福 音
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2010
著者:大阪狭山聖書集会代表者(月刊誌)
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福音№271  201012

*  救いの喜び:永遠の命

 

    過ぎ去りし、すべてのことに ありがとう。
   来たらんとする、すべてのことに はい。
 一年の終わりを迎えて、ハマーショルトが日記「道しるべ」に記したという、この言葉を思い起こす。
 私もまたこの一年を振り返って、「過ぎ去りし、すべてのことに ありがとう」と言おう。ハマーショルドのような立派な人とはかけ離れた私の一年は、不誠実と失敗の連続でもあった。でも、この私がどんなであっても、神様は憐れみ、間違った時には泣くほど痛い目にあわせてその過ちに気づかせくださり、身に余る恵みで満ち足らせてくださった。その神様に導かれた一年だったから、だから、「過ぎ去りし、すべてのことにありがとう」と、心の底からそう思う。
 新しい年も、この神様が導いてくださるから、「来たらんとする、すべてのことに「はい」と祈る。

  ちいさい わたしの ては イエスさまの
   よろこぶ おしごと するために ある
   わたしの すべては イエスさまの もの
   じゅうじかで しなれた イエスさまの もの
 昔、子供たちに教えた「子どもさんびか」を歌っていると、自分の罪が嫌というほど見えてくる。子供たちに「わたしのすべてはイエスさまのもの」と教えながら、わたし自身、どれだけイエス様のものとして生きてきただろうか。
   ちいさい わたしの くちびるで しゅの
   とうとい おなまえ ほめうたいます
と教えながら、わたしの口は神様をほめ歌うよりも、疑いやつぶやき、悪しき思いを口にすることの方がはるかに多かった。
 今日までの人生で、悔いがあるとすればただ一つ。子供たちに教えたように「私のすべてはイエス様のもの、十字架で死なれたイエス様のもの」と、その告白通りに生きられなかったこと。
 ならば今日から、その告白通りに生きればよい。イエス様から「この人はできるかぎりのことをした」と言われるように、今日一日を生きれば良い。・・・でもきっと・・・「私のすべてはイエス様のもの」と、告白通り生きられる日は来ないだろう。「心は燃えても、肉体は弱い」し、これからだって、きっと悔い改めの連続に違いない。

 なのに、なのにこの心の明るさは何だろう。これが赦されているということなのか。イエス様は、従い得なかった多くの時間にではなく、こうして従いたいと願う今、神様を慕い求めるこの時に目を留めて、この時を慈しんで、「わが子よ」と言ってくださる。「あなたの罪は贖った。代価を払って、わたしがあなたを買い取った。あなたはわたしのものだ」と言ってくださる。
だから、あきらめないで、失望しないで、今朝も歌おう。
かみさまと人に 心からつかえ
この日こそ清い  神の子にしてください。


 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ福音書3章16節)

クリスマスの喜びとは、永遠の命。この世でのすべての悩み苦しみを湧きあがる喜びに変えてしまう、神様からの最高のクリスマスプレゼント。
 人はみな死に向かって歩んでいるのだと思っていたのに、実は、命に向かって歩んでいるのだと知った喜び。若い時ほど明るくて、年と共に暗くなり、死こそ真っ暗闇だと思っていたのに、実は、この世こそ闇の世で、信じる者はみな光に向かって歩んでいるのだと知った喜び。
 外目には何も変わらないように見えるかもしれない。年と共に弱り、病気もし、知力も体力も衰え、みすぼらしくなっていくだろう。人の世話にもなるだろう、痛み苦しむ時には泣くだろう。でも、この永遠の命はイエス様を信じている限り決して失われはしない。意識がなくなり、信じることさえできなくなったその時は神様の愛の御手の中。きっと永遠の命だけが輝いている。


  わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
              ヨハネの手紙一 410
人は神様の愛によって造られた。だから、どこまでも愛を追い求める。
 人はその生涯にどれほど多くの愛を必要とすることだろう。幼い日には親の愛、少し大きくなると友だちや先生の愛、家族の愛、もっと大きくなると仲間の愛、夫婦の愛、年老いては世話をしてくれる人の愛。人はおそらく、その時々の愛が十分であれば幸せだと感じ、不十分であれば不幸せだと感じるのだろう。
 ところが残念なことに、人の愛で十分に満たされていますという人は少ないようだ。その証拠に、電車に乗っている人を見回すと、暗く重苦しい顔をした人のなんと多いことか。いつの世にも、いさかいは絶えず、あげくの果てには人と人とが殺し合う戦争まで始める始末。人間の愛がどんなに不十分であるか、現実が証している。
 そんな人間に、傷つき痛んだ人間に、人の思いをはるかに超える「神の愛」があるのだと聖書は告げる。その愛は、私たちに救い主イエス様を与えてくださり、イエス様によって憎しみや争いの原因である罪を取り除き、心に平安と喜びを与えてくれる。その愛に出会うのが「回心」。
 そしてこの神の愛を知った者は、もう黙ってはおられない。嫌がられても、ほっといてよと言われても、「神様はあなたを愛しておられるんだよ。だからイエス様をくださったんだよ」と言わずにはおられなくなる。こんな喜びの訪れが飛び交う、恵み溢れるクリスマスでありますように。


福音 №270 201011

* 「変わらない」


 夜明け前に目覚めて外に出る。雲に覆われた夜空をじっと見上げていると、あっ、星の光。隠れたかと思うと、こんどは流れる雲の切れ間からあのなつかしい3つ並んだ星があらわれて、雲の向こうは満天の星だと告げてくれる。
 変わらないんだ、神様は変わらないと、喜びが込み上げてくる。わたしの心はこんなにも不確かで絶えず変わるのに、この世の出来事は日々変わるのに、変わらないものがある。変わらないお方がいる。永遠の世界がある。何という喜びだろう。
 やっぱりなあ、と思う。この世のことだけ、人のことだけあれこれ思っていて、平安などあるはずがない。だって、変わるんだもの。絶えず変わるものを見つめていて、永遠の喜びが見えてくるはずがない。
 変わらない、変わらない、と心の中で喜び歌っていると、変わらないものが次々と思い浮かぶ。

★「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」創世記15:6
 神様を信じる者を「正しい」と認めてくださる、この神様のお心は変わらない。自分は正しく生きれらなくて、ダメだなあって落ち込んでも、それでも、「神様、あなたは正しい。あなたの真実は変わらない」とじっと主を見上げていると、自分のことなんか消えてしまって、心は神様でいっぱいになって、平安が満ちてくる。正しくない私に、神様の正しさを与えてくださる。信じる者を義としてくださる、神様の真実は変わらない。

★「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」ネヘミヤ記8:10
 自分の弱さや過ちをどんなに悔いても、力は湧いてこない。なのにこんな私を、「決して捨てない」「いつも共にいる」と言ってくださる主イエス様を喜ぶとき、不思議な力が湧いてくる。
 あの人この人をどんなに助けたいと思っても、私には人を助ける力はない。自分の未熟さと浅はかさが身にしむばかり。でも、そんな時こそ、主イエス様を思い起こす。すると心にイエス様の喜びが広がって「さあ、どんなに拙くても、もう一歩前に進もう」と、勇気と力が湧いてくる。自分の思いで立ちあがっても、その力はたちまち萎えてしまうけれど、主を喜ぶ心に満ちてくる神様の力は変わらない。

