(255) 不法が加えられたことに対して、恨みによって復讐しようとする者は、たしかにみじめな生活を送る者である。 しかし、反対に、憎しみを愛によってあえて克服しようとつとめる者は、たしかに喜びと平安にささえられて戦い、大勢のものに抵抗するのにただ一人の人間に対抗するのと同じように容易に戦い、そしてほとんど僥倖(偶然的な幸運)を必要としない。(「エティカ」スピノザ著(*) 世界の名著版 三〇九頁) (*)スピノザはオランダの哲学者、神学者。(一六三二年〜一六七七年)彼は、理神論であったが、その倫理学には、ここにあげた言葉のようにキリスト教の教えに通じるものもみられる。(なお、エティカとは、倫理学を意味する。) ・この言葉を聖書的に言い換えるなら、他者から受けた不正によって自分の内に相手への憎しみが生じるとき、神の愛を求め、その愛を受けるならば、主の平安が与えられ、その平安と喜びによって、悪意に打ち勝つことができる。主イエスが、敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と教えたのもそのことであった。 (256) 祝福された状態(至福)は、徳の報酬でなく、徳そのものである。 私たちは、快楽を抑えるから、至福を喜ぶのでなく、むしろ逆に至福を喜ぶから快楽を抑えることができるのである。 精神は、神への愛、すなわち至福を喜ぶことによって快楽を抑える力を得る。(同右 三七一頁) Die Gluckseligkeit ist nicht der Lohn der Tugend,sondern selbst Tugend.und wir erfreuen uns ihrer nicht deshalb,weil wir Geluste hemmen,sondern umgekehrt,weil wir uns ihrer erfreuen,deswegen konnen wir die Geluste hemmen. ・主イエスのたとえと似た内容である。「天の国とは、次のようにたとえられる。畑に宝物が隠されているのを見付けた人がいる。その人は、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買う。」(マタイ福音書十三・44) 神の国の宝、すなわち主イエスによる罪の赦し、永遠の命、神の愛などを知らされた者は、その喜びのあまり他のもの、例えばこの世の快楽をも退ける力を得る。 (257)いつの時代にも、またどの民族にも、自分自身のためにはなんの願望をも持たず、ひたすら正しい道で、人を助けるためにのみ生きる幾多の人がいる。 このような人こそ真の「聖職者」である。(「眠られぬ夜のために 」第二部 一月十五日の項」) ・このような心は、神から与えられる。人間は自然のままであれば、このような生き方とまさに逆で、自分の利益になることのためにのみ生きているという状態である。他人のためにする場合でも、そうしておくと自分もよく評価される、といった心が隠れていることも多い。聖霊に導かれて初めてこのような心が与えられる。 (262)人の心を征服するものは、決して武力ではなく、愛と気高い心である。(スピノザ著 「エティカ」中央公論社版 世界の名著 三三四頁) Die Gemuter werden jedoch nicht durch Waffen,sondern durch Liebe und Edelmut besiegt. ・これは、新約聖書で言われている言葉に通じる内容である。 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 (ローマ書十二・20) 燃える炭火を敵対する者の上に積むとは、相手の頭(心)に巣くう悪の根源を焼いてよきものにするということである。なお、現代では炭火など、弱々しい火力としか思えないが、石油、電気など何もなかった時代では、炭に激しく空気を送り込み燃焼させることで、鉱石をも溶かす千数百度の高熱を得ることができたので、当時としては最も強力な火を意味している。 |
(255) 不法が加えられたことに対して、恨みによって復讐しようとする者は、たしかにみじめな生活を送る者である。 しかし、反対に、憎しみを愛によってあえて克服しようとつとめる者は、たしかに喜びと平安にささえられて戦い、大勢のものに抵抗するのにただ一人の人間に対抗するのと同じように容易に戦い、そしてほとんど僥倖(偶然的な幸運)を必要としない。(「エティカ」スピノザ著(*) 世界の名著版 三〇九頁) (*)スピノザはオランダの哲学者、神学者。(一六三二年〜一六七七年)彼は、理神論であったが、その倫理学には、ここにあげた言葉のようにキリスト教の教えに通じるものもみられる。(なお、エティカとは、倫理学を意味する。) ・この言葉を聖書的に言い換えるなら、他者から受けた不正によって自分の内に相手への憎しみが生じるとき、神の愛を求め、その愛を受けるならば、主の平安が与えられ、その平安と喜びによって、悪意に打ち勝つことができる。主イエスが、敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と教えたのもそのことであった。 (256) 祝福された状態(至福)は、徳の報酬でなく、徳そのものである。 私たちは、快楽を抑えるから、至福を喜ぶのでなく、むしろ逆に至福を喜ぶから快楽を抑えることができるのである。 精神は、神への愛、すなわち至福を喜ぶことによって快楽を抑える力を得る。(同右 三七一頁) Die Gluckseligkeit ist nicht der Lohn der Tugend,sondern selbst Tugend.und wir erfreuen uns ihrer nicht deshalb,weil wir Geluste hemmen,sondern umgekehrt,weil wir uns ihrer erfreuen,deswegen konnen wir die Geluste hemmen. ・主イエスのたとえと似た内容である。「天の国とは、次のようにたとえられる。畑に宝物が隠されているのを見付けた人がいる。その人は、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買う。」(マタイ福音書十三・44) 神の国の宝、すなわち主イエスによる罪の赦し、永遠の命、神の愛などを知らされた者は、その喜びのあまり他のもの、例えばこの世の快楽をも退ける力を得る。 (257)いつの時代にも、またどの民族にも、自分自身のためにはなんの願望をも持たず、ひたすら正しい道で、人を助けるためにのみ生きる幾多の人がいる。 このような人こそ真の「聖職者」である。(「眠られぬ夜のために 」第二部 一月十五日の項」) ・このような心は、神から与えられる。人間は自然のままであれば、このような生き方とまさに逆で、自分の利益になることのためにのみ生きているという状態である。他人のためにする場合でも、そうしておくと自分もよく評価される、といった心が隠れていることも多い。聖霊に導かれて初めてこのような心が与えられる。 (262)人の心を征服するものは、決して武力ではなく、愛と気高い心である。(スピノザ著 「エティカ」中央公論社版 世界の名著 三三四頁) Die Gemuter werden jedoch nicht durch Waffen,sondern durch Liebe und Edelmut besiegt. ・これは、新約聖書で言われている言葉に通じる内容である。 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 (ローマ書十二・20) 燃える炭火を敵対する者の上に積むとは、相手の頭(心)に巣くう悪の根源を焼いてよきものにするということである。なお、現代では炭火など、弱々しい火力としか思えないが、石油、電気など何もなかった時代では、炭に激しく空気を送り込み燃焼させることで、鉱石をも溶かす千数百度の高熱を得ることができたので、当時としては最も強力な火を意味している。 |