リストボタン永遠の命    2008/8

旧約聖書における永遠の命

人間と動物との根本的な違いは、次の聖書の言葉にもあるように、永遠的なものを感じ、それを思い、それを求めるということである。

神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
(旧約聖書・コヘレト 三・11

人間は死んでも何かが残るといった目に見えない霊的な存在があるのではないかという漠然とした信仰のようなものは、約二〇万年前に現れてその後絶滅したネアンデルタール人(*)すら持っていたのではないかと考えられている。ネアンデルタール人は、遺体を屈葬の形で埋葬していたとか、花粉が残されていたことから花を副葬品としていたことが想定されている。屈葬というのは、墓穴を掘る労力の節約といった実際的な理由だけでなく、胎児の姿を真似ることによる再生を祈る、あるいは死者の霊が生者へ災いを及ぼすのを防ぐためといったことも考えられており、人間の死後もなにか霊的なものが残るという信仰のようなものがあったのがうかがわれる。

*)現生人類であるホモ・サピエンス(Homo sapiens)の最も近い近縁種とされている。二万数千年前に絶滅した。

人間と永遠との結びつき、このことは、聖書の最初の部分にも暗示されている。

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。(創世記一・27

最も永遠的なものとは神である。それゆえに神にかたどって創造された人間にも神の本質である永遠的なものに似た部分がある。本来人間はそうした永遠的なものに似せて創造されているのである。
また創世記の冒頭にあり、聖書そのものの最初の記事ともなっているのは、天地創造の最初は闇と混沌であったということであるが、闇と混沌の状況では永遠的なものは何も感じられないだろう。私たちが現実の生活のなかで、恐ろしい病気になったり家族の病気や事件、事故、仕事の深刻な行き詰まりなどの闇と混沌にあっては、自然のままの人間はいっそう永遠的なものなどに心が向かないであろう。目先のことの処理、対応に追われてしまうからである。
しかし、そのような中にあっても、神が光を与えようとすれば直ちに光が存在しはじめる。ここで神が創造した光とは、神の光であり、聖書のなかで初めての永遠にかかわる記述である。というより聖書は最初から意外な書き方で永遠の力強さを示しているのである。
私自身も闇と混沌にあったとき、まったく永遠など考えることもなく、友人たちも誰一人そんなことを話題にするものはなかった。目先のベトナム戦争や政治、学内問題や自分自身の将来の問題など、すべて狭い範囲のことばかりが念頭にあった。
しかし、そんな中にも神は私の心に、突然、光が差し込むように恵みを与えて下さった。その光は確かに闇を破り、混沌を秩序に変えてくれた。そして数知れない現実の不可解な出来事にもかかわらず、全ては神の国へと配置されているのだということが信じられるようになった。
私たちのふつう使っている言葉では、光と命はことなるものと受け取ることが多い。しかし、聖書では、このふたつが深く結びついていることを示している。それは次に示すように、新約聖書に示されているが、創世記の冒頭の記述ははるか後の新約聖書の記述を暗示するもの、あるいは預言するものとなっているのである。
この光はたしかに永遠であり、いのちそのものであるということは、新約のとくにヨハネ福音書にはっきりと記されている。

この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
(ヨハネ一・4
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ八・12

旧約聖書では、人の死については大抵「死んで葬られた」とある。死後の命については明確な記述はなかった。
それでも、肉体が死んでそれですべてが終りとはならない、ということ、言い換えると天に帰ること、天とは永遠の国であるから、永遠の命ということが、暗示されているところがある。
それは、すでに述べたように、創世記のなかの闇と混沌の中に差し込む光ということで、死という闇と混沌が克服されることが示されていると言えるし、さらに、エデンの園にも命の木があっていつまででも生きることが暗示されている。
とはいえ、この命の木については不思議なほど、旧約聖書の長い内容のなかでも全くといってよいほど触れられていない。それははるかな新約聖書の時代、キリストの時代を暗示するものとなっている。
また、ほかのすべての人がいかに長寿であれ、すべて死んでいったと記されているただなかで、ある一人の人物エノクだけは、神とともに歩んで、神がとられたからいなくなったという表現で天に帰ったことが示されているし、かなり後の時代ではあるが、預言者エリヤという人も、死ぬことなく、神のもとに帰ったということが記されている。
これらは、後のキリストの時代にあきらかにされる、復活ということ、殺されてもキリストのように復活して天に帰るという真理が、預言として、また暗夜にきらめく閃光のように記されている。

そうした一瞬の光のようなものが、時代が後になっていくにつれてより明確に示されていく。
主イエスよりも七百年ほども昔のイザヤ書においてすでにこの世で終りとはならない、永遠の命というべきものが与えられることが示されていた。
そしてイエスの時代に近づくにつれて詩編、ヨブ記、ダニエル書などで復活ということが少しではあるが記されるようになり、滅びない命ということが一部に啓示されていった。