★「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」出エジプト34:6-7
 先日のメール集会で読んだ出エジプト34章。民の背きのために、十戒の板を砕いてしまったモーセに、再びシナイ山に登るようにと命じられ、そこで主は御自身をこう宣言された。
 「憐れみ深く、恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち・・・」と、くり返してみる。「慈しみは幾千代、罰は3、4代」という主のお心を思っていると、大空よりも高く澄んだ主の憐れみが、この世を包んでいるのを感じる。
 イエス様は言われた。「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」マタイ5:7 また言われた。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」マタイ9:13 また言われた。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」ルカ6:36
 イエス様が5千人のパンの奇跡をなされたのも、後を追ってくる「大勢の群衆を見て深く憐れみ」とある。その憐れみとは、内臓がよじれるほどの切なるものであったと学んだ。らい病の人を「深く憐れんで」手を伸べ清め、息子を亡くしたやもめを「憐れに思い」息子を生き返らせて、返された。たとえ話でも、放蕩息子の父親が帰ってきた息子に駆け寄ったのも「憐れに思い」とあり、善きサマリア人が傷ついた旅人を助けたのも「憐れに思い」とある。
 弱く力なき者を憐れまれる神様ゆえに、私たちが神様のお心に近づき触れるのもまた、その憐れみによりすがりるとき。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とひれ伏して、憐れみを拒まれる者は世界中にただの一人もいない。主は人の罪さえその身に負うて、神の憐れみとはいかなるものか、十字架の上に見せてくださったのだから。
 晩秋の風に舞う落ち葉も、空き地に咲いたコスモスの花も、目を閉じれば聞こえてくる虫の声、小鳥のさえずりも、みんなみんな神様の憐れみを湛えている。モーセの時代も今も、そしてとこしえに神様の憐れみは変わらない。

★天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。マタイ24:35
 これはすごい、何という言葉だろう。環境問題を解決し、平和運動を推し進め、教育を向上させ、世界中の人が力を合わせれば天地は滅びない、だからがんばれ、とイエス様は言われない。天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない。だからまず、わたしの言葉を聞きなさい、と言われる。
 イエスさま一行がのもてなしに疲れてしまったマルタにイエス様は言われた。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」、すなわち、マリアのように一心にわたしの言葉を聞くことなんだよ、と。
 この滅び行く世にありながら、滅びない言葉の記された聖書が与えられている幸いを思う。キリストの言葉は、時空を超えて永遠なのだと思うと、一つ一つの御言葉が夜空に輝く星のように、この暗い世を照らす光のように思えてくる。

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 「晴れる家」の義母を訪ねる。一緒にプリンを食べたり、塗り絵をしたり。帰り際に「お母さんお祈りしよう」と言うと、女学校で覚えた「主の祈り」を流れるように唱える。「今度は自分の言葉で」と促すと、「天のお父様、いつも見守っていてくださりありがとうございます。おかげで安心して暮らしています。私の至らなさで時には困ったことにもなりますが、「天のお父様」とあなた様のお名前を呼ぶと、落ち着いてきて、穏やか心になります。ありがとうございます。どうぞ、これからも見守っていて下さい。アーメン」
 私は言葉がなくなるほど感動する。「お父さんの夢見ることある?」と聞くと「お父ちゃんは町会の仕事が忙しいから」と、不思議な答えをする母が、今日も、神様に見守られている平安に包まれて過ごしている。ハレルヤ!


福音 №269 201010

リストマーク「信仰と希望と愛を」

 

 信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。1コリント13:13

 

K様。

 腰痛で、眠ってもすぐに目が覚めてしまうから、夜中には台所でコトコトと炊きものをされるというKさんの昨日のお話しを思い、今、夜中に目覚めてしまった私は、机に向かって今月の「福音」を書いています。お会いする度ご馳走になるばかりで、腰痛で眠れないことや、生活には何の不自由もないけれど子供のいない寂しさなどをお聞きしながら、心に深く留めることもなかったけれど、これからはKさんにも「福音」をお届けしようと決心したからです。

 どうしてそう思ったかというと、昨日も豊かにご馳走になって、何かお返しできないかなあと考えて、浮かんだのが「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」という聖書の言葉。金銀はKさんの方がはるかにたくさん持っておられるから、Kさんになくて私が持っているものと言えば、そうか、この「イエス様の喜び」をさし上げたらいいんだと気づいたわけです。

 

 「福音」とは、喜ばしい、よい知らせという意味で、一言で言うならイエス・キリスト様のこと。どうしてイエス様が私たちにとって良い知らせかというと、イエス様の内には私たち人間の求めるすべてがあって、イエス様だけが私たちを本当の意味で満ち足らせてくださるお方だからです。

 たとえば、もっと具体的にいえば、イエス様はこの世の誰よりも真実な友となってくださる。そう、親でも夫婦でも愛せないような愛で愛してくださり、悩みの日の助け、悲しい日の慰めとなってくださる。ほんとうに、イエス様とは不思議なお方で、知れば知るほど、近づけば近づくほどその愛が身にしみて、ますます慕わしくなるのです。私の好きな讃美歌で、イエス様の麗しさを「谷間の百合か、明けの星か」と歌っていますが、どうぞ思い浮かべてください、緑の谷間に咲く一輪の百合の花、明け方にひときわ輝く美しい星を。この世のものとも思えぬその清らかさは、「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた。」(伝道3:11)とあるように、私たちを永遠の世界に招いてくれます。「永遠なんて信じられない、人は死んだらおしまい、この世がすべて」なんて、どうぞおっしゃらないでください。ほら、さわやかな秋風が、夜には月や星の光が、昼には澄み渡る大空が、色とりどりの紅葉が、神様の愛を告げているとはお感じになりませんか。あっそうそう、結婚50周年の記念に、11月には霧島高原に行かれるとのこと、その旅先で美しい山々や湖をご覧になる時、どうぞ、それらを造られた神様を思い起こされますように。

 

 話がそれましたが、先ほどの歌の2番の歌詞は

   君はわが罪 洗いきよめ 誘いにも打ち勝たせ

となっています。「君はわが罪 洗いきよめ」と、これこそキリスト教の真髄で、イエス様は友となってくださるだけでなく、もっと根本的に、私たちの罪を洗い清めてくださるお方なのです。人がもし「私には罪などない、私は正しく生きてきたのだから、罪を赦してもらうことなど何もない」と思っているなら、その人はイエス様とは無縁な存在。イエス様の素晴らしさを100万回聞こうと、心動かされることはないでしょう。でも、もし、「私も間違っていたなあ・・・自分のことしか考えてこなかったなあ・・・このままではいけないなあ・・・清い心になって神を愛し人を愛し、感謝して死んでいきたいなあ・・・」と、もし願うなら、間違いなくイエス様はその人の救い主となってくださいます。罪を赦し、永遠の命を与えてくださいます。そのためにこそ、イエス様はこの世に生まれ、十字架につき、復活してくださったのですから。そして今も生きて、信じる者と共にいてくださるのですから。

 

 「何事をなすにも、お前の人生の終わりに心を留めよ」と聖書にあります。どんなに華やかに、思う存分人生を楽しんだとしても、大切なのは終わりの日です。そして、「主を畏れる人は、幸せな晩年を送り、臨終の日にも、主から祝福を受ける。」ともあります。それは、神様を信じていれば病気もせず平穏に暮らせるというのではなく、年老いて様々な苦労や弱さを持ちながらも、心には深い平安があり、臨終の日にも、神様のもとに帰る喜びがあるという希望の言葉なのです。

 

 ここ数日、チリの落盤事故からの救出ニュースが相次いでいますが、12日の朝日新聞夕刊のコラムに、「チリの鉱山でついに救出トンネル貫通。地下700mの33人が地上の69億人に教えてくれたエスペランサ(希望)の貴さ。」とありました。そうです、自力では決して脱出できない地下深くで、その人たちを支えたのは、必ず救出してくれるという希望に違いありません。

 Kさん、年と共に弱り衰えてゆく私たちに、今一番必要なものは「希望」ではないでしょうか。聖書とは、その「希望」が書かれている書物です。「わたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」とあるとおりです。許されるなら、Kさんご夫妻と一緒に聖書を読みたいと願っています。

 

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 誘っていただいて、「ドイツ・レクイエム」のコンサートに行って、パイプオルガンの響きと、静かに深く清らかなコーラスに聴き入りながら、残念でならなかったのは、その言葉の意味が分からなかったこと。先にパンフレットを見て、ああ聖書の言葉を歌うんだ・・・とぼんやり思っただけで、コーラスとパンフレットを交互に見るという努力を怠ったため、せっかくの響きも心の奥深くまで満ちることはなかった。ところがその夜、改めてパンフレットを開き、最初の曲目「宗教的歌曲」のこの歌詞を読んだとき、つぶやきも物足りなさも吹っ飛んで、その日からこの歌が私の歌となった。

 

