リストボタン大いなる流れ
―イザヤ書二章より―

 私たちのこの世界はこれからどうなるのか、そのことに関しては、どんな政治、経済などの学者、あるいは科学者であっても、明確に予測できない。日本を代表するような企業のひとつであった航空関係の大会社の経営が成り立たなくなるなどということは、少し以前までは、だれも予想しなかったであろう。
 また、自然にかかわることも同様で、近年次々と大きい地震が生じているが、どれも予測できたものはないし、今年は台風がどのように発生するのか、どこで大雨があり、干ばつがあるのかなども全く予測できない。
 新型ウイルスにしても、たいへんな騒動をして備えたが、じっさいは大したことはなかっただけでなく、今年は、一般のインフルエンザの流行がほとんどなかったという好ましい結果も残した。それはその新型ウイルスの侵入のゆえだと考えられている。
 こんなことも現代の医学の先端の技術をもってしてもまったく予測できなかったことである。
 今年の夏は暑いのか、ふつうなのか、梅雨には雨は多いのか少ないのか、そうした身近なことも科学が発達し、さまざまの機器が整備されていってもなお、予測は非常に不十分でしばしば予測はまったくはずれてしまう。
 テロの発生にしてもどこで生じるのか、今後どうなるのか、だれも予測できない。どこかの国で政権交代がおきるのか、クーデターのようなことが生じるか、などももちろん分からない。
 こうした不確かなことは、一人一人の個人の前途についても同様である。明日どうなるのか、通勤列車はバスに事故があるのかないのか、だれも予測できないし、自分が交通事故に遭遇するかどうかも不明である。
 こうした前途の分からないのがこの世であるが、この霧に包まれたような世界の前途を、神はしばしば特別な人を呼び出してはっきりと示されている。その内容が記されているのが聖書にある。
 しかし、とくに旧約聖書はもともと、直接的にはイスラエル民族に対して言われた言葉であるゆえに、ヤコブとかシオン、エルサレムなど、我々と関係のないと思われる地名や人名が出てくるために、一見それは昔の単なる特定地域の記述だと思い込む人が多い。
 日本で聖書はたくさん購入されていても、その内容を真に受け取ることができる人はごく少ないのはこうした記述の意味を教えるところ(キリスト教の教会や集会)がごく少なく、自分で表面的に読んで、つまづいてしまうからというのもひとつの理由であろう。
 聖書では私たちの前途についてどのように言われているだろうか。ここでは、とくにイザヤ書のなかの言葉から見てみたい。

アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻(*)に見たこと。
 終わりの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 国々はこぞって大河のようにそこに向かい
 多くの民が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから
 御言葉はエルサレムから出る。

 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。
 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。(イザヤ書二章一〜五より)
 
(*)日本語訳では「幻に見たこと」とあるが、原文では、単に ハーザー(見た)であり、「幻に」という言葉はない。イザヤ書一章一節では、「イザヤが…見た幻」という表現があるが、そこでは「ハーゾーン」と、ハーザーの名詞形で書かれており、英語のvisionに当たる。
二章では「ハーザー」すなわち「見る」という動詞の完了形が使われている。関根訳では「示されたこと」と訳している。よく知られた英訳では
This is what Isaiah son of Amoz saw concerning Jerusalem.
と訳されている。
イザヤが、実際に霊的に見たことであるのに、 この訳のように「幻に見た」というと、本当はないものを見たのだと、いうニュアンスを生じる。
幻とは、国語辞典では次のように説明されている。「実在しないのに,あるように見えるもの。すぐ消えるはかないもの。」日本語の幻という言葉はこのように、単なる一時的なもので現実にはないもの、力を持たない個人的な夢のようなものだというニュアンスがある。
しかし、旧約聖書では、まったく逆で、イザヤなど預言者が見たことは、現実を鋭く見抜き、実際に起こることを特別に神が示したことなのである。はるか未来のことだけれども、はっきり見たのであった。

