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たとえ聖書のすべてを外面的に知り、あらゆる哲学者のいったことを知るとしても、神の愛と恵みがなければ、そのすべてに何の益があろう。
(「キリストにならいて」1の3 トマス・ア・ケンピス著)
・新約聖書にも、「たとえ、あらゆる神秘と知識に通じていても、愛がなければ、無に等しい」(Tコリント13の2) とある。
349)自分を他のすべての人たちの下に置いても、あなたにとって何の害もない。しかし、一人の上にでも自分自身を置くことは、大きな害になる。
平安は、謙遜な人と共にある。しかし、傲慢な者の心には、ねたみや絶えざる怒りがある。(「キリストに倣いて」1の7 トマス・ア・ケンピス著)
It is no harm to you if you place yourself below all others; but it is great harm if you place yourself above even one. Peace is ever with the humble man, but in the heart of the proud there is envy and continual anger.
・使徒パウロも次のように書いている。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。(Tテモテ 1の15)
パウロは二千年という長い歳月を通して、最大のはたらきをした使徒と言える。彼が書いたものが聖書に数多く収録され、測り知れない影響を及ぼしてきたからである。それはパウロ個人の思想とかでなく、神、あるいはキリストからの直接の啓示であったからそのように大いなる力を持って歴史を通じてはたらいてきたのであった。それほど神に引き上げられた人であったが、その彼が、自分は罪人の最たる者だという実感を持っていたのである。
このことは、次の言葉にもうかがえる。
…実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。(Tコリント 15の9)
主イエスは、「ああ、幸いだ、心の貧しい人は。なぜなら神の国はその人たちのものであるからだ」といわれた。パウロのような実感、意識こそ、そのような「心貧しき人」の心の状態である。そしてイエスの約束通り、パウロは神の国を与えられた。そのことは、聖霊をだれよりも豊かに受け、それによって神からの啓示を後のいかなる人よりも多く受けることになったことに表れている。
(350)あなたは今日、死のうとしているかのように、すべての行いや思いにおいて、身を処するべきである。
自分の死の時をいつも目の前にたもち、毎日死ぬ心構えを怠らない者は祝福された人である。(同1の23)
You ought to order yourself in every deed and thought, as if you are to die this day.
Blessed is the man who has the hour of his death always before his eyes, and daily prepares himself to die.
・主イエスはいつも十字架の死を見つめて歩んでおられた。使徒たちも、世の終わりは間近だという切迫感をもって生きていた。死は間近だ、残された時間は少ないということを本当に真剣に見つめるとき、おのずから小さなことは念頭から去り、死の彼方の復活、神の国を見つめることにつながる。そして主イエスが言われたこと、「私を信じるものは、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬことがない。」(ヨハネ11の25〜26)という真理をより深く実感しつつ生きることになる。
(155)愛からなされることは、いかにそれが小さく、また取るに足らないものであっても、全く実り多いものである。神は人がいかに多くのことを成し遂げるかというよりも、いかに大きな愛をもって働くかを見られるからである。
多く愛する者は、多くのことをなす。(「キリストにならいて」第一編十五・1〜2より)
・ここで言われている愛とは、もちろん人間の自然に持っている愛でなく、神からの愛を指している。人間が持っていると思われている愛は、必ず自分への見返りを期待するものであり、それは愛でなく自己愛の一種といえるからである。
この言葉は、主イエスが言われた、「人が、私につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ福音書十五・5)を思い起こさせる。主イエスにつながっているとは、主イエスの内にとどまっているといしことであり、それは右の言葉のすぐあとで、「わが愛のうちにとどまれ」(同9節)と言われているように、主イエスの愛、神の愛のうちにとどまることである。主イエスの愛のうちにとどまって、何かをなすときには、主が働かれる。
「多く愛する者は、多くのことをなす」これは、神の愛をもってなす者は、外見ではいかに小さいわざのように見えても、神の目から見れば多くのことをなしているとみなされるし、逆にいくら社会的に目だったことをしても、自分の利得とか名誉のためになしているときには、愛からなされておらず、神の目からはそれはとるにたらないことと見なされる。
(108)人が自分でも、または他人についてでもただす力を持たないような欠点は、神がなされるまで忍耐強く待たねばならない。
○中ヲもし、一度か二度忠告しても聞き入れられないときは、その人と言い争わずに、全てを神に委ねよ。神は悪を善に変える道をよく知っておられるのだから。
他人の短所や弱点についても忍耐強くあるように努めよ。なぜなら、あなたもまた他人から当然忍んでもらわねばならぬたくさんの短所を持っているのだから。(「キリストにならいて」一・16より)
(99)どんなに敬虔な熱心な人でも、時として恵みが退くことを経験し、あるいは熱心が減じるのを感じないような人をわたしは知らない。どんなに深く喜びにひたり、光を受けた聖徒でも、先か後に誘惑をうけなかった者はいない。しかし、誘惑で試練を受け、それに勝利した者には、天の慰めが約束されている。(「キリストにならいて」第二編九章より トマス・ア・ケンピス著)
(261)沈黙と安息のうちに、敬虔な魂は進歩向上して、聖書の隠された真理を学ぶのである。 人が、知人や友達から身を遠ざけるとき、その人には神が、聖なる天使を引き連れて近づいて下さる。 (「キリストにならいて」岩波文庫版 46頁)
(初めの部分の原文と英訳) In silentio et quiete proficit anima devota et discit absconditat scripturarum.. (ラテン語原文)
・In silence and quietness the devout soul makes progress and learns the hiddeen things of the Scriptures.
・地上での最後の夜となったゲツセマネでの主イエスの必死の祈りでは実際に御使いが来て、汗が血の滴り落ちるほどに祈るイエスを励ました。(ルカ福音書二二・44)