決して悲しみに沈むままであってはなりません

静まっていなさい、神の思し召しに任せて

そうすれば満ち足りていられます、私の心よ

  この朝に何を思い悩むことがあるでしょう

    ただ一人のお方がいつも共にいてくださり

    あなたに必要なものを与えてくださいます

ことにあたり惑うことなく

信仰を堅く持っていなさい、神が定め給うたことこそが

最善であり、最善と呼ばれるのですから。 アーメン

 


福音№268 20109

*        「愛は忍耐強く、情け深い」

 

 ○「愛は忍耐強く、情け深い」。この言葉は、〈愛は待つことができる、長い間、しかも終わりまで待つことができる〉という意味である。愛は決して性急にならず、何ごとをもあわてさせず、また強いたりはしない。愛は、時間を長い単位で計り、〈愛以外のものを、最後には、愛によって克服する〉ということだけを考慮に入れる。そしてすべてが完全に水の泡になってしまったと思われるところでも、待ち望み、忍耐し、愛し続け、さらに情け深くあろうとするのである。 「ボンヘッファー11829日」より抜粋

 緑色のカバーが印象的な「主のよき力に守られて・ボンヘッファー11章」は、私にとっては、どこを開いても読みやすく分かりやすいという訳ではない。それでも折々に手に取るのは、かつて読んだボンヘッファーの「共に生きる生活」という本の中の一節一節が、事あるごとに思い起こされるからだ。「共に生きる生活」は心引かれてくり返し読んだけれど、「1日1章」は十分理解しないまま閉じてしまうことが多い。
 ところが、8月28日~9月2日「愛は忍耐強く、情け深い」の6日間は、くり返し読まずにはおられないほど胸に響いた。そこには、エミー・カーマイケルの「カルバリの愛を知っていますか」に描かれている愛が、違った表現で描かれており、ボンヘッファーとエミーの文が真の愛を歌う美しい二重唱のように聞こえて、くり返し読むうちに、ああ、私たちはこんな愛で愛されているのだと、気が遠くなるようだった。

 その二つの文は、愛の賛歌と言われる「コリント信徒への手紙113章」の愛の解説書のように私には思えるのだが、1コリント13章は12章「霊の賜物」からの続きである。賜物には、預言の賜物、いやしの賜物といろいろあるが、それらは誰にでも平等に与えられるというのではない。ところが「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」とパウロのいう「愛の賜物」は、求めるすべての人に与えられると知って、さすが神様!と歓声をあげた。様々な働きの賜物は一人一人にふさわしく与えて、最高の賜物はすべての人にという神様のなさり方。こんな最高の道があるなら、たった一度の人生だもの、力の限り歩んでみたい。そんな思いに駆り立てられて、ボンヘッファーとエミー・カーマイケルを交互に読む。

 ◇「愛の道は決してたやすい道ではない。その道を歩こうと、もし思い定めたならば、苦しみに会うことを覚悟しなければならないだろう。「この道を主は行かれた。しもべもまた同じ道をたどるべきではないか。」    カルバリの愛p89  

 ○われわれが他者から愛し返されない場合に、おそらくわれわれの人生はみじめなものとなるであろうが、その時愛は、われわれに次のように語るであろう。すなわち〈あなたが、もし、他者を憎むことによって、あるいは、他者を軽んじることによってあなたの愛をぶちこわしてしまうのであれば、あなたはまだ正しく愛していなかったのだ。そうでなければあなたは、きっと、どのような苦汁にも煩わされないはずだ〉と語るであろう。 831日より抜粋

 どこを読んでも、どんなに苦しい道であると言われても、読むだけなら何と快いことか。「はい、主よ。苦しい道であろうと、それだけがまことの自由と平安の道。どうぞ行かせてください」と、軽薄な私はそう祈って、もう愛の道を歩み始めた気になっていた。

 しかし神様は、そんな私の思い込みを黙って放っておかれはしなかった。本を読んで頭の中だけで愛を歌っている私に、難病の友からの突然のメール。「怒らないで聞いてくださいね。もう5年半の付き合いになりますが、そのわりに意志疎通も、段取りも、忘れ物も、あなたに大きな進歩がないのはなぜでしょう。」ええっ、そんなの、これ以上は無理だよ、あなたのための時間と労力はこれくらいが限度、と心の中で叫びながら、「成長しないのは本当に申し訳ないけれど、私には格別要領の悪いところがあるようです。それと、どこか噛み合わないのは、お互いの価値観や性格が違いすぎるからかなあ。イライラさせてごめんね」と返信。こんな答えが愛でないことは分かるけれど、でも私にはこれ以上できない。でも、具体的に愛するってどういうことなのだろう。そんな心に思い浮かんだエミー・カーマイケルの言葉。

 ◇もし多大の努力が要求されるという それだけの理由で、他の人の最善を考え、努力することをためらうならば、その時わたしは カルバリの愛をまったく知らない。

 思い返せば、誰かの最善を考えて多大な努力を惜しまなかったことなど、一度だってあるだろうか。それどころか、今も心痛むことがある。
 かつて、一人の病人と出会い、人生を深く語り合うまでなったのに、私の心ない言葉や態度が原因でいつしか疎遠になってしまった。そしてそのまま亡くなってしまった。今思い返せば、不真実きわまりない私の対応だった。医者に対するとめどもない愚痴を聞きながら、黙っていることができず、ついその人の言うことを否定してしまう。身寄りもなく、寝たきりでガンを宣告された人の気持ちが分かるはずもないけれど、今、ただ一つ分かるのは、その時の私は、いや今の私にも、本物の愛など一かけらもないということ。愛しているつもりでも、それはいつも自己愛の延長に過ぎないのだということ。

 ○自己愛は、根底から堕落した愛であり、倒錯した愛であり、それ自体で充足してしまうため何の実りももたらすことのない愛である。828

 なのに、どうしたことだろう、そんな自己愛の固まりのような私が、ボンヘッファーやエミーの描く真の愛に包まれているのを感じる。私の罪を知りぬいておられる主イエスが、「それでもあなたのすべてを喜んで忍ぼう、どんな時にも信じていよう、何があってもあなたへの望みは捨てない、わたしがあなたを耐え抜くから」と言ってくださる。そうだった。1コリント13章で描かれ、「一日一章」や「カルバリの愛」によって解明かされた愛は、キリスト愛なのだ。私の罪を贖うため、命さえ惜しまず与えてくださった十字架の愛なのだ。この十字架の主を一心に見つめているなら、いつの日か賜物として、その愛のひとしずくが与えられるかもしれないと、曇った心に虹のような明るい希望が生まれた。


福音 №267 20108
リストマーク「聖霊」

聖霊は風のよう  どこへでも吹いて行く
聖霊は水のよう  低いところ、低いところへと流れて行く

 風によって、雨によって、日の光によって、ある時は空の青さや小鳥のさえずり、木々や花たちの香りによって、夕には夕焼け、夜には月や星の輝きによって・・・いつもいつも聖霊は語っている。ひそかに、静かに、でも確かに、さやかに、聖霊は語っている。
 その語りかけに耳を澄ませば、この私もまた、限りなく大きな神様の御手の中にいるんだと、これでいいんだとわかってきて、主の平安が満ちてくる。

 「わたしはいる。あなたと共にいる。耐えられないような苦しみの時にも、あなたが一人ぼっちになっても、わたしはいる。必ずいる。だから恐れなくていい、わたしがあなたを守るから。」
 「主よ、なぜ、どうして、あなたはそんなにお優しいのですか。いつも失敗ばかり、間違ってばかりなのに、なぜ、こんな情けないものを、お心に留めてくださるのですか。」
 「わたしは愛なのだ。わたしは愛したいのだ。愛することがわたしのたった一つの願いであり、そのためにこそ人となり、あなたがたのところに行った。あなたがたを罪から救うため、命さえ惜しまず捨てた。
 そして今は聖なる霊となり、あなたがたと共にいる。風のように訪ねまわり、水のように流れゆき、傷つき、渇いた人々を潤し、新し命を与えるために。」