世の終わりにはどのようになるのか、言い換えればこの世界はどのような方に向かって進んでいるのかという非常に大きな展望がここでなされている。聖書の世界はスケールが大きい。新聞や雑誌、テレビなどは「今」起こっていることを書いたり評論したりしているが、別の出来事が起こると、すぐにそれまで重大事として扱っていたことをやめて、違うことへと話が移り変わる。
現在のことをたくさん知ったり、評論したところですぐに消えてしまう。そこにたくさんのエネルギーを注いだのは一体なんだったのかというぐらいに、この世のことはどんどん流れ去ってしまう。
 ところが聖書はそれと違い、この世界全てのことがどのような方向に向かっているのかと、比類のない大きなスケールで物事を見ている。
全世界が時間という大きな流れの中でどのようなところへ向かっているのかという展望なので、終末のことだから関係ないという人はいない。わたしたちが乗り物に乗るときでも、目的地を知らないで乗ることなど、考えられない。
この世界は何も意味がない偶然的なところへ向かっているのか。それともはっきりした意味のあるところへ向かって進んでいるのかと、大きなものの見方が聖書にははっきり書いてあり、それは他のどんな本にも書いていないことである。
「人間とは何か、どこから来て、どこへ行くのか、これは疑問のなかの疑問である。
だれでも、少なくとも一生に一度は、この疑問の答えを求めようとする。 しかし、たいていの人は、この答えを得ないままにこの世を去るのである。」(「幸福論」ヒルティ著 第一部二四八頁)
すでに述べたように、いくら多様な知識や学問があっても、非常に狭いところしか分からない。それに対して、このように啓示を受けた人はずっと先のことまで全部見抜いて書くことができたのである。
そして、その示された内容に従わないなら確実な裁きが生じるといったきわめて現実的なことなのである。 
人間はどんなに学問や研究、議論をしても、来年のことすら分からないのに、イザヤは今から数千年も前に、神から啓示を受け、実際にはっきりとこの世界はどこに向かっているのかを見ることができた。
 この世界はどこへ向かっているかに関する記述で、山と川を用いて表現されている。 
ここでは主の神殿の山、あらゆる山々の頭として堅く立つ山が見えたということである。
もう一つは霊的に大きな川である。それは国々や人間がそこへ向かって流れていく、そういう非常な大きい川の流れである。(*)わたしたちは二千七百年という時を超えて伝わる預言者の見たものを、少しなりとも想像することによって、その内容の大きなスケールに少しでも近づける。

(*)「大河のように向かう」とあるが、原文ではただ「ナーハル」(流れる)の過去形(カル完了形)である。ヘブル語では、未来のことであっても、確実なことや強調するときにはこのように一種の過去形であらわすことがしばしばある。
英訳では、次ぎのように訳されているのが多い。 …all the nations shall stream to it.

