リストボタン愛と賛美の力によって 煉獄篇 第二七歌(その1)

煉獄篇第二十七歌では、人間の本能的欲望に負けた人たちが、煉獄の山の道の際から吹き出る炎によって焼かれつつ、その罪を清めている。
ダンテと、彼を導くウェルギリウス、スタテウスたちは、その火に焼かれないように環道のへりを一人ずつ歩いていった。
ここは最後の環道であったから、そこから上に登るならば、地上楽園に至ることができる。ダンテは、火に焼かれないままで、その地上楽園に至る登り道に入れるとおもっていた。
日はまさに沈もうとしていた。神の天使は、満面に喜びをたたえ、ダンテたちに現れた。 天使は炎の外にある環道のへりに立って、次のように歌った。

「何と幸いなことか、心の清き者は!」
この天使の声は、「そのさわやかさ、心地よさ、世間の声をはるかに凌ぐ。」(*)

(*)寿岳文章訳、原文は、in voce assai piu che la nostra viva (voce 声―英語のvoice 、assai非常に、 piu より以上に nostra 私たちの viva 生きている)
ダンテの英訳として代表的な、ケアリ訳とロングフェロー訳をあげておく。
・And with a voice, whose lively clearness far
Surpassed our human
(CARY 訳)
・In voice by far more living than our own. (Longfellow 訳)
・岩波文庫の山川訳は「その声 さわやかにして はるかにこの世のものにまされり」
・なお、河出書房の平川訳は、「私たちよりはるかに甲高い声で」とあるが、原語からしても、viva を 「甲高い」と訳するのは不可解な訳し方である。
この煉獄篇の状況において天使の声の状態の描写は重要であるが、訳によって大きく異なるのがわかる。

天使がみ言葉をもって賛美してダンテたちに語りかけたのであって、それは生き生きした声、いのちに満ちた声であって、それゆえに天の国のさわやかを帯びていたのである。
この後に続く聖書の言葉は、「その者たちは神を見る」である。火で焼かれて清められるとき、神を見るという祝福の境地へと導かれることを暗示している。
とくに最後の環道で清められるのは、本能にかかわる欲望であった。本能であるゆえに最後まで残る罪であり、汚す罪だといえる。そのために煉獄篇の最後の環道で、火によって清められている。
ダンテはこのようなみ言葉によって、その火を通っていくようにと後を押されたのである。
 煉獄の山においては、第一から第七までの環状になった道があり、その一つ一つの環道で違った種類の罪が何らかの苦しみを受けることによって清められている。
 そこから上部に上がるときに、その環道で罰と清めを受けていた罪が一つずつ天使によって消されていくのであった。
 例えば、第六の環道から第七の環道に至るときには、次のように記されている。

五月のそよ風が
草花のかおりに満ちあふれて、
かんばしくあたり一面にそよぐように、
風が私の額の真ん中に吹き寄せて、
(天使の)羽が動くのがはっきりと感じられ、
そこからかぐわしい大気が漂うのだった。(煉獄篇二四の一四五行〜)

あるいは、第五の環道から第六の環道に登るときには次のようにやはり天使が額の罪という文字を消している。

私の額から罪の文字を一字消して
私たちを第六の環道に送り込んだ天使は、
はや私たちの後ろはるかとなった。(二二の一〜三行)

現代のキリスト者においては、さまざまの罪は十字架のキリストを仰ぐことですべて赦されると信じるゆえに、このようにひとつずつ罪の種類に応じてその罪が消されていくという考え方は持っていない。
しかし、私たちの日々は神の恵みを受ける毎日ではあってもなお、その弱さから心ならずも罪を繰り返してしまうという実態がある。
そのような状況にあって、私たちが犯す罪を思い、またさまざまの苦しみや悩みもまた、犯した何らかの罪への罰であり、また同時に正しい道に立ち返るようにとの警告や勧めであり、また清めでもあるから、そのたびに十字架のキリストを仰いで罪の赦しを願うときには、み使いがその見えざる羽をもって私たちの罪を消してくれるのだと受け取ることができる。
実際、自然の谷川のながれや静かな夜の星の輝き、あるいは小鳥の歌や野草の花のたたずまい、といった自然の姿に接するときには、そこから天使の翼が私たちの罪深い魂に清い風を送ってくれて、罪を消し、心が清められるという実感を持つことができる。

