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    創世記に見るユダのすがた
   2004/4

旧約聖書にあらわれるユダとは、アブラハムの子孫の一人である。(*)ユダヤ人という名前のもとになった人物であり、キリストも十二弟子や使徒パウロもユダヤ人であった。そして彼らの行動や神から受けた言葉を書いた新約聖書は旧約聖書とともに全世界に広がっていった。そして全世界に今もその影響を及ぼし続けている。
そのユダというのはどのような人物であったのか、創世記を通して学んでみたい。

*)アブラハムの子がイサク、そのイサクの子がヤコブであり、そのヤコブの子供のうちの一人がユダである。キリストを裏切ったユダというのが知られているが、そのユダよりも千数百年昔の人物である。ユダという名は、聖書においては、ヤーダー(感謝する、讃美する)という語と関連があるとされ「主を讃美する」という意味と説明されている。(創世記二九・35

旧約聖書の巻頭の書、創世記におけるユダに関する最初の記述は、弟ヨセフが見た特別な夢に怒り、自分たちがあたかもヨセフにひざまずくような内容であったため、またヨセフの父親からも年寄り子ということで、特別に大事にされていたことから、強くねたむようになって、ほかの兄弟たちとともにヨセフをひどい目に合わせようとした。他の兄弟たちはヨセフを殺そうとしたが、「そんなことをしても何の得にもならない、外国人に売ろう」と提案し、通り掛かった外国人に売ってしまうことにしたのであった。(創世記三十七章)
このように、ユダの最初の記述は人間として何にも優れたところのない人間、ねたみゆえに弟をすら外国人に売ってしまうような人間として記されている。
つぎの記述は、彼の結婚と家庭についてである。ユダの子供は何人も生れた。長男の嫁はタマルという名であった。しかし、長男は罪のゆえに神に罰せられて死んだ。当時は長男が子供が生れないで死んだときには、次男と結婚して子供をつくり、長男の子として扱うということになっていたから、タマルは次男と結婚した。しかし次男は自分の子にならないのを知っていたので、子供が生れないようにした。そのような態度は神のご意志に背くことであったために、次男も亡くなった。こうしてタマルという女性は結婚した二人の夫に次々と死なれてしまった。
ユダは、自分の長男や次男もタマルと結婚したらつぎつぎと死んでしまったので、三男をタマルに与えるのを恐れた。内心は三男とは結婚させないつもりでいたのに、結婚させるようなことを言って、三男が成人するまでタマルには実家に帰っているようにと言った。
かなりの年月が経った。その間タマルはずっと三男と結婚して子供をつくることを待ち望んでいた。しかし義父であるユダはそのことを放置したままにしてあった。
そしてユダの妻が死んだとき、タマルは義父のユダが近くにやってくるのを知った。彼女は、妻を失った義父によって、子をもうけようとしたのである。
タマルは未亡人を示す着物を脱ぎ、ベールをかぶって身なりを変え、ヤコブを待ち受けた。三男が成人したのに、自分がその妻にしてもらえない、と分かっていたからである。
ユダは彼女を見て、顔を隠しているので娼婦だと思った。ユダは妻を亡くした後の淋しさからか、嫁のタマルだとは気付かず、タマルを求めて関係を持った。そのとき、タマルは、自分と関係を持つなら何を報酬としてくれるのかと求めた。ユダは、小羊をやろうといい、その保証としてタマルの求めるままに、自分の印章と杖を与えた。
ユダはそれを渡し、彼女の所に入った。彼女はこうして、ユダによって身ごもった。
数カ月経って、ユダは嫁のタマルが何者か男と関係をもって妊娠したということを知らされた。
ユダは激しく怒って言った。「あの女を引きずり出して、焼き殺してしまえ。」
ところが、引きずり出されようとしたとき、タマルは義父のユダに使いをやって言った。「わたしは、この品々の持ち主によって身ごもったのです。」彼女は続けて言った。「どうか、このひもの付いた印章とこの杖とが、どなたのものか、お調べください。」
ユダは調べて言った。「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を三男に与えなかったからだ。」(創世記三十八章より)