 8月7~8日、京都桂の地で、今年も近畿無教会集会がありました。テーマは「聖霊」。聖霊の風が吹きますように、集まった一人一人に聖霊が来てくださり、その力を実感できますようにと祈りを合わせてきたけれど、主は確かにみんなの祈りに答えてくださいました。聖霊の賛美を歌い、聖霊の聖書講話を聞き、内村鑑三の所感から聖霊の箇所を読み、ただただ聖霊を思い、祈り求めて過ごした2日間。お二人の証からも、一人一人の自己紹介からも、御言葉の分かち合いからも、聖霊のお働きを豊かに味わうことができました。
 それから3日たって、今もこんなにも近しく聖霊を感じながら過ごしています。聖霊がおられる。人には不可能と見えることも、ひとたび聖霊が臨むなら、神様の御旨は必ずなると、ここにまことの希望があると、胸は高鳴ります。
 
 ★エゼキエル書37章 枯れた骨の復活
 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
 わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。

 今まで何度か読んできたエゼキエル書37章、「枯れた骨の復活」が、何とリアルに迫って来ることか。
 フランクルの「夜と霧」に収録されていた、ユダヤ人強制収容所の写真を思い起こす。「人間の尊厳とは?」と一言添えられたブッヒェンワルト収容所での折り重なる死体の写真。ダッハウ強制収容所で「労働と飢餓で死んだ囚人たち」がうず高く積まれている写真。文字どおり枯れた骨のような死人の写真の横には「かかる情景はあらゆるところで見られた」と添えられている。これら強制収容所だけではないだろう、戦争の度に、この日本でも沖縄で、広島で、長崎で・・・ 想像を絶する惨事はくり返されてきた。どこに希望があるだろう。死が死で終わってしまうものなら。「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」という神の言葉こそ、私たちの真の希望であり、この希望は決して失望に終わらないと聖霊が告げている。

 また、「谷の上には非常に多くの骨があり、それらは甚だしく枯れていた。」とは、死体のことだけではないだろう。現実には生きている人間であっても、神に背き、その内面は救い難いほど堕落し、「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(ヨハネ黙示録3:1)と言われる人たちで満ちているこの世の姿そのものかもしれない。他人ごとではない、神様を知らず、生きる意味も喜びも分からず、虚しさの中に立ち尽くしていた私もまた、枯れた骨であった。
 そして確かに聞いたのである。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」という呼びかけを。
「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ」という神の言葉を。神の言葉によってこの私もまた、生きるとはどういうことかを知った。
 
「神の言葉を説くことである。信じてこれを述べることである。すると死んだ骨も、神の言葉によって生きるようになる。神はその言葉の力によって土の塵から人を造られた。神が同じ言葉をもって、どうして屍を復活させることができないであろうか。論理を説いても死んだ国民は復活しない、哲学的道理の講義をしても無駄である。美術も文学も生命の力ではない。神の言葉である。神の言葉である。人の命はこれだけである、これを大胆に宣べ伝えること、これが国民救済の唯一の策である。」内村鑑三全集9 p93


福音  №266  20107
リストマークメール集会

 ある聖書日課の表紙に「毎日(朝が良い)15分を主の御前に静まるために、取るようにしましょう。取れない日があっても、やめないで続けましょう」とあり、これを読むたびに私の心は和やかになる。朝毎に静まらなければならないという義務感ではなく、静まる喜びを知ってほしいと勧められているように感じる。「取れない日があっても、やめないで続けましょう」という一言は、何と大きな慰めであり励ましであることか。・・・

 20092月の「福音」にこう書いたら、「毎日主の前に静まるって、どうすればいいんですか?」と、Tさんからメールが届いた。どのような返信を書いたか、正確には覚えていないけれど、ともかく「心を神様に向けること、聖書を読むこと、そしてお祈りをします」というふうなことを書いたら、すぐにマタイ福音書から始めたらしく、次の日から毎日心に残った御言葉メールが届くようになった。私も負けてはおられないとTさんと同じ箇所を読んで受けた御言葉を送り、お互いに日曜日と特別集会の日以外一日も休むことなく、15か月で黙示録に。

 7/2着信*黙示録22章前半では「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」いつも闇はなく神様の光で照らされているのですね。神の国はすばらしいね。この世のものは何もいらなくなるね。
 7/3着信*22章後半「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は幸いである。」キリストの再臨を待ち望みたいです。黙示録、何かわからなかったけれど終わりましたね。ありがとう。月曜日から創世記、よろしくお願いします。

 お互いに「ありがとう」「よろしくお願いします」を連発しながら続けてきて、新約聖書が終わりついに旧約聖書、創世記第一章へ。
 7/5*「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった。」イエス様が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われたのを思います。どんなに真っ暗だと思える時も、光を信じ、光を見上げて歩みたい。 と送信すれば、
 *創世記一章では「初めに神は天地を創造された」自然界など神様の造られたものは素晴らしいね。神様を賛美したいです。今日はこちらは曇り空。と着信。

 こうして続けてきて、彼女から教えられるのは、いつもいつも聖書の言葉から神様の恵みを受け取ろうとする低い姿勢。難しいことはお互いによく分からなくても、聖書のどの個所にも神様の恵みの言葉があって、その御言葉を素直に信じ「うれしいね」「感謝だね」って励ましあえば、ともかく神様、イエス様を信じる喜びが尽きることはない。
 そして、毎日御言葉を送受信しながら私の内に積まれてきたのは、何もかもが絶えず移り変わる世にあって、この御言葉は決して変わらないという静かな確かさだった。日々刻々と変わる自分の心や世の中の動きを伝えあっても、つかの間の共感に終わってしまうけれど、御言葉を分かち合うことは永遠の希望を分かち合うこと。へえっ、聖書の言葉って希望の言葉なんだ!聖書は私たちに真の希望を与えるためにあるんだ!と、何度驚嘆したことだろう。

 09/8/14着信*使徒言行録26前半では「夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。」が心に残りました。死者を復活させてくださるという希望を常に抱いていたいです。
 8/21着信*「福音の力」では、「福音は信じるものすべてに救いをもたらす神の力だからです。」が心に残りました。イエス様を知ることでいろいろな面で立ち直ることができました。本当に福音は神の力ですね。
 8/31着信*5章前半では私も「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉が好きです。2節「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。」が印象に残りました。Iさんから便りがありました。毎日祈っていますとの事。

この小さなメール集会のために祈っていてくださる姉妹があり、それぞれ遠く離れて住んでいても、同じ御言葉によって生かされているんだという喜びははかり知れない。若い時はそれほど思わなかったけれど、年と共に天の御国がなつかしくなる。ここに私たちの真の希望があるんだと・・・目を閉じて「御国がきますように」と3回祈る。

 今日7/10は創世記6章。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」5節、の御言葉が胸に刺さる。
 先日も、地上の出来事だけ、人間の思いだけを見つめていたら、どうしようもなく心が暗くなって、何もかも空しくなって力が抜けてしまった。そんな時、ある姉妹から届いたスポルジョンのメッセージ「見よ、主イエスの限りなき心の広さを。・・・彼はその持てる全てを私たちに与え尽くすまでは満足されなかった。」に、主イエスの愛が心にフワーッと広がって、「主は、約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」2ヘ°テロ3:9の御言葉が思い出された。そして、イエス様が忍耐して待ったいてくださるのに、この私が気落ちするとは何事か!と思いは高く引き上げられたのだった。
 私たちは毎日いろんなものを受け取って生きている。美しい自然、やさしい風、温かい言葉、ちょっとした思いやりなどは、私たちの心を和やかにする。
 悲しいのは、毎朝一軒一軒に届けられる新聞。朝から人間の悪いことを次々と発信している。どうして、こんなことを日本中の人に知らせる必要があるの?って思うことまで書いてある。でも、そんなことをつぶやくより、それに気づいた私たち一人一人が、善いことを発信し合えばいい。善いものの中で最も善いもの、そう、御言葉を送り合えば、御言葉は生きて働いて、悩み苦しむ人の心に明るい光と届けてくれるに違いない。

こう書き終えた時、着信アリ。
6
章では「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」どんなに悪が増しても、信じる人の心にはイエス様がとどまってくださるから安心ね。辛くても希望をもって、神と共に歩んでいきましょう。ダリアかな?送ります。と、真っ赤なダリアの花が添付されていた。


