2010年9月 |
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詩の中から 一、泉のように 人が私をほめてくれる それが何だろう 泉のように湧いてくるたのしみのほうがよい (八木重吉 「八木重吉とキリスト教」教文館発行 158頁) ・人から認めてもらい、あるいはほめてもらったときの喜びも大きいだろう。逆に人からけなされ、否定されたために性格がゆがんでしまうことも多いのだから。 けれども、それはどこか浅く、またうつろう喜びでしかない。すぐまた、人から批判され、認めてもらえないことが生じるだろうから。 そうした外からくるたのしみや喜びと違って、内から湧いてくる喜びがある。 主イエスが言われたように、聖なる霊が与えられると、魂の内奥から泉のようにあふれてくるものが生じる。 それこそ、周囲によっては動かされない喜びである。 そしてまた、この世にあって、泉のように湧いているものを見出したときも...。 二、主にゆだねよ 主の御手から 苦しみも喜びも 安んじて受け、決して気を落としてはならない 主はあなたの運命をすみやかに変えて下さる しかし、それを悪くするのは、あなたの嘆きだ いたずらにあなたを苦しめるために 苦難が与えられたのではない ただ信ぜよ、まことのいのちは 悲しみの日に植えられることを(ヒルティ「眠られぬ夜のために上3月15日」) Leid und Freud aus seinen Handen Nimm getrosst; versage nimmer; Rasch kan er dein Schicksal wenden; Doch dein Klagen macht es schlimmer Leiden ist dir nicht gegeben Um dich ohne Not zu plagen; Glaube nur ,ein wahres Leben Wird gepflanzt in truben Tagen. 三、ひとつになることの祝福 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、 なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。 それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。 それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。 それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。 主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。(詩篇百三十三) この詩は何を言おうとしているのか、特に後半は一見あまりにも私たちとは無関係のように見える。 油が注がれてひげにしたたるととか、ヘルモンにおく露などといってもおよそなじみのない世界である。 これは、神を信じる人々が心を一つにして住んでいることに対する祝福を告げている詩である。 それはともに一つの共通の神を見つめているからこそ可能であり、そこから来る霊的共同体のすばらしさを歌っている。 これははるか後に主イエスが、私の名によって二人、三人集まるところには私はいる、と約束されたことを思い起こす。 主によって一つにされた人たちは必ず祝福を豊かに受ける。この詩は、そのすばらしさの実体験なのであり、また神がそのことを喜ばれるのである。 使徒ヨハネも、互いに愛し合え、その愛のなかに神はいます、と強調した。 そのような共同体にこそ、天よりの賜物、ここではかぐわしい油とかヘルモン山におく露とたとえられている。油とはもともと王や大祭司に注がれる特別に調整されたもので神の本質が注がれることを意味する。 ヘルモン山にしたたる露は、神の山シオンにも注がれ、渇ききった植物たちを生き返らせる。そのように、兄弟たちが主にあって愛をもって住んでいるところには、いのちの露が注がれるというのである。 人間は自分というのにこだわるからこそ、主にあって一つとはなかなかなれない。だからこそ、ここでこのようにそれが主の力により克服されたときに現れる霊的な新しい世界、祝福豊かな世界が描かれているのである。 名作の中から ―クォ・ヴァディスより 今までこういう愛があるとは、推測さえしなかった。愛というものは、ただ火のような欲望だと思っていた。 ようやく今、心地よく、計り知れない落ち着きを感じることがあるものだとかった。これは私には新しい事だ。 この樹々の落ち着きをみていると、それが自分の中にあるような気がする。今になってわかったのは、人間がこれまで知らずにいた幸福があるということだ。 今になってわかったのは、どうして あなたもポンポニアもあんなに晴れ晴れとしているかということだ。そうだ、それはキリストのおかげ...」... パウロが私にこう言ったのです。 「私はあなたに神がこの世界に来たこと、世界を救うために十字架にかかったことを信じさせた。...」 キリストは復活したのだから、神だったことをどうして信じないでいられようか。 