この章は、ほとんどの人にとって読んで心の休まるとか励まされると感じる箇所ではないだろうと思われる。ここに現れるのは、世継ぎという重要なことにおいて、結婚したのに人為的に子供をつくらないようにした次男、そして、やはり重要なことにおいて約束を破ったユダ、そのユダはさらに、道端で出会った女が娼婦だとおもって、その娼婦と交わった。これは非常に罪深いことである。
しかし、ここではタマルの真剣な、そして大胆な行動が特に目を引く。ここに書かれているようなことをすれば、彼女の希望通りにいかないことは十分にあり得ることであった。彼女は、もはや自分には夫が与えられないと知ったとき、じっと手をこまねいて悲しんだり、憎んだりしてはいなかった。普通ならこのいずれかになるだろう。
彼女は、全く異なる方法、だれもが考えることもしないようなことを考え出した。それは、神殿娼婦のようになってユダを誘い込むことであった。
タマルはもしも失敗したら、自分は焼殺される、または致命的な悪評がたって、生きていけなくなるのいずれかとなってしまう。万一そのようになってもタマルは構わないと考えたようである。
ユダは、嫁のタマルに、三男が成人するまで、自分の実家(両親のところ)に帰っていなさいと言って、三男が成人すればタマルをその妻にする予定を告げていたにもかかわらず、その約束を守らずに放置しておいた。タマルは、三男が成人するまでの何年もの間、待ち続けたが全く顧みられなかった。それでは自分はこのままくち果てていくしかないと思った。現代なら、言葉で抗議するであろうが、このような古代においては、出された嫁が義父に対して約束不履行だといって抗議することなどできないことであったと考えられる。
それゆえ、タマルはこのまま老齢化して、子供をつくれずに空しく死んでいき、神から託されたものを受け継ぐことなしに死んでしまうのか、それともすべてをかけて子供を得るために自分に与えられた機会を用いようとするのかの二者択一に迫られた。そしてタマルは後者を決断したのである。
こうした、必死の思いというのはかなえられる。この旧約聖書に記されていることは、三千数百年も昔のはるかな古代のことであり、タマルがとった手段そのものはもちろん現代にはとてもあてはまるものではない。しかし、なぜ聖書はこのような記事をあえて載せているのであろうか。
それは、タマルのように真剣にすべてをかけて求めるその心の激しさを、私たちに示しているのが感じられる。主イエスも、求めよ、さらば与えられる、と約束された。神の国を求める熱心が現代のキリスト者に最も求められていることである。
このタマルの例だけでなく、旧約聖書には、ラハブとハンナという二人の女性の例がある。いずれも今から三〇〇〇年以上昔の人であるが、その真剣な願いが主によって聞かれたのである。
ラハブは遊女であったが、神の僕であったヨシュアの率いるイスラエルの人たちが自分の町に入ってくることを知って、命がけで彼らを守ったのである。その町の人たちはすでに、モーセに率いられた人々が、彼らの信じる神の力によって、大国エジプトの軍の攻撃に対して、葦の海の水を干上がらせて軍を滅ぼし、民を導いたことなどを聞いて知っていた。
しかし、ヨシュアや彼とともに進んでくる民に敵対し、彼らの信じる唯一の神を信じようとしなかった。そのようなかたくなな民族のうちにあって不思議なことであるが、遊女という卑しめられた立場にあった一人の女が、ヨシュアやその人々の信じる神を信じたのであった。そして失敗すれば自分が殺されるという危険をも顧みず、神につく選択をしたのであった。そのことが、神の大いなる祝福を受けて、キリストの先祖の一人となったのである。
まず、神の国と神の義を求めよ、という主イエスの言葉は、そのように求めていくとき、どのような困難からも救い出される、死という最大の危険からも救われて永遠の命を与えられるということである。
そしてこのような唯一の神を見出すこと、その神への信仰は、だれもが予想できない人に与えられる、そこに人間の予想をはるかに超えた神のご計画があり、神の御手が働くということも暗示されている。
また、ラハブよりも後の時代に現れたハンナ(*)という女性も重要である。
当時は一夫多妻は許されていたときであり、ハンナの夫は、もう一人の妻を持っていた。その妻は子を生んで、ハンナを見下し、苦しめた。その苦しみと悲しみの中から、ハンナは神の宮に行ったときに、必死になって長時間心を集中して祈り続けた。子供を与えられるのなら、自分のものとせず、神に生涯を捧げる子供にしますと言って神に叫び続けたのである。
そばにいた祭司が酒に酔っているのかとまちがったほどであった。しかし彼女の思いのすべてを神への祈りに注いでいるその真剣さに祭司も彼女を祝福して、そこからハンナは子供を生むことになった。そしてその子供が偉大な預言者サムエルであった。彼の名前が、旧約聖書のサムエル記につけられている。そしてそのサムエルは、イスラエルの最初の王、サウルを王となすべく聖なる香油を注いだ。さらに、サウルが神から退けられた後、ダビデに香油を注いで王としての権威を与える人物となった。(サムエル記上十章、十五章)
このようにして、ハンナの悲しみの中からの真剣な祈りは後の歴史においてきわめて重要な人物を生み出していくのにつながっていったのである。
このように、この創世記のタマルやラハブ、そしてハンナという地位が高くもない、ただの女性がその命がけの決断や祈りによって、大いなることが起きるように神はなされた。タマルやラハブのことは、新約聖書の最初の書物である、マタイ福音書の冒頭にその名が記され、この女性たちの意義が歴史に刻まれていることを指し示している。
そしてこのような内容は、現代に生きる私たちにとっても暗示的である。
いかに地位もなく、また見下されている存在であり、とるに足らないと思われる者であっても、真実な祈りやただひとすじに神に求める心があるとき、神はそのような心を覚え、祝福してくださるということである。神の祝福には外見的な力、権力、富などは何の関わりもない。主イエスの、「貧しき者、悲しむ者は幸いだ!」という言葉の意味が、こうしたタマルやハンナの姿を見てもうかがえる。