旧約聖書の詩編には、永遠の命に何らかの点でかかわることはどのように記されているであろうか。

陰府に置かれた羊の群れ
死が彼らを飼う。
誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。
しかし、神はわたしの魂を贖い
陰府の手から取り上げてくださる。(詩編四九・1516

ここでは、すべての人間を死の力が踏みつけていくが、神は私の魂をどのような理由によってかは分からないが、他の多くの魂と別に、死の力から救い出して下さったという深い感謝の思いが記されている。
また、正しい人が受ける苦難についての長編詩であるヨブ記にも次のように、死の世界から救い出す力を部分的ではあっても知らされているのがうかがえる。

わたしは知っている。
わたしをあがなう者は生きておられる、
後の日に彼は必ず地の上に立たれる。(ヨブ記十九・25

この箇所はヨブ記のなかでも、とくにキリストの復活を暗示、預言しているとして受け取られてきた。夜の眠れない病気の恐ろしい苦しみ、財産を失った打撃、家族からも捨てられた悲しみ等々あらゆる苦しみがふりかかってきたヨブにはこの世ではもうあらゆる希望が失われたと思われた。しかしそのような闇と混沌の中にも、それだけでは終わらない永遠的なものが存在し、このような絶望的な者をもすくい取って下さるお方が来られるのだという光を与えられたのであった。

あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い
右の御手から永遠の喜びをいただきます。(詩編十六・1011

復活ということがまだほとんど示されていなかった旧約聖書の時代にも、このようにとくに霊的な啓示を与えられた詩の作者は、永遠のいのちに通じるものを示されていて、それゆえに喜びは永遠であり、地上のさまざまの困難をも越えて喜びを与えるものだという証言となっている。

マカバイ書とは、キリストの誕生より百数十年前に書かれた書物で、ユダヤ人を激しく迫害した異教の支配者アンティオコス・エピファネス四世に対してあくまで信仰を守り続けたひとたちの記録であり、とくにその指導者となって命をかけて戦ったユダ・マカバイと言われる人の行動を中心として記されている。
復活のことがはっきりと出ているのは、第二マカバイ記である。 支配者の命令に従わないものたちは、苦しめられ最後は殺されていった。そのとき、息を引き取る寸前にある者は言った。
「邪悪な者よ、あなたは私をこの世から我々の命をこの世から消し去ろうとしているが、世界の王は律法のため死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせて下さるのだ。」(マカバイ記七・9

バビロンへ捕虜として連れて行かれたユダヤ人たちは、エレミヤが預言していたように、半世紀を経て帰ってくることができたが、そのときもいろいろな困難がすでに住んでいたひとたちとともに生じた。
しかし、それから後の数百年の間で最も厳しい迫害は、このマカバイ記に記されている迫害であった。そのように歴史のなかでもとりわけ迫害の厳しかった時代に、復活ということが最も明確に啓示されたのであった。
それは、このマカバイ記の内容と同時代のことが記されている、旧約聖書のダニエル書でも同様である。

しかし、その時には救われるであろう
お前の民、あの書に記された人々は。
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
ある者は永遠の生命に入り
ある者は永久に続く恥の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き
多くの者の救いとなった人々は
とこしえに星と輝く。(ダニエル書十二・13より)

世の終わりのとき、メシアが現れるときにはすでに死んだ者たちも復活する。そして永遠の命に入ることが啓示として記されている。どのような病気や事故、あるいは迫害によって死んだ人であっても、復活のときには、輝かしい星のように永遠の存在と変えられるという明確な希望をダニエル書の著者は受けたのであった。
復活という最も重要な真理は、民族の存亡の危機と言えるような迫害のもとで、最も明らかに啓示された。それは、使徒パウロも、死ぬかと思われるほどの苦難に直面して復活への信仰が強く浮かびあがってきたと書いている。

兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(コリント一・810

多くの詩編がぎりぎりのところまで追い詰められたときの叫びや祈りが根底にあり、そこから神の助けを全身全霊をもって祈り願うということ、その結果神からの現実の助けが与えられ、救われていくという魂の歩みが多く記されている。詩編とはそういう意味では、すべての頼っていたものが失われたときに与えられた神の助けを感謝をもって記しているのがとても多いのであって、人間はそうした困難に直面しなければ本当の真理は体得できないようになっているのであろう。

このような復活への希望、永遠の命への確信が与えられる以前から、旧約聖書の一部にはたしかな永遠の命を啓示された文書がある。それは次のようなものである。

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。

初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。
見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
その民を喜び楽しむものとして、創造する。(イザヤ六五・1718

