(224)沈黙からはじまるもの
沈黙の実は、祈り
祈りの実は、信仰
信仰の実は、愛
愛の実は、奉仕
奉仕の実は、平和(「マザー・テレサ書簡集」ドン・ボスコ社 146頁 )
・マザー・テレサは早朝から長い祈りの時間を持っていた。そこから日々霊的に新しくされ、力を受け、信仰をたしかなものとし、聖霊を受け、その聖霊の実として愛を受け、人々への奉仕のわざが自然になされ、それは生涯持続した。
こうして互いに仕えあうところに真の平和が生れる。
私たちにおいても、つねに主の御前に静まり、御声を待ち望むことが求められている。
(225)愛によってのみ
…しかし、最も大きな驚きがこの若い人をとらえたのは、その老人(ペテロ)が、神はさらに完全な愛であるから、人々を愛するものは神の最も高い命令を果たすのものであると教え始めた時である。しかし、自分と同じ民族の人を愛するだけでは足りない。人となった神はすべての人間のために血を流し、異教徒の間にもコルネリウスのような弟子を見出したからである。
また、我々に善きことを行なう人々を愛するだけでは足りない。キリストは自分を死に引き渡したユダヤ人をも、自分を十字架にかけたローマの兵隊をも赦した。
であるから、我々に不正を加える人々を赦すばかりでなく、それを愛して、悪に対するに善を報いなければならない。
善き人を愛するだけでは足りない。悪人をも愛さなければならない。
愛によってのみ、悪人から悪を取り去ることができるからである。…
その若者はもう、その老人の言葉に少しも新しいことがないとは考えず、驚きをもって自分に問いをだしていた。…それは彼にとって何か聞いたことのない新しい観念であった。例えば、仮に、この教えに従っていく気になったとすれば、自分の考えも、習慣も性格も、今までの本性すべても薪の山にのせて灰になるまですっかり焼き尽くし、何か全く別の生活と新しい魂で満たされなければならないと感じた。…
心のなかでこの教えを拒もうとしたが、それに背を向けるのは、花の咲き満ちている草原に背を向けるようなもので、その人の心を惹く芳香を一度でも嗅げば、他のことはすべて忘れてそればかりに憧れるようになるのだと感じた。
この教えには少しも現実性がないようであるが、しかもこれに比べると現実はいかにもみじめなものであって、それに考えを向ける値打ちがないように思われた。…(「クォ・ヴァディス」上巻271〜272頁より。)
ローマの迫害の嵐が吹きすさぶ中、迫害を逃れてローマを去ろうとしていたペテロに、復活のキリストが現れてどこかへ行こうとするのに出会った。ペテロは「主よ、どこへ行かれるのか!」と驚いて問うた。それは当時のローマの言葉では、クォ・ヴァディス・ドミネ
(Quo Vadis Domine)であった。クォ(どこへ)
ヴァディス(あなたは行く)、ドミネ(主よ)。
キリストは、お前が逃げていくなら私はもう一度ローマで十字架にかかるために行くのだ、との答えを聞いてペテロは再びローマに帰って行ったという古い伝承がある。ポーランドの作家、シェンキェヴィチはそうしたことをも折り込んで用い、岩波文庫で三冊、八百頁ほどにもなる大作とした。この「クォ・ヴァディス」は一八九五年に出され、一九〇五年にノーベル賞を受け、世界に知られるようになった。
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