リストボタン幼子、乳飲み子の口によっ て―詩篇第八篇

2 主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。
天に輝くあなたの威光をたたえます
幼な子、乳飲み子の口によって。
(あなたは、みどり児、乳飲み子の口に力の基を置き、
敵に備え給う、
仇する者、敵する者をしずめんがために。―関根正雄訳)(*)
4 あなたの天を、あなたの指の業を  
わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
5 そのあなたが御心に留めてくださるとは  
人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう  
あなたが顧みてくださるとは。
6 神に僅かに劣るものとして人を造り  
なお、栄光と威光を冠としていただかせ
7 御手によって造られたものをすべて治めるように  
その足もとに置かれました。
8 羊も牛も、野の獣も
9 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
10 主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。
(*)ヘブル語の原文では、「幼な子の口に力を置いた」とあるが、旧約聖書のギリシャ語訳(七〇人訳)では、力でなく、「賛美」を置いたと訳している。新約聖書に引用されているのは、このギリシャ語訳の文である。関根訳、新改訳などはヘブル語文の訳文なので「力」と訳している。口語訳は、福音書に引用された訳文に従って「賛美」と訳している。
この詩では神の本質を讃美せざるを得ない心、神の本質が全地に満ちていることに対する非常に深い驚きと感謝の気持ちが、最初と最後におかれている。
二節にある「あなたの御名は全地に…」というところに、名とは神の本質であるということが表されていて、単なる名前とは全く違うことが分かる。
名という言葉は日本語ではこのような使い方を決してしない。普通の意味での神の名前が全地に満ちて力強いというように受け取るなら、本来の内容がまったくつかめなくなる。
神の名が全地に満ちているというのは、神の名、すなわち、神の万能、英知、美しさ、清さといった神の本質が力強く全地に満ちているということをまず言っている。
世の中には悪も混乱も戦争も危機も昔からあったから、このように実感するためには、地上の出来事を越えて神の御業を見るのでなければ、このような深い感嘆の念は起こらず、むしろどうして飢饉が起こったり、病気が蔓延したりするのかと疑問が生まれるだけである。
心から神の本質を深く感じて讃美するということは、目に見えるものとそしてその背後にあるものをしっかり見ることができているということを意味する。
幼な子、乳飲み子がこの詩の作者にとって重要な意味を持っていた。
この詩の作者は、ふつうは無視されている幼な子が、かえって神の栄光を人間の中で特にたたえているというのである。主イエスも幼子のようにならなければ、神の国に入れないと言われたことに通じるものがある。
幼子らしい純真さをもって語るたどたどしい言葉が神の栄光をたたえているという。言葉の使い方に慣れた人のたくみな表現よりも、何の意図的な表現もなくただ素朴な幼な子らしい言葉づかいのなかに、この詩の作者は深いものを感じ取っていた。
乳児が天に輝く万能の神の栄光をたたえているというような発想は、普通は起こらないはずである。そこがこの旧約聖書の詩と一般の詩の非常に違うところである。
誰でも赤ちゃんはかわいいものと思うだけで、それ以上のものを感じ取ったりすることは少ない。しかしこの詩の作者は、かわいいと感じるだけには決してとどまっておらず、幼な子らしさの重要性を深く実感していた。
日本の万葉集、古今集など、古来の和歌を見ても、幼な子らしさの重要性を歌った和歌などは見られないし、プラトンの哲学などにも出てこない。
しかし、聖書においてはこのようにキリストの出現よりも数百年以上も昔から、幼な子は一番力の弱いものであるにもかかわらず、その純真な口元や表情、そのたどたどしい言葉がかえって神の栄光をたたえているのを見抜いていたのである。
強力な軍隊、高性能の爆撃機、核兵器などは、全く神の栄光をたたえたりはしない。また、政治の世界やスポーツ、人気歌手などマスコミによく現れるような人たちの存在もまた神をたたえることを連想されるものはほとんど見られない。
新約聖書の中でのパウロの言葉はこうした精神の延長上にある。
…ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。(コリントの信徒への手紙一 一・二七)
幼な子と軍隊や核兵器というのは、全く対照的で、幼な子は相手を攻撃したり、破壊したりすることは一切ない。そして幼子や乳飲み子の口は神の栄光をたたえるだけでなく、別の意味をも持っていることは、この箇所の異なる訳が示している。
この詩の最初の部分に、注に記したように、古代のギリシャ語訳では、ヘブル語の文と異なるニュアンスでもって訳されている。