新しい天と地の創造ということは、永遠的なものであることがその内にある。 それゆえに、そこでは「代々とこしえに(永遠に)喜びが絶えない」ような状況として創造されるのだとわかる。
そしてこのような生き生きした喜びが絶えることがないような状況は、命の水が流れ続けるという状況だといえる。
それゆえに、他の預言書において、神のおられるエルサレムから流れ続けるいのちの水という表現で現されている。

その日、エルサレムから命の水が湧き出で
半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい
夏も冬も流れ続ける。
(ゼカリヤ書十四・8
(ゼカリヤは、イエスより五〇〇年ほど前の預言者。捕囚から帰った人々を指導した。)

新約聖書における永遠の命

このような永遠に関する啓示は、キリストの時代になって明確になる。
主イエスの最初の教えとしてマタイ福音書では、山に登って教えられたことが記されている。そこに約束されているのは、天(神)の国である。

ああ、幸いだ、心の貧しい者たちは!
天の国は彼らのものだからである。(マタイ五・3

この短い言葉のなかに、天の国、神の国というものがだれにでも与えられることが約束されている。特別な修行とか捧げ物、あるいは学問などがなくとも、ただその人の奥深い魂のなかにあって自分は無であることを深く自覚しているだけで、そしてそこから神を求めるだけで、天の国が与えられる。
それは永遠への道がいかにそれ以前と異なって単純なものであるか、万人に開かれたものであるかを示している。
神の御支配のうちにあるもの、それが天の国である。永遠の命もまた神の御手のうちにあり、それゆえに神の国が与えられるならば、永遠の命も当然与えられることになる。
そして「求めよ、さらば与えられる」という約束に従って確実に与えられるものとは、ルカ福音書によれば、聖なる霊である。そして聖霊とは神の霊であり、キリストの霊であって神ご自身の別の現れである。 (ルカ十一・13
それゆえに、聖霊が与えられるならば、それは永遠の命が与えられることになる。
そして聖なる霊とは、神からの風ということもできる。霊という原語(ギリシャ語)は、風という意味を持っている。人間も一種の風のようなものを出し入れして生きているということで「息」といった意味にも使われる。そしてそこから、人間の生命をささえるもの、「霊」といった意味も派生してきた。
言い換えると、永遠の命とは神からの風のようなものでもある。それに吹かれるとその人は変えられ、滅びるものから永遠の命を与えられたものへと根源的な変化をとげる。
実際、キリストを三度も知らないと否定し、逃げ去ってしまったペテロ、そしてほかの弟子たち、彼らはいかにして立ち直ることができたのだろうか。それは彼らの単なる反省とか意志でもない。話し合いでもなかった。
それはただ、聖なる霊が与えられることによってであった。そのためには、主イエスが言われたように、ひたすらその約束のものを待ち望むということ、真剣な祈りをもって待ち望むことであった。そうして時至って大いなる天からの風が吹いてきた。

一同が(祈りを合わせて)一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。一同は聖霊に満たされた。(使徒言行録二・12

まさに聖なる霊とは、大いなる天からの風なのであった。この驚くべき風こそ、裏切り者たちをも根底から変えて、キリストの復活の証言をしてその福音を伝える者としたのであった。
霊とは神の風であるということ、そしてその霊(風)によって人は全く新たになる、新しく生まれるということを、主イエスもヨハネ福音書において次のように言われた。

肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ福音書三・68

この箇所で、「風」と訳されている原語も「霊」と同じで、プネウマなのであり、主イエスはここで、霊と風を重ね合わせて言っていると言えよう。霊(神からの風)はその言葉のように、神のご意志のままに吹く。どんなに人の心が暗黒であっても、また混沌があっても、神がひとたびそこに神の国からの風を吹かせるときには、そこに新しく生まれる、すなわち永遠の命が与えられる。無から有を生じさせるのが神であるからである。
このような力ある風のことは、すでに聖書の最初の創世記の巻頭に現れる。それは聖書全体のさまざまの内容の象徴的表現となっているが、永遠の命についてもやはりここで預言的に示されている。

初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記一・13

この記述はたんに天地創造のときだけを書いてあるのでは決してない。それはこの宇宙、人間世界に生じ続ける神のわざが凝縮されたかたちで書いてあるのである。
混沌と闇、そこには何も永遠を思わせるものはない。私たちがもし、たいへんな痛みや苦しみで心身ともに打ちのめされてどこにも救いの道を見出せないとき、例えば苦しい病気のすえにガンと宣告されてすべてがあとわずかだと知らされたとき、家族のものに突然の悲劇が生じてたいへんな問題となったとき等々、それが重大なことであればあるほど私たちの心は混沌と闇となり、目先のことすら落ち着いて考えられないほどになる。
しかし、そのようなときにも、神からの風は力強く、静かに吹いているというのである。旧約聖書の原語であるヘブル語においても、霊という語は本来は「風」という意味であり、この箇所は、つぎのようにも訳すことができる。(*

