまして神に喜ばれることを示している。
神はどれだけ多くをなしたか、でなく、どれほど、神への愛と信仰をもってなしたかをみておられる。