*)ハンナとは、「恵む」または「憐れむ」という意味のヘブル語(ハーナン)から作られた人名。これにヤハウエという唯一の神の名の省略形(ヤーとかヨという語になる)が合わさると、ヨ・ハナン「ヤハウエは、恵み(憐れみ)である」という意味になる。ヨハネという名前はこのギリシャ語形。新約聖書に現れるキリストの弟子に、ヨハネがいたことで、世界的にこの名が広く用いられることになった。英語では、ジョン(John)、ドイツ語では、ヨハン(Johann)とかヨハンナ、ヨハンネス、フランス語では、ジャン(Jean)などという人名となって刻まれている。

タマルは命をかけた決断をしたがもしも、証拠となる印章を持っていなかったら、義父によって処刑されていたのであった。そのようなユダ自身、大きい罪を犯しているのがこの三十八章だけでもわかる。
しかし、彼は自分で、焼き殺せとまで命じた女が、自分よりも正しいと率直に認めたところに、救いがあった。多くの人の前で、自分が恥ずべきことをしたのが、さらけ出される。ふつうなら、自分はそんなことをしていないともみ消したり、あるいは、その印章は、自分が落としたのだとかいって罪を認めなかったら、ユダはのちに書かれたようには決してならなかったであろう。
犯した罪を認めること、それがきわめて重要であるということが、創世記のこうした記述のなかにも示されている。
ユダについては、つぎに現れる内容は、弟ヨセフとの関連である。
ヨセフがエジプトに売られていった後に、さまざまの不思議ないきさつを通り、神の守りと祝福によってエジプトの王に次ぐ総理大臣といったような高い地位につくことになった。そしてヤコブや子供たちは飢饉で苦しみ、そのためにカナン(今のパレスチナ地方)の地から
エジプトまで行って食物を購入に出た。そのときにかつて自分たちが売り渡して、父のヤコブは死んだと偽っていた弟のヨセフがエジプトの最高権力者となっているのを知らずに、出会った。そのとき、ヨセフは兄たちが昔のように兄弟を売り渡したりするような心を持っていないかどうか、正しい人間になっているかどうかを試すために、計画をたて、ヤコブの末っ子のベニヤミンを連れてくるようにと命じた。そうでなければ、再び会うことを許さないとして、カナンに帰した。
ヤコブの息子たちはエジプトから持ち帰った穀物を食べ尽くしたとき、どうしても再びエジプトに行って、穀物を購入しなければならなくなった。しかし、それには、ヨセフが命じたように、末っ子のベニヤミンを連れて行くのでなかったら、穀物を再び購入もできないのである。そのとき、ユダは父のヤコブが、非常に苦しみ悲しむのを見てこう言った。