「幼な子の口によって賛美されている」と訳された文は、ヘブル語文では「神は幼な子の口に力を置いた」となっている。
日本語では、賛美と力とは全く異なるように感じられるが、聖書的には、共通したものを持っている。神への賛美ができるということは、神の力を受けた者のみができることであり、神への賛美を捧げるところにはおのずから力が与えられるし、闇の力は退くからである。
詩篇の最後の部分には、神への賛美の詩(ハレルヤ!神を賛美せよ!)が集められているが、それは、闇の力に勝利した壮大なコーラスとなっている。
黙示録にもやはり同様に、サタンに対する神の大いなる力の勝利が天から聞こえてきたことが書かれている。
…その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。…
わたしはまた、大群衆の声のようなものが、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。
「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。私たちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。(黙示録十九の一〜七より)
賛美は力であるし、神の力を受けて悪の力に勝利している者には、おのずから賛美が生まれる。武力や権力、あるいは富の力を持ったものでなく、かえって幼子らしい無力な者に、神はその力を与えられる。
詩篇をはじめとする旧約聖書を深く学ぶと旧約聖書は新約聖書の真理につながるような内容を随所にたたえているのに気付かされる。山の深い地下を地下水が静かに流れているように、神の永遠の真理は、旧約聖書を通じて新約聖書の世界へと流れ込んでいるのである。
この世はごまかしをしたり、欺いたり、武力を持ったり、策略をしたり、このようなものが勝つのだというような考えが多く見られるが、ところが神の世界は駆け引きや策略でなく、神をまっすぐ見る者に不思議と神の力が与えられて、それこそが敵に対する砦になる。聖書は、このような見方を持っていて、これは一般の常識とは非常に違うところである。
この詩篇の真理の重要性をふかく知っておられた主イエスは、この詩篇の言葉をそのまま引用されたことがある。
それは、ご自分の最期が近づいたことを知って、十字架にかかるためにエルサレムに入ってこられた時のことである。人々や幼な子までもが、イエスを救い主としてあがめ、賛美していることを聞いた当時の支配者層の人たち(大祭司や聖書学者)が、怒りだしたが、そのときの言葉である。
…イエスは言われた。「あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」(マタイ二一の十六)
小さきもの、弱いと見える者にかえって神は真理への洞察を与え、神の力、天の力を与えたということは、この世の常識では考えられないことである。福音とは、幸福(良きこと)の音信(知らせ)という意味であるが、まことにこのようなことは、天来の良き知らせだと言えよう。
四節からは、単に星がきれいだとか、神秘的だと思うだけではなく、この詩の作者は、「あなたの天、あなたの指の業…」とあるように、それらは神によって創られ配置されており、いつも見える月や星の光の背後に神の人間に対する愛の心や不思議な力があることを実感していたのがうかがえる。
旧約聖書からすでに言われているように、神の本質は慈しみと真実。その神が創ったものは、無目的に単にきれいに輝いているのではなく、自分たちに向けられた美しさであり、清さである。
科学技術の産物はコンピュータや携帯電話、あるいは各種の器械など非常に便利であり、私たちの衣食住のあらゆる方面において不可欠なものとなっている。しかし、それらは、どのような悪事にも使われ得る。全く善悪への方向性を持っていない。
医学などとくに科学技術がよいほうに使われた例の一つであるが、それすらも、医学とともに発達してきて治療のために不可欠なさまざまの薬剤によってその副作用や誤用や悪用などのために、きわめて多くの病人があらたに作られてきたということもまた事実なのである。
また、現在では車がなければ原料や材料の運搬、販売などもできず、あらゆる産業も成り立たないほどである。しかし、その車によって毎年五〇〇〇人前後という多数の人たちが命を失い、重軽傷を負う人たちは、九〇万人を越えている。
また、爆弾や大砲、銃の類によってどれほど多数の人たちが命を奪われ、手足など体の一部を損なわれ、生涯を苦しみのなかで過ごすようになり、幸いを奪われてきたことだろう。太平洋戦争においてもわずか四年足らずで、数千万の人たちが殺され、また傷つけられ、人生を破壊されてきたのである。科学技術が発達していなかったらこのようなことは有り得なかったことである。
また、現代の最大の脅威とみなされる問題は、核兵器がテロリストによって使われるのではないか、という恐れである。これは科学技術の最も発達したものとも言える核爆発を用いた結果の産物にほかならない。
しかし、神の愛ははっきり方向性があり、人間に向けられているのである。神が真実で愛ある存在であるということは、旧約聖書の古い時代から確言されている。

