人は何によって生きるか

生きるということは、食物がなければできない。それゆえに食物の確保は第一に重要である、ということは誰もがすぐに分ることである。毎日のニュースで、経済問題が出ないことはない。経済とは、生産や流通、消費等の活動をいう言葉であるが、その根底にあるのは、食物の問題である。
 携帯電話や自動車、テレビ、パソコンなどの生産、販売のことは毎日のようにニュースなどでみられるが、それらは販売競争で熾烈な戦いをしている。それは、うまく消費者の心をつかんで多く売れると多額の収益を確保できるが、油断して新しい消費者の求めを把握することを怠ると、たちまち業績が悪化し会社が倒産して、社員も解雇となり、生活に困るようになる、すなわち食物をえられなくなる。
 とくに発展途上国においては、生活保護を受けて、最低限の生活をすることも保証されていないところも多い。
 高度に産業が発達した国々であっても、世界的に知られた大企業が、大方の予想を裏切って会社が消滅してしまうということもあるゆえに、やはり経済問題はきわめて重要な問題となっている。 
 このように、貧しい国も、豊かな国も経済問題、その究極的な問題としての食べるということは当然のことながら、つねに第一の関心を集めている。
 このことは生き物にとって共通のことであり、一般の動物はその行動はたいてい食物の確保のためになされている。山を少し登ったところにあるわが家では、かつてこどものためもあって、二十羽ほどの小さいニワトリ(チャボ)を放し飼いで飼育していた。その生活ぶりを何年も観察することになったが、朝から夕方まで、ずっと食物を探しての一日であることがよく分る。
 これほど基本的な営みである、食べるということについて、最も深い見方を歴史の中で与えてきたのは、キリストであった。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ福音書四の四)
 これは、人間が生きるということは、何であるのか、それをきわめて簡潔に、しかも最も深い意味を持たせた言葉である。
 しかし、神の口から出る言葉で生きるといわれても、具体的にどういうことなのか、神を信じていない人には全く不可解であろう。
 神の言葉で生きる、それは私自身を振り返ってみて、確かにそうであった。私が大学時代、さまざまの考え方が対立し激しく互いに攻撃し合う状況に接した。人間の考え方とか生き方には千差万別のものがあり、どれがよいのか分からなくなった。
 そうした混乱のときに、ほかの難しい問題もあって、生きていく力を失っていった。そのときに、キリスト教の本に出会った。そこで書いてあった、聖書の言葉によって私は、聖書の真理に目が開かれた。それから、私の生涯の方向が変わった。そして確かに新しい命が与えられて、前に進めるようになった。
 これは、たしかに、神の口から出る言葉、すなわち聖書の言葉によって生きるようにしていただいたのであった。
 生きる力が与えられ、その目標が示され、その方向に歩いていく力がたしかに与えられたのである。
 このようなことは数知れなくある。キリスト教が世界に広がっていったこと、とくに初期には、貧しい人、奴隷、圧迫されている人たちを中心に伝わったのは、そうした底辺にあって生きる力を失った人、あるいは失いそうになっている人たちに、確かに生きる力を与えてきたからこそ、伝わったのである。
 彼らを生かしたのは、国の経済が好転したからでも、地位が上がったからでもない。豊かになったということでもない。ただ、その置かれた状況にあって、神の言葉が、それまで経験したことのない力を与えるものであったのである。
 主イエスが言われたように、深い悲しみに沈む者、追い詰められた者たちが、聖書の短い言葉によって新たな力を与えられたのである。それは風のように、思いがけない人たちに、予想しないような力を与えたのである。
 キリスト教の初期の人たちは、現代のような聖書は持っていなかった。用紙そのものがなかったし、筆記具もいまのような便利なものはなかった。パピルス(*)や羊皮紙というのもそれを作るのが大変である。

(*)パピルスとは、カヤツリグサ科の植物で、その植物の茎の中味を取り出して打ちたたき、圧力を加えて重ね合わすという方法で紙に似たものを作る。古代ではそれに書いていた。
羊皮紙はその文字のとおり、羊の皮を用いたもので、これも簡単には作れない。現代では、紙はいくらでも簡単に手に入るが、古代では紙そのものが貴重品であったし、現在のような軽くて薄いものでなかった。それにインクの類も作るのは難しいから、神の言葉を書いたものというのは、とても入手の困難なものであった。さらに、書かれた文字を読める人がまた少数であった。
 このようにみてくると分るように、神の言葉は聖書に書かれていると思いがちであるが、印刷術が発明されるまでは、神の言葉を聖書として自分のものとして読むということはごく一部の人しかできないことであった。
 このような時代、文字も読めない人が多数であったときには、書物になった神の言葉を読んで、それをもって生きる糧にするということはできないことであった。
十二弟子たちが直接にイエスの生前に聞いた言葉を語り伝え、また、使徒たちは復活したイエスと出会い、そのイエスの別の現れである聖なる霊を受けて復活のこと、十字架の死による罪の赦しの福音その他の真理を聞き取り、それが、口頭で伝えられていった。
それらを神からの言葉として受け取った人たちは、たしかに苦しい生活で暗闇のなかにいた人たちが実際に光を与えられ、命を与えられて、さらにその喜びと力を他者に伝えていった。