・神の風が水面を吹いていた。
・大いなる風が水面を吹いていた。
…a wind from God swept over the face of the waters.New Revised Standard Version
…with a divine wind sweeping over the waters.New Jerusalem Bible

*)なお、 従来からの英語訳は、邦訳と同様に the Spirit of God ―神の霊と訳しているのが多い 。

あとの二つの英語訳聖書は、前者はアメリカのプロテスタントの代表的な聖書であり、後者はカトリックの代表的聖書である。 このように新しい重要な英語訳聖書が、神からの風、神の風 と訳していることのなかにも、これが神の霊であると同時に神からの聖なる風という本質を持っていることを示そうとしているのである。
そしてこのことは、キリストの時代に、すでに述べたように主イエスがヨハネ福音書において、神の霊は風のように吹く、といわれたこと、また使徒言行録で最初のキリスト教徒たちの伝道の出発点となったのが、天からの大いなる風のようなものが吹いてきたことにもつながっているのである。
このように、創世記のこの記述ははるか後の、きわめて重要な聖なる霊、聖なる風のことを預言するものともなっている。
永遠の命が、聖なる霊(風)によって新たに生まれた者に与えられること、こうした表現には神の霊と神からの風とが溶け合うようにして現されている。

それだけでなく、永遠の命はまた水の流れとしても表現されている。そしてこのこともまた、すでに創世記において暗示されている。それは、最初に創造された人間が置かれた特別の場所、それはエデンにあった園である。そこにはエデンから流れだした水が園をもうるおし、さらに全世界へと流れだしていったと記されている。
この不思議な記述は、単なる昔話や神話でなく、はるか後にキリストによって成就される永遠の命の水の流れを象徴しているものであり、その預言ともなっている重要な啓示なのである。
永遠の命は、神の風(霊)によって与えられ、次々と神の思いのままにそれは吹いていって永遠の命を持つ人が増やされているように、またそれは命の水の流れとしてキリストから流れ出て世界をうるおしていくのである。そのことを、主イエスは次のように言っている。

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書七・3738

なぜ、わざわざイエスは祭の最も盛大なときのしかも最後の日に、さらに立ち上がって大声で叫ぶように言ったのだろうか。それは、このいのちの水の真理は人間にとって最も重要なことだからである。世界全体に、しかもはるか後の世代に向かって力強く語りかけられたものであり、宣言だからである。
この命の水の流れは、聖書の最後の書である黙示録の最終章にふたたび現れる。

天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。
(黙示録二二・12
永遠の命、それは単に自分にそういうものが与えられているかどうかといった個人的なものでなく、神のご意志によって風のように吹いていくものであり、また神とキリストから全世界に流れ出るいのちの水の流れでもある。
私たちはそれを受けるにはただ、心の扉を開いて、まっすぐにキリストを、神を見つめるだけでよい。幼な子のような心でなければ神の国に入ることはできない、と主イエスが言われた。

よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない。(マタイ十八・3

このような永遠の命をいただくには、どのような条件が必要なのか。それは幼な子のような心をもって、ただ信じるだけ、主イエスを見上げるだけでよい。
それは人々から見下され汚れているとして交際も拒絶されていた一人の徴税人ザアカイがそうであった。周囲のひとたちから相手にされない寂しい心をかかえて、ただイエスを直接に見たい、会いたいとの切実な気持ちで近くの木によじ登ってイエスをみようとした。そのような幼な子のようなまっすぐに主に向かう心こそは、神の国から吹いてくる風を受けいれることができ、またいまも流れている命の水の流れに口をつけてその水を飲むことが許されるのである。
また、イエスやほかの重罪人と共に十字架刑になった一人の犯罪人は、釘付けられたという途方もない苦しみのなかで、イエスこそは殺されても復活され、神のもとに帰るお方であることを知っていた。それゆえに、「主よ、あなたが御国に行かれるときには、私を思いだして下さい!」と激痛のなかから懇願した。それはまさしく幼な子のように、まっすぐひたすらにイエスに向かうまなざしであっただろう。それゆえに、そのような死を目前にした苦しみのなかにも、天からの風は吹いてきた。そしてその魂には永遠の命が与えられたのであった。
現代に生きる私たちにおいても、今後どのような闇と混沌が襲ってくるか分からない。しかし、神とキリストから流れ出るいのちの水流はいかなることがあっても、とどまることはない。それは永遠の神の命の流れであるから。そしてまた、神から吹いてくる風(聖なる霊)もまた、それは神ご自身のひとつの現れであるゆえに、永遠に止まることがない。
そうした神の国からの風と水の流れを受けること、それがこれからのいかなる時代にあっても、私たちに与えられた最大の恵みなのである。


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