リストボタン証し人となる  2008/6

使徒言行録の最初の部分に記されていることは、全員が意志を一つにしてとか、話し合いをして今後のことをどうするか、どのように力を合わせて伝道するか、生活はどうするか、迫害にどう耐えていくか、ユダヤ人との戦いをどうするか、などなどではなかった。
そうしたこの世の考え方とは全くことなる道であった。それは、イエスの約束されたものを待ち望むということであり、集まって必死になって祈るという道なのである。そして与えられたのは、目には見えない力というべきものであった。それは単なる力でなく、愛や清さ、喜び、そして魂の平安など、あらゆるよいものを伴うような力なのである。
それは風のように突然吹いてくる。そしてその風を受けた者は変えられる。弟子たちも同様に変えられたのは、イエスの教えによってではなかった。その目を見張るような奇跡でもなかった。長年の難病がたちどころにいやされるといったすばらしい神のわざでもない。
それは、霊の風によってなのである。
その風を受けると、ただちに人は変る。何に変るのか。イエスの証人にである。イエスの証人とは何か、それはその人の存在が、主イエスの何かを感じさせるものとなるということである。主イエスは福音の言葉を持っておられた。それゆえイエスの証人となった者もまた、同様に福音の言葉を持っているだろう。主イエスは無差別的な愛、敵対する者に対しても愛をもっておられた。イエスの証人もまたそうした愛の一部を持つようになる。イエスは永遠である。イエスの証人もまた、永遠であり、死してもなお生きている。
誹謗中傷されても憎しみをもって返すことなく、つらいことも喜びも神からのものとして受け取っていくという心イエスの証人とはこうしたものを少しでも備えている人である。
そしてこのイエスの証人となることは、どのような人でも、また、いかなる状況にあっても可能である。スポーツや学問研究、また演劇や歌手、一般の職業などはまず健康でなかったらできない。寝たきりとなったらそれらはみなできなくなる。歌手という仕事は風邪をひいただけでたちまちできなくなる。だから、ある歌手が言っていたが、風邪をひいている人のところには決していかないとか、また別の歌手はつねにビタミンC剤を服用しているとか聞いたことがある。
イエスの証し人、それは健康であればそれなりにできるし、病気になっても健康なときにはできなかったような証しができる。重い病気やからだの障害のある人たちが、健康な人よりもイエスを証しする場合がある、ということは私たちが実際に経験することである。先頃徳島市で開催された、キリスト教(無教会)の全国集会でも多くのさまざまのからだのハンディのある方々がおられたが、その方々はそれぞれにイエスを証ししていることになったし、そのことが会全体がいっそうイエスの証しをすることになった。
またかつての激しい差別を受けたアメリカの奴隷たちも、ストー夫人の「アンクル・トムズ・キャビン」という名作にあったように、めざましいキリストの証し人となった人たちもいる。
あるいは、新約聖書にあるステパノのように、真理を述べたために石で撃ち殺されたが死ぬ前に天が開けてイエスが神の右に座しておられるのが啓示され、そのような神の啓示を受けて、周囲の憎しみにもえる人たちのために祈りを捧げつつ息を引き取った殉教者がいる。ステパノのようなひとは、以後の歴史にも数知れず生じてきたが、彼らこそ、一層のイエスの証人となり、新たなキリスト者を生み出す基ともなった。
いつでも、どこでも、だれにとっても可能な仕事、しかも最も重要な仕事、それがイエスの証人となることである。
そのために必要なこと、それは経験でも能力でもまた生まれつきや健康ですらない。それはただ、上よりの聖なる霊を受けることだけである。ただその一つが与えられるなら、だれでもが、「地の果てまで」、すなわちどのようなところにあっても、イエスの証し人という仕事ができるようになる。
それはいわゆる聖人のようになることとは違っている。神の持っておられる無差別的な愛、真実、汚れなき心、人間的な欲やねたみ等々がすべてなくなったような人、かつ不正に関していのちをかけた勇気を持っている等々がみんな備わっているといった人は、ごく少ないだろう。
パウロも憐れみを受けている者という意識を常にもっていた。神の憐れみなくば、私たちも容易に間違ったところに落ち込むだろう。
そのような土の器であっても、そうした弱い者をも用いて下さる、そして証し人として下さるというところに私たちは大きな感謝を覚える。


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