リストボタン聖書の示す幸い    2003/9

幸いとはどんなことか、それには多くの意見があるし、千差万別である。だれでもすぐに思い浮かべるのは、健康であり、お金であり、また家族の愛、安定した仕事、といったことだろう。それらは、子供から老人まで、おそらく圧倒的多数の人たちが思い浮かべることだと思われる。
じっさい、健康でなかったら、絶えず体に痛みや苦しみが続いていたら幸いだというような感情は到底生まれないだろう。その痛みがひどければひどいほど、日夜その苦しみでさいなまれるからである。
その苦しみを取り去ってほしい、何とかしてその痛みから抜け出したいという気持ちでいっぱいになり、他のことは思わないほどになるだろう。
家族の不和で悩むときには、それは日夜忘れることもできない。職場の問題ならそこを離れるときにはまだしもその重荷は軽くなる。しかし家庭の問題は深刻になるほど他人に話すこともできず、話してもどうにもならず、日夜忘れることはできないだろう。
それゆえ、家族が平和で暮らしているということもだれにとっても無条件的に幸いだと感じ、それを願うことになる。

こうしたわかりやすい幸いは不思議なほどに聖書では書かれていない。それは驚くべきことである。幸いなことという、だれにとっても当たり前と思われていることが、聖書では想像もできないような内容で示されているからである。

次の旧約聖書の詩編三十二編に表されている幸いということは、こうした聖書の見方をはっきりと示す箇所の一つである。(以下の詩編の訳文は、現代の各種外国語訳も参照して、現代の日本語としてすぐに分かる表現にした箇所がある。)

いかに幸いなことか。
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は!
いかに幸いなことか。
主に咎(とが)を数えられず、心にいつわりのない人は!(旧約聖書 詩編三十二・12

人間の幸いの最も根源的な内容は、人間の精神の最も奥深いところにある。もし、人の心の意識していないほどの奥底で、真実に反した思いや考えが潜んでいるとき、それはどこかで必ず現れるであろう。自分中心に考え、自分のことを第一にしてしまう言動となって現れる。そこから他人が自分を損なうようなことをしたらそれに怒り、不満や憎しみを感じたり、見下したりする。そうしたところには静かな平安はない。揺るがない心の平和はない。私たちの内から、いのちの水というべきものが溢れ出てくるには、私たちの魂の根源にて清められていなければならない。そこが濁っていたら、その濁りはつねに私たちの思いや行動に現れてきて、平安を乱すことになる。
聖書はこうした真理を深く見抜いている。それゆえに人間の魂の根底が清められることを第一に置いている。
この詩は、そうした作者の気持ちが数千年という時間を超えて伝わってくる。
本当の幸いとは、真実そのものであられる神に背く本性(罪)が変えられることだと知っていたのである。そのために、その罪が赦される(*)ことを幸いの根底にあることだと見抜いていた。
 この詩の冒頭にある、「いかに、幸いなことか!」と訳された原語は、アシュレーという言葉で、この言葉は、詩編全体のタイトルともなっている第一編の最初にも置かれている。詩編はこのアシュレーという言葉を全体のタイトルとしているとも言えるのであって、これは、「ああ!」とか、「おお!」のような感嘆詞の仲間で、「なんと幸いなことか!」という感動を表す表現である。
 この表現は、旧約聖書全体では、四十回ほど現れるが、詩編だけで、二十八回現れる。詩とは本来感動から生まれるものであるから、この言葉が多く用いられているのも当然であろう。詩編とは、ほかの国々の詩集にみられるような、たんに人間的な感情を表現したものでなく、神への信仰の中から生まれた深い感動が中心となっている。

*)「(背きを)赦され」と訳されている原語(ナーサー)は、「上げる、取り去る、運ぶ」といった意味がもとの意味で、そこから罪を取り去る罪を「赦す」という意味にも用いられている。「わたしは手を天に上げて誓う。『わたしの永遠の命にかけて」(申命記三十二・40)において、「(手を)上げる」と訳されている原語が、ナーサーである。

