リストボタン神の言葉とその力 

 

 現代は、人間の言葉の洪水という点で、歴史上未曽有の時代である。 新聞、テレビ、インターネット、メール、雑誌、その他の印刷物等々、圧倒的な量の言葉が毎日あふれている。

 

 そしてその洪水の波に次々とのまれていき、泡のように消えていく人間の言葉ばかりを受けて、日々の力にならず、魂が弱っていく人たちが実に多い。

 

 そのような言葉の洪水のなかにあって、いかなる大波にも呑み込まれず、高い岩山の上にある灯台のように、輝き続けているのが、神の言葉である。

 

神の言葉の力は、聖書を一貫しているメッセージである。聖書は一般の日本人には、偉人であるキリストの教えを書いた本だ、と思われていることが多い。仏教、儒教、イスラム教、キリスト教、と何でも「教」と付けているように、宗教とは人間に対する教えを述べているという受け止め方である。そしてその教えというのが、人間のあり方を教える内容だと思っている。嘘をついてはいけない、盗んではいけない、父母を敬え、ものを大切にしなさい…といったことである。

 

 これはもちろん重要なことであるが、こうした戒めが中心なら、道徳と同じである。

 

 長く続いた徳川時代において、儒教が思想的基盤にあった。これは道徳であって、目に見えない存在を信じてその存在との交わりを中心におく信仰による生活の重要性は説かれていない。

 

 孔子について論語に次ぎのような記述がある。弟子が神の霊に仕えることについて尋ねたとき、孔子は、「人に仕えることもできないのに、どうして神の霊に仕えることができようか」と答えた。

 

 また、死について尋ねられたとき、「生きることも分からないのに、どうして死のことが分るだろうか」と答えた。(「論語」巻六・先進第十一の12

 

 このように孔子の思想は、地上の人間のあり方に対する教訓であって、目には見えない霊のこと、死後のことは分からないとしたままであった。

 

 これは、人間を超えた世界からの啓示がなければ当然のことであった。

 

 このような儒教が長く支配的思想であったゆえに、日本人は、目には見えない神や神の霊について十分に考えない人が多くなったという側面がある。

 

 聖書、そしてキリスト教は孔子のこのような人間的なあり方を中心としている思想と異なって、神からの啓示、神の言葉を中心とする。

 

 聖書を生み出したイスラエル民族の特質とは、神の言葉の力を啓示されたところにある。

 

 現代の私たちにおいても、全く同様であって、さまざまの個性があり、また特別な能力ある人や、いろいろの病気や障害を持っている人たち、健康な人から寝たきり状態になっている人等々、無限に多様な人間がいるし、次々と新たな可能性を持った人間が生まれてくる。そして世界にはさまざまの民族がいて、驚くような習慣、風俗もある。

 

 しかし、人間は大別すると二種類に分かれる。それは、唯一の生きた神を知っているか、それとも知らないか、である。言いかえると神の言葉の力を知っているか、もしくは知らないか、である。生きて働いておられる神であるならば、その言葉もまた生きていて計り知れない力があるのは当然のことになる。

 

 人間の言葉もたしかに力を持つことがある。

 

 例えば、かつてヒトラーも独特の言葉の魔力ともいうべきものを持っていた。その言葉の力によって多くの人たちが惑わされ、哲学者や音楽家、科学者を多数生み出したドイツ国民をあのような、悪魔的な人間の奴隷としてしまった。

 

 小泉元首相が、郵政改革、自民党をぶっこわす、と言ってそれがある種の力をもって、多数の人たちの心を支持するように仕向けた。

 

 しかし、こうしたこともごく一時的である。ヒトラーが首相になってから、わずか十二年ほどで彼は自殺した。小泉旋風もわずか数年である。

 

 ときには、短い言葉が大きな力を持つことがある。アメリカの大統領選挙においては、オバマ氏が用いた言葉、本来はどこででも使うありふれた言葉であったチェンジという言葉が大きな力を発揮した。

 

