リストボタン神の力に支えられる重要性―詩篇21篇

この詩には「王」という言葉が出てくる。日本における天皇は一種の王であるが実生活において、天皇という王もわたしたちにほとんど関係がないので、現代の我々にはあまり関係のないと思われやすい。この詩は、まえがきにダビデによって書かれたとあるが、ダビデは今から三千年も前の人である。ダビデのものでなくとも、少なくとも2500年以上も昔に書かれたものである。そのような古い時代は、日本を考えると、記録も何もなかった時代である。日本では、文字に書かれた書物(古事記)が初めてできたのが、今から千三百年ほど前でしかない。
非常に古い時代のことでギャップを感じるのは当然だが、全く関係なさそうに見えても、その詩が現代の我々に何を伝えようとしているのかを考えてみたい。
 ここで言う「王」はわたしたちの考える「王」と非常に違うことが分かる。普通は、戦争に勝った、領土を拡張した、兵隊がたくさんできた、またたくさんの金銀を見つけたとかということを王は喜ぶ。ところがこの詩では、最初にでてくる「あなた」とは神のことであり、王は神の力を喜び祝って、そして神が人々や自分にも与える救いのゆえに大いなる喜びを持つのである。

主よ、王は、あなたの力を喜び、
あなたの救いによっていかに喜ぶことか。(2節)

The king shall joy in thy strength, O LORD; and in thy salvation how greatly shall he rejoice! (KJV)(新共同訳では、「喜び躍る」と訳されているが、原文には「躍る」という言葉はない。日本語の他の訳も同様である。原文のニュアンスはこの英訳がよく表している。)

この詩の冒頭に記されているのは、神の力とその救いを何よりも喜ぶ王の姿である。
この点で普通一般の王とは違う。人々に与える救いというのは勝利という意味にもつながるが、それこそが一番の喜びの源である。このことは王でなくてもわたしたちにもできることである。
わたしたちの場合でも、自分の考え通りになったとか、人によいことができた、あるいは他人からほめられたとか、お金が儲かった、どこか遊びあるいは飲食で楽しかった、あるいは何かの賞をもらったとかで喜ぶことが多い。
それらは、何らかの点で自分が中心にある。
しかしこの詩にあるように、神の力を喜ぶ、その万能の力によって与えてくださった魂の救いを一番の喜びとするということは、どれほどあるだろうか。
三千年前の王がこのような喜びを持ったとあるが、わたしたちにおいても、このような喜びこそ、本当の喜び、一番深い喜びだということは今も共通している。聖書は一見今のわたしたちとは全く関係のないことが書かれていると思われがちだが、落ち着いて見てみると、今のわたしたちにも深い関係があることである。
何を喜ぶかというのは、その人間がどういう人間かという本質をよく表す。例えば人をいじめたり、他人が困っているのを見て喜ぶというのは一番悪いことである。
人間が持つ喜び、楽しみにはさまざまの段階があって、最も深く高い段階の喜びとは、真実の神ご自身を喜ぶということである。
神を喜ぶ、というようなことは、一般的にはまったく言われない。日本では神というと不気味なもの、得体の知れないもの、何か人間の力より大きいものなど―巨木、死者、ヘビ、ネコ、きつね、タヌキ、山、実にさまざまのものを神というから、そのような神を喜ぶということは考えられない。むしろそうした不可解な神々を恐れたり、人間に害悪を及ぼさないようになだめる、その怒りを鎮めるといったことが行われてきた。
神を喜ぶとは、神の本質である真実や力、美しさ、清さ…等々を喜ぶことであるから、そのように言い換えるとき、誰にも身近なことになる。例えば、草花を喜ぶのは、神の創造の無限の多様性や美を喜ぶことであり、星の神秘的な輝きや大空の雄大なひろがりを見て喜ぶのも、神の無限の力や英知、あるいは清さ、その永遠を喜ぶことである。また小鳥のさえずりを喜ぶのも、神の創造された小鳥に与えられたその清さ、美しさを喜ぶことである。
こうした目に見え、耳で聞こえるようなことから、さらにそうしたものがなくても、神を直接的に喜ぶことができるように導かれる。それが、祈りのとき、主を仰ぐだけで与えられる喜びや平安である。

