リストボタンさき者への祝福(その2)    2008/10

前回において、いかに聖書では通常の考え方と異なって、小さきものあることを実感することが重要であるか、そしてそこに神は祝福をおいているということを、旧約聖書や福音書にみられる主イエスの言葉や行動などについて記した。
使徒パウロはこのことについてどのように考えていただろうか。
パウロは、キリスト教の二千年の歴史において最大の働きをした人物である。それは彼が書いた手紙(*)が、神の言葉として聖書に収められたからである。
ペテロの手紙は、新共同訳では十二頁であり、ヨハネの手紙は九頁、ヤコブの手紙は七頁なのに対して、パウロの名を冠した手紙は、一二八頁の分量を持っていて圧倒的にパウロの手紙が多い。そしてそのパウロが書いた手紙が神の言葉として実際に無数の人たちの魂に働きかけ、救いを知らせることになっていった。私自身もキリスト教の信仰を初めて知ったのはパウロの書いたローマの信徒たちへの手紙のある一節からであった。

*)手紙といっても、現代の私たちが想像するような特定の個人に宛てたような手紙は、フィレモンへの手紙一つだけで、あとは、各地のキリスト者たちの集まり(エクレシアすなわち集会)に対して送られたものである。

こうした大いなる働きをしたパウロであるが、彼は自分のことをどのように考えていただろうか。
彼が書いた手紙には、自分が何ものであるかを、ただ一言で書いている。

日本語訳では、次のようになっている。

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、(ローマの信徒への手紙一・1

しかし、原文のギリシャ語では、「パウロ、奴隷、キリストの、イエス、呼びだされた、遣わされた」というようになっている。これは、英語などの外国語訳が日本語よりも原文のニュアンスを反映している。

… Paul, a servant of Jesus Christ, called to be an apostle, set apart for the gospel of God,
NRS

すなわち、パウロはまず自分の名前をあげて、ただちに「奴隷」という言葉を出して、次に誰の奴隷なのか、それはキリスト・イエスの奴隷なのだ、と続けている。このようにして自らの存在が何であるかを明確に述べている。
新共同訳で「僕」と訳された原語は、ドゥーロス であって、本来は奴隷を表す言葉である。
古代には現代では考えられないほど奴隷がたくさんいた。戦争で捕虜になったものが奴隷となって使われるということが多くあり、また貧困のゆえに親が子供を奴隷として売るということもあった。
このドゥーロスという言葉は、日本語の聖書ではしばしば「僕(しもべ)」と訳されているが、新共同訳の聖書でも、例えば「あなた方は皆、信仰によってイエス・キリストに結ばれた神の子なのである。もはや奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない」(ガラテヤ書三・2628より)とか、「奴隷は家にいつまでもいないが、子はいつまでもいる」(ヨハネ八・35)などのように、「奴隷」と訳されている箇所もいろいろある。現代の一般的な日本人にとって、僕とはどう
いう人間のことを指すのか、全く使わない言葉であるから分かりにくい。 それゆえ、パウロが「キリストの僕」であると考えていたといっても、たいていの人にとってはその重要性がはっきりと伝わらないのである。ここはやはりこの原語が「奴隷」を表す言葉であったということを知っておくことは重要である。当時の人たちにとっては、周囲にたくさんいて、売買され、主人の思いのままにされる人であるという明確なイメージを持った言葉なのである。
そのため、いくつかの英語訳などでも、この箇所を「パウロ、イエス・キリストの奴隷(slave)(*」と訳している。

*Paul a slave of Christ Jesus, called to be an apostle and set apart for the gospel of God,New AmericanBible
他に、新約聖書の注解シリーズで有名な、William Barclayの訳、あるいは New English Translation、 最近完成した訳で、聖書が書かれた当時の本来の意味を反映させることを重視した、Holman Christian Standard Bible2004 )や New Living Translation 等々も同様である。聖書は数千年も昔の遠い外国の書物なので、こうした訳語のゆえに、その本来の言葉や表現の意味がしっかりと伝わってこないということがよくある。


