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目の中の丸太に気付くこと  2000-1  -009-4

「人を裁くな。あなた方も裁かれないためである。
 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。(マタイ福音書七・3ー5)

 初めてこの箇所を読む人は、なぜ主イエスはこのような途方もないようなたとえを言ったのだろうかといぶかしく思うのではないでしょうか。あまりにも、このたとえは極端ではないか、と多くの人々は感じるはずです。私自身も、以前は、何となくこのたとえは誇張しすぎているように思っていたものです。
 しかし、この「自分の目にある丸太」とは、自分の心がどんなに神の前に重い罪があるかを知ることだったのです。
 パウロが自分のことを死のからだであり、罪人の頭であるとまで言うほどに、自分の罪を深く感じていたこと、ペテロも主を三度も裏切るような者であったことを、じっさいに体験して初めて自分のうちに、大きな丸太のようなものがあるとわかってきたと言えます。そうしたことを知ることが「自分の目の中にある丸太に気付く」ということなのだとわかってきました。
 他人の目のなかのチリ(欠点や罪)を見つけるのは、信仰のあるなしに関わらず、また子供であれ、老人であれだれでも簡単にできます。
 例えば、小学校で、差別する先生がいたとすると、そのような教師にはたとえ小学低学年であっても敏感に見抜くことができます。これは、他人の目にあるチリに気付くことは、どんな人でも簡単にできるということを表しています。
 それは、他人の罪については人間は直感的に見抜く力がほとんどだれにもあるからです。
 しかし、自分のなかにとてつもない大きい丸太(罪)があるということは、自然のままの人間には決して考えることすらできないし、どんなに学校で勉強を重ねても自分の罪に気付くようにはならないばかりか、かえって自分が罪をおかしたら、それを他人のせいにするということが多いのです。それは神を信じて、神の無限の愛や清さ、真実を体験して初めてできることです。
 もし、自分のなかに大きい丸太を見ることができたなら、私たちは他の人の欠点や罪を見てもそれを見下したりすることはなくなるでありましょうし、逆にそのことを祈るようになると考えられます。
 マタイ福音書十八章にあるタラントのたとえは、この丸太のことを別の表現で表しているといえます。
 その内容をおおまかに言えば、主君に対して、数千億円ともなる膨大な借金のある人がいました。それはもちろん一生働いても返せない金額でしたが、自分も妻も持ち物もみんな売って返済しますといって赦してくれるよう懇願しました。
 その必死になって頼むすがたに主君は哀れに思って、その途方もない借金を帳消しにしてやりました。
 しかし、その赦してもらった人は、自分にわずかの借金をしていた人をきびしく取り立てて、牢に入れてしまったのです。しかし、そのことを主君は見ていました。自分の莫大な借金を払わないで、赦してもらったにもかかわらず、自分にその五十万分の一の借金のあった人を厳しくとがめ、赦さなかったので牢に入れられてしまったというたとえです。
「このたとえで言われている膨大な借金とは、一万タラントと言われており、当時のヘロデ王の全年収が九百タラントであり、ガリラヤからベレヤまでの税収が合計でも二百タラントであったことを考えると、この金額は一つの属州全体の管理者にとってすらもほとんど考えることのできない莫大な額であることが明白となる。人がそもそも考え得る最大の数と、近東の地域での最大の金額が用いられているのである。」と、ある外国の有名な注解は説明しています。
 このような途方もない金額を、借金することはもちろんふつうではありえないことですが、主イエスは私たちが神に対して持っている罪の深さ、大きさが計り知れないということを示すために、このようなたとえを用いたのです。
 それほどの大きい罪だからこそ、ここでは目のなかにある「丸太」とたとえているわけです。たしかに私たちがそんな考えられないほどの罪を持っているのに、他人の罪ばかり見てとがめだてするというのは実に矛盾したことになります。
 この罪を処理しなければ、他人の罪についてもどうすることもできないというのはごく自然な指摘だといえます。
 ここで言われているように、私たちの罪を処理することは自分では不可能であり、それゆえに、主イエスがその私たちの罪を担って下さり、十字架で死ぬことによって帳消しにして下さったのでした。そのことを信じて初めて、私たちは自分の目にある「丸太」を取り除くことができるわけです。
 この罪の赦しを与えられ、それがどんなに大きいかを知って初めて、他者の罪についても、単に見下して裁くのでなく、その人のために祈るように導かれます。その人が自分の罪に気付き、主イエスによる罪の赦しを受けるようにとの願いになるわけです。
 私たちが他の人間とかかわるとき、無関心か、裁くか、祈りをもってするかの二つだと言えます。
 以上のように、この主イエスのたとえは、単に、「他人の欠点を言うより自分の欠点を直せ」といった通俗的な教訓を述べているのではないのであって、キリスト教の根本である十字架による罪のあがない、罪の赦しを指し示しているのだとわかるのです。
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