2010年12月 |
本文 |
(340)喜びには、特別の原因や理由など、何もいりません。 どんなつまらないものからでも、高貴なものからと全く劣らない喜びが得られます。 (「心の美術館」シスター・ベケット著新教出版社) ・このことばは、ベケットが、画家ルドンの貝の絵について語ったなかにある。この言葉を補足すると、「ルドンは一つの貝を見て、そこに宇宙の性質を見出した。それは彼の想像力で見ているだけかも知れない。しかし、これは正しい見方であって、それによって見えてくるのは、「事実」ではなくて「真実」である。身近にある自然の美を描くことによって、喜びは世界の至るところに存在するのを示している。」 私たちの心の世界が神からの賜物でうるおされてくるほど、小さなものから喜びをくみ取ることができる。 それは万物は神による創造であり、神は愛ゆえに、万物は愛によって創造されているのがわかってくると、小さなものからも神の愛が伝わってくるからである。自然だけでなく、日常の生活の小さな一つ一つにも― 一歩一歩を歩くということや起きて回りのものを見たり、手にとったり、あるいは毎日の飲食ができるというようことからでも、喜びをくみ取ることができるのだと教えられる。 また、そのようにして実感するものは、「事実」でなく、「真実」だ、と言っていることも重要である。 事実と真実との違いは大きい。 事実とは、例えば、目の前の石ころは何グラムで、長さはいくら、含まれている主成分の二酸化ケイ素は何グラムとか、また一枚の葉をとってもそれの長さ、幅、鋸歯の数、重さ、色、そこに含まれる水分、有機化合物の種類、ミネラルなど、化学物質等々、「事実」はいくらでもある。 しかし、それは魂に力を与えたり、喜びを与える霊的「真実」ではない。そうした事実をひとつも知らなくとも、その一枚の葉から神の創造の力や、こめられた愛、私たちに向けられたメッセージ等々の「真実」をくみ取って魂の力となすことができる。 聖書にあるように、聖霊こそが喜びを生み出すのであって、ごくささやかなものでも聖霊が私たちのうちに働くときには、喜びをくみ取ることができる。 なお、この言葉の載っている本を書いたシスター・ベケットは、オックスフォード大学を卒業後、南アフリカで教職についたあと、修道会にはいり、美術に関しての洞察がイギリスやヨーロッパでは高く評価されているとのことである。 |