「荒れ野よ、荒れ地よ、喜びおどれ。
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。
(イザヤ書35の1より)

リストボタン雪、冬の花と香り

今年の冬は、例年になく厳しい。徳島でも雪が何度も降った。
雪そのものは、多量に降ると一時的にはたちまち交通を妨げたり、雪下ろしの必要など不都合なことも生じさせるが、他方ではその豊富な雪が溶けて、大地にしみわたり、無数の植物をささえ、動物をも支えていくし、また地下水となり、川となって流域の人間のはたらきにも大きな益を与えている。
2月にはわが家のある標高200メートルほどの山頂付近では、15センチほどの積雪があった。
最近10年ほどを思い返してもこのような積雪はなかった。その日の夕方、頂上まで登ったときには、近年では目にしたことのない、誰一人いない純白の平地が広がっていた。
聖書には、神が私を洗ってくださったら 雪のように白くなる(詩篇51の7)と歌われている。
人も車もなにも通らないところでの雪、10数年ほども見たことのなかったその白いひろがりは、いかなるものにもまして汚れなき姿を指し示しているとかんじた。
そして、その雪が高い山に降り積もるとき、その山々は崇高な清さ、美しさ、そして厳しさを持つようになる。
この清さ、それは何のためだろう。神が私たちを、この雪のような汚れなき世界へと招いていると感じる。
また、冬の寒さの厳しいさなかに、ひとり梅だけがその枝にたくさんの花を、寒さをものともせずに次々と咲いていく。花の花粉をめしべに渡すチョウやハチなどの昆虫はまったく動けない寒さであるにもかかわらず、その白い花を咲かせる姿は、静まって見つめるときには、ここにもこのような花をとおして語りかける神のメッセージが感じられる。
冬の寒さで植物たちもほとんど変化を見せないとき、香りゆたかな花がいくつかある。すでにあげたウメ、スイセンそしてジンチョウゲ、さらにこれは大多数の人たちには知られていないがビワの花である。
日本の野草、樹木には何千種もあっても、よき香りをもつ花というのは少ない。厳しい冬に咲くこれらがいずれも芳香を持っているのはここにも意味深いものを感じる。
人間においても、苦しい状況であっても神を信じて生きてきた人は、どこか香りというべきものが感じられる。その人間そのものから自然に生じてくるよき雰囲気なのである。それは、どんなによい服を着ても化粧をしても造りだすことはできない。
また、学識やこの世の知識、経験をいくら持っていてもそのような香りとなることは難しい。
そのような香り、それはキリストからくる。キリストご自身が人類の最高のよき香りだからである。

…また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(エペソ 5の2)

このように、この箇所では、文の最後に、よき香りを表す言葉を二種類かさねて強調している。(*)
厳しい迫害の状況にあっても、なお香りを放ち続ける存在、それが初期のキリスト者たちの姿であった。その香りに触れて、彼らを迫害していた人たちもキリスト者となっていった人も多く生じていったのである。

(*)香ばしいと訳されたのは、原文のギリシャ語では osme(オスメー)、 かおりは、euodia(ユーオーディア)。いずれも、よき香りを表す語。英訳では a sweet-smelling aroma とか、sweetsmelling savour.などと訳されている。

キリストが、ー 使徒パウロが言っているように、私たちの内に住んでくださったとき、私たちもまた小さきものであるが、何らかのキリストの香りを持つものとさせていただける。
それゆえに次のように言われている。

…わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りである。…
救われる者には命から命に至らせる香りである。(Uコリント 2の16)

土の器でしかない者であるが、願わくばこのように、キリストの永遠の命を少しなりとも他者に伝えていく香りあるものとさせていただきたいと思う。

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