…あなたは王の心の望みをかなえ
唇の願い求めるところを拒まず
彼を迎えて豊かな祝福を与え
黄金の冠をその頭におかれた。
願いを聞き入れて命を得させ 生涯の日々を世々限りなく加えられた。(3〜5節)

 王の心の望みをかなえてくれるとあるが、まず正義の神のことを第一に考え、神を喜ぼうとする心があるからこそ、神が王の心の望みをかなえてくれるのである。このように何を喜ぶかによって神から与えられる祝福が変わってくる。例えば先に書いたように、人が困っているところを喜ぶ人は神様から良いものをもらえない。そのあとに続く神からの祝福は、すべて2節の「主を喜ぶ」ということから、さまざまなものが与えられた。
神は王の心の望みをかなえ、また願い求めることをも与え、豊かな祝福を与え、黄金の冠をも与えた。さらに、その願いを聞き入れて、命を与え、生涯の日々も長く生きるように恵みを与えた。
神から与えられる一番良いものとは、5節にあるように命である。(このことは、はるか後の新約聖書の時代になって、単なる長生きでなく、神の命、すなわち永遠の命が与えられるという約束となった。)
 そして王は恵みを与えられたからといって、傲慢にならずにいっそう神様に依り頼んだ。普通の王は権力ができたり栄えてきたら、だんだん民衆を圧迫し、ますます搾取をする。しかしこの王は武力や権力によって支えられるのではなく、神様の慈しみに支えられる。
神に依り頼み、神を喜ぶ―真理そのものを喜ぶ―ことの恵みは、さらに悪そのものが滅びるという確信を与えられるということである。神ご自身が敵のすべての悪の力を打ち砕いてくださる。その神の力はいかに強力であるかということを、9節以降で言っている。

…あなたの御手は敵のすべてに及び 右の御手はあなたを憎む者に及ぶ。
主よ、あなたが怒りを表されるとき 彼らは燃える炉に投げ込まれた者となり 怒りに呑み込まれ、炎になめ尽くされ
その子らは地から 子孫は人の子らの中から断たれる。
彼らはあなたに向かって悪事をたくらみ 陰謀をめぐらすが、決して成功しない。
かえって、あなたは彼らを引き倒し 彼らに向かって弓を引き絞られる。
御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。(9〜14節)

このような表現は違和感を強く感じるという人も多いかも知れない。詩篇がとても心に響くものがある反面、何となく自分の心にすんなりと入ってこない、という方々は、こうした詩篇の表現が原因である場合もある。
これらの表現はあまりにも敵対する者への感情が激しく、主イエスの敵を愛せよ、という心とは一致しないと感じるからである。
しかし、ここに記された「炉に投げ込まれ」とか「炎になめ尽くされ」といった表現はそのままの意味でなく、象徴的に言っているのであって、個々の言葉にとらわれたら、本当に言おうとしていること、今日のわたしたちにまで通じることが分からなくなる。このことは旧約聖書を読むときに非常に大事なこととなる。
こうした現代の私たちには厳しすぎる表現と見えることは、新約聖書とは関係がないのか、従って現代のキリスト者には不要なものなのであろうか。
決してそうではない。ここで言われている「敵」という言葉を、悪そのものに対する言葉だとして受け取るときには、新約聖書の精神とまったく一致してくるのである。そして私たちにも重要な真理として浮かびあがってくる。
この詩の9節以降を現代の私たちに通じる表現で言いなおすと次のようになる。

