(184)(悪を取り去るためには) …その老漁師は、儀式になれているどこかの宗教家のようでなく、素朴な老人で非常に威厳のある証し人で、真理を説くために遠くからやってきたのであった。 彼はその真理を、眼に見て、手に触れて、現実のことのようにそれを信じ、かつ、それを信じるからこそ愛している人のようであった。その額にも真理そのものが持っているような確信の力があった。… 聞いていたローマの将軍の一人が、最も大きな驚きをもって聞いたのは、その老人が、神は完全な愛であるから、人々を愛する者は神の最も高い戒めを果たすものであると教え始めたときである。… 善人を愛するだけでは足りない。悪人のために祈り、愛さねばならない。愛によってのみ、悪人から悪を取り去ることができるからである。… (「クォ・ヴァディス」シェンケビッチ著(*)上・270P )著 岩波文庫) (*)クォ・ヴァディスとは、ラテン語(古代ローマ語)で、「Quo(どこへ) Vadis(行くのか) Domine(主よ)」を短くしたもの。これは(主よ、どこへ行かれるのか )という意味。この作品は、新約聖書の少し後の時代に書かれた「ペテロの言行録」に出てくる内容を、ポーランドの作家シェンケビッチが用いたもの。 ○ここには、ペテロがローマの町でキリストの証言をしている状況が描かれている。当時キリスト者はローマ帝国によって迫害のただなかにあった。キリスト者の集まりのなかにも、キリスト者を捕らえるために潜入してきた者、信仰もなくして欺くために入り込む者もいた。そうした敵はうちにも外にもいて、キリスト者の安全をおびやかしていた。そうしたなかに使徒ペテロがきて、キリストの証言をし、キリストの教えを伝えている様子が、ノーベル文学賞を受賞した作家のペンによって生き生きと表されている。 (98)私どもは、たとえ命に関わる場合でも、嘘をついてはならないのです。それが私どもの教えで、心をこれに合わせていきたいのです。 ・・私たちを見て下さい。私たちには、別れもないし、苦しみや悲しみもありません。そういうものが起こってきてもやがて喜びに変わります。 あなた方には命の終わりになっている死が、私たちには、ただ命の始めですし、さらにみじめな幸福からもっといい幸福、不安な幸福からもっと安心な永遠の幸福に変わることです。 敵に対してさえ憐れみを命じ、嘘を禁じ、私たちの魂を悪から清めて死んでからも絶えることのない幸福を約束する教えがどういうものか考えて下さい。・・そうですとも。キリストを信じていて不幸になるわけがありません。(「クォ・ヴァディス」(*)中巻第四章のリギアの言葉より) (*)ポーランドの作家シェンキェヴィチ作。一八九六年刊行。ローマ帝国のネロ皇帝による迫害の時代におけるキリスト教徒を題材にした小説。著者は、一九〇五年ノーベル文学賞授賞。パウロやペテロも現れ、信仰とそこから生まれる愛によって敵すらも変えられ、悪が克服されていく。 (275)光に向かう扉 …アクテの頭には、今大きな混乱が生じた。光に向かう扉が開いたり、閉じたりし始めた。しかし、それが開いたとき、その光が彼女の目をくらますので、何一つはっきり見えなかった。 ただ、その明るさの中に、何か限りのない幸いがひそんでいることだけは推測がつき、その幸いに比べればほかのことは全く無に等しくて、例えば皇帝がその妃を追いだしてふたたび自分を愛するようになったとしても、つまらないことだと思ったであろう。 (「クォ・ヴァディス」 上巻 一二九頁 岩波文庫) アクテとはローマ皇帝ネロに愛されて仕えた女の解放奴隷である。キリストのことは全く知らなかったが、神に仕えるリギアという若い女性によって初めて知らされる。 そのとき、この世俗の汚れに染まった女の心にも光の扉が見えてきた。しかし、まだそれは開いたり閉じたり…という状況であった。それでもその扉が開かれて向こうにある光を受けるときには、この世で最高の幸福と思っていたこれまでのことも全く無に等しいように感じさせるものがあった。 私たちにとっても、つねにこうした扉が前方にあるのを感じる。すでにキリストを信じてその光を受けている者であっても、油断していてこの世の考えや欲望に引っ張られるとき、その扉も閉じられてしまう。この世のさまざまの情報は絶えずそうした光の世界に向かう扉を閉じようとする力をもって働きかけているからである。 私たちの周りの自然も、聖書もそして日々の出来事も、私たちの見る目があり、聞く耳があるならそれらはすべて光に向かう扉であると感じ取ることができるだろう。 また本当の豊かさ、富というのが、経済問題にかかわらずに存在しうるということも考えない習慣がついてしまっている。 |