あのベニヤミンのことは私が保証します。その責任を私に負わせて下さい。もし、あの子をお父さんのもとに連れ帰ることができなかったら、私が生涯その罪を負い続けます。

こう言って、父親を慰め、多くの兄弟がいたが自らが全責任を持つからと、ベニヤミンを連れてエジプトに出発することになった。
エジプトに着いて穀物を多く持って帰途についたが、思いがけずベニヤミンの袋のなかに、宰相ヨセフの使っている銀の杯が見つかり、盗みだと疑われた。ただちに引き返して尋問されることになった。
そのとき、兄弟たちの中からユダが深い悲しみをたたえて宰相のヨセフに言った。

「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」(創世記四十四・16

この言葉のなかに、かつて自分たちが兄弟であるヨセフを殺そうとし、売り渡すことまでしたこと、そして父にはヨセフが野獣にかまれて死んだと偽って、おおきな悲しみを与えていたことなど、はるか昔の罪がよみがえり、その罪のゆえにこうした苦しみに会うのだと思い知らされたのである。
ここに、ユダの特質として、罪の認識が示されている。これはたしかに聖書の特徴であって、人間が真実であるかどうかは、自分の罪をどれほど自覚しそれを悔い改めようとしているかにかかっているとの見方が底流にある。
そしてヨセフは、さらに兄弟たちの心を試すために、他のものは帰り、ベニヤミンだけが奴隷となれと命じたのである。
このとき、再びユダは言った、
もしこの末っ子のベニヤミンを残して帰れば、父はこの子と深く結びついているから、あまりの衝撃に死んでしまうでしょう。それはわたしどもがそのように追いやったことになるのです。ですからどうかこのベニヤミンの代わりに、私を奴隷として残し、ほかの兄弟たちとベニヤミンを父のもとに帰らせて下さい。どうして私は父のもとに帰れましょうか。父に襲いかかる苦しみを見るに忍びないのです。」(四十四・3234より)

このように、ユダは全身全霊を注ぎだして宰相となっているヨセフに訴えた。自分が生涯奴隷となってもよい、その代わりどうかベニヤミンを帰らせ、父を苦しめないで下さいと、必死で願うユダの心には、かつての罪のためにこうなったのだと深く自覚している姿がある。
このように、罪を知り、深く悔い改めるという姿を、創世記ではとくに強調しているのがわかる。
ユダはもともとは最初に書いたように、兄弟を売り渡す計画に加わり、また、成人しても嫁のタマルのことで偽り、娼婦と交わるというような罪を犯した人物として描かれている。
それが、このように自らを犠牲として父を守り、父の最愛のベニヤミンをも守ろうとするように変化しているのには驚かされる。こうした深いところでの変化をもたらしたのは、彼の悔い改めにあったのである。
罪を知り、神に向き直ってその罪の赦しを求める心、それは過去のどのような罪をもぬぐうものであると言おうとしているのが分かる。
キリスト教の特質は新約聖書に入り、キリストが来られて完全に現れる。しかし、ここで見たような罪への悔い改めとそこに与えられる祝福ということは、すでに旧約聖書の最初の創世記からこのように記されているのである。
このようなユダの大きい変化があればこそ、創世記の終わりに近いところで、つぎのようにユダが特別に祝福された者といわれている。

ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。あなたの手は敵の首を押さえ
父の子たちはあなたを伏し拝む。
ユダは獅子の子。
王権はユダから離れず
統治の杖は足の間から離れない。
ついに、諸国の民は彼に従う。(創世記四九・810より)

これは、不思議な驚くべき預言である。これが言われたときから数百年も後に、実際にダビデ王がユダの子孫から現れることになって、多くの周辺の国々がダビデの王権に服することになった。
それだけではない。新約聖書にはこの箇所はキリストをも預言するものだと受け止められている。

ユダ部族から出た獅子、ダビデのひこばえ(*)が勝利を得た(黙示録五・5

とあり、キリストのことをこの創世記の箇所で「獅子の子」と書かれてあるのを引用してある。

*)ひこばえとは、切った草木の根や株から出る新しい芽のことで、キリストはダビデの子孫であることを示す言葉。

そしてユダの子孫からキリストが生まれ、たしかにキリストは、王としての権威を持って、霊的に現在も支配されている。ユダというただの人間、大きなあやまちを犯し、罪深い人間であった者が、その罪を知って悔い改めるときには、大きな器として用いられることを示している。
今日の私たちにおいても、神の用いる器となること、それは自分の努力や生まれつきの能力とは異なる神の選びによるが、他方人間の側から見るなら、深い罪の認識とその悔い改めの心、赦しを感謝をもって深く受けとるところに祝福の源泉があると言えよう。
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