自分の肩書を、一言で表すとき、人間としては最も卑しめられていた奴隷という当時の言葉を使うということのなかに、いかにパウロが自らを小さき者として見ていたかが表されている。
それだけでなく、パウロは、自分のことを、「呼びだされ(召され)、遣わされた者(使徒)とされ、選び出され」というように、すべて受け身の表現を用いて表しているのが目立っている。
ここには、自分の意志や考えで現在の自分の働きを勝ち取ったとかいう気持が全くない。そこには、すべて自分を超えた神とキリストによって導かれているという徹底した小さき自分、何も自分というものにこだわらない姿がある。
こうした魂の状態こそ、主イエスが祝福されているといわれた「心の貧しき者」なのである。パウロはキリストの弟子としては、最も大きな働きをしたといえるが、自分というものに頼らず、自分がもっている能力や意志の無力さを思い知らされ、神のご意志と力を受けることがすべてであることを深く知っていた。
これは自分というものが何もない、彼の言葉でいえば、「生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられる」(ガラテヤ書二・20)ということなのである。
これは、「私」というものがなくなってしまうほどに、小さくされているということである。
このように小さきものと実感していたゆえに、そこに計り知れない神の賜物が注がれていたのであった。パウロはまた、自分のことを、「土の器」であると言っている。(コリント四・7
このような実感もまた小さきものだと深く知っていたことを示している。
そして、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人の最たる者なのである。(テモテ 一・15

このような意識はパウロに深く刻まれていたのが次の言葉によってもうかがえる。

そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。(コリント十五・810

このような小さき者であるとの自覚がなかったら、神の霊はゆたかに注がれることはなかった。そして神の霊が注がれるときいっそう人は、自分の小さなことが霊的にも深く示され、神の霊こそすべてである、と知らされる。
このように能力の恵まれた者であっても、その力が自分が誇るべきことでなく、神からの賜物であり、神の国のために用いるようにと託されたものにすぎないということなのである。
これと同様なことはすでにモーセもエジプトの王子として育てられたが、そのままでは到底神の用いる器とはなり得なかった。それゆえに、神はモーセが生きるか死ぬかという激しい苦難を与えて、自分の意志や力ではこの世の大いなる悪の力には決して立ち向かうことはできない、ということを思い知らせたのであった。
使徒ペテロも、自分は命を捨ててもイエスに従って行けるとの確信を語ったことがある。しかしそれがいかにもろくも崩れ去ったかは、聖書に記されているとおりである。
決してイエスを裏切ったりしないと固く誓ったにもかかわらず、三度もイエスを知らないとしかも激しく誓うように断言してしまった。このようにして、自分の意志や力で主イエスに従っていくなどということは決してできないということを示されたのである。こうしたことは、すでにある人が、イエスに従うとしてついてきたときに次のように言われたことと同様である。

一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。
イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(ルカ 九・5758

このようにして、自分の意志や決断で従っていくことができる、と考える傲慢さを打ち砕こうとされた。自分ができる、という考えが砕かれて、主が遣わされ、主によって導かれるのでなければ、という気持に心底からなっていかねばイエスに従っていくことも、そこから祝福を受けることもできない。
私たちは、他人から憐れんでもらうということは強く退けたいという気持がある。それは自分というものを強く持っているからである。憐れんでもらわなくとも、自分の力でいけるという誇りとか自信のようなものが誰でもある。
しかし、そのような強い自分というものがいかに空しいか、人間は本当にもろく弱いもの、先のこともわからず、大きなこの世の波に対抗していくこともできないような者だということを深く知らされるときが来る。それは治らないような病気になったり、苦しみと痛みにさいなまれる状況に陥ったりしたときである。
それはまた、自分がどんなに小さいものかということを思い知らされたときである。
そこからは、ただ滅びてしまいそうな自分を助けて下さい、憐れんで下さい、という単純なそして切実な祈りや叫びがおのずから出てくる。
憐れみなどいらない、ということはよく言われる。それは憐れみを受けるとはみじめな人、自分で自立できない人、何もできない人たちが他人の憐れみを受けるのだという気持があるからだ。
そこから、神などいない、と思っている大多数の日本人には、憐れみを下さい!と必死で願う相手を持たないのである。人間にこのような叫びをあげるだけである。そして人間に憐れみを乞うときには、相手の人に屈伏するようなみじめな気持になるだろう。
私たちはそのような人間でなく、むしろ憐れんで下さい!と の叫びや祈りを喜んで下さるお方、神とキリストにその叫びを注いでいきたい。
人間は本質的に小さき存在である。どんなに大きいと思っている者でも、病気や事故、災害に会ったりしてうちのめされることがあり、また老年になることは自分がどんなに小さき者であったかを日毎に知らされていくことである。
そして病気や老年の弱さがつのって、死に至るときには何もできずただベッドに横たわっているだけで、医者や介護の人に全面的に世話になるような存在となっていく。
そうした小さきものとなって最後は灯火が消えてしまうようにこの世を去っていく。小さくなった果ては無になってしまう、というのが一般的な日本人の思いであろう。しかし、万能の神、いのちの神を信じてその神に導かれてきた者にとって、小さくなったその果てから、死を超えてキリストの栄光という無限に大きいものへと変えられるという驚くべき約束がある。
復活ということは、小さい極限から無限へと移される最大の奇跡であり、小さきものへの祝福がどこまでも大きく深いものであることを示す真理である。


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