…あなたの御手は、悪のすべてにその支配を及ぼし
右の手は、真理を憎む者に及ぶ。
主よ、あなたが怒りを表されるとき
悪は、燃える炉に投げ込まれる。
炎に焼かれ
悪の力は、この世界から断たれる。
悪しき者は、真実なる神に対抗しようとする。
しかし、決してそれはできない。…

このように読むとき、これは新約聖書にある主イエスの表現と同じようなものとなる。
主イエスも、次のように言われた。

…人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。
人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。(ヨハネ 15の6)

主イエスにつながっていない、主イエスの内にとどまろうとしないなら、投げ捨てられ、そして火に焼かれてしまうという。これは、ぶどうの木とか美しい色彩の果実、その美味な味わい、あるいは発酵させると生じるぶどう酒といった見てよく、食べてよい、というやさしいイメージとは全くことなる厳しさがここに含まれている。
そしてこのことは、決して理解できないことでなく、私たちの周囲にいくらでも見ることができることである。主イエスにつながっていない、すなわち主イエスの持っておられたような弱き者、小さき者への限りない愛、そしていかなる権威にも屈しない正義に関する力、勇気、いっさいの汚れのない清いものに背を向けること、それらを踏みつけるならば、たしかにそうした主イエスの本質に背くことである。そのようなことをしていたら、その人の魂は汚れ、真実な喜びや平安は根底から失われていく。それは肉体は元気であっても、その人間の本質(魂)は火で焼かれるという事態になる。
あるいは、次のようなたとえも同様である。

…そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」(マタイ21の33〜41のぶどう園のたとえより)

神は人々の腐敗ぶりを見て、それを警告するために、いろいろな預言者を送った。それが、ぶどう園の主人が、繰り返し僕をぶどう園に送ったということの意味である。
しかし、人々はその預言者たちを繰り返し迫害し、殺してしまった。ぶどう園の主人は、自分の息子なら彼らは、それまでの歩みを悔い改めるだろうと思った。しかし、人々は、そのぶどう園の主人の一人息子まで殺してしまった。
これは、神がキリストをこの世に送り出したが、そのキリストまで、人々は敬うことをせずに殺してしまったということであり、そのような意図的な悪を行って悔い改めることのない魂は必ず裁かれてしまうという、この世界の法則というべきことを話された。
神は愛である。だからといって悪を繰り返し意図的に行って止めようとしない人間に対しては、厳しい裁きが下される。その人の良き部分が壊れてしまう。清い喜びや真実な愛といったものはすべて失われていく。
実際、私たちが他人をいじめたり、不正なことにかかわったり、正しいことに背を向けているなら、私たちの心から、さわやかな喜び、清い喜びは必ず失われる。そこに裁きがあるのであって、死後になってはじめて裁かれるのではない。生きている内から、真理そのものに意図的に逆らうものは、その人の内部からも壊れていくのである。
また、次のようにも言われた。

…この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとした。(マタイ 21の44〜46)