 日本の先頃の総選挙でも政権交代というキャッチフレーズが、たしかに人の心を捕らえたといえよう。 

  これらの特徴はすべて一時的だということである。

 

  そのような人間の言葉のはかなさに比べて、聖書の言葉、神の言葉の特質は、それが永遠的な力を持っているということである。

 

 聖書の言葉、例えば「キリストは、私たちの罪のため、罪の赦しのために死なれた」というみ言葉やキリストが死の力に勝利して復活した、あるいは、闇の中に光を創造した等々という神の言葉は永遠である。

 

 その力は、数千年を経ても弱まることはない。

 

 こうした神の力の現れの一つは、中国のキリスト教人口の激増である。今から半世紀前なら、いったい誰が、中国が世界屈指のキリスト教大国になると想像しただろうか。

 

 中国のキリスト教人口は、現在では、一億人を越えていると、「いのちの水」誌の今年の九月号の巻頭文で書いたが、その後、朝日新聞(二〇〇九年九月三〇日)でも、それとほぼ同様な数値が掲載されていた。

 

 アメリカの人口は三億人を越えていて、キリスト教人口は約八十%程度とすると、二億四千万人ほどである。

 

 中国は、キリスト教人口は一億人を越えていると言われ、人口十三億五千万であるから、七~八%ほどにもなっている。(ロシアは人口一億四千万人、フランス六千四百万人、ドイツ八千万人、イギリス六千万人であるから、これらのヨーロッパのどの国と比べてもキリスト教人口が多いことになり、アメリカに次ぐ、世界第二のキリスト教大国だということになる。)

 

 このように、神の力は目には見えない、というだけでなく、現実にだれも予想できなかったような力を世界の歴史のなかに現してきたのである。

 

 聖書とは神の言葉の力をはじめから終わりまで書き綴っている書物なのであり、それは至るところで記されている。

 

 聖書は次の言葉から始まっている。

 

… 初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。「光あれ。」すると光があった。 (創世記一の一~三)

 

 ここに、神の言葉の力のすべてがきわめて簡潔な表現で表されている。闇と混沌というなかに、いつの時代にも見られる人間世界の一切の悪や混乱、悩み、悲しみがふくまれている。私たちの心に深い悲しみが生じるのは、何らかの出来事、愛するものが奪われたり、裏切られること、病気や罪、また自分の希望していたことがかなえられなかったり、絶望的状態になってしまったこと、他人からの無視やいじめ等々によって、心のなかが闇となり、どこに慰めを求めたらよいか混沌とした状態になるからである。

 

 そのような立ち上がることもできないような、心の闇のなかにあって、神からの光が差し込むことによって、そうした一切を乗り越えて立ち上がる力が与えられる。

 

 心のなかに何が善であり、悪であるのか分からなくなった状態であっても、一筋の道がこの世に通っている、そして永遠の御国へと続いていることが示される。それは混沌からの脱却であり、神の国の秩序が魂の内に作られることである。

 

 これは私自身の経験であった。人間の心は、いくら学校の勉強をしたところで、混沌や闇からは解放されないのである。それは大学の専門教育を受けても変わらない。むしろ学べば学ぶほど闇や混沌が深まる場合も多いのである。

 

 科学技術の問題性と人間の未来、という大きな問題についてもさまざまの科学技術の持っている問題を知らないときには、そのような科学技術が人類の未来に重大な影響を持つなどということは考えることもなかった。しかし、科学技術が便利で現代生活に不可欠なものでありながら、それは重大な人間生活をおびやかす側面をも持っていることは、科学を学ぶほどに分かってきたことであった。

 

 政治や社会、あるいは文学なども同様であって、それらをたくさん学ぶほど、この世というものは実に混沌としたものであって、それははるか昔からずっと変わらないこと、闇は至る所で実に深刻な形で見られるのが分かってくる。

 