普通の川は上から下へ流れるが、この霊的な流れは高くそびえる山に向かって流れている。そして国々の多くの人々がその高い山に登ろうという気持ちを起こされる。その山の上こそ真理があるのだとはっきりした目標が見えた。そして人々がそこに向かって上ろうといっている声をイザヤは聞きとったのである。
このように人々を引きつけるのは一体何かというと、それは神の言葉である。目的地である大きな神の山、そこにはエルサレムや神殿があり、そこから神の言葉が出ていて、それに引き寄せられて人々が流れていくということである。このような大きな流れが二章の初めのテーマになっている。
そのような状態の時はどうなのか。地上ではどこの国でも子供のときから、小さなグループ、学校、家族、宗教的な中ですら、人間がいる限りいたるところで戦いや戦争がある。それは、人間は奪い合ったり、攻撃しあったり、憎しみあったりする心を持っているからである。
しかしこのように神の言葉に引き寄せられ、その流れの中に行く時には、憎しみなどといった心の剣みたいなものはみんな消えていく。
剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。
憲法九条の平和主義の源流もこのようなところにあり、このイザヤが神から直接に示された真理はその後もずっと影響を及ぼしていった。このイザヤが受けた啓示から二千七百年たってもその真理は古びることがない。
 このように、聖書の言葉は、非常に長い射程距離を持っている。
人間の知的な能力は過去のことなら、いろいろと調べて考察を加えて議論することはできる。しかし、未来のことはただ一時間先のことも正確に予見できないほど無力である。
地震の予知ができないということ、天気の予報もあたらないことはしばしばある。しかし、そのようなことでなくとも、毎日数知れない交通事故が発生しているが、明日、自分に事故が起こるかどうか、誰一人予見できないのである。
このように、未来のことに関しては人間の英知は決定的な弱さ、無能力さを持っている。それに対して、聖書の偉大なる点は、はるか千年、二千年という長い歳月を超えた先のことまで予見することができるというところにある。それは時間と空間を超えた神の言葉であるから、当然のことだと言える。
そうした雄大さと対照的であるが、たった一人の苦しみに沈む人の心の奥深くまで神の言葉は入って行くことができる。人間の心のあらゆる複雑さをも越え、時間を越え、国土を越えて、どこまでもその真理は通用する。
この宇宙にある大きな流れについて、新約聖書においても記されている。
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。」(ローマの信徒への手紙十一・36)
キリストの聖なる霊を最もゆたかに受けた人として使徒パウロは、このように万物が神に創造されただけでなく、神に向かって流れているという大いなる流れを神から啓示されたのであった。
パウロは、キリストの光を受けるまでは、キリストの真理がまったくわからずに、キリスト教徒たちを迫害して殺すことにまで加担していた。彼は、特別にユダヤ人のエリートとして、学問を身につけ、ユダヤ教に通じていた人であったが、それでもなお、まったくキリストの光は分からなかった。
彼が示されたこの宇宙の大いなる流れは、彼の受けた学問とか環境などによるのでなく、ひとえに神からの直接の啓示によるのであった。
イザヤ書では世界の国々はエルサレムの神の神殿に向かっていると言われているが、神殿とは神のおられる所であるから、神に向かう大いなる流れがあるということになる。これは、すでに引用したパウロが受けた真理「すべては神に向かっている」ということと本質的に同じことなのである。
私たちは今後どこに行くのか分からないのではない。このように、明確な行き先が示されているのである。聖書のメッセージがなければ、人間が死んだらどこへ行くのかも分からない。
千の風という歌がはやったことがあるが、人間の未来に関して抱く漠然とした思いが、いかに内容のないものであるかを示すものである。(*)

(*)この歌が日本で広く知られるもとになったと言える新井満氏は、自分の妻との会話を、次のようにその著書で書いている。
「僕の葬式のときには、ぜひこのCD(「千の風になって」)を遺影の後ろから流してくれませんか。」妻はしばらく黙っていたが、やがてぼそりとつぶやくように言った「りょうかい」それからすぐにつづけて、「ところで死んだあとはあなた、何に生まれ変るつもりですか。」「さあてね…」私もそこまでは考えていなかった。「あの歌のように、光や風になるのもいいが、象やライオンという手もある。いやいっそ屋久杉のような樹木になるかな」「一生のお願いがあるんだけど」妻はおもむろに口を開いて言った。「あのナマコだけはやめてください」妻はナマコが大嫌いなのである。(「千の風になって」新井満著 講談社五六〜五七頁)

多くの日本人は死んだら何になるか分からない、きちんと備えものなどしなかったら幽霊のようなものになると考え、たたってくるのを恐れることになる。そのたたりを受けないように死んだ人が、死後によいところに行ってくれるようにと手を合わせたりお供え物をしたりする。
このような考え方では、私たちの究極的な行き着く先というのが全く分からないことになる。千の風になるというが、風とは空気中の莫大な数の窒素や酸素分子などの動きである。(*)
そのような化学的な分子になるなどと、だれが信じているだろう。そしてだれがそのようなことを信じて心が安らぐだろうか。

(*)例えば、サイコロ程度の空間(一立法センチ)の空気のなかには、一兆の二五〇〇万倍という途方もない数の分子がある。これは高校の化学を学んだ者はアボガドロ定数を使ってこの計算ができる。それらの莫大な分子の動きが風なのであって、人間が死んだら風になるというならば、そういうおびただしい空気中の窒素分子や酸素分子になるということになってしまうが、そんなことはまずだれも信じていないはずである。