福音 №265  20106

*        キルケゴール「キリスト教の修練」


 「キルケゴールの『キリスト教の修練』をぜひ読んでください。白水社版、杉山好(よしむ)先生訳で今は絶版とのことですが、図書館へ行けば必ず在るとのことです。ゆっくりと時間をかけて読めば、通読できないことは無いと信じます。それはあなたを十倍も百倍も大きくしてくれるでしょう。」
 ある方から、このようなお勧めを何度かいただいて、でもキルケゴールがキリスト者だということさえ知らなかった私は、キルケゴールという名前に畏れをなして、すぐに図書館へ行こうともしなかった。ところが、ふとした機会に近くの図書館で、「キリスト教の修練」を調べてもらうと「ここにはありませんが府立図書館にございます。お取り寄せいたしましょうか。」と親切な言葉に「お願いします」と答え、ついに手元に届いたのが一週間前。「他館のものですので、貸出期間の延長はできません。」と言われていながらそれでもすぐに手に取ろうとはせず、開いて読み始めたのが一昨日。どんな難しい言葉が並べられているのかと思いきや、開くと

   苦労する者、重荷を負う者は すべて、来たれ。
   わたしはきみたちを休ませてあげよう

とあまりにも聞きなれたキリストの言葉。そして最初のページは「祈求」というタイトルで
   
主イエス・キリストよ、どうぞわたしたちをも、そのように(イエスの同時代人た
   ちと同じように、現存するイエスと)同時におらせ、あなたのほんとうのみ姿を見させてください。・・・あなたがこの地上を歩まれた時のままの、現実のただなかにいらっしゃるそのみ姿を。p16

と、ドキドキするような祈りがあった。
 ページを開くごとに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」というキリストの呼びかけを始めて聞くような、胸の高鳴りを覚える。

 「わたしのもとに来なさい」 
   こうして招きは出て行く。賑やかな道へ、また寂しい道へ、そしてまたこのうえなく寂しい道へと、しかり、その道の寂しさと言えば、ひとりしか、たったひとりしか、そしてそのほかのだれもその道を知らず、そこにはたった一つの足跡しかしるされていないのだ・・・・自分の悩みを負って逃げて行ったひとりの不幸な人間の足跡しか。そしてほかの足跡はなに一つ見当たらない。ここまで招きはやって来るのだ。招きはひとりで、帰り道をたやすくまた確実に見出す・・・・逃げて行った者を伴って、招きたもう方のもとに連れ帰るときには、なによりもたやすく。すべての人よ、来たれ。きみも、そしてきみも、そしてまたきみも。逃げていった人々のなかで、いちばん孤独なきみも。p25
 
 「ゆっくりと時間をかけて」読むようにと注意してくださったのに、ただただ引き込まれて、どこまで理解できているのか分からないまま読み進めて、「招き」は突然「停止」に至る。「信仰が生じるための条件である停止、躓きの可能性の前での停止」というあたりはもう一度読み返すとして、私にとってここで知らされたのは、その招いておられるお方、その方ご自身に出会うということだった。

   『わたしのもとに来なさい』、と語られたのは「卑くなりたもうたイエス・キリストである。民のなかの最も低い階級に属する12人の見るもあわれな弟子たちを伴い、一時は好奇心の対象となったが、のちにはもっぱら罪人、収税人、らい病人、狂者の友であったあの人である。p59
そして最後には『かれは他人を救った。こんどは自分自身を救うがよい』とあざ笑われ、唾をかけられたそのイエス・キリストである。
 
 私はかつて思わなかっただろうか。「イエス・キリストが来られて2000年たって、その偉大さは証明されている。世界中の真に善きものを詳しく調べれば、すべてキリストを起源としている。歴史がキリストを神だと証明している。だから、私たちは安心してキリスト教を信じられる」と。その時私は、いったいどんなキリストを信じようとしていたのだろう。世界に名も響き渡るキリスト、信じることが私の誇りとなるようなキリスト。だが、「わたしのもとに来なさい」とは、そのような輝かしい人の言葉ではなかった。一人の貧しい、枕するところさえないキリストが語られたのであり、そのキリストと同時にあるという状況に飛び込まなければキリスト者にはなれないと言う。
 
   きみがキリストと同時代にあることにたえられないならば、その現実の姿を直視することにたえならないならば、すなわちきみが巷に出て行って、目のまえにこのとんでもない連中を従えている神を見ることに、そしてまたそのような者の前にひれ伏して、かれを拝することがきみのくぐらねばならぬ狭き門であることにたえられないならば、きみはほんもののキリスト者ではない。p103

 「キリスト者の修練」は第3部まであり、今はまだ第一部を夢中で読んだばかりで、そこに隠されている宝を一瞬かいま見たにすぎないとしても、それでもその一節一節が私の曖昧さや不徹底さがどこにあるのかを教えてくれる。
 「わたしのもとに来なさい」と呼ばれるキリストの真意は、罪が人間の命取りであるという一点に尽くされる。だから

罪の力から身をふりもごろうと苦労し、悪にむかって、自分自身の弱さに打ち勝とうと苦労しながら、しかもけっきょくはただ重荷のもとに喘ぐほかないすべての人に、救いを与えたもうのである。p97

 この罪の自覚なくして、どんな人間的英知と常識、また人間的才能に恵まれていようと何の益にもならない。 「ひとり罪の自覚だけが、絶対的崇敬である。」キリスト教それ以外のしかたで近づくことはできない。罪の自覚によってだけ人はキリスト教の慈しみと愛とあわれみを見ることができる故に、それだけが門となるという。
このように私が、所々をピックアップして書いても、とてもその内容の迫力をお伝えできないけれど、いつか自分自身もっと消化して的確に書きたいと思う。

 この本を紹介してくださった方とは、15年も前の無教会全国集会の分科会で出会った。その分科会の内容は何一つ覚えていないけれど、なぜか話の途中で宮本武蔵の名が出て、誰かが宮本武蔵の立派さを話していた時、「宮本武蔵が何ですか。人殺しではありませんか」と、大声で言われた。あまりにも私の心を震撼させたその一言が、いったいどこからきたのか、この本を読んで分かったように思う。


福音 №264 20105

*        「木曾・奈良井宿にて」


咲いているのは みやこぐさ と
指に摘んで 光にすかして教えてくれた
右は越後に行く北の道
左は木曾へ行く中仙道・・・・

 信州へ行ったこともなかった頃、立原道造の詩を口ずさみながら「左は木曾へ行く中仙道」って、どんな美しい道だろうと思いめぐらしていた。その中仙道、木曽路にある奈良井宿に立ち寄って、ふと見つけた「マリア地蔵尊」。その横には「この石像は、昭和7(1932)の夏に、地元の人が藪の中になかば埋もれているところを掘り出したと伝える。」と記されていた。
 その石像が置かれている大宝禅寺のパンフレットにはもう少し詳しく、「キリシタン禁制の江戸時代、木曽路にも秘かにキリシタンを信仰する人がいた。仏教の子育て地蔵になぞらえて作られた石像である。役人に発覚し、頭部も抱かれた子供も膝も破壊されて悲惨である。わずかに胸に十字架だけが残っている。石像の背には光背を支えたあともあり、台座もあったであろうから、かなり大きなものであったと想像される。ただ今はかくれキリシタンの悲惨なそのかみを偲ぶのみである。」とあったが、そのマリア地蔵尊の前に立って、頭のない、しかし胸に幼子イエスと十字架の刻まれた姿に、確かにこの木曽路にもキリストが伝えられ、迫害にも耐えて秘かに信仰する人がいたんだと、胸が熱くなった。
 そういえば、奈良井宿の家並みを歩いていて、一軒の家の前に大きな掲示板があり、そこには「聖言」と題して、
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして光があった。」
と、創世記1章1~3節が書かれていた。寺や神社に囲まれた宿場町で聖書の言葉に出会ってうれしかったが、もしかするとその家には、キリシタンの時代からまことの神を信じる信仰が受け継がれてきたのかもしれない。十字架と御言葉、それはいつの時代にも、どこに国にあってもクリスチャンの命なのだ。