このように上の環道に登るときに、天使によって一つ一つ罪が消されていくのであるが、第七の最後の環道から一番上部にある地上の楽園に登るときにはその記述がない。それはこの環道では火で焼かれているゆえに、その火が最後の清めとなっているからである。
さらに天使は言った。

「この火に咬まれぬうちは ここから先に行くことはできない。
聖き魂よ、この中へ入れ
彼方から響きわたる歌声に耳を傾けよ」

煉獄の山の頂上にある、地上の幸いな楽園、命あふれる場所に至るためには、火で焼かれるという苦しみを通っていかねばならない。このことは、旧約聖書の創世記にある記述と関連している。

…こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。(創世記三の二四)

アダムやエバたちには、労働することもなくして食べるによく、見ても美しい果実が備えられ、豊かな水も流れていた。しかし、彼らはそのような恵みに深く感謝して神の命令に従うことなく、蛇の誘惑に負けて神に背いてしまう。そのために彼らは楽園を追放された。
この記事は、現代の私たちにもさまざまのことを思い起こさせるものがある。私たちもまさにゆたかに与えられている神の恵みを思わず、歩むべき道を歩かずに闇の力、罪の力に負けてしまい、そこから大きな苦しみを受けることになることが実に多いからである。
命の木に至る道には、きらめく剣の炎が置かれたという。火で焼かれることなくしては命の木には達することができないようになったのであり、煉獄篇の二七歌にあるように、清められた者に与えられる地上楽園―それはエデンの園に似て、あらゆるうるわしきものに満ちているところであるが、そこに達するには、やはり火を通って行かねばならないのである。

しかし、ダンテは、そのような恐ろしい火を通っていくということはまったく考えてもいなかった。それゆえにこのように天使から言われても、到底はげしく燃える炎のなかに入ることはできないと思われた。
そのようなダンテに対して、ここまで導いてきたウェルギリウスが言った。
「わが子よ、火のなかに入ると激しい苦しみはあろうとも、死ぬことはない。
…地獄を通過するときにも、危険な場所を安全に導いてきた。ここではいよいよ神に近づいているゆえに、何を恐れることがあろうか。
 ただ、安んじて信ぜよ。もしお前がここにたとえ千年この炎のなかに留まろうとも、髪の毛一本焼けることもない。…さあ進むのだ。炎のなかに向かって信じて踏み込むのだ」
そのように、天使から言われ、さらに強くウェルギリウスにうながされてもなお、ダンテは一歩も炎にむかって前進できなかった。まるで足に根が生えたかのようであった。
いままで、地獄、煉獄と長い旅路をウェルギリウスに導かれ、彼の教え導くままにダンテは従っていった。そしてもうあと一息で地上のパラダイスというところまで来ることができた。
それにもかかわらず、この最後の登り道に入ろうとするところでこのようにウェルギリウスの強い勧めに従えない、ということはかつてなかったことである。
ここに、ダンテのような意志堅固の人であっても、自分の深い本性が焼かれるという苦痛にあえて踏み込むことができないということが示されている。それは、理性的な、哲学的な判断を十分に重ねてもなお、この自我とか本能的欲望の根を絶やすことはできないのであり、そのような特別な困難がここに示されている。
 私たちの内なる自我を砕くこと、それは実に困難なことであるゆえに、神はしばしば私たちに自分では決して選びとることのしない苦しみを与えて、自我を砕こうとされる。
どんなに意志堅固な者であっても、みずから交通事故にあって目が見えなくなったり、歩けなくなったりという大変な目にみずから遭おうとするものはいない。またひどい心臓や脳の病気になりたい、とか ハンセン病のような恐ろしい病気になろうとするものなどは有り得ない。
そのような人生の歩みのなかで遭遇するさまざまの困難を通っていく過程で神とキリストを知らされた人たちは、苦しみや孤独、悲しみによって魂が深く耕され、自我が砕かれ、そこから清めを受けてきた、ということを感じるであろう。
しかし、だれもみずからそのような火で焼かれるような魂の深い痛みや苦しみのなかに入っていくことはできない。
ダンテがこの激しく燃える火を前にしていかにウェルギリウスに強く勧められてもその火に入っていけなかったのもこうした困難を示すものである。
 そうした困難を導いたのは、神であり、神の愛であったということを、ずっと後になってようやく気付くのであるあるが、この煉獄篇の箇所においても、その炎の中へと踏み入れることができたのは、ただ一つの道によってのみであった。
それは人間の説得や、自分の理性的、哲学的判断でもなかった。ウェルギリウスはダンテが動こうとしないのを見て、次のように諭した。