それは使徒パウロの次のような言葉からもうかがえる。
…わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。(Tテサロニケ二の十三)
神の口からでる一つ一つの言葉で生きる、と主イエスは言われた。そして私たちが本当に神の言葉として受けているかどうかは、パウロが言っているように、それが今も私たちの内に働いているかどうかでわかる。
神の言葉が私たちの内に働いているならば、それはたえず、愛へとうながすものであり、さまざまの出来事、現象のなかに神の力やはたらきを実感させる。
すでに旧約聖書の詩人が述べている。
…天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。(詩篇十九の二)
神の言葉が内に働いているならば、このように空の青いひろがりをみても、夜空の星や月、あるいは毎日当然のようにみている太陽を見ても神の栄光が実感され、神のはたらきを見るようになる。
人間世界を見ても、自然のさまざまの現象を見ても、そこに神の御手のはたらきを実感するなら、それが神の口から出る言葉を食べることにつながる。
口から入る食物だけでは人間として本当の意味で生きることはできない。
聖書にはこのことを補って、一般的にはとても不可解でなじめない表現であるが、「キリストこそ命のパンである」と言われて、それを食べることの重要性が強調されている。これはどういうことであろうか。
…わたしは命のパンである。
これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。…このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
イエスは言われた。「はっきり言っておく。(*)
人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。(ヨハネ福音書六の四八〜五六より)
(*)「はっきり言っておく」原文は、アーメン、アーメン(「誠に、まことに」、あるいは、「本当に真理を」の意)と、繰り返した表現であり、この言葉の真理性を強調した言い方である。単に「あいまいでなく、明確に」という意味ではない。
このような一般の人たちが強い違和感を持つような表現を使ったために、当時のユダヤ人たちも、意味がわからずに互いに議論をはじめたが、それまで従っていた多くの弟子たちまで、「こんなひどいことは聞いてはいられない」と、イエスを離れさり、もはやイエスとともに歩まなくなった。(ヨハネ六の六〇〜六六)と記されている。
それは今日でも同様で、いろいろな聖句集などでも、この箇所を引用することはほとんど見られない。しかし、これを書き残したヨハネ福音書の著者は、つよいうながしと啓示を受けたからこそ書き記したのである。ここでも、注で書いたように、(*)の部分にある、「はっきり言っておく」と訳された部分は、特別な強調表現なのである。
これは、「キリストを食べる、キリストの血を飲む」ということが、人間にとってきわめて重要だからである。それは、キリストの真実な実体を私たちの魂の内に取り入れることにほかならない。キリストの命を私たちが受け取ることなのである。
それをしないかぎり、私たちは本当の人間としては生きられない、と言おうとしている。
それは、さまざまの出来事のたびに、キリストを思うことであり、それによってキリストからの霊を受けることである。
よいことがあれば感謝する、よいことでなくても主に感謝する、それによってキリストとの結びつきが新たにしていただける。それがキリストを食べるということである。さまざまの事件、事故に接しても、キリストがそうした出来事に遭遇した人達を導いて下さるようにと、祈り願うことである。
創世記には、闇と混沌のなかに、神の言葉によって光があった、ということが記されている。それは、どんな闇であっても、そこに光を待ち望み、光あれ、との神の言葉を待ち望むときに、光が与えられるということであり、またキリストが来られたことによってすでにその光が闇と混沌のこの世に輝いているということである。キリストご自身が光であるから、キリストを心で見つめるだけで、その光が私たちの内に輝きはじめるようにして下さった。
そのことが、キリストを食べることであり、キリストの命をいただくことである。主イエスが、「私は命の光である」と言われた通りである。
悲しみのときも、キリストに向かうとき、主からの力づけを与えられるなら、それもキリストを食べることだと言える。
主イエスがわたしにとどまっていなさい、と言われたことも、イエスのうちにいる、ということは、イエスを霊的に食べるということである。もし私たちがイエスのうちにとどまっているならば、主イエスも私たちのうちにとどまっている、と約束された。それは、私たちの食べ物となって私たちの内に入るということである。
いつも感謝しなさい、いつも祈れ、ということは、言いかえるといつもキリストと結びついていること、キリストを食べるということをすすめているのである。
しかし、敵を憎めば、毒を食べるようなものである。また、敵対する人に恐怖を抱くばかりであっても、また私たちに有害なものを食べることになる。敵でなくとも、まわりの人達に無関心であることは、何もそこから栄養をとらないことである。
しかし、もし私たちがその人たちのために平和を祈るならば、その祈りは私たちに帰ってくる、と言われた。(マタイ十の十三)
それは私たちが、主の持ち物である主の平和を食べること、取り入れることである。
