リストボタン松風の奏でる讃美     2008/8

子供のころから、私は家の周囲にある松の葉に風が吹きわたるときの音に心惹かれていた。 そして私の通った小学校の前には、大きな神社に至るながい道があり、その両側に当時は県下でもおそらく随一であったと思われる松の巨木のつらなる道があった。
なかでも、最大のものは、はるか天を指してそびえるがごとくにやや斜めに立っていた。何百年経った木であったろう。帰るたびにその木を見上げて何か堂々としたもの、動かしがたい力のようなものを感じたものであった。
大木は幾百年の風雨に耐え、無数の人々を見下ろしてきたもの、またその成長の長い歳月のなかで、通りかかる人々から見つめられ、その愛を受けてきたもの、大きくなるにつれて畏敬の念をもって見つめられたであろう。
そのように、松の巨木、大木は見る人々の心をどこか落ち着けるようなはたらきを持っていた。それだけではない。その松に風が強く吹くときには、静かにしかし重みある響きが流れ始める。それは何にも代えがたい音色であり、その格調の高さは、どんな人間の奏でる音楽も及ばない深さをたたえている。
そのゆえに、松風の音は古来多くのひとたちに愛されてきた。万葉集にも次のような歌が収められている。

一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清めるは年深みかも── 市原王〔万葉集 巻六・1042

松の古木があった。そこに風吹くときには独特の音楽が生じているが、それはまた清さをたたえていた。その松が生きてきた幾百年という長い歳月によって清められた音を出すようになったのだろうという感慨がここにある。

また、今から八〇〇年ちかく前に書かれたという「平家物語」にも、栄華を極めた平清盛の造った建物も荒れ果て、ただ、そこに響くのは松風だけだ、という光景が記されている。

今はなき清盛が造ったいろいろの建物を見ると、それらは、どれもこれもここ三年ほどの間に荒れ果てて、年を経た苔が道をふさぎ、咲き乱れる秋草が門を閉じるばかり。 瓦にははやくもシダが生えて、垣根には蔦(つた)が繁っている。
高い建物は傾き、苔むして、通うものはただ松風ばかりである。
また、宮殿のすだれも落ちて寝所もあらわとなり、射し入るものはただ、月の光だけである。(「平家物語」 巻第七より」)

このように権力をきわめた者もはかなく滅びさり、そのはかなさを知っているかのように、そしてそのような時間とともに消えていくことのない、永遠の音楽を松風は奏でている。
こうした古くからの文書だけでなく、現代の民衆の歌謡にも取り入れられたのがあり、この歌「古城」はふさわしい歌手(三橋美智也)を得て、そのメロディーとよく合っているために広く歌われた。

松風さわぐ丘の上
古城よ独り何偲ぶ
栄華の夢を胸に追い
ああ 仰げばわびし天守閣

この歌のレコードは、一九五九年というまだレコードを買う余裕のある人は少なかった時代にあって、三〇〇万枚も売れたという。この歌によって私も子供時代から、松風さわぐ丘の上という歌詞が忘れられないものとなった。この歌は、「わびし」とか「哀れを誘う」とあり、この歌の最後に「 空ゆく雁の声悲し」というように、哀しみをたたえた歌であって、平家物語にも流れているはかなさへの感情が満ちている。
この「古城」という歌は、それが生まれるよりずっと以前に、日本の代表的な歌として知られる次の歌(荒城の月)によって影響を受けたのが感じられる。

3
、いま荒城の夜半の月
変わらぬ光たがためぞ
垣に残るは唯(ただ)かづら
松に歌うはただ嵐

4
、天上影はかわらねど
栄枯は移る世の姿
うつさんとてか今もなお
ああ荒城の夜半の月

ここには、荒れた昔の城跡にあって、すべては移り変わり滅びていくことを思いつつ、そのなかで三節に「変わらぬ光」があること、そして四節の歌詞にも、「天上の影(光)は変わらない」(*)ことが歌われている。

*)古語においては「影」という言葉は、現代の意味とは異なって「光」を意味する。讃美歌三五五番にも「うるわし慕わし とこ世のくに。うららに恵みの日影照れば、命の木の実はみのりしげく」とあるが、この「日影」も同様で、日の光という意味。

