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嵐を静めるイエス イエスが嵐を静める(マタイ福音書八章より) 2000/1  

イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
そのとき、湖(海)に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すかっり凪(なぎ)になった。
人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。

 この短い内容は、一見とてもわかりやすいと感じられます。そしてイエスが風や海に命じたらそれらが静まったという記事は、多くの人にはまるで信じがたいことなので、少し読んだらもうあとは真剣に考えることなどやめてしまう人が多数であろうと思います。
 しかし、この箇所は昔から多くの人たちによって深い関心を持たれてきたのです。
 まずこれは、キリスト教の長い歴史を預言するものになりました。舟とはキリストを信じる人たちの群れであり、教会(集会)を指しています。
 そして舟に主イエスが乗り込み、弟子たちもあとに従うということを意味するのです。そして、主イエスが共にいるにもかかわらず、激しい嵐が襲ってくるということは、この福音書が書かれた当時の迫害が激しくなっている状況を暗示しているのです。

 イエスが舟に乗り込むと、弟子たちも従った。そのとき、湖(海)には、激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。

 ここで、湖と訳されている原語は他の箇所では「海」と訳されています。そして海とは、黙示録などで示されているように、この世とか、サタン的勢力が力をふるっている領域を暗示しています。(黙示録十三章一節〜)

 キリストが信じる者の集まりに共にいて、この世での歩みを始めたとき、そこに激しい敵対する力が現れたということを示しています。
 また、ここで「嵐」と訳された原語(ギリシャ語)は セイスモス(seismos)という言葉ですが、その言葉は新約聖書では十四回ほど用いられています。それらは、ここの箇所以外はすべて「地震」と訳されている言葉なのです。
 また、旧約聖書のギリシャ語訳(七十人訳)では、例えばつぎのように、動揺とか混乱という意味でこのセイスモスという語が使われています。

 見よ、北の国から大いなる動揺(混乱)が来る。(エレミヤ書十・22)

 それは、この言葉のもとになっている セイオー(seio)という語が「揺り動かす」という意味を持っているからです。
 私(神)はもう一度、天と地とを揺り動かす。(ハガイ書二・6)
 のように用いられています。
 マタイがここで、あえてこのような揺り動かすという意味の言葉からきている「地震」という語を「嵐」という意味に用いているのはどうしてでしょうか。
 湖(海)に生じた激しい嵐とは、この世における激動を暗示していると考えられるのです。キリスト教が広まっていった時代は、たしかにこの世の政府、ローマ帝国の権力との間で、さまざまの衝突が生じて迫害を受けたのです。それはまさに、海に生じた激動というべきものだったのです。
 これは、当時のキリスト者の状況を指し示しているとともに、以後のキリスト教会(キリスト者の集まり)のたどる運命をも預言するものとなりました。そしてたしかにそれ以来二千年のあいだ、たえずキリストを信じる者たちはこの世からしばしばひどい圧迫、迫害を受けてきたのです。
 日本でも同様で、キリスト教が伝わってからもたえず激しい迫害の嵐が吹き荒れたのです。キリスト教は一五四九年に初めて日本に伝わりましたが、四十年も経たないうちに、豊臣秀吉によって宣教師の追放令が出され、江戸幕府によって厳しい迫害が行われました。 キリストを信じる者は、すべて改宗を強制され、従わないときには、火山の火口に投げ込んだり、冬の凍る水に投げ込むとか、さかさ吊り、水漬け、蓑をかぶせて火を付けるなどという恐ろしい拷問が行われ、それでも改宗しないときには処刑という状態だったのです。
 そのような時代は、まさに「激しい嵐」であり、「激しく揺り動かされる」状態であったのです。そのようなキリスト教徒が後にたどることになった歴史の歩みをこの短い言葉は預言しているといえます。
 しかし、単に苦しみや激動の預言だけでは決してありません。ここには、主イエスがともに舟に乗り込んでいるとあります。主イエスはいかに激しくこの世が敵対してキリスト教の真理をおびやかそうとも、それでもなおキリストは教会(キリスト者たち)とともにいて下さっているのだということです。
 キリストがともにいて下さっても、無事平安が続くという保障はない、時代や国の状況によってじつに困難な事態におかれることがある、しかしその闇のようなただなかにも主イエスは共にいて下さっているのだということなのです。 