 そのように、小学校から大学までの教育をどんなに受けても、この世界の闇や混沌は解決できないのは、現実を見ればすぐに分ることである。今から百五十年ほど前までは、一般の人々が公的な高等教育を受けるなどということはなかった。ごく少数の人たちだけが学問をする機会が与えられたのである。

 

 例えば、今から六十数年前(戦前)までは、大多数が高等小学校までであって、中学に進学できるのは、一割かせいぜい二割、さらに高校に進学できる人は、一%にも満たないほどであった。

 

 ところが 現在では高校には、九十六%が進学している。大学(短大も含め)には、五十三%ほどが進学している。このようにわずか六十数年で、目ざましい進学率の向上が見られる。

 

 このようないちじるしい教育の普及があっても、闇と混沌が減少するということは見られないのは、たいていの人が実感しているところである。小学生であるのに、教師の指導も聞かずに授業中歩き回るとかいったこと、陰湿ないじめや他人の命まで奪うという子供も現れたりすること、それらは闇と混沌が一向に減ることがないのを示している。

 

 このような状況から、人間の心の問題においては、聖書が古くから明確に告げているように、神からの光が射すのでなかったら、根本的な解決はできないのである。

 

 神の言葉の力こそは、いかなる時代の状況になろうとも、一貫してその解決の究極的な力を与えてきたのである。

 

 

聖書における神の言の力

 

それゆえ、聖書は随所でこの力を告げているが、いくつかを取り出してみる。

 

…雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。

 

それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ

 

種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。

 

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も

 

むなしくは、わたしのもとに戻らない。

 

それはわたしの望むことを成し遂げ

 

わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ書五五の十~十一)

 

 このよく引用される言葉は、神の言葉の力というのは、不滅であって無駄になることがないということを示している。

 

 人間の力は必ず時が来れば消えてしまうか、変質してしまう。例えば、いかなる権力者、支配者といえども、早ければ数年もしないうちに、長くともせいぜい数十年後には必ずその力は衰えるか消滅してしまう。

 

 しかし、神の言葉は、一時的に見えなくなったり、消えたりするように見えても、必ずそれは滅びることなくその力は持続して働いている。それはちょうど天から降り注ぐ雨のようなものである。雨は地上に落ちて蒸発したり山にしみ込んだりして見えなくなっても、地中のなかに深くしみ込み、直接に無数の植物や動物たちをうるおし、あるいは、それらを通して動物のえさとなって地上の生命を支えている。

 

 神の言葉も見えなくなったようでも、どこかでその力は持続されて働いているのである。

 

 ここに引用したイザヤ書の言葉は、キリストより数百年も昔の預言者の言葉であるが、神の言葉の力が不滅であることをはっきりと神から知らされた人の言葉である。そしてこの啓示には神の力が宿っていたがゆえに、その後の無数の人たちの心に入り、奮い立たせてきたのである。

 

 主イエスは、生前に神の言葉を最も明確に語ったお方である。それは神と等しい存在であったからだ。しかし、そのような完全な神の言葉の人であっても、その言葉は、表面的には、当時の多数の人によって拒まれ、逆に当時の指導的な人たちによってイエスは憎まれ、ついに殺されるに至った。

 

 そして、とくに側において育てた十二人の弟子たちすら、イエスが捕らえられるときにはみな逃げ去ったし、弟子の代表格のペテロは、地位も何もない一人の女からあなたもイエスと一緒だった、と言われて直ちに激しくイエスなど知らないと否定する始末であった。

 

 このように、イエスが語った神の言葉の力は、十字架にまで付き従ったわずかの女性にしかとどまらなかったように見られた。しかし、それは人間の狭い目でみるからであった。

 

 神の言葉はイエスが殺されたとき、その悲劇のまっただなかにすでにとなりにいた重い犯罪人の心を回心させ、弟子たちすらイエスの復活を信じられなかったのに、その重罪人は息を引き取ろうとするような激痛のさなかにあって、イエスの復活を信じ、神のもとに行くことを確信して、イエスに「あなたが御国においでになるとき、私を思いだして下さい!」と懇願したのである。そしてその願いをイエスは聞き届けられた。