このたとえにおいても、石とは、キリストのことであり、キリストの本性である真実や愛に意図的に背き続け、それを踏みつけようとするような者に対しては、キリストの力がそうした悪の上に働き、悪の力は粉砕されるとうことである。
これは、決して聞きたいと思うような言葉でも甘い言葉でもない。
しかし、神の愛とは、まさに人間を苦しめ、滅ぼしていく悪の力を排除し、最終的にそれを滅ぼすことと不可分に結びついている。罪というのも、私たちの魂のうちにはたらく悪の力にほかならない。その悪を根本的に滅ぼすためにこそ、キリストは十字架にかかって死なれるほどの重い戦いをされたのである。
このように、悪の力を滅ぼすということこそ、愛の別の側面なのである。敵を愛し、迫害するもののために祈れ、と主イエスは言われた。それは、敵対する人の内にある悪の力を追いだすために、最も力あるのは、神ご自身である愛を注ぐことだからである。
主の祈りにある、御国がきますように、ということも、神の王としての支配がなされますように、という意味であり、それはその支配によって悪の力が除かれますように、という意味を持っているのである。
このように、詩篇において厳しい表現で悪への裁きが記されているのは、その霊的な意味を探るときには、深く新約聖書に流れている精神と共通しているのである。
 現代のわたしたちも、本当に祝福された状態に至るためには、いかに神様の力を信じるかということにかかっている。誰かの悪意もある言動に憎んだりやり返したりしても双方に何も良いことは起こらない。しかしそんなときに神に依り頼むと、神が最善にしてくださると信じるように導かれるし、あるいは相手の悪い心を除いてくださいと、神に祈る気持ちであれば、神ご自身が悪の力を滅ぼしてくださる。それを、悪の力を徹底的に滅ぼすということで、「炎で焼いてしまう」といった表現で表している。
火の力で燃やす、それによって跡形もなくなるほど、火の力は強い。打ってもたたいてもそのような根本的な破壊はできないが、火のエネルギーはそれをなすことができる。
このように、悪の力を根本的に破壊し、なくすること、そのためにキリストは来られたのである。そういう点から考えるとき、このような表現は決して私たちに無縁のものとか古い時代のものということはなく、現代においても最も切実な問題なのである。

 そしてこの詩の最後に次のように記されている。

…御力を表される主をあがめよ。
力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。

悪の力、闇の力が滅ぼされ、真実な力が勝利するという確信を与えられたゆえに、そのような神をあがめるということが自然に導かれる。単に、何となく賛美をうたうことが好きだとか楽しいから賛美するのではなく、神の悪に対する力が発揮されて、幼子のような心で信頼するものを救ってくださるということへの大いなる感謝と喜び、そこに本当の賛美の源がある。
このことは、聖書において最初に神への賛美がうたわれた箇所が何であるかということを思いださせる。それは、エジプトから解放されたのち、背後から追跡してきたエジプト軍が間近に迫り、前は海であるという絶体絶命のとき、驚くべき神の力によって救いだされたのちのことであった。闇の力をあらわすエジプトの軍が、何も武器を持たないイスラエルの民を滅ぼすことができず、逆に神のわざによって滅んでいった。
ここに人間の最も深い喜びの源がある。
十字架のキリストによって罪という闇の力が滅ぼされたことを知らされた人の喜びもこのことと同じ本質を持っているゆえに、それは何よりも深く、そこから世界に広がっていったのである。

 このようにこの詩は3つに分かれる。まずは神の力を信じてそれを喜ぶということから祝福が注がれ、それに神は応えてくださって、そしてそこから神の力を深く啓示されたゆえに、おのずから賛美へと導かれたということである。わたしたちもこの詩のような信仰を身につけたいし、このような祝福をいただきたいと願うものである。
神様に信頼するということは、新約聖書でも言うまでもなく、至るところで記されている。新約聖書の最初にある広く知られた箇所、マタイによる福音書五章にある、山上の教えにも見られるのはこの神への信頼の重要性である。
「心の貧しい人は幸いだ、天の国はその人たちに与えられる。」
これは一見、神への信頼という意味はないように見える。
心の貧しいというのは、自分の意志や力、あるいは富、武力や権力など、何らかの自分が持っている力に頼らない心である。このような人は天の国―王の持つような支配の力、神の力が自然に与えられる。このようにイエスの最初の教えは、この詩篇の箇所とは一見関係がなさそうに見えるが、実は深いところで同じものが流れている。
あるいは、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。復讐はわたしのすること、わたしが報復すると主は言われる。」(ローマの信徒への手紙12の19)
人間が憎しみの力や武力、権力でしても一切祝福はない。相手が悪人であるなら、その人に対しての最大のなすべきことは、善をなすことであり、それこそが悪の力に対しての打撃を与えることになる。
「そうすれば、燃える火を彼の頭に積むことになる。」善の力―神の力こそが、悪を火で焼く、つまり根絶やしすることににつながる。このように根本の流れは旧約聖書から変わらないで続いている。


音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。