 舟が波にのみこまれそうになった。イエスは眠っていた。

 ここでイエスは眠っていたということの意味を考えてみます。
(一)まず、私たちの困難なとき、神は眠っているのかと思われるほどに助けもなく、恐れに満ちている状態が続くことがあります。これは聖書のなかにも例えばつぎのようにしばしば出てきます。
・わたしの魂は恐れおののいている。主よ、いつまでなのか。(詩編六・4)
・いつまで、主よわたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。(詩編十三・2)
 このように、苦しみのときにもどんなに祈っても答や平安が与えられずに苦しみ続けるときには、神は眠っているのかという思いになるのです。

(二)激しい嵐に飲み込まれそうになる小舟におけるイエスの眠りは、神とともにある平安の象徴として表されています。
 小舟が激しい嵐にもてあそばれ、今にも波に呑み込まれそうになっている、そのときには、激しい風の音、波の音、そして弟子たちの叫びうろたえる声が響き、舟自身も大きく揺れ動いていたのですから、そのようなところで、眠っていることなど、本来ありえないはずのことです。
 平安など本来ありえないような所にも、キリストは静かにそこにおられる、ほかのどんなものも共にいることはできないような特別な困難な状況、死が近いと思われるような状況のただなかであっても、イエスは私たちとともにいることができる。それは奇跡のようなことです。その奇跡を私たちに告げているのだと言えるのです。
 このような状況のもとでも静かに眠っている主イエスのことを書き記したこの福音書の著者(マタイ)は、常識では想像できないイエスの眠りということのなかに、表面だけの意味とは違った意味をこめていたというのがうかがえます。
 いかに激しいこの世の動乱の状況のなかでも、主イエスはそこにおられる、平安をもってそこにおられる。弟子たちには気付かなかったけれども、恐れと不安のただなかですら、キリストは神の平安をもってともにいて下さるということをはっきりと示そうとしているのです。

 弟子たちは、そのような生きるか死ぬかという瀬戸際に置かれて、できることはただ一つそれは主に向かって叫ぶことでした。

 主よ、助けて下さい、死にそうだ!
 この単純な叫びを主に向かって言うことができるというところに、神を信じる者の幸いがあります。神を知らない人は、困難のとき苦しみのときに叫ぶ相手を持つことができずに助けを求めることができないのです。
 こうした必死の叫びには必ず主は答えて下さる。いかに沈黙しているように見えても私たちがあきらめない限り不思議な助けを与えられるか、主からの平安が与えられる。
 それをつぎの言葉は示しています。
主イエスは言われた、「なぜ、怖がるのか。信仰の小さい者たちよ。」そして、起きあがって風と海(湖)を叱ると、大いなる静けさになった。
 主イエスがひとたび命じるなら、荒れ狂っていた風も海も静まる、それはいかにイエスの言葉すなわち神の言葉が力を持っているかを示しています。神の言葉こそは、万物を創造していく力であったのです。イエスは神の言そのものであったゆえにこのような自然をも制する力を持っていたのがわかります。
 ここで与えられたのは、「大なる静けさ」です。そしてこれこそは、主イエスが最後の晩餐のときに弟子たちに与えると約束した「主の平安」だったのです。
 嵐の中にあっても、イエスがともにいて下さることは、奇跡のような恵みであり、そうした守りがあるにもかかわらず、弟子たち(キリストを信じる人たちも含めて)はその事実を信じることができずに、恐れおののいている、そうした弟子たちをたえず励まし、導きつつ主イエスは弟子たちとともに歩んで行かれるのだということなのです。

 以上のような内容をもったこの箇所は、二千年のキリスト教の歴史において無数の人たちによって深く体験され、受け継がれてきました。現代に生きる私たちにおいても、つねにここで象徴的に示されているような「波」や、「嵐、動揺」があります。事故や病気、家庭や職場など人間関係の複雑さ、また世界のいたるところにやはり動揺、混乱があります。
 そうした闇のなかに生きる人間に対して本当の助けと平安はどこにあるのか、それをこの箇所は指し示しているのです。
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