「子よ、この火の壁こそは、お前とベアトリーチェとの間に立つ壁なのだ」

このウェルギリウスの言葉にベアトリーチェという名を聞いて、ダンテの心に大きな変化が生じた。ベアトリーチェとは、ダンテが九歳という子供のときにすでに出会ったといううるわしき女性である。しかし、神曲では単なる人間でなく、神の心をもった天的な存在の象徴として現れる。
ベアトリーチェへの愛は、ダンテの若きときにはすぐれて美しい異性への愛としてであったが、それはその後のダンテのさまざまの苦難、いわばそれは炎で焼かれるような苦難であったが、そうしたことによって若きときからの人間的な愛は焼かれ、神やキリストへの愛と同じようなものとしてたかめられていった。
この炎の壁を通ったらベアトリーチェという長年の愛をそそいできたお方、神の愛を完全に受けて清められた方に会えるのだ、という思いは、ダンテに新たな力を与えた。それによってダンテは炎のなかに入っていくことができるようになったのである。
たしかに、天的な愛は、どんな苦痛をも耐えていかせる力を持っている。理論でも説明でもない。ただ天からの声とみ言葉こそが、人を異常な困難な状況にあってもそこに入っていこうとする力を与えるのである。
新約聖書には、最初の殉教者、ステファノのことが記されている。彼は周囲の人たちから憎しみと怒りで石を投げつけられ死んでしまうが、そうした闇の力に呑み込まれようとするときに、天が開けてキリストが神の右におられるのが見えた。そのようなキリストにお会いできたということによってそのような恐ろしい敵意のなかでも、敵対する人たちへの愛をもって息を引き取ることができた。
私たちを、さまざまな苦難―それは人によっては火の中に入るような恐ろしい苦しみともなる―に入れるのは、偶然でも悪魔のわざでもなく、愛の神が私たちの魂を火のように焼くことで清め、鍛練して御国へのふさわしいものとするためである。
そしてまた私たちが、二つの道のいずれを選ぶべきかとその岐路に立つとき、より困難な道を選ぶことができるのは、神の愛を見つめ、それを信じるのでなかったらそのような火で焼かれるような困難を伴う道を選ぶことはできない。
ダンテが、理性の象徴であったウェルギリウスの繰り返し励ます声にもまったく動くことができなかったのは、理性の限界を意味するとともに、神の愛によらねば、私たちはまったき清めの状態へは、決して入ることができないということを示している。
ベアトリーチェのことを聞くことで、火の中に入ることを得たダンテは、そこで激しい焼かれる痛みを感じた。その痛み苦しみを和らげるためには、高熱で解けたガラスの中に飛び込むことがましだと思われるほどであったとまで表現している。
彼が常識的には考えられないような言い表し方を用いているのは、彼自身の魂の歩みのなかで、自分の内なる深い罪、本能的な罪、さらに罪全般にわたってそれがいかに根強く存在していたか、そしてそれが清められるためには、いかに苦しみを味わうことを要したかを暗示するものである。
私たちの味わうさまざまの苦しみ、魂の痛みはたしかに、その罪の深さを私たちが思い知り、そこからそれらの罪をになって十字架にかかってくださったキリストの恩恵をいっそう深く感謝し、味わうためにもなされていることを思わせる。
ようやく火の中に入ったダンテに聞こえてきたものがある。賛美である。

…火の向かい側で歌う一つの声が、つねにわれらを導く。
その声にのみ心をとめて行くときに、
我らはいつしか登りの始まる地点へ出た。(五五〜五六行)

