(269)兄弟たちは、他の兄弟たちに対して悪を行ったり、言ったりしてはならない。かえって霊的な愛をもって、互いに仕え、従うべきである。...
だれも、院長と呼ばれてはならない。すべての兄弟が一様に、「小さき兄弟」 と呼ばれるべきである。また兄弟の足を互いに洗い合わねばならない。...
常によいわざをせよ。そうすれば悪魔はあなたにつけ込むことができないであろう。また、「怠惰は、魂の敵である。」と書き記されているとおりである。それゆえ、神のしもべたちは常に祈り、あるいは善きわざに専念しなければならない。(「アシジの聖フランシスコ(*)の小品集」76〜78頁より。中央出版社一九七四年発行
)
(*)フランシスコは、一一八二年、イタリアのアシジという町で生れた。若いときには恵まれた家庭で金持ちの息子として自由奔放に生きた。しかし、二十歳の頃にアシジの町がかかわる激しい戦闘に参加し、死ぬかと思われるような危険に遭遇、その後牢獄に入れられる。
この後重い病気となり、苦しんだ。こうした経験を経て神からの呼びかけを聞き取り、全くことなる道へと踏み出した。その後もさまざまの困難を経て、貧しさの中で、ただ神にのみ従う生き方を徹底して生きた。アメリカ西部の大都市、サン・フランシスコとは、聖フランシスコという意味で、このアシジのフランシスコにちなんで付けられた都市名である。
・何かよきわざをなす必要があるのは、他人のためだけではない。自分自身の心がサタンに付け入られることがないためでもある。そしてそのためには、絶えず善きことの源である神に心を結びつけていなければできない。マザー・テレサの言葉で言えば、Something beautiful for God をいつもなすためには、神と結びついていることが不可欠になる。
(270)人々は、あたかも真の黄金はカリフォルニアで発見されるとでもいうように、押し寄せていくが、しかし、彼らは真の黄金のある場所とは、正反対の方向に進んでいるのである。...我々の周囲のさびしい前人未踏の地へ、真の黄金を探しに人知れず出かける人には、他人に後をつけられたり、出し抜かれたりする危険は少しもないのである。(「市民としての反抗(不服従)」ソーロー著 (*)50〜51頁 岩波書店
一九四九年。)
(*)ソーローはアメリカの思想家。一八一七年生れ。「森の生活」がよく知られている。彼のこの真理に立って、間違ったことに対しては「市民としての不服従」を貫こうとする姿勢は
、後のガンジーやマルチン・ルーサー・キング牧師などにも影響を与えたことが、彼らの著書からうかがえる。
・彼がこの文で言おうとしているのは、当時西部へと金を求めて人々が殺到したが、そこでもし黄金を獲得したとしても、それはかえって真の黄金とは反対方向だ、という。それはお金をいくら持ってもそれが最大の宝だと思うような精神は、真の霊的な黄金の方向とは逆だと言おうとしている。
これは主イエスが、「天に宝を積め、そこでは盗人に盗まれることがない」と言われたのと共通した精神がある。
また、主イエスは、霊的真理を「畑に隠された高価な真珠」とたとえたが、そうしたこの世の宝とはことなる霊的な黄金を求めていくことは、たしかにただ一人マイペースで歩んで行くことができるし、与えられたその黄金は目には見えないし、誰からも奪い去られることがない。
神の国にある愛、清い心、真実な心...等々はまさにそれを求める人で争いになることなく、競争もない。そうしたものを求めて歩む道は、この世の栄誉栄達を求める道と違って混み合うこともなく、広々としているうえ、そこにはしばしば清々しい風が吹いてくる。
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