食前の祈りも同様である。食事が与えられたという感謝とともに、霊の糧も与えてください、と祈ることは、単にからだを支えるということにとどまらず、キリストの霊的なからだを私たちの内に取り入れることができるようにとの祈りである。
ヨハネ福音書、ヘブル書の第一章には、万物はキリストによって創造されたとある。
「万物は、言(原語はロゴスで、地上に現れる以前のキリストを意味する)によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ一の三)
「御子によって世界を創造された。」(ヘブル書一の二)
それゆえに、万物には、キリストの愛がそこに込められているのである。
人間を見ても自然を見ても私たちがそのことをいつも主に結びつけ、キリストの愛がそこにあると信じて受け取るならば、それは「キリストを食べる」こと、になる。
相手のことを、主を見上げつつ、祈ることができればその人にとってもそれは新たな命を与えられることになるし、相手にも神の霊が働くであろう。
敵のために祈れというのは、神のお心であり、神の口から出たお言葉であるから、そのことができれば、私たちは神の口から出る一つの言葉で生かされたということになる。
美しい自然、変化に富んだ自然、その力強さや、大空の雄大さ、その色やすがた、野草の花々の繊細な美しさ、雨や風といった身近な自然をも、神からの愛の賜物だと信じて受け取るとき、それも神の言葉を食べて生きるということである。そうした自然のひとつひとつが愛の神の言葉によって創造されたものだからである。
日常生活のさまざまの場面において、つねにこのように神や主イエスと結びつけて受け取ることは、神が望まれていること、神の御心にかなったことである。
神がすべてを最善にされている、と心から信じることによって初めて私たちは、聖書にある言葉「いつも喜べ、たえず感謝せよ」を少しずつ実現していくことができる。
そのことは、すなわち、この神の言によって生かされていくということである。心からの喜びや感謝は人を生かすものだからである。
このように、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのだ、という主イエスのことばは、きわめて身近なことだということがわかる。 新聞を見ても、テレビのニュースを見ても、また信仰の書物や、自然界や社会的出来事を見ても、私たちの心を引き締めているならば、つねに神と結びつけて受け取ることができる。
それは理性的な判断を伴うことなので、心の奥深くにいつも主にある静けさを保つことが求められている。
旧約聖書に現れる預言者たちは、かれらの置かれたところの人々が、神の正しい道からはずれて生活して大多数が間違った方向へと流されていることを知っていた。それをただ嘆くとか怒るのでなく、神と結びつけて見つめていた。神はそのような人々の心の荒廃を必ず罰せられる、正義の神にはさばきが必ず生じるということ、そこから心を神に向け変える方向転換をするように繰り返し語った。他方では、貧しい人たち、社会的な弱者への神の深い配慮が同時に語られている。
こうした預言者たちは、たしかに神からの言葉によって生かされていたのである。神の口からでる一つ一つの言葉によって生かされていたからこそ、力も与えられ、周囲の敵対する人たちに恐れずに語り続けることができたのだった。
そしてその深い洞察力は、数百年を経て現れることになるキリストを預言し、さらにキリスト以降の世界にも、彼らが受けた神の言葉の持つ力は衰えることなく続いている。
主イエスが、人は、神によって生きる、と言わず、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる、といわれたこと、それは、言葉の重要性を意味する。神からのほんのひと言の語りかけであっても、それによって人は生きるのである。人間にはほかの動物にはない、複雑な言葉の世界が与えられている。それは互いに語りかける存在として創造されているからである。
そして、語り合う相手がなかったら、人間は精神的にもやせ細っていく。だれからも話しかけられない、といった状況は、言葉を与えられた人間には耐えがたいことなのである。
しかし、家族や親族がいない人、病院で孤独な苦しみとの戦いを強いられる人、また、学校や会社、あるいは施設にいてもまわりの人たちからのいじめを受けたりする場合には心を通じ合える言葉を交わすことのできない状況も多くあるだろう。
また、政治犯のように、長く孤独、かつ絶望的な牢獄での生活を強いられる人も多数いる。そうした特殊な人でなくとも、死が近づくときには、一人でその未知の世界に直面しなければならない。
こうした語り合える人のいない恐ろしさに対しても、語りかける神、キリストがいてくださるということは何とありがたいことだろう。
そのような死んでしまうような状況にあっても、生かすもの、それこそは神が直接に語りかけること、あるいはかつて聞いた聖書の言葉が生きて語りかけることである。私たちの通常の人間生活にあっても、わずかひと言の愛のこもった語りかけで、暗い気持ちが晴れることもある。そして生かされる。
神の愛の息吹の一吹き、それがたとえ神からの小さく細い語りかけや励ましであっても、私たちの憂いの雲は拭いさられるのである。
そうしたさまざまの意味をもって、人はパンだけでは生きるのでなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる、という真理が私たちに与えられている。

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