ライトをつける 1999/12

 夕方になると、車はライトをつける。それは自分が走るときに暗いからライトをつけるのだとたいていの人は思っている。それはその通りであるが、もう一つライトをつけるのは、自分の位置を知らせるという意味がある。
 一部のヨーロッパの国では、昼間であっても自動車はライトをつけることになっているという。かつて、イスラエルに行ったとき、エルサレムに向かう路上で、はるか彼方から砂漠のような荒涼とした大地の上を、こうこうとライトをつけてつぎつぎと走ってくる車を見たときにはどうして昼間からつけているのか、消し忘れなのかと思ったことがあった。その地方では、車の位置をはっきりと知るのに効果的なのでライトを昼間でもつけるのだと説明を受けたことがある。
 最近では、日本でもバイクは昼間でもライトをつけるのが普通になっている。それは、ライトをつけた方が事故の率が少ないという統計が出たからだという。

 私たちは人間にもライト(光)が必要である。日々のいろいろの問題に直面するとき、どちらの方向に歩いていったらよいのか、私たちはずっとこのまま歩いていったらどこへいくのか、など答えられないことが数多くある。それは適切なライトがないからであった。
 光なるキリストを持つことによって、正しく私たちの前方を照らしてもらえるようになる。私たち一人一人の前途、また私たちが今かかえている問題にどうしたら正しく対処できるのか、私たちの社会はどうあるべきなのか、何がこの世で一番大切なのか、等などはキリストの光によらないときちんと判断できず、先が全く見えない。
 それだけではない。私たちがあと数十年したらどうなるのか、死んだらどうなるのかというすべての人に訪れるきわめて重要な問題や、人類の将来はどうなるのかも、キリストの光がなかったら、前途は見えず、死んだらすべてが消えていく闇のなかに入ってしまうとか、無になってしまうということしかわからない。
 このように、キリストの光はたしかに私たちの考えや、将来、現在の問題を照らし出してくれる。
 しかし、それだけではない。私たちがキリストの光を持っているということをはっきりと言い表すことによって、まわりの人たちも私たちがどこにいるのかという位置をはっきりと知ることができる。
 車がライトをつけていると、遠くからでもその車がどんな色や車体の車であるか、だれが運転しているのかなどより、はるかにライトそのものに私たちは目を向けるようになる。
 それと同様に、私たちは自分がいかに弱く、貧しくあっても、キリストの光を持っている(与えられている)というだけで、まわりの人は私たちの持っている光そのものに関心が向けられる。
 そしてその光は、私たちがどこにいるのかをはっきりと示すものになる。そしてその光に注目する人が生じ、その光を吹き消そうとする人が生じる一方で、その光そのものの力に引き寄せられる人も少数ながら必ず現れる。
 
ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。
入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。(ルカ福音書八・16

 私たちが、周囲の人に唯一の神とキリストを信じていると表明するだけで、私たちはキリストというともしびを燭台の上に置いたことになる。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。