 それにしても、と思う。頭のないマリア地蔵尊が示しているように、キリストを信じることが命がけであった時代が、この日本にもあった。そして、キリスト教の歴史を見れば不思議なことに、そのような迫害によってキリスト教は世界中に広がっていったのだ。使徒言行録を読んでも、福音宣教には絶えざる迫害がともない、その苦しみの中でこそキリスト信仰は花と咲き、豊かな実をつけていったのが分かる。
 ところが今は、誰でも自由に聖書が読めるようになり、インターネットで聖書注解さえ読める時代になった。教会に行くのも自由であるし、無教会といってどの組織にも属さずキリスト信仰を持つこともできるようになった。クリスチャンにとってこんな有難い時代はないはずである。それを黙って安穏に暮していたのでは、命をもって救ってくださったイエス様に申し訳ない。さあ、この自由を活かして伝道をしよう、神の愛を、キリストの救いを、永遠の命の喜びを伝えよう・・・と張り切ってみる。キリストの名を口にするだけで捕えられ、首を切られる時代もあったのだ。そのことを思えば、人に馬鹿にされたり、奇異な目で見られることくらい何ということもないはずだ。ところが、威勢よくこう書いてみても、やっぱり私には路傍伝道をする勇気もないし、それどころか、隣近所に、キリスト教のパンフレットを配って歩く勇気さえない。これっていったい何なんだろう。台所の日めくりには「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」2テモテ1:7 と書かれているのに。
 あまりの自分の情けなさに、90歳を過ぎてなお「はこ舟」を書き、近所に、ある時はバスにまで乗って、その「はこ舟」を配って歩いた杣友さんを思い出し、「杣友豊市文集」をさっと開くと、何と、杣友さんが開けれくれたように「苦しかった伝道」というところが開いた。1991年9月、杣友さん96歳の時の文章である。

   苦しかった伝道
 私は自ら進んで信仰を求め、そして信仰に生きる者となった者ですが、伝道をすることは苦手でした。第一に、キリスト教は決して俗受けのするものではありません。私が入信した頃、富永某という広島県出身の青年がいて道楽者でした。それが救世軍の集会に来て、説教を聞き、これまでのふしだらな生活を悔い改め、酒も飲まず真面目な生活をする決心をしました。これで平素、真人間になれとすすめてくれた叔父を安心させ、かつほめて貰おうと思い「叔父さん、僕、救世軍に入りました」と報告したところ、ほめられるどころか、「この愚か者め」と叱られました。叔父さんもその周囲も真宗の盛んな地方出の人だったのです。否、どこのだれでもキリスト教は俗受けしないものなのです。あまりにも純粋なからです。地の塩であり世の光だからです。これが万人に好かれるようになったらそれはも早、腐敗した塩です。それと共にまたこの純粋な宗教を求めているものが必ず居るのです。その人に出会うのが伝道です。その人に出会い得た歓びは較べるものがありません。主イエスが用意していて下さって、網が破れるばかりの大漁に出会えることもありましょう。
 伝道は先に救われた者の務めでありまた歓びです。読者の方から、伝道成功の朗報を頂くことは、発行者にとっても一番嬉しいことです。この節、それがあり、その方たちのご活躍ぶりが目に見えるようです。そして、この困難な月刊誌の発行も、円滑に進んでいきます。

 ある時から杣友さんが「はこ舟」を30部も送ってくださるようになって、いくらなんでも多すぎると思案に暮れたことがあった。そうなのか、あれは「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」2テモテ4:2という杣友さんのお誘いだったのだ。気づくのが遅すぎたけれど、頭のないマリア地蔵と出会ったおかげで、今こそ、杣友さんの天からの励ましが聞こえる思いです。


福音 №263 20104

*        老後の備え、死後の備え リストマーク聖書は希望の書

 

 「人はよく老後の備えと言いますね。でも、本当の老後の備えとは死後の備えをすることなんです。死後の備えがあってこそ、老後もまた、心安らかに過ごすことができますからね。」 義母がお世話になっている「晴れる家」で、午後の日曜礼拝の後、施設長がみんなに話しかけていた。礼拝の中で牧師夫人が「天国」の話をされたが、それを受けてのことだろう。なるほど、老後の備えという言葉はよく聞くけれど、死後の備えとはあまり聞かない。
 では、私にとって死後の備えとは何だろう。いったい私は、死後の備えをしていると言えるのか。そう考え込んで、すぐに思い浮かんだのがヨハネ福音書14章2節、
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」
というイエス様のお言葉だった。ああ、そうだった。私には死後の備えとして、天に住む場所を用意していてくださるお方がいる。私が心配する前に、何とイエス様の方から「場所を用意して あなたを迎える」と言ってくださる。こんな嬉しいことがあるだろうか。それも、私が何をしたからでもない。いまだに良い人間にも清い心にもなれないけれど、ただ父なる神様を信じ、イエス様こそ救い主と信じ、「赦してください、助けてください、憐れんでください」とすがりながら、「御国がきますように」と祈りながら生きてきた。ただそれだけのゆえに、こんな私にもイエス様は「場所を用意して わたしのもとに迎える」と言ってくださる。もちろん私だけではない。特別な人にだけでもない。イエス様は今も世界中のすべての人に
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。」と呼びかけておられる。これが福音でなくて何だろう。この良い知らせを黙っていてはいけない。さあ、今月もどんなに拙くても福音を書こう。

 4月4日はイースター、イエス・キリストの復活を記念して祝う日であった。今年は第一コリント15章から「キリストの復活・死者の復活・復活の体」を学んだが、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(13)、「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。」(16)とくり返される言葉に、キリストの復活は私たち罪に死んだ者を復活させるためだったのだと、今更ながら感動した。
 そう、イエス・キリストがこの世に生れてくださったのは、私たちすべての民のため。病を癒し、悪霊を追い出し、御言葉を語ってくださったのも私たちのため。そして何よりも、罪なきイエス様が十字架にかかられたのも私たち全人類の罪の贖いのため。誕生も、この世での歩みも、十字架の死も、すべてすべて私たちのため。「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」と言われ、私たちに食べ尽くされ飲み尽くされたいと願うほどに私たちを愛してくださるこのお方が神でなくて何だろう!と、思い続けてきた。
 ところが、今回「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです」という言葉を「神が死者を引き起こすことにそこまでこだわられたのでなければ、神は、何もわざわざキリストを引き起こすような、途方もないことをなさらずに済んだのである」(織田昭著)と訳してあるのを読んで、そうか、キリストが復活するのは神の子だから当然だと思っていたけれど、復活さえも当然の神の業ではなく、私たちを復活させるための途方もない愛の御業であったのだと、心の底から感動したという訳です。
 
 「初めに、神は天地を創造された。」という言葉で始まり「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」と祝福の言葉で結ばれる「聖書」は、はじめから終りまで神の愛と真実の証の書である。だがそれと共に、悲しくて言葉もなくなるほど、人間の罪と背きの証の書でもある。だが何よりも「聖書」は、神様が人間に
「わたしこそあなたの神である、わたしに聞け」
「わたしに帰れ、立ち帰れ、立ち帰って生きよ」
「わたしを信じ、わたしの愛を受けよ」
という招きの書なのだ。これほどの切なる神様の招きに人はなぜ答えようとしないのだろうかと考えた時、イエス様の話された「大宴会のたとえ」ルカ福音書141524を思い出した。
「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。
 ここでの「盛大な宴会」が「神の国の喜び」だとすると、宴会の主人(神様)と招かれた人たちの言葉は印象的だ。神様は「用意ができました」と準備万端、私たちに永遠の命の喜びを与えようと待っていてくださる。でも、私たちは神様よりも、この世の仕事に、財産に、楽しみに夢中であって「失礼させてください、行くことができません」と断ってしまう。
 人が老後の備えには励んでも、死後の備えのことなど考えないのと同じだなあと思う。

