リストボタン成功と失敗    2008/6

この世では成功と失敗ということは、しばしば耳にする。とくにスポーツや事業でよく使われる。盗塁に成功とかベンチャー企業を起こしたが失敗したといったことはだれでもなじみ深い言葉であろう。
しかし、ひとたび、聖書の世界に入ると、新約聖書では広く使われている三種類の日本語訳聖書(新共同訳、新改訳、口語訳)においても、一度も成功という訳語はあらわれない。
私自身、信仰にかかわることで何かをして成功した、といった気持になったことはないし、そのような言葉を他人にも自分にも使った記憶がない。
なぜ新約聖書では、成功というようなどこにでも使われる言葉が見当たらないのだろうか。
成功とは「目的を達成すること」であるが、私たちの目的は神の国であり、神のご意志が成就することである。それが究極的な目的であるからこそ、日々の願い、祈りもそこに焦点が合わされている。
あらゆる状況の人にとって、またどんな時代や民族などに関わりなく、人間の究極的な願いは、真理そのものがこの世でなされますように、ということである。それは聖書の言葉でいえば、神のご意志がなりますように、御国が来ますように、という願い、祈りである。主の祈りとは、いつどんな時でも人間の願いとして最も高くて深い内容をもっているゆえに、主イエスがそのように祈れと、教えられたものである。
その第一と第二に置かれているのがこの祈りである。
御国が来ますように、それは神の御支配がなされますように、ということであり、御心が天に行われるように、地にも行われますように、というのは、神のご意志が地上でもなされますように、という祈りである。(*

*)この重要な祈りにおいて、「御心」とか「御旨」がなりますように、と訳されることも多いが、それでは感情的な心のように間違って受け取ることになりかねない。この主の祈りの「御心」の原語は、セレーマ thelema であり、意志を表す。英語訳では will となるが、各種の外国語訳もみな「意志」を表す語が使われている。

私たちの目的が人間的な評価とか、参加者の数など、みかけの状態を目的とするのでなく、神の国であり、神のご意志が成るように、とのことであるから、目的が達成されたかどうかは、その企画に神のご意志にかなったことであったかどうか、にかかっている。
そしてそのことは、ただ最終的には神のみが知ることである。
私たちは聖書によって神のご意志がどのようなものであるかを、詳しく知らされているゆえに、その聖書に記されている精神に少しでも合致するように計画をし、祈りを続ける。
そして聖書の精神とは、当然ながら知的レベルの高い人たちだけを集めるような精神であり得ないことは明らかであるし、主イエスご自身も心を注がれたのは、何らかの意味で苦しみにある人たち、闇にあって前に進めないような人たち、赦されない罪のゆえの苦しみ、あるいは肉体的な苦しみに置かれている人たち、例えば盲人、足の立たないような人、耳の聞こえないような人、また精神の病に陥っている人、長い病気に苦しむ人、貧しい人、差別をされている人等々であったことは、聖書を読めばすぐにわかる。
それは、特定の人々でなく、実は私たち人間はみんなそのような闇にあり、死んだといえる状況であることは、主イエスも使徒パウロもはっきりと述べているところである。
それゆえ、キリスト教にかかわることにおいて、「成功」(目的を達成する)とは、そうした闇にある人たちのところに光がもたらされることにある。
そしてその場合、表面に見える参加者の数などでなく、本当に苦しみにあった人、揺らいでいた人が確かな確信を与えられ、み言葉を受けるということである。
主イエスは、九十九匹の羊をおいて、たった一匹の見失われた羊を探し求めていく心を、神の心とされた。それは、たった一人の人が本当に救いを受けることができたなら、その集まりは主の目的を達成したのであり、「成功」したということなのである。
しかし、多くの人たちが集まっても、単に頭のよい人たちの理解や知識が増やされた、といったことでは、主イエスのご意志にそぐわなかったことであり、そのようなことを目的とすることは聖書にはまったく記されていないことである。
また、何か多数が集まり、娯楽的なことをして、楽しかった、といって帰ってもそれは闇に光が臨んだということとは何の関係もない。一時的に苦しみを忘れさせただけであって、そのあとはいっそう闇が深まってしまうことにさえなりかねない。
聖書の巻頭に、闇と混沌があってそこに神が光あれ! と言われたことによって光が存在するようになった。これは神のご意志をひと言で凝縮したものである。キリスト者としての私たちのなすことはみな、このご意志に沿ったものでありたいと願う。私たちはそのように祈り、主が導いて下さることを願う。
そしてどのようなことになろうとも、たとえ表面的にはよきことにつながらなかったように見えても、すべてを良きにして下さる神を信じることができる。
神こそは、すべてをご意志にかなうように、最終的に導かれる。成功は神がなさることであり、どんなに失敗のように見えても、その隠れたところでたった一人が悔い改めて神に心を向けるなら、また救いのない苦しみにあえいでいた人が、十字架の赦しの平安を与えられるなら、それは「成功」したことになる。
主イエスが、十字架で処刑されるとき、わずか十二人ほどしかいなかった弟子たちはみんな逃げ去り、一人は金でイエスを売り渡し、代表格のペテロは三度もイエスなど知らないといって激しく否認したほどであった。 そして群衆たちは、だれか一人は釈放することができるとローマ総督が言ったとき、ユダヤ人の指導者たちと群衆たちは、みんながそろって強盗バラバを釈放し、イエスを十字架につけよ、と叫んだ状態となった。イエスの生前の活動は徹底的に破壊され残らなかったように見えた。それは完全な失敗のように見えただろう。
しかし、それが実は、完全な「成功」なのであった。神のご意志が成就すること、それが成功であるゆえに、十字架とそれに続く復活こそは成功のしるしであった。そのことを知っていたイエスは、十字架上で「成し遂げられた!」といって息を引き取ったのであった。(ヨハネ福音書十九・30
これは、成功ということが、いかにこの世の基準や判断とかけ離れているかを如実に示すものとなった。
私たちが主のご意志をまず思い、それが成るようにと願い、主にゆだねつつ成すなら、すべては「成功」すると言えよう。私たちが成功させるのでなく、神がご自身の意志を完成なさるからである。


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