滝廉太郎はキリスト者であったことは、最近になって彼の所属していた教会から資料が見出されたことから確証されているが、わずか二十三歳で召された若い作曲家がキリスト者となった二十一歳のころに作曲されたのが荒城の月であった。また作詞者の土井晩翆も三〇歳のときであった。そして土井自身はキリスト者でなかったが、その夫人は熱心なキリスト者であったから、この荒城の月の歌詞にも、キリスト教の永遠の光が反映されているのがうかがえる。
滝廉太郎も、この荒城の月は彼がキリスト者となったころに作曲したのであり、その歌詞に彼自身の信仰を重ね合わせて「変ることなき光、天上の光」を見つめて作曲したと考えられる。
三節の歌詞にも、変わらぬ光の存在が歌われ、そして最後の歌詞は、この世の栄えはすべて移り変わるが、天の光は変わらぬことを指し示すかのように、夜半の月の光が射しているということであり、この荒城の月という有名な歌は、荒れ果てた城のはかなさだけが内容なのでなく、それ以上にその荒れた城に射してくる月の光が、永遠に変ることなき天の光を指し示している、ということを内容として持っているのである。
そしてその光を引き立たせるのが、三節の最後の行にある、「松に歌うはただ嵐」という言葉でみられる、松風の音なのである。
このように、キリスト教の影響のもとで造られた荒城の月には、はっきりと永遠が指し示されているのに対し、この曲の現代版である「古城」という曲にはそのような永遠を示す言葉が全くないという大きな違いが見られる。
そのいずれの曲も日本のひとたちは広く愛好したが、荒城の月の歌を歌うときに、果たしてどれほどの人が、その曲の中に暗示されているキリストの永遠の光に気付いていたであろう。
今も、次々と荒れて滅びていく人間の世界がある。しかし、そこにつねに月の光、星の光が射している。人々に天上の光は変わらないということを指し示すために。

内村鑑三は、福音を受ける開かれた魂は、都会の闇の力がはびこるところでなく、神の創造のまま、すなわち神のご意志をそのままに現している自然の風物の満ちた田舎の人々であると述べる。

福音はこれを村落に伝えよ、松風、梢に楽を奏し、渓流、岩に瀑布を垂るるところに伝えよ。人は天然とともにおり、天然のごとくに正直にして純朴なるところに伝えよ。
聖書はこれを神学者に学ばんよりはむしろ野の百合花と空の鳥とに習えよ。(「聖書之研究」一九〇六年四月)

このように、内村は村のひとたちへの伝道を強く勧めている。 ここで内村が自然の満ちた田舎を取り上げるときに、第一にあげているのが、「松風、梢に楽を奏し」とあるように、彼もまた、特に松風の奏でる音楽に心を惹かれていたのがうかがえる。
ふつうの木々を吹く風の音と松風の音とは霊的な力が異なる。松の細く固い無数の葉がふれあって生み出されるゆえに、深みや重さ、そして清さに満ちた音楽を生み出すのであろう。それは、ほかの樹木を風が吹くときとは大きく異なっている。しかし、残念なことに最近ではそのような大きな松の木々が多く失われてしまった。
讃美歌の詩は大多数が英米の詩の翻訳であるから、それらには松風の音も出てこない。しかしこの松風の音は、日本人の作詩になる讃美歌のなかには残されていて、今も愛唱されている。

1 山路超えて ひとり行けど
 主の手にすがれる身は安けし

2 松の嵐 谷のながれ
 み使いの歌もかくやありなん
(讃美歌四〇四、讃美歌21-四六六、新聖歌五〇七)

これは 松山市で長く松山夜学校の校長をしていた、西村清雄(すがお)が、一九〇三年に作詩したもの。彼が、三〇歳を超えたころ、愛媛県南部の宇和島地方の教会の伝道を応援した帰りに一人で何十キロもある道のりを山を越えて歩いて帰ったときに偶発的に生まれた詩であった。当時はまだ鉄道が開通していなかったために、長距離を歩いて帰ることになった。そのような長い徒歩の旅の苦しみを用いて神はこの讃美の歌を生み出すことに用いられた。 これは西村の友人の「讃美歌」編集委員によって採用されて今日まで一〇〇年を越えて愛唱されている。(「讃美歌略解」「讃美歌21略解」などによる。)
そしてここにも、内村と同様に、松風の音(松の嵐とは、松風を強調した表現)と谷の流れの音が、山々の自然の音として代表的なものとして取り上げられている。
キリストの福音はこのように、日本の風土に特徴的な松とそこに吹きわたる風の音が生み出す音楽にも浸透していったように、個々の人間の多種多様な魂のうちに、また世界のさまざまの民族の、どのような状況のところにも、流れていってそこでその真理を証ししていくのである。


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