 でも、私たちに復活の喜びを告げる桜の花は満開である。ほんの小さな庭にも、ホタルブクロ、スズラン、ユリと次々芽を出し伸びはじめた。紅ランは明日にでも花開きそうだ。マタイ福音書1章から始めたメール集会も1年を過ぎてヤコブの手紙にまで進んだ。24歳の若いママも、育児書を読むより聖書を読みますと張り切っている。23人の小さな聖書集会も起こされている。
 ああそうだった。聖書は何よりも「希望の書」だった。この希望に共に生かされている兄弟姉妹を思うと、わたしの心も桜の花のように満開になった。


福音 №262 20103

*        「イスラエルとシナイ山の旅」


 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え
 息子、娘を持つにまさる記念の名を
   わたしの家、わたしの城壁に刻む。(イザヤ書565

 「『ヤッド・バシェム』。へブル語でヤッドは手、手を置いて記念とし記憶することを意味し、バシェムとは名前のことです。この『ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)記念館』のヤッド・バシェム(記念と名前)という名はイザヤ書56章5節からとられたものです。」
 イスラエルに住んで30年という日本人ガイドの心のこもった解説を聞きながら記念館を一巡し終えた時、「信仰を持ったのは60歳を過ぎてからなんです」と小さな声で話してくれた一人の老婦人が、隅の方でそっと涙をぬぐっていた。その姿が私には、十字架を担いでゴルゴダの丘に向かうキリストの汗をぬぐったというベロニカの姿と重なった。「ベロニカとは『本当の心をもった人』という意味です。」との、ガイドの説明が心に残っていたからかもしれない。
 思いがけなく「イスラエルとシナイ山の旅」(教文館・日本聖書協会共同企画)に参加して最後の日に訪れたホロコースト記念館「ヤッド・バシェム」。ガイドが「イスラエルの人たちが素晴らしいのは、このように、忘れてはならない場所に聖書の言葉を刻むことです。」というのを聞きながら、私もイザヤ書56章を、このあまりにも多くを与えられた11日間の旅の記念にしたいと思った。耳を澄ませば「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」7節 と、主の御声が聞こえるように。

 「アブラハムは、べエル・シェバに一本のぎょりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を呼んだ。」創世記21:33とあるアブラハムの井戸から今回の旅は始まった。今も砂漠にテントを張って住むベドウインの人たち。なぜこんな生活を?と問いたくなる心を知ってか、「私たちが今夜泊るホテルは五つ星、でも彼らは五つ星じゃ満足できない、満天の星の下でなくてはね」とガイドの説明。旅行客を見つけると小さな子供が「ワンダラ、ワンダラ(1ドルのこと)」と土産物をもってついてくる。「5ドルでラクダに乗れ」とせがむ。今思えば、にっこり笑ってあの子たちと握手すればよかった。言葉が通じなくても怖いことなんかない。哀れむ必要もない。満天の星の下で生きる子どもたち。本当に可哀そうなのは、あり余る物がなければ生きられないと思い込んでいる私たちの方かも知れないのだ。 
 3日目にはダバ国境を越えてシナイ半島へ。シナイ山のふもとの町サンタカテリーナで宿泊。「明日はシナイ山に登ります。モーニングコールは午前1時、1時半出発ですのでそれまでに少しでも眠っておいてください。」と添乗員の声に、準備を整えて眠りにつく。モーニングコールで目覚めて、1時半きっかりにホテルを出発。ホテルに残る10名を除いた18名で月明かりをたよりにサンタ・カテリーナ寺院(1500m)まで歩く。そこからは約1時間半、ラクダに乗って8合目まで。「暗くて危ないので、一人一人アラブの人が手を引いてラクダまで連れて行ってくれます。」と言われた通り、誰かが手を取って岩場を歩き、ラクダに乗せてくれた。ところが驚いたことに、その人は手綱をラクダの首に巻きつけたかと思うと、さっさとどこかに行ってしまい、ラクダは引く人なしに歩きだした。エエッと信じられない思いでラクダと私だけの旅は続いたが、アルファと呼ばれたそのラクダは岩場の細い道を急坂も窪みも速度を変えることなく「安心してください。この道は誰よりもよく知っていますから」と言わんばかりに、穏やかに優しく歩いてくれた。月の光と、頭上には北斗七星が輝き、私の人生にこんな日があるなんて、なぜですか、どうしてこんな私を、これほどまでに恵んでくださるのですか、と問うばかりだった。ラクダを降りて直登岩階段を900段、30分ほどで2285mのシナイ山頂上。朝日が昇るのを待ち、一か所に集まってみんなで出エジプト記3章を読んだ。
 「モーセよ、・・わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」「行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。・・・わたしは必ずあなたと共にいる。」
 なぜ神様はご自分を現わされるのに、美しい草原でもなく、豊かな流れのほとりでもなく、岩の他に何もないこんな険しい岩山を選ばれたのか。そうか、神を信じるとはそういうことなのか、聖書の神が契約の神であるとはこういうことなのか。神とモーセ、他には何もない。契約とはこのような厳しさの中でこそ与えられるものなのだ。信じると言いながら右にも左にも逃げ場を残しておいて、自分で自分を守りながら信じるなど、真の神を信じる信仰ではない。イエス様も言われたではないか。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」マタイ16:24と。自分を捨てずしてキリストに従うことはできないのだ。

 次の日は死海で泳いだ(浮かんだ)後、マサダの遺跡、死海写本の発見されたクムランの遺跡を見学、。聖書を片手に、ガイドの深い知識と真に迫る解説に圧倒されながら続けた11日間の旅をこの紙一枚にまとめることなど到底できないが、その後ガリラヤ湖畔で2泊、ナザレ、カイザリヤを経てエルサレムで3泊。野花の咲き乱れる美しい祝福の丘で山上の垂訓に耳を傾け、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という御言葉をいただいた私たちは、エルサレムに着いて、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と今なお続く宗教の、また民族間の戦いを目の当たりにしても、「それでも希望は神にある」とまっすぐに天を見上げることができた。そして、世界がどんな敵意と混乱の中にあろうとも、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」ヨハネ14:27と言われたキリストの言葉は十字架の上に燦然と輝いているのを見た。
 すべての行程を終えテルアビブ空港に向かう途中、最後に立ち寄ったのは、二人の弟子が復活のイエス様と出会ったエマオ。讃美歌272番を歌い、ルカによる福音書2413節から35節「エマオで現れる」の朗読をきいていると、確かに復活の主の愛に私たちの心は燃えた。
 ベエルシェバのアブラハムから始まり、モーセ、ダビデ、そしてイエス様の歩まれた道をたどり、復活の主に出会うエマオまで、心込めて準備された、恵みに満ちた今回の旅だった。 

 どうしようもなく悲しかったのはドロローサと言われる道で、十字架に着いたキリストの像が、捨てられたおもちゃのように無造作に積み上げられほこりにまみれで売られていたこと。それと、ユダヤ人虐殺を多くのキリスト者もまた容認していたという事実。そして、この私もまた、それらの罪と無関係には生きられないという現実。「主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るわけではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」マタイ7:21と言われた主イエスのお言葉を忘れず、どこまでもキリストの心を慕い求める者でありたい。


福音  №261 20102

*        詩編119編から :信じ従う道


  いかに幸いなことでしょう
  まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。
  いかに幸いなことでしょう
  主の定めを守り
    心を尽くしてそれを尋ね求める人は。 詩編119:1.2

 詩編119編を音読すると約20分ほどかかる。読んでいると、よくぞこの聖書が私の手にまで届いたものだと、この詩編119編をこうして声をあげて読めるありがたさに、思わず聖書を抱きしめたくなる。聖書が印刷されるようになるまで、特別な人だけしか読めなかったに違いない。ましてや、自分だけの聖書を持ち、いつでもどこでも開いて神の言葉が聞けるなんて、こんな幸いはないと胸が熱くなる。

  わたしの魂は塵についています。
  御言葉によって、命を得させてください。119-25
  わたしの魂は あなたの救いを求めて絶え入りそうです。
  あなたの御言葉を待ち望みます。119-81

御言葉を求めるこの詩人の一筋な思いに引き込まれ、清流を流れる木の葉のような思いで読み進め、最後の176節、何とも可憐な小さな花をその川岸に見つけた思いがしてホッとする。