私たちの心の奥にある、汚れや自分中心の本性、そうしたものが、取り去られるということは、人間のあらゆる幸いの根底を与えてくれることなのである。
私たちが、この詩がわからないというとき、それはこの詩が最も重要視している罪の重さということが、わからないからだと言えよう。それを深く感じるほどに、この詩が言おうとしていることが人間の根本問題なのだと感じられてくる。
私たちが、夕日や広大な海や、山々の美しさ、あるいは植物のさまざまの姿など、自然の世界に触れるとき、人間に触れるのとはどこか大きくことなったある感じ、または安らぎを感じるのは、それらが、罪というものを持っていないからである。
罪を取り去る、あるいは、罪を覆うという表現には、神は私たちのさまざまのよくないところをあえて見ようとせず、それが清められ、それを取り去ることに心を尽くして下さっているのを感じる。人間はその逆が多い。よいところがあっても、それが見えず、かえってよくないところを見ようとする。そこからさまざまの紛糾が生じてくる。

私は、罪を告白しなかった。そのため、私は苦しくて、一日中叫び続けて疲れ果ててしまった。(*
昼も夜もあなたは私を罰し続けられた。
私の力はまったくなくなってしまった。
あたかも、夏の暑さによって水分が渇ききってしまうように。
そうした苦しみの後に、ようやく私は罪を告白した。
私は自分の悪しきことを隠さなかった。
罪をあなたに告白しようと思いを定めた。
そのとき、あなたはあらゆる私の罪を赦して下さった。

*)この箇所は、新共同訳などの邦訳では「絶え間ない嘆きに骨まで朽ち果てた」というような訳文となっている。しかし、骨まで朽ち果てるというのは、地中に埋めた骨が長い年月によってくち果てるというような場合しか使われない表現であり、「嘆きによって骨までくち果てる」などということはあまりにも、誇張した表現と感じられる。数千年前のヘブライ人がこうした表現を使っていたとしても、現代の言葉としては意味不明になる。そのため、外国語訳にもよりわかりやすい表現にしてあるのもいろいろある。(RSV,NRSV,TEV,Living Bible,Einheits Ubersetzung,Truduction Oecumenique de la Bibleなど)下はその例であり、ここでの邦訳はその英語訳に従った。 When I did not confess my sins, I was worn out from crying all day long.
Day and night you punished me, Lord; my strength was completely drained, as moisture is dried up by the summer heat.
Then I confessed my sins to you; I did not conceal my wrongdoings. I decided to confess them to you, and you forgave all my sins.
Today's English Version

自分に罪がないとして、自分が正しいのだと考えている間は、苦しみはなくなることがない。自分が正しい、という感じ方は、他者が間違っているとかそのゆえに、見下したりする。そうした間は、自分の罪は分からず、なぜ苦しいのかもわからない。しかし、時がきて自らの罪に気づき、そこからその罪の深さを知らされたとき、初めてそのどうすることもできない心の奥底にある罪を取り去って頂きたいと願うことになる。
他者の罪でなく、自分の罪に気付くこと、そこから私たちの本当の歩みが始まり、揺るがない幸いへの出発点となる。そのようにして神に罪を告白するとき、神は意外にもそうした長い間気付かなかった罪であるにもかかわらず、それらをすべて取り除き、それらをあえて見ないようにしてくださる。
ひとたび人間の根源の問題にまで下って行った者は、あらゆる表面的な幸いとは異なる幸いがそこにあるのに気付く。それが、この罪の赦しということなのである。

このようにして罪に気づき、その罪を赦された者は、強固な精神的な基盤を持つことになる。罪赦されるということは、神との結びつきが与えられるということであり、それは神の力が注がれることになる。ひとたびこの罪の赦しを経験した者は、人生の困難において、祈りという力の秘密を知らされたのである。
しかし、もし罪を認めず、自分を正しいとするかぎり、神との結びつきが回復されず、神からの力もまた注がれない。
私たちの力の根源とは、生まれつきの意志の強固さや決断力でもなく、また人生経験が多いということでもなく、読んだ書物の多さでもない。それは健康、病者、年齢や民族の違いとか時代などあらゆることとは違った、すべての人間の内部にある罪に気づき、それを赦されるということなのである。
ここに聖書の中心があるゆえに、パウロもその代表的な手紙でこの詩を引用している。

同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえている。
「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。
主から罪があると見なされない人は、幸いである。」(ローマの信徒への手紙四・68

