2009年5月 |
本文 |
(309)戦いの止む時 勝つことが必ずしも勝つたということではない。負けること必ずしも負けたのではない。 愛すること、これこそ勝つことであり、憎むこと、これこそ負けることなのである。 愛をもって勝つことだけが、永久の勝利なのだ。愛は妬まず、誇らず、たかぶらず、どこまでも忍ぶ。そして永久の勝利をおさめて、永久の平和を来らせる。この世に戦いが止むときとは、愛によって勝利を得たときだけである。 (「聖書之研究」内村鑑三著 一九〇四年五月・原文は次と同様に文語。) ・この文が書かれたのは、日露戦争が開始されて数カ月のころである。国中がロシアに敵対する雰囲気で満ちているなかで、内村はそうした憎しみとか敵対する心はすでに敗北なのだと言ったのである。当時の日本中にわき起こっている風潮に抗して一人、主にある確信を述べている。 ここで言われている愛とは、神の愛である。神は愛であり、神は万能である。それゆえに、そのような愛だけがすべてに勝つ。復活も神の愛ゆえに、信じる者に与えられている。死んだようになった者、病気に苦しむもの、迫害されたもの、踏みつけられてきたもの、そして死んでしまった者等々、すべてを新たないのちによみがえらせて下さるのである。 (310)静けさのあるところ 静けさは天然の内にある。神の造られた天然にある。 また、静けさは聖書にある。神の伝えた聖書にある。 一輪のオダマキが露に浸されてその首を垂れているのを見るとき、また、一節の聖書の言葉がわが心の中の苦しみをなだめてくれる。 この世の悪が四方にその力を振るうとき、私は草花に慰めを求め、旧き聖書にこの世が提供することのできない魂の平安を求めるのである。(内村鑑三 同右) ・私たちの魂はこの世のことばかりに接していると、海の波のように動揺ばかりして深い安らぎを得ることができない。そのために、神は周囲の植物の静けさを提供してくださっている。ペットなどの動物は可愛らしく、心の慰めになることも多いが、心の深い静けさを与えてくれるとは言い難い。動物は、たえず食べ物を提供し、いろいろな面倒な世話を要する。自分が病気がちであればそういう世話で気疲れすることにもなりかねない。 しかし、戸外の小さな野草、樹木、あるいは花壇の花であってもその姿は何も私たちに要求しない。沈黙してその純粋な姿を保っている。植物のよきところのひとつは、そうした静けさをたたえ、見つめるものにも分かち与えてくれるところである。私はかつて重い問題をかかえて疲れと心労にあったとき、一本の大きな松の木にもたれ、その木に手を置いていただけで、深い平安を与えられたことがあった。 また、徳島県の山深くにあるブナの大木の林で、長い時間をそのそばでたたずんでそこから不思議な平安と力を受けたこともある。 (311) 私にとってイエスは、私を生かす生命、私を通してかかやく光、御父への道、 私が人々に示したい愛、人々と分かち合いたい喜び、私の周囲に蒔きたい平和。 イエスは、私のすべてです。 (マザー・テレサ) To me,Jesus is the Life l want to live, the Light I want to reflect,the Way to the Father, the Love l want to express, the Joy l want to share, the Peace l want to sow around me. Jesus is everything to me. |