壁のように火が燃えさかる向こう側から、歌声が聞こえてきてそれがダンテたちを導いたのであった。ここにも、賛美の重要性が記されている。いままでにも、繰り返し賛美の重要性が煉獄篇には現れてきた。
以前にも例えば第五の環道において、地にはらばいになってかつての罪の罰と清めを受けていたスタテウスという人に関して、その人の魂の清めが全うされたとき、彼はそこから立ち上がり、天を目指して歩みが始まった。そのときに山が大きく揺れ動き、いっせいに耳が聞こえなくなるほどの大いなる賛美がわき起こったということがあった。(煉獄篇第二十歌の一三三行〜)
あるいは、煉獄の山の門が大きな音をたてて開いたとき、奥の煉獄の山の方から聞こえてきたのも、やはり「神よ、私たちはあなたを賛美します」という歌声であったし、第一の環道から第二の環道に登るときに聞こえてきたのも、「心の貧しい者は幸いだ」という表現しがたい美しい歌声であった。

…ああ、地獄の口に比べ、
ここ煉獄の口はなんという違いだろう!
地獄へは恐ろしい叫びとともに入ったが
ここでは、歌声とともに入るのだ。(煉獄篇第十二歌一一〇〜一一四行)

このように、さまざまの煉獄の歩みのなかで賛美が聞こえてくるように描かれている。これはまた、私たちのこの世の歩みにおいても実現していることなのである。私たちが神を信じ、生きてはたらくキリストを内に宿し、聖なる霊の風を受けるときには、たしかにそのような賛美が生活のなかにおいても聞こえてくるであろう。
それをうながし強めるようにと、神は周囲の自然にさまざまの賛美―星の輝きや青い大空、白い雲のような声にならないものもふくめて―を込めてある。
この煉獄篇二七歌では、最後の大いなる苦しみとしての火の中を通っていくというとき、ダンテを導いたのが、彼方から聞こえてくる賛美なのであった。
賛美は広い意味での祈りであるが、それはここにあるように力でもある。私たちの魂のうちに、清い賛美があるときには、この世の汚れというものを通っても汚されないで進むことができる。
このことは個々の人においても真理であるが、キリスト者の集まり(教会)全体をとっても真理である。
キリスト教の集まりは、そこにたえず賛美を置いてきた。それは単なる形式ではない。キリスト者の集まり全体を前進させていく力となるからである。
こうした歌の力は悪用され、歴史的には例えば軍歌によって戦争を推進していく補助的役割をになわせるといったこともなされたことがあった。また、現代においても、闇のからの音楽かと思わせるような音楽があり、善悪のことを分からなくさせるとか、人間を暗い世界へと引き寄せる力を持っているものもある。
そうした中にあって、キリスト教の賛美は、確かに歴史的な迫害や困難のなかを、その賛美をもって推進する力ともなってきた。
聖書全体を見ても、詩篇は神の言葉とされているほどに最も内容の高い賛美集であるが、聖書のハートと言われるように、長い間すでに旧約聖書の時代から人々の魂をとらえ、闇の力に打ち勝ち、火のような苦しみを通っていく力を与えてきたものであった。
聖書のなかの黙示録という迫害の時代に書かれた書物にも、この世の闇の状況が記されているなかにあって、天上の賛美がところどころに記されている。
天上に見たのは、あらゆるこの世の悪の力に勝利した人たちの姿であった。彼らは賛美を歌っていたのである。

…彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。
彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。
「全能者である神、主よ、あなたの業は偉大で、驚くべきもの。
諸国の民の王よ、あなたの道は正しく、また、真実なもの。
主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。…」(黙示録十五の二〜四)

このように、聖書の最後の書である黙示録においても、天上の賛美を聞きつつ、御国を目指して前進していったあとがうかがえる。
現代の私たちにおいても、さまざまの困難や苦しみが火のように降りかかる状況はいつの時代にも同じなので、そうした賛美を心の耳で聞くことができれば、それを越えて前進していくことができる。
日曜日ごとの礼拝集会やその他の家庭集会なども、ともに主の名によって集まることによって祈りと賛美を捧げ、それによって共同で、み言葉をもとにしつつ、聖なる霊を与えられ、困難を乗り越えていけるようでありたいと願っている。


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