 

 また、イエスが死んでいくさまを見た、ローマの一〇〇人隊長は、この人こそ、神の子であった、と信じたのである。これは、死にゆくイエスであっても人間を変え続ける力を持っていたことを示すものであり、いかなる重い罪人もイエスをただ信じて仰ぐだけで、赦され、御国へと導かれること、またローマ帝国にキリスト教が広がっていくことを暗示する出来事となった。

 

 その後の歴史は、こうした預言的出来事の通りになった。神の言葉そのものである復活のキリストは、わずか数十年で地中海を取り巻くローマ帝国全域に広がっていった。何の権力も武力も持たなかったにもかかわらずである。

 

 神の言葉というものは、それに敵対する力が、いかに迫害し、また撲滅しようとしても滅ぼすことはできない。それは背後に神ご自身がおられて支えられているからである。

 

 主イエスが次のように言われたのはそのような神の言葉の不滅性、その永遠の力なのである。

 

…天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マルコ福音書十三の三一)

 

 神の言葉の力をその永遠性を深くとらえて、その冒頭に宣言したのは、ヨハネ福音書である。彼は神から霊的に引き上げられて啓示されたことを、だれも書かなかったような表現をもって、その福音書の冒頭に記した。それはこれこそ、全体の啓示の要約であったからである。

 

 これは、またすでに述べた旧約聖書の創世記の巻頭の言葉をさらに、キリストの啓示によって言いなおしたということができる。

 

…初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

 

この言は、初めに神と共にあった。

 

万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(ヨハネ福音書一の1~4)

 

この「言(ことば)」と訳された原語(ギリシャ語)は、ロゴスであって、現代語にはどのように訳してもその元の意味を十分に伝えることはできない。

 

 それゆえに、英訳聖書の個人訳として知られているイギリスのモファット訳では、英語に訳さないで、次のようにロゴスという原語を使っている。

 

The Logos existed in the very beginning. The Logos was with God.

 

 ロゴスとはこのヨハネ福音書の続きを読めばわかるように、キリストが地上に生まれる前の存在を指している言葉である。キリストは今から二千年あまり昔に生まれたのであって、それ以前には存在しなかった、というのが普通の人の考えである。

 

 しかし、キリストは実は、永遠の昔から、神とともにいた、あるいは神であった、といえる不滅の存在なのである。(そのお方が、いまから二千年あまり昔に、人間の姿をとってこの世界に来られてイエスと名付けられた。)

 

 それゆえ、永遠の昔から神とともに存在していたときには名前がない。そこで、旧約聖書で一貫して書かれている神の言葉の絶大な力のゆえに、またギリシャ語のロゴスという言葉が、宇宙を支配する理性的存在をも意味するので、イエスとして生まれる以前の神的なお方を、ロゴスという名前で表したのであった。

 

 このように、そのロゴスという名で表されたキリストは、神の言葉そのものでもあり、神の力をそのままもっているゆえに、「万物はこのロゴス(言)なるキリストによって創造された」とまで言われているのである。しかも、このロゴス(言)のうちには、神の命があって、その命こそは、人間を照らす光なのである。

 

 このようなヨハネ福音書の記述からも、神の言とは、キリストそのものであると言うこともできる。そして万物を創造された。ここにも、神の言葉の重大性がはっきりと示されている。万物を創造するほどに力があるということなのである。

 

 ヨハネ福音書の冒頭の哲学的、あるいは霊的な表現は、神の言たるキリストの無限の力を言い表しているものなのである。その大いなる力を持つキリストがなされた働きを記していく、というのでヨハネ福音書では冒頭にキリストが神と等しい存在であることが強調されているのである。

 

 この神の言たるキリストの力は、またヘブル書にも記されている。

 

 

…神は、この御子(キリスト)を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。

 

御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。(ヘブライ人への手紙一の2~3)

 

 

