リストボタン核廃絶と憲法九条

八月になって、広島、長崎に原爆が落とされた日が近づくと、毎年核廃絶ということが新聞やテレビのニュースなどで言われる。
政府関係者もまた、同様に核廃絶という言葉をよく使う。 核兵器を廃絶すれば問題はなくなるかのような響きさえそこに感じられることがある。
核兵器で多数の人が死ぬ、そして何十年も苦しむ人が大量に出てくる。そのような兵器を廃絶することは当然、人類の願いである。
しかし、もし核兵器を廃絶したらそれで問題は解決するのだろうか。核兵器がなくとも、高性能の爆弾を用いれば、多量の人間の命を奪い、一生を破壊するような身体の重い傷害を受けることも多数生じる。そしてそれらの人たちの家族もともに取返しのつかないような苦しみと痛みを負わされて長い人生を歩まねばならない。
核兵器を使わずとも、東京大空襲では十万人もが、一夜にして命を失ったし、生き残った人たちも重度のやけどや身体に大怪我をしたり、家族の多くが死んだり重い病人や障がい者となった人たちも多い。
そうした数知れない人たちの死や苦しみや悲しみは、原爆とは関係なく生じている。
また、東京大空襲に続く日本の大都市の空襲によって、おびただしい人たちの命が失われて行った。
これは、日本がそれより何年か前に中国本土の上海、南京、重慶などの大都市に対して行った無差別爆撃という悪行の報いを日本が受けたという形になった。
 重慶への空爆は、一九三九年から五年半にもわたって二百回以上行われ、激しいときには、二日間で四〇〇〇人ほども犠牲者が出たという。
ベトナム戦争やイラク戦争、あるいはアメリカで高層ビルが破壊された同時多発テロなどでも核兵器は使われなかったが、膨大な死者や大怪我をした人たちが生まれた。ベトナム戦争だけでも、数百万人もの犠牲者が出たと言われる。
また、そういう戦争以前に行われた、日中戦争、太平洋戦争などで、日本軍が中国やアジアの国々に対して千万から一五〇〇万人にも及ぶとも言われるおびただしい人命を奪い、また身体の損傷を受けたのはさらに多く、人々の家庭や人生を破壊していったのも、核兵器による殺傷ではなかった。
ヨーロッパで行われた第二次世界大戦も核兵器は使われなかった。そこでも二〇〇〇万人に及ぶ大量の命が失われ、それ以上の人たちが負傷者となっている。
これらはみな核兵器を使わずに生じた犠牲者である。
このようなおびただしい犠牲者を生み出したもの、それは戦争である。
このように、核廃絶ということをいくら言っても、そしてもしも核廃絶がなされたとしても、戦争というものがある限り多くの人たちの命は奪われ、生活を破壊される人たちが生まれるということである。
NHKやその他新聞のニュースや報道記事で、核廃絶をしようとか、原爆被災者の話しを聞くとかがいつも繰り返しなされている。それはそれで必要なことである。
しかし、核兵器を使わなくとも、戦争が起こったらその状況によってはすでに述べたように、数千万という人たちが殺され、その死んだり重い怪我をした人たちの関係者もまた、長期にわたる苦しみを受けるのである。
それゆえに、戦争そのものを否定するのでなかったら、戦争の悲劇は生まれる。そしてその戦争を否定するためにこそ、日本には憲法九条が生まれた。
けれども、毎年の八月の各種の報道や記事では、核廃絶、戦争があってはならない、というような記事と戦争でどんなに悲惨な目にあったかという老人の体験談を語らせて終わるというのが通常である。
戦争を起こさせないために、いまの平和憲法を守らねばならない、といった主張はほとんどそうした紙面や報道では出てこない。
平和を守るため、自国を守るためと称して、戦前も戦力増強の道を歩み、それが第二次世界大戦、太平洋戦争などとなった。現在も同様な理由で、核兵器を持つべきだという国々があるし、日本でもそういう主張をする政治家や学者たちがいる。
しかし、そうした考え方や主張こそが、今日の核兵器のはんらんと世界的危機を生み出したのである。
 また、八月には核廃絶という言葉と共に、平和への願いとかいった言葉が繰り返し使われる。だが単に平和というだけでは、戦争の大きな口実にさえなってきたのである。
 太平洋戦争を始めたときの天皇の開戦の詔勅(*)の最後には何と言われていたか、それはまさに、平和のためということであった。

(*) 皇祖皇宗の神霊、上に在り、朕は、…速に禍根を芟除(せんじょ)して、東亜永遠の平和を確立し…。

それゆえに、核廃絶すべきだとか、平和は大切だ、いう言葉を使って終わるのでなく、戦争廃絶をいうべきである。そのためには日本は特別にその戦争廃絶をうたった憲法九条があるのだからその精神を世界に高く掲げることこそ、日本の特別な使命がある。
そしてこの精神の根源は聖書にある。それは二五〇〇年ほども昔に書かれたと考えられる旧約聖書のイザヤ書の一部にすでに見られ、新約聖書に完全な形で現れる。キリストやその代表的弟子であったパウロやヨハネ、ペテロといった人たちの受けた啓示は、悪を倒すために、武力を使え、というような教えはまったく含まれていない。
このように、二〇〇〇年を越える昔から一貫して人類の心を流れてきた聖書の真理こそは、現代の混沌とした状況や、将来の何が起こるか分からない状況にあっても、つねに私たちを導くともしびなのである。


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