…主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、真実との豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者…(出エジプト記三四・六〜七)

そのような愛の神が創造した自然であるゆえに、それは人間への愛をもって創造されている。創世記の最初にあるように、人間は万物の創造のいわば冠として頂点として造られているからである。
 この詩篇は、単に星や天体などの美しさだけを言ってるのではなく、人間との関わりにおいてそうした自然を見つめている。ここには、人間に与えられた力や能力というものへの驚嘆がある。
この詩の作者は人を神にわずかに劣る者と言っている。わずかどころか、神とは到底比較することもできないほど、人間は小さな存在であるのに、どうしてこのように言っているのであろうか。

ここにある「神」の原語は神の複数形「エローヒーム」で「エローハ」の複数形だが、一般的には「神」と訳されている。一部の訳で、原語では神の複数形で書かれているので、devine(神的)な存在ということで天使を意味していると受け取ることもできるので、king James Versionでは angels(天使たち)、最近の代表的な英語訳の一つとして用いられている New International Versionでは heavenly beings(天的な存在)、 関根正雄訳でも天使と訳している。

この箇所は、詩的な表現を用いて、神が人間にいかにすばらしい能力を与えられたかということを言おうとしている。人間というのは強力な爪や牙や早く走る能力や翼を持っておらず、冬場では裸で外に放り出されたら死んでしまうような弱い者なのに、羊も牛もライオンのような猛獣をも支配することができる。
人間に与えられた支配の力の不思議さや人間の創造の神秘に作者は深い驚きをもって見ている。神が与えるならば、力のないものでも全て強い力を持つようになる。
これは新約聖書にもつながって、ペテロやヨハネは権力も学力もないただの漁師だった。しかし、神が力を与えられたゆえに、千年、二千年も強力な影響を与える存在となり、聖書におさめられたペテロの手紙やヨハネの福音書などを通してたくさんの人たちを、精神の世界で神の愛と真実によって支配してきた(導いてきた)と言える。
ここで、この詩と新約聖書とのつながりを考えてみよう。
 新約聖書の最初の部分に、主イエスの教えがある。そこに天の国(神の国)のことが記されている。

「ああ、幸いだ、心の貧しい人々は!
なぜなら、天の国はその人たちのものであるからだ。
ああ幸いだ悲しむ人たちは!
なぜなら、その人たちは神によって慰められる(励まされる)からである。」(マタイによる福音書五の三〜四)

日本語の天の国とか神の国というのは、支配というニュアンスを感じられないが、「国」と訳されている原語は、「バシレイア」で、王の支配、権威という意味である。それゆえ、この箇所においては、天の国というのは、「神の王としての支配、権威」という意味で、神が持っておられる権威や力が、幼子のような心の貧しき者に与えられるという意味なのである。
悲しむ者にも天の国が与えられるとは、神の悪に勝利する御支配の力が与えられるゆえに、慰められ、励まされるということなのである。
このように有名な山上の説教の最初は、内的には詩篇の八編と共通したものがある。わたしたちは、罪深く肉体的にもとても弱い存在であるのに、神を信じ、仰ぐだけで不思議な力を与えられて、悪に打ち倒されないで生きていける。
いつの時代にも戦争や病気、あるいは飢饉や天災など様々な暗い出来事や神の存在を疑わせるような出来事が生じてきたのに、そうしたあらゆる疑問や謎のようなこの世の世界に曇らされることなく、この詩の作者は神の無限の力と光を知らされ、人間の弱さも深く知り、それにもかかわらずに与えられてきた大いなる恵みを深く感じてきたのである。
暗いもので満ちているところを通り抜けるならば、青い空が広がっているが、この詩にはそうした澄みきった空の広がりを啓示された一人の人間の精神の世界が記されている。
そして弱き人間に与えられた、支配の力は、その究極的な姿としてキリストに見られる。キリストも弱い人間のかたちをもって地上に来られた。水がなければ渇きも感じ、人々の状況に接して悲しみ、祖国の滅亡を知って涙を流す人間でありながら、永遠の神の本質たる力を与えられていたのである。それゆえに、すべての人が打ち勝てなかった死の力にも打ち勝ち、復活され、聖霊というかたちで世界の人々を救い、現在も導いておられる。
私たちが、地上の出来事にばかり目を奪われるのでなく、聖なる霊によって導かれつつ、周囲の自然や世界を見つめ、そして今の生きて働いておられるキリストを仰ぐとき、この詩の作者のように、「主よ、あなたの御名はいかに力強く全地に満ちていることか!」という神への賛美の心へと導かれる。

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