リストボタン愛と時間    2003/3

 愛とは時間をかけることである。ふつうの人間的な愛で愛しているものにも、時間を注ぐ。心でいつも思うということは、いつも時間をそのためにかけているということである。
 何かを、私たちが愛しているかどうか知りたかったら、そのためどれほど時間をかけているかを見ればわかる。
 主イエスは、夜を徹して祈られた。それは神からの力を受けるため、そしてその神の力によって周囲の人間のために祈りを注いだからであった。
 愛はまた祈りと結びついている。私たちが神の愛をもって、ある人を本当に愛しているときには、絶えず祈る心で見つめることになる。祈る時間を持たないということは、愛する程度が少ないということになる。
 神を愛し、人を愛せよと言われた。自然のままの人間は、自分のために時間を使う。自分だけを愛しているからである。そうした本性から脱して、自分の外側にある存在、神と他者に心のエネルギーを注げと言われている。
 神に心を注ぐとき、私たちはたしかに力を受け、平安を与えられる。たとえそのような力や平安がすぐに与えられないような時でも、あきらめないで神に心を向け続けているとき、時がくると新しい力が与えられる。さらに不思議なことが生じたり、必要な人との出会いが与えられたりする。
 老年や病気になると、ふつうの仕事はできなくなる。しかし、時間が与えられる。それはまず病気がはやく治るための休養のためであるが、それはまた他者への祈りのためにも与えられているのだと言えよう。
 今から七〇年ほどまえに始まった「祈の友」という集まりが、いまも続いている。それはもともと結核の重症患者から生まれたもので、病気が重くてふつうの仕事はできなくとも、隣の病棟の病者のために祈ることができるということから始まったのであったのも、病気が祈りの時間を与えるものだということを思い起こさせる。
 神への愛のために時間を用い、人に対しても神から受けた愛をもって時間を用いること、そこに祝福がある。区切り線
音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。