2002年4月

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ことば

126)絶えざる祈り
 神との交わりには、特別の時刻や時期(朝夕など)や姿勢や身振りなどを全然必要としない。反対に、最も簡単な言葉、あるいはただ心に思うだけで十分である。いろいろな外的な用意はかえって妨げになることが多い。
 最も大切なのは、われらの主とたえず心のつながりを持つことである。使徒パウロはこれを「絶えず祈る」といっている。
 祈りは単純、かつ誠実に、すこしも形式にこだわらずに、なさねればならない。それだけでなく、なお祈りに対する神の答を聞くことができなくてはならない。そのためには、日常の騒々しさや利己心にすこしも妨げられない、微妙な心の耳が必要である。(ヒルティ 眠れぬ夜のために 上・一月二十一日の項)

ここでヒルティが最も重要だと述べていること、「我らの主とたえず心のつながりを持つ」 ということは、キリストのよく知られたぶどうの木のたとえと同じことを意味しています。

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(ヨハネ福音書十五章より)

 このことが、「絶えず祈る」ということの本当の意味だと言っているのです。そして、この絶えず、主と心のつながりを持つというところから、自ずから導かれることが、神からの答えを聞き取るという姿勢です。神(主イエス)との霊的な交流を持っているならば、当然神からの語りかけもあり、それを聞き取る耳も持っているということになります。

・原文のニュアンスを知り、ヒルティのいわば肉声に少しでも触れたいという方がいるようなので、「祈りは単純…」以降の原文をあげておきます。 Mann muss nicht bloss einfach, aufrichtig und ohne jeden Formalismus, bitten, sondern auch die Antwort horen konnen. Dazu gehort ein feines , vom Gerausch des Tages und der Eigenliebe ganz unbehindertes inneres Ohr.

127)一日のはじめに
 主イエス様、この一日を始める前に
今 わたしは あなたのところにまいりました。
あなたに触れていただくためです。
どうか あなたの目を
わたしの上に しばらくのあいだ注いで下さい。
あなたの確かな友情が、
今日のわたしの労働と共にありますように
騒音のあふれる砂漠のようなこの世界にあって
あなたへの思いが絶えることがないように
どうか わたしをあなたで満たしてください
あなたの祝福する日の光が
わたしの思いの高みを満たしますように
そして わたしを必要とする人々のために
わたしに力を与えてください
(「祈り―信頼の源へ―」 マザー・テレサ ブラザー・ロジェ共著」より)

2002年3月

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ことば

124)キリストがヨハネ福音書のなかで、ニコデモとの対話(*)において語っているように、神の霊は思いのままの時に、思いのままのところに、風が吹くように行くのである。
 あなたがその霊を呼ぶことはできない。(神の)霊があなたを呼ぶのである。
 いつでも、そのような呼びかけがあれば、一切をさしおいて直ちにそれに従う覚悟をしていなければならない。というのは、それは、夜の静かな時ばかりでなく、時にはちょうど多忙をきわめている瞬間にも、訪れることがあるからだ。
 その時こそ、「しもべはききます、お話しください」と言うべき時であり、その度ごとに、あなたが真と善とにおいて、大きな躍進をとげる時である。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために下 三月十二日の項より)
(*)
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである。(ヨハネによる福音書三の八)
**)サムエル記上三・10

新約聖書が書かれているギリシャ語では、「風」も、「霊」も同じ言葉、pneuma (プネウマ)である。神の霊(聖霊)は、神ご自身の御計画に従って、ある人に、ある集まりに注がれる。人間的な手段ではそれを呼ぶことはできない。
 しかし、待つことはできる。キリスト教が弟子たちによって初めて宣べ伝えられるというその出発点において、弟子たちは聖霊が与えられるように祈って待ち続けるようにとキリストから命じられた。彼らはその言葉に従って祈りをもって集まり、そこで祈りを続けているときに神からの聖霊が豊かに注がれたのであった。(使徒行伝二章)

125)聖霊を消してはならない
「聖霊を消してはならない」(テサロニケ前書五章十九節)。
 聖霊は自分一人が楽しむために我らに与えられるのではない。聖霊はその力によって神の事業をなすために我らに注がれるのである。聖霊を注がれてそれに従おうとしない者は聖霊を隠す者である。神の恵みを拒む者である。そのようなことをすれば、聖霊はついに自分を離れ去って、私はふたたびその恵みを受けることができなくなってしまうであろう。(「聖書之研究」一九〇五年 内村鑑三)

キリストの最初の弟子たちも、聖霊を受けたとき、ただちにそれを用いて神の国のため、福音宣教を始めたのであった。神の国のために用いさせて頂くことを、つねに願って求めるとき、聖霊は与えられ、そのわざは祝福される。