  わたしが小羊のように失われ、迷うとき
  どうかあなたの僕を探してください。
  あなたの戒めをわたしは決して忘れません。119:176

 この詩人の祈りは、イエス様を慕い求めるすべての人の祈りであろう。主イエス様が失われていた私を探し求めてくださったから、今こうして生きている。道に迷い暗闇で一人泣いていたとき、イエス様が探しに来てくださったから、今こうして光を受けている。
これからも「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」というイエス様のお言葉を胸に抱いて、小さな歩みを続けていこう。

*************************************

 「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。」と言ってきたギリシャ人の言葉を取り次いだ弟子に、「イエスはこうお答えになった。」
「人の子が栄光(十字架)を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」 ヨハネによる福音書12:2325
 この世の延長線上に神の国があるのではない。イエス様の言葉に聞き入っていると、なるほど、これはもう信じて従うより他にない世界だということが分かってくる。この世はどこまで行ってもこの世である。そのこの世のただ中に神の国であるイエス・キリストがおられる。だが、この世におられるからと言って、その神の国にこの世の自分がそのまま入っていくことはできない。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ヨハネ福音書3:3と言われているとおりに。
 「金持ちとラザロ」のたとえ話をもってイエス様が言われた言葉を思い起こす。
「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」 ルカ16:26
 この世と神の国の間には人の力では越えられない大きな淵がある。その淵を越える唯一の方法が「死」であろうことは容易に想像できる。しかしまたその死も、この世で言う死ではない。もし人が死ぬことによって自動的にこの世から神の国に移行できるのであれば、一粒の麦が地に落ちて死ぬことなどいらない。また、一粒の麦の死(キリストの十字架)によってすべての人が自動的に神の国に入れるようになったのであれば、神の国とこの世の淵は埋められ、それぞれの持つ深い意味は失われただろう。だが、イエス様の言葉に聞き入れば、この世と神の国との違いは鮮明になるばかり。そこには依然として人の力では決して越えることのできない大きな淵がある。
 その大きな淵を越えさせるまことの死とは、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。」ロマ書6:8

 「主よ」と御名を呼ぶ。
 「どうすればあなたと共に死に、あなたと共に生きることができるでしょう。どうすればあなたのいるところにいることができるでしょう。」

 「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。」 ヨハネ福音書12:26
 
 そうです、イエス様。あなたは私たちが従えるように、この世に来てくださった。どんな人でも従えるように、誰よりも低くなり、弱くなり、惨めになり、罪人の友となって死んでくださった。そんなあなたを信じて、あなたに従いたいと一心に願うとき、イエス様、そうです、この世のだだ中に神の国への道が見えます。大きな淵はあなたの十字架が橋となって神の国に通じる道ができた。
 そうでした。イエス様、あなたは他に何も求められはしない。「ただ、わたしを信じなさい。わたしに従いなさい。」とあなたは言われる。
イエス様、見えます。この世に居り場のない人たち、弱く傷ついた、罪に泣く人たちが、ただ あなたを信じ、あなたにすがり、あなたの十字架という橋を通って神の国に歩いて行く、その喜びの姿が。

そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれ・・・
解き放たれた人々がそこを進み
主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。(イサ゛ヤ35:8-10)


福音 №260 20101

*        貧しさゆえに


  貧しい人々は、幸いである。
  神の国はあなたがたのものである。
        (ルカによる福音書6:20)
何と清々しい言葉であろう。人間の欲も得も木っ端みじんにしてしまう。
本当にイエス様の言葉はすごい。人の思いや考えとは全く違う。

  わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
  わたしの道はあなたたちの道と異なる・・・
  天が地を高く超えているように
  わたしの道は、あなたたちの道を
  わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。(イサ゛ヤ55:89)
と言われているとおりだ。

 もっと豊かな生活を、安心のためにもっと蓄えを、お金があれば何でもできる、さあ、全力を尽くして豊かになって、人生もっと楽しもう、とあくせくしている人間に、イエス様は「貧しい人々は幸いである。今飢えている人々は幸いである。今泣いている人々は幸いである。」と言われるのだ。昨年の全国集会の主題講演で「この頃、キリスト教は世界的に退潮期だ」と聞いたけれど、なるほど無理もない。私には歴史のことは良く分からないけれど、現代ほどこのイエス様の言葉が人々の心に響かない時代もないような気がする。
 人間って何をしているのだろう、もっと豊かに、もっと快適に、もっと便利に、もっともっとと追い求めて・・・だんだん神の言葉から遠ざかっていく。近づいてくるのは人々の精神の荒廃と地球の危機。
 ところが、そんな人間の洪水のような欲望に押しつぶされることもなく、「貧しい人々は、幸いである」というキリストの言葉は今も生きている。隠された宝のように、人の目には見えなくても、どんなに時代が変わっても、色あせることも、その輝きを失うことも決してない。あぁうれしい、と思う。これこそまことの福音だと思う。

 福音書を読むと、イエス様の言葉には、小ささ、貧しさ、弱さを慈しむ言葉があふれている。そして何よりもイエス様のもとに集まったのは、弱く、貧しく、力なき人たちだった。癒されるはずのないライ病患者、歩けれるはずのない中風で寝たきりの人、足枷や鎖でさえ縛っておくことのできない狂人、病のために全財産を使い果たしてしまった女性・・・書き出したらきりがないけれど、イエス様のもとにひざまずいた人たちのたった一つの手土産は「貧しさ」だった。この人たちを見て、イエス様は言わずにおられなかったのではないだろうか。「あなたたち貧しい人は幸いだ。あなたたちは、その貧しさゆえにわたしのもとに来た。神はその貧しさを祝福された」と。
 そこですぐ思い出すのが、金持ちの青年の話(マタイ19:1630)。この青年の手土産は、どんな律法も「みな守ってきました」という誇りだった。その青年に、イエス様は「持物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われた。永遠の命と秤にかけても持物を選ぶほどこの世の富にとらわれている自分に気づかない青年は「悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」と記されている。イエス様は弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
 その訳をイエス様は次のように言われた。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイによる福音書6:24
 クリスチャンならよく知っているこのイエス様の明快な言葉は、聞くだけなら何とも快い。でも、心のどこかで神も富も両方ほしいと願っている自分に気づくと、富める青年の姿は決して他人事ではなくなる。そして、知るのである。「持物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」という厳しい言葉に込められたイエス様の深い愛と真実を。
 人は自分を誇りながらイエス様に従いゆくことはできない。すなわち神の国に入ることはできない。わが内にある貧しさ、弱さ、神よりも富を求めてしまう罪深さに直面して始めて、イエス様にすがり従いゆく者とされるのだから。

 私には友がいなかった。「それはあなたの性格が悪いから、あなたの責任だ」と外なる声、内なる声に責められてますます辛くうなだれる私に、「友がいないなら、わたしが友になろう」と、イエス様がささやいてくださった。

 貧しい者は貧しいだけで辛いのに、「それはお前の責任だ、お前の努力が足りないから、お前が悪い」と、世間の声に責められてますます辛くなっていく。そしていつしか、貧しさよりも自分が駄目なのだという自責の念に押しつぶされてしまう。そのような、暗く痛ましい日々を生きる人たちに、イエス様は言われる。

 貧しいことは悪いことじゃない。貧しくていいのだ。
 病弱なことは悪いことじゃない、弱くていいのだ。
 子供のいないことは悪いことじゃない。いなくていいのだ。
 一人前に仕事のできないのは悪いことじゃない。
 人の世話にならなければ生きられないのは悪いことじゃない。
 ・・・・・・・
 その貧しさゆえに
 弱さゆえに
 寂しさゆえに
 無力ゆえに
 わたしのもとに来るがいい。
 わたしがあなたの豊かさとなろう。
 わたしがあなたの強さとなろう。
 わたしがあなたの慰めとなろう。
 わたしがあなたの力となろう。
 わたしはすべての人のすべてとなるためにこの世に来た。
 あなたたちを神の国に招くため、あなたたちの弱さも貧しさも、世の富に目を奪われて神様に背を向けようとするその「罪」をこの身に負うて、わたしは十字架についたのだ。
幸いなるかな貧しき者。さあ、わたしのもとに来るがよい。