キリスト教礼拝での讃美歌   1999/9

 讃美歌はどんな意味があるのでしょうか。かつて私たちのキリスト集会員が召されたとき、その前夜式で讃美歌が歌われましたが、そこに参加していたキリスト者でない人たちが、人が死んだときなのに、歌を歌うなんてと驚いたと言っていました。

 これは、歌うとは楽しい気分のとき、遊びのとき、行楽や宴会などのとき、また音楽会のときなどであって、日本人にとっては、人が死んだときに歌をいくつも歌うなどということは考えられないことであるからです。仏教による葬式の場で、だれかが歌を歌ったらまともな人間扱いされないかもしれません。

 これは、歌うということの意味が日本人にはひどく狭い意味でしか知られていないからです。

 私もキリスト教信仰に出会うまでは、歌などというものは、気晴らしとか、気分転換あるいは、一種の趣味、娯楽程度のものだと思っていました。

 しかし、キリスト教においては、重要な会にいつも歌を歌うのです。礼拝であっても、クリスマスの集会や人が死んだとき、葬式、結婚式、祈りの会、家を建てるとき等などあらゆるときに歌(讃美歌)を歌います。

 私がキリスト教信仰を持つようになってすぐに読んだ本の一つに、若くして高熱を出してこの世を去った人の記念文集がありました。そこに書かれていた人は、死に瀕したとき、高熱で意識がないような状態であったのに、その口からとぎれとぎれに出てきたのは、讃美歌五二〇番「しずけき川の岸辺を」であったと知って強い印象を受けたことがありました。 それは、そばで看病している両親のこともわからないほどに意識がうすくなっているのに、なおそこから「安し、安し、神によりて安し」という讃美歌の一節が出てきたというのは、いかに讃美歌が深く魂に刻み込まれていたかをしめすものです。

 それは、祈りであり、神の言に次ぐほどのものとなって魂に刻み込まれていたのがうかがえるのです。

 キリスト教における讃美とはたんに楽しいから歌うのでは決してなく、最も苦しいとき、死にかかっている時ですら、出てくるほどのものなのです。

 主イエスも、いよいよこれから捕らわれるという前夜にも、最後の夕食のあとで締めくくりとしてしたのが、讃美を歌うことであったのです。

一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
(マルコ十四・26

 殺される直前においても、なお歌ったのは、神への祈りだからです。祈りをさらに長く引き延ばして祈り続けることが讃美であったのです。だからこそ、主イエスも捕らえられ、殺される直前に讃美の歌を歌ったのです。それはこれから起きるたいへんな事態に対処するための祈りであったからです。神を信じる者なら、祈りはどんなときにもすることが期待されているし、神はその祈りの姿勢を最も喜ばれます。だからこそ、結婚式でも、葬式でも、また新しい家を建てるときも、苦しい時も、感謝と喜びのときもどんなときにも讃美歌を歌うということが生じるのです。

そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。

真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
(使徒行伝十六章より)

 このように、鞭打たれ、暗くてじめじめした牢に閉じこめられていたし、真夜中でもあるのに、なお神への讃美を続けていたというのです。

 ここにも讃美というのが祈りであるというのがよくわかります。古代の鞭というのは、数十回も打たれたら死んでしまう者もいたほどです。そのような恐ろしい鞭打ちの刑罰を受けて、どうして歌など歌えるのかと日本人は思います。しかしそのようなたいへんな事態だからこそ、祈る必要を感じて、讃美し続け、祈り続けたのです。

このように、讃美ということが、祈りと深く結びついているのは、旧約聖書から見られ、そのことは、詩編の例えば七十二編は、その終わりの部分がつぎのようになっていることからも推察できます。

主なる神をたたえよ、イスラエルの神、ただひとり驚くべき御業を行う方を。

栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ、栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。

エッサイの子ダビデの祈りの終り。

これを見ると、この
詩編第七十二編は第二巻(四十二編〜七十二編)の最後の詩編ですから、それらの讃美の歌(詩)を総称して、「祈り」と言われていたのがわかります。

 詩編が讃美であり、それはまた祈りでもあったということは、例えば、詩編十七編のタイトルに「ダビデの祈り」とあり、九十編のタイトルには、「神の人モーセの祈り」とありますがこのようなタイトルは他にもいくつも見られます。 

 祈りであるからこそ、苦難のとき、喜びのとき、結婚や葬儀のとき、あるいは、悲しみのときなど、どんなときにもそれは用いられることになります。そのような意味で、讃美はキリスト教のあらゆる行事に用いられているのです。


 このように見れば、私たちも讃美を歌うときにはその言葉の意味をはっきりと知って、その言葉を祈りをこめて歌うというというのが正しい讃美の仕方だとわかるのです。

 このように考えてくると、キリスト教の礼拝において、単に最初と最後だけ、二回歌って終わりとし、他はいっさい讃美しないという形式でなく、多くの讃美を用いることもそれが祈りとして用いられるときには、礼拝そのものでも有り得るのがわかります。

 聖書の講話の初めと終わりだけに形式的に歌うだけでなく、礼拝の中に適当なところに配分して、祈りを持って全員が集会に関わるための重要な手段となるのです。しかも、聖書の解きあかし(聖書講話、講義あるいは、説教)は、話されることをただ聞くだけとなりますが、讃美というかたちの祈りは、全員がその祈りに加わることができます。

 そして、讃美という形をとった祈りはメロディーとハーモニーが加わり、言葉にならない祈りをも神のもとに運んでくれます。

そのため言葉だけでは十分に祈れないときでも、讃美の祈りで助けられて祈ることができる場合もあります。

 私たちも礼拝において讃美を歌うときには、形式的に歌うことなく、祈りとして歌い、さまざまの讃美をいろいろな状況のときに用いることができるように導かれたいと思うのです。

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