そして、宗教改革者として広く知られている、ルターもまた、この詩をすべての詩編のなかで最もすぐれているいくつかの一つだといった。(ルターの卓上語録より)
 それらは、とくにパウロの手紙にはっきりと記されている、信仰による救い、罪の赦しの幸いを強調している詩であり、その第一にこの詩編32編をあげ、さらに51編、130編、143編をあげたという。(**

**)この詩はまた、アウグスチヌスが特別に愛した詩でもあり、彼の最後の病のときに、そのベッドの向かい合った壁にこの詩を書かせたという。 そしてこの詩は、古代のキリスト教会によって、七つの悔い改めの詩とされた中にも含まれている。ドイツの有名な旧約聖書注解(ATD)では、つぎのようにこの詩について述べている。
「この詩は神から逃れることのできない人間が自分の良心の苦闘と苦難について証しした詩のなかでは、その経験の直接的な力によって、最も力強いものの一つになっている。良心とはいかなるものであるかを感得させてくれる迫真の描写のうちに、この詩の特質と永続的な価値とが秘められている。」
 また、十九世紀の世界的な大説教家であった、スパージョンは、詩編に関して全三巻千五百ページにもなる書物(THE TREASURY OF DAVID )を書いたが、その注解において、この三十二編を、「すばらしく福音的 gloriously evangelic」と評している。


あなたの慈しみに生きる人は皆、
あなたを見いだした時、あなたに祈るべきなのである。
そうすれば、大水が溢れ流れるときにも
その人に及ぶことは決してない。
あなたこそ、わが隠れ場。
苦難から守ってくださる方。
救いの喜びをもって、わたしを取り囲んでくださる。

罪を知り、その赦しを与えられて初めて、人は神との結びつきを与えられる。そして祈りによってその近くに感じられる神と語り、神からの力を与えられるようにと絶えず祈ることができるようになる。祈りの道がそこから開けてくる。
そうして困難のときに絶えず祈ることを忘れない者は、この世の大波が襲ってきても、打ち倒されない力を与えられる。罪赦されることからこのような生きた隠れ場を与えられ、安らぎの場が与えられる。こうして、かつては苦しみと他者への怒りや不満があり、世界もそうした暗いもので満ちていると感じていたのであるが、ここに至って、「救いの喜びをもって、私を取り囲んで下さっている」とまで、実感するようになる。
この作者は最初は、自分の内なる力がことごとく夏の太陽で水分が渇ききってしまうように、失せてしまったとの実感があった。なんと大きい変化であろうか。至るところ、砂漠の大地のように、渇ききっていのちも失われている世界から、神の慈しみが取り囲むと感じるほどにうるおいに満ちていると感じるのだから。
こうしたゆたかな神の恵みに目覚めた体験は、有名な詩編二十三編でもうかがうことができる。

主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。(詩編二十三編より)

この最後のところにある、「恵みと慈しみは私をいつも、追いかけてくる」という言葉は、いかにこの作者がゆたかな恵みを実感していたかがうかがえるものとなっている。かつては必死になって神の恵みや慈しみを求めても得られなかったのに、今では神の恵みや慈しみの方が私を追いかけてくるほどに、もはや神の恵みは失われることのない生活へと変えられたというのである。
神の慈しみが取り囲み、あるいは、追いかけてくるという、特別な表現は、神を信じる者の生活がどのようなところへと続いているかを指し示すものとなっている。御国への道、それはこのような祝福の道なのである。

神に逆らう者は悩みが多く
主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
神に従う人よ、主によって喜び躍れ。
すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

この詩の最後の部分で、再びこの作者は自分を取り囲む神の大いなる慈しみを強調し、そこからおのずから神への讃美となっている。神を讃美することこそ、人間の究極的な目的なのである。
私たちは、旧約聖書の詩の世界に触れることによって、神がどのような高さと深さにまで、私たちを導こうとされているかがうかがえる。あたかも彼方の、雪をいただいた高い峰を仰ぐように、私たちはこうした詩編に記されている世界を望み見る。今はそうした状況にはほど遠くても神はそのような祝福に取り囲まれた世界へと導いて下さると信じ、確たる希望を持つことができる。そうした希望はすでに与えられたと同様な喜ばしい気持ちにさせてくれるものである。そしてどうかそうした慈しみが取り囲む世界へと私たちを導きたまえと祈り願うようになる。

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