リストボタン天からの火

旧約聖書の中に、預言者エリヤが天からの火を呼んだとある。そして真実で慈しみに満ちた神に背を向けて行く者には、天からの火が降って滅ぼされるということが記されている。
すでに聖書の最初の書である創世記にも、腐敗と堕落を重ねたソドムとゴモラの町がやはり天からの火によって滅ぼされたことが記されている。

…主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、
これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。(創世記十九の二五)

天からの火が下る、というとそんなことは有り得ないと考えたり、そんな厳しいことがあるなら神の愛など信じない、などと言う人がいるかも知れない。
しかし、この記事は、今から二八〇〇年以上も昔のことなのである。このような表現をそのまま現代人の中に持ってきても違和感があるのは当然のことである。
しかし、ここで言われていることは、まったく現代では有り得ないようなことであろうか。
新約聖書の時代になっても、イエスのさきがけとして現れた洗礼のヨハネは、イエスのことを次のように表した。

…わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。
わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(マタイ福音書三の十一)

主イエスがこの世に来られたのは、水で洗礼することが目的でなく、聖霊と火をもって洗礼をすることだという。どのような意味であろうか。悪しき生活を転じて、神に向き直る人には聖霊が与えられるが、神が送ったイエスに背を向けてよき実を結ぼうとしないものには、神からの裁きがなされる、ということなのである。天からの火をもって悪そのものを滅ぼすということである。
これはイエスのさきがけとして来た洗礼のヨハネだからこのような厳しい表現をする、と思われることもある。しかし、ヨハネ福音書においては、主イエスご自身が、次のように言われた。

…私につながっていない人があれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ十五の六)

この聖句の直前には、「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっているならば、その人は豊かに実を結ぶ」という有名な言葉がある。
ぶどうの木にたとえられているから、自然の樹木のやさしいイメージがここにはある。しかし、そのすぐあとには、このように、火で焼かれるという言葉がある。
主イエスにつながることを拒み続け、意図的にイエスをこの世に送った神の愛を受け取ろうとしない場合には、その人の魂は枯れていく。そして最終的には火で焼かれるようになくなってしまう、ということなのである。
これは決して特別に厳しいといったことでなく、私たちの周囲にいくらでもみられることである。
この世に存在する清いものへの真実な愛、そうしたものを有り得ないとして、そのようなものを踏みつけるような意志や行動を続けていれば、必ずそのような人の心は硬化して滅んでいく。
キリストは愛や真実そのものである。そのような愛や真実に背を向けて、憎しみや怒り、ねたみ、あるいは、言うことと心で思っていることとがまったく異なるような不真実な生き方を重ねていけば、必ずそのような人の心は、枯れていく。
柔らかな感受性や美しいもの、清いものに感動する心や真実なものを目指そうとする心はなくなっていく。
それをキリストは、「私につながっていない枝は枯れていく」と言われたのである。
さらに、次のようにも言われた。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。(ルカ十二の四九)

ここで言われている火、それは悪への裁きの火である。そして一人一人の中に宿る悪、すなわち罪の本性を焼き尽くす火でもある。それゆえに清めの火でもある。
火というイメージは焼かれるということで、マイナスの内容をもって思い浮かべられることが多い。しかし、私たちの内にあるどうしてもなくならない罪の根源を焼く神の火こそ、私たちが求めるものである。悪とはたんに悪いことをしている人を意味するのではない。悪人のなかに宿って悪行をなさしめている霊的な力を指すのである。それゆえそのような悪の力が焼かれるならば、その人はよき人、清められた人になる。
その積極的なプラスの意味をもった火、それが聖霊の火である。
使徒言行録には、復活のキリストが命じた言葉を守って、みんなが祈って待っていたとき、聖霊が炎のように一人一人に下ったと記されている。そこからキリスト教伝道が出発した。
さばきの火を受けるのか、走っても弱ることなき火のような力を与えられるのかという大きな違いがここにある。
讃美にも、次のように、聖霊の火によって燃やされ、神の力を与えられて歩む姿が歌われている。

御恵みの高嶺に 遂に登りたる身には
見渡す限り ただ 神の御栄えのみ
心は燃ゆ 心は燃ゆ 御霊の火にて燃ゆ 
心は燃ゆ 心は燃ゆ 御霊の火にて燃ゆ(新聖歌四一一番)

天からの火、私たちが主イエスと結びついているときには、それは決して恐れをもたらすものでなく、かえって、私たちの奥に潜む堅い自我や罪を焼き滅ぼして下さるものとして働く。
十字架の主を仰ぐときに、天からの火は下るとも言えよう。
それゆえに、私たちの魂をうるおす天からの水とともに、内なる悪しきものの根源を滅ぼし、御国への燃えるような情熱を持続させてくれる天からの火もまた、私たちにとって不可欠なものなのである。


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