 ここにも、ヨハネ福音書のはじめの言葉と同じように、神の御子キリストがいかに大なる存在であるか、そのキリストによって世界が創造され、現在も、その「力ある言葉」によって支えていることが記されている。この「支えている」と訳されている原語(ギリシャ語)は、フェロー phero *)であって、「支える」という意味とともに、「持ち運ぶ」という意味をもっている。

 

 

*)英語のフェリーボート(ferry boat 自動車などを運ぶ大型船)は、このギリシャ語のフェローが語源である。このギリシャ語が「運ぶ、持ってくる、持ち運ぶ」という意味で使われているのは、例えば、「クレネ人シモンに、イエスの十字架を持ち運ばせた」(ルカ二十三の二六)、「だれが食べ物を持ってきたのか」(ヨハネ四の三十三)など。

 

 

 それゆえに、この箇所でも、世界を支え、持ち運んでいる、というニュアンスがある。アメリカの代表的な聖書の一つ(NRS)は、次ぎのように、支える sustain という訳語とともに、持ち運ぶ bear along という訳語をも記している。

 

 

He sustainsbears along all things by his powerful word.

 

 この世界、宇宙を全体としてその御手で最終的な神の国へと持ち運んでいる、導いているというのは他の箇所でも示されている。

 

 

…すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。(ローマ十一の三六)

 

…こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる。(エペソ一の十)

 

 

 天地のすべての創造されたものを支え、究極的な神の国へと運ぶ、ということは絶大な力である。そのような大きなことが、キリストの言葉によってなされている、とヘブル書の著者は啓示されたのである。

 

 このように、神の子キリストの言葉が特別な力を持っているがゆえに、ヘブル書ではさらに次ぎのようにも言われている。

 

 

…神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。(ヘブル四の十二)

 

 

 神の言葉の本質である、「生きている」「力を発揮する(エネルギーに満ちている)(*)」ということは、ヘブル書の箇所では、とくに人の心を見抜く方面についていわれているが、もちろん、あらゆる方面でみられる。

 

*)「力を発揮する」と訳されている原語(ギリシャ語)は、エネルゲース(energhs)であり、これは、エネルギーという言葉の語源にもなっている。たしかに神の言葉は、終わることなきエネルギーを持っている。

 

 

 いつも生きている、これが神の言葉の特質である。

 

 人間の言葉は、そのうち消えていく。有名な政治家や人気俳優などの言葉はある期間は力があって多くの人を引きつけることがあるが、時間が経つとほとんど忘れ去られていき、そのような言葉が人を励ますとかいうこともなくなっていく。

 

 人間の言葉でも、ときには人を励ましたりすることができる。しかしそれは一部の人に対してだけ、そしてしばしば一時的である。 むしろ、正しい道からはずれさせたり、他人を傷つけたり、疑問を持たせたり、人間関係を分裂させたりするほうがずっと多いと言えよう。

 

 それに対して神の言葉は、万人に対して今も生きている。信じると信じないとにかかわらずである。道にはずれたことをしていたら必ず裁きがある、それは信仰の有無とは関係がない。

 

 神に背くときには、裁きがある。ぶどうの木であるキリストにつながっていなかったら、実を結ばずに枯れて投げ捨てられて焼かれると記されている。(ヨハネ十五章)これもキリストの言葉であり、神の言葉である。

 

 神とは真実であり、神に背くとは不真実なこと、それゆえに、人に対して偽りをしたり、裏切ったり、だますなどのことをやり、しかもそれを悔い改めようともせずにそうした不真実な言動を続けるなら、その人の心は確実に清いものが分からなくなり、心は真実なものに感動することもできなくなる。枯れていく。そしてよい心の部分もなくなっていく。それが火に投げ込まれて焼かれる、という厳しい表現に込められていることである。

 

 このようなことは、信仰を持つとか持たないといったこととは関係のないこの世の事実である。神の言葉の力は当然のことながら、このようなごく普通に体験されることにも及んでいる。

 

 

 福音書には、神の言葉の力が至るところに見られる。それを記すのが福音書の目的であったからである。それらから一部を取り出してみたい。

 

