リストボタン生きる力が絶えたとき

この世は、神を信じているからといって、安全なことばかりというわけにはいかない。最も神を深く信じたお方であった主イエスご自身が、あのような厳しい生涯を送り、その最期は十字架であった。
そのとき、わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか!という絶望的な叫びをあげられたほどであった。
最も深い信仰を持っていても、なお そうした大いなる苦しみ、ふつうなら絶望にうちひしがれて立ち上がれないようなことも起きる。
聖書には、今から2500年余り昔、外国からの軍隊の攻撃によって国が滅ぼされたなかでつくられた詩がある。それは預言者エレミヤの悲しみと祈りが記されているということで、エレミヤ哀歌とも言われる。そのなかに次のような言葉がある。

…わが魂は平和を失い
幸福を忘れた。
私は言う、
「私の生きる力は絶えた
ただ主を待ち望もう」と。

バビロンからの軍に囲まれ、エルサレムの町は攻撃され、人々の信仰の中心となっていた神殿は焼かれてしまった。多くの人々は死に、あるいは傷つき、多数が遠い異国のバビロンへと連れて行かれた。
激しい攻撃により、荒廃したおそるべき状況となったが、そのような状況にあっても、なお、「主を待ち望もう」と、心を神に向けることができた。

…私の魂は沈み込んでいても
再び心を励まし、なお待ち望む。

聖書に示された信仰は、こうした不屈の希望を生み出した。信仰、希望、そして愛、この三つはいつまでも続くと言われている通りである。

…主の慈しみは決して絶えない。
主のあわれみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。(哀歌3章より)

キリストの弟子のうちで最も
広範な領域に福音を伝えたのは使徒パウロであった。そのパウロも、こうした絶望的な状況へと追いつめられたことがあった。

…兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。

パウロのような、神からの啓示を深く受けてその手紙が聖書として永遠に残っていくほど、神と深く結びついていたにもかかわらず、このような苦しい状況、もう死ぬと思うほどになったことが分る。
そしてそこから、死をも乗り越える神に頼るようになった、神への信仰が一段と深いものになったのである。
私たちの本当の信仰、それは何不自由のない安楽な生活のなかではぐくまれるのでなく、こうした苦難の中から育まれる。

… 神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。
これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(Uコリント1の8〜10)
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