この歌には、死んだ人が風になったり雪や鳥になるなどという部分がある。雪といってもそれは化学的には水が固体になっただけのものであり、そのような水の分子になるのなら、さまざまの化学物質になるということにもなるし、鳥になるというのなら、ほかのどんな動物になるか不明であり、毒蛇や細菌になるのか、ということになる。それゆえに、人が死んだら風になるといったことは、昔の時代の漠然とした空想にすぎないものなのである。
この千の風という歌が流行したのは、それほどに私たちのすぐ目の前にある死ということ、いかなる科学も学問もどうすることもできない死という現実に関しては、日本人がきわめてあいまいな考え方しか持っていないということの現れであったと言えるだろう。
そのような現代日本の一般的な考え方に対して、この聖書の記者が受けた啓示の深さと広がりがきわだって見えてくる。
預言者イザヤは、彼が受けた啓示が、そうした大いなる宇宙的な流れに関するものであったから、それを繰り返し用いている。

…エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる。…
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず …
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。…
正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。…
水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
その日が来れば、主は再び御手を下して 御自分の民の残りの者を買い戻される。
彼らはアッシリア、エジプト、上エジプト、クシュ、エラム、シンアル、ハマト、海沿いの国々などに残されていた者である。
主は諸国の民に向かって旗印を掲げ 地の四方の果てから イスラエルの追放されていた者を引き寄せ ユダの散らされていた者を集められる。(イザヤ書二章より)
ここにも、大いなる流れがある。 後の時代にエッサイという人物の根、すなわち彼の子供がダビデ王となるが、その子孫としてメシア(キリスト)が現れる。そのメシアとはどのような存在であるかと言えば、それは神の霊によって満たされているお方であり、その満たされた霊によって、貧しい者、弱い者たちを愛をもって守るお方である。
さらにそのメシアの到来によって、この世界は、神を深く体験的に知るようになる人たちで満たされていく。そのメシアが旗印となって、世界の国々がそれを求めて大きなうねりとなって集まる。
この世界は、そうした大きな方向性を持っているというのが、はっきりとイザヤには啓示で示されたのである。
さらに、この箇所に続いて、世界の各地に散らされた多くの残りの者たちが帰ってくると言われる。アッシリア、エジプト、クシュ、シリア…といった地名は、現代の私たちにはほとんど何の関係もないという人が多いから、このような地名がたくさん出てくると読み過ごしてしまう場合が多い。
しかし、これはイスラエル周辺の世界の広大な地域をカバーしているのであって、メシアが現れるときには、世界の各地からそのメシアのもと、神のもとに集まってくるという壮大な未来の状況が、イザヤには示されたのであった。
散らされた人たちが神のもとに集まってくる、このことは、キリストの時代になって、単に特定の民族の特異な体験ということでなく、あらゆる人にあてはまることになった。全世界で権力者による迫害や差別、戦争など、あるいは病気や絶望的な苦しみなどによって遠くこの世の平和な生活から追いやられた人たちにもあてはまる。
主イエスご自身、「悩める、失われた羊たち」を探し出す働きをされた。弟子たちも、イエスから「人間をとる漁師にしよう」といわれた。それは、漁師が魚を自分のもとに集めるように、人々をキリストのもとに集める働きをするために呼び出したのである。 イエスに向かう大いなる流れを起こすべく、イエスから任命されたと言えるのである。
 新約聖書にはさらに次のような記述がある。
「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる。」(エフェソの信徒への手紙一・10)
時が満ちるに及んでということは、まさに世の終わりということである。この世界の最終的な段階においては、全体としてキリストのところにまとめられる、流れていく。
 この世の学問や科学技術や一般の教育では決して与えられない、このような大いなる流れを聖書から知らされる。
 私たちはそのことを信じ、この世が決して与えることのできない希望を持つことができ、そこで神の愛によって導かれて歩ませていただきたいと願うものである。
音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。