 主イエスは、伝道の出発点において、サタンの誘惑を受けた。その時、何をもってそのサタンの誘惑に対抗されただろうか。それは、旧約聖書で語られた神の言葉であった。イエスを誘惑して、神の国のための働きができないようにしようというサタンの深いたくらみを退けるには、神の言葉が最も力あるからであった。

 

 このことは、私たちが出逢うあらゆる誘惑や困難において、神の言葉にすがることが、迷いや動揺から救われる道なのだということを示している。

 

 主イエスが、とくに、このような信仰は見たことがない、といわれたほどに心動かされたのは、ローマ人の百人隊長の信仰であった。その信仰の本質は、ただ、主イエスのひと言があれば、病気で死にかかっているような人間でも命を受けて立ち上がることができる、ということであった。それはイエスの言葉の力への絶対的な信頼であった。言いかえるとこの百人隊長は、イエスをただの律法の教師でなく、神の力を持ったお方であり、それゆえにこそ死に瀕した人でも命を与えることができると信じていたのである。

 

 ここに主イエスが、そして神がとくに喜ばれることは何であるかがわかる。それは神の言葉の力への絶対的な信頼(信仰)なのである。

 

 

…イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、病気で死にかかっていた部下を助けに来てくださるように頼んだ。

 

 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。

 

 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。

 

 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

 

イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(ルカ七の二~十)

 

 

 このように、キリストの言葉を信頼し、ゆだねることを主は喜ばれる。これは、幼な子が母親を全面的な信頼のまなざしで見つめるような姿勢であり、だからこそ、主イエスは、幼な子のような心をもって主を仰ぎ、神の国、神の言葉を受けいれることをとくに重要とされたのであった。

 

 

…するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。

 

よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない。(ルカ十八の十六~十七)

 

 

 こうした神の言葉の力は、歴史のなかでも大きな働きをしてきた。歴史を動かしているのは、人間の権力や武力など人間の意志に結びついたものや、偶然でなく、神の言葉なのである。

 

 旧約聖書の相当部分は、そのことを具体的な歴史を通して語っている書物である。「聞け、イスラエルよ…」という主への情熱に満ちた語りかけは、旧約聖書の申命記に見られる。そこには、神の言葉に従うときには限りない祝福があるが、神の言葉に背くときには、人々の心の荒廃が生まれ、災害や外国からの攻撃などによって国は滅びていくことが繰り返し強調されている。

 

 そして、実際にその通りに神に背いた人たちとその国は滅んでいった。

 

 しかし、国が滅びゆくなかで遠いバビロン(現在のイラク地方)にまで、捕虜として連行されていくことを甘んじて受けいれる者は、そこで守られ、時が来れば再び祖国であるパレスチナ(カナン)へと帰ることができる、ということも神の言葉として告げられていた。

 

 そしてこのこともその通りになり、捕囚となって五〇年が過ぎるころ、千数百キロもあるような遠いバビロンからカナンへと帰国することができたのであった。その帰国した民の子孫として、イエスが生まれ、また十二弟子やパウロが伝道者として起こされ、それがローマ帝国全域に広がっていくことになった。さらに、長い歴史の流れのなかで、キリスト教はヨーロッパの基本的な信仰のかたちとなり、ヨーロッパ全体の生活に絶大な影響を及ぼし、それがさらにアメリカ大陸にも伝わり、南北アメリカの広大な領域にわたって、人々の基本的な考え方となっていった。

 

 また、差別や人間の支配ばかりがあふれていた日本にも伝わって、その各地で、差別を撤廃し、弱者を救済し、盲人、ろうあ者、ハンセン病の人や手足の不自由な障害者の人たちをも神の愛が注がれる人たちだとみなされて、施設、学校、福祉などの制度が整えられていったのであった。

 

 このように、神の言葉が伝わるところに、国家や社会全体が大きく揺れ動き、古い制度や考え方が壊れ、根本的な変革がもたらされていった。


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