それにあの人たち(パウロやペテロ)は、町のなかでも、湖の上でも山の上でも、キリストを見たし、嘘をついたことのない他の人々も見た。 私は、ペテロの話しを聞いたときから信じていた。 あのとき、私はもう、世界中でほかの人がみんな嘘をついても「私は(復活したキリストを)見た!」といっているあの人は、嘘をつかないということが自分にはわかった。 しかし、私はあの教えを恐れていた。あの教えには、知恵もなければ、美しさも幸福もないと思っていた。 しかし、世界を支配するのは、嘘でなくて、真理であり、憎しみでなく、愛であり、罪でなくて善であり、不信でなく信仰であり、復讐でなくて憐れみである... その教えがわかった今、そうしたことを願い求めないなら、私はどういう人間だということになるだろう。 ほかの(ストア哲学などの)教えもやはり正義を欲しているが、人間の心を正しくするのはあの教えだけです。あの教えはその上、人間の心をあなたやポンポニアのように美しくし、あなたやポンポニアのように真実にします。 それが見えないなら、私は盲目です。そのうえ、神なるキリストが永遠の命と、神の全能によってのみ与えられるような絶えることのない幸福を約束したとすれば、人間としてそれ以上何か望むだろうか。 ...私は今、なんのために、自分が徳を収めるべきかを知っている。それは、善と愛がキリストから流れ出ているからです。 真理を説くと同時に、死を滅ぼす教えをどうして愛せずにいられようか。... 私はあの教えは幸福に反対すると思っていたが、そうしているうちに、パウロがあの教えは幸福を少しも奪わないばかりか、幸福をさらに付け加えると信じさせてくれた。... あの教えが神々の教えのなかで一番いいものだということを、理性が示しているし、胸が感じている。この二つの力にだれが反抗できようか。 ...」 二人の魂には、言葉では言い表せない平静が流れ込んだ。そうしてヴィニキウスは、この愛が深く清いばかりでなく、まったく新しくてそれまで世界が知らず、また与えることもできないようなものなのだと感じた。 この愛に向かって、ヴィニキウスの胸にあるすべてのもの、リギアもキリストの教えも糸杉のこずえにしずかに眠る月の光も穏やかな空も集中し、全宇宙がこの一つの愛に充たされているように思われた。 ...光が太陽から出るように、真の幸いは(主にある)愛から流れ出るのです。法律学者も哲学者もこの真理を教えず、この真理はギリシャにもローマにもなかったのです。ローマになかったと言えば、全世界にもなかったという意味です。 徳のある人々が心がけているストア派の教えは乾いていて冷たく、人々の胸を刀のように堅くし、それを善いものにするというよりもむしろ無関心にさせます。... 私は、リギアの不死の魂を愛し、二人はキリストの内にあって愛し合っているのですから、こういう愛には別離も裏切りも心変わりも老衰もありません。 若さと美しさが過ぎ去り、われわれのからだが衰えて死がやってきても、魂が残っている限り、愛は残るのです。 (「クォ・ヴァディス」(*) 河野与一訳 中巻193 〜197頁岩波文庫 同 下巻311頁 ) (*)「クォ・ヴァディス」ポーランドのシェンキェヴィチ作。「クォ・ヴァディス Quo vadis」とはラテン語。 クオー (どこへ)vadis ウアーディス(あなたは行く)を意味する。このタイトルそのものは、「主よ、どこへ行かれるのか」(Domine ,quo vadis)(ヨハネ福音書13の36)からの引用。 作者は、ローマ帝国の歴史を詳しく研究し、それを二人の主人公の人間的な愛からキリストにある愛へと導かれていく状況を、ペテロやパウロなどの聖書の人物を登場させつつ、岩波文庫版で上中下の三冊、九百頁の大作に仕上げた。この作品は、50以上の言語に翻訳され、映画化もされた。また、この小説が評価されて作者のノーベル文学賞受賞(一九〇五年)につながったと言われている。岩波文庫ではこの引用に用いた河野与一訳の後、木村彰一訳 全3巻が 一九九五年に発行された。 ・この引用した箇所では、主人公のローマ軍人が自分がまったく知ることのなかった新しい愛を、リギアというキリスト教の女性や、ほかのキリスト者との関わりから知らされていくことが記されている。 たしかに、全世界で至る所でさまざまの「愛」が語られ、愛によって育てられ、人を生かしあるいは支え、あるいは滅ぼしてきたと言えよう。 そうしたこの世の愛と根本的に異なる愛があるのをこの軍人は知らされていく。 たしかにこの世にかつて現れたことのない太陽が現れたと言えるほどであった。 確実に、また豊かに、真の幸いは神の愛から流れ出る。それゆえにもし神の愛を知らなかったら本当の幸いを知らないで死んでいくことになる。 人々がキリストに結びついて、主にあって愛し合うときには死を越えてそれは続いていく。裏切りも変質もない。信じる人たちはキリストのからだと言われているように、キリストによってまとめられて永遠の存在となる。 このことは、キリスト者同士が、主にあって、聖霊の実としての愛を互いに持っているときには、年齢や性別、能力、主人と奴隷といった身分の差、あるいは異国の人などに関わりなく、だれにおいても成り立つことである。 キリストの愛(神の愛)だけが、心変わりも、老衰もない。 信仰と希望と愛はいつまでも残るという 聖書の言葉が思いだされる。 |