リストボタン北海道、東北の一部を訪ねての礼拝集会と個人訪問など

7月21日(木)〜24日(日)まで、北海道久遠郡の瀬棚で開催された聖書集会は、今年で第38回を迎えて、この長い年月を主が導かれてきたことを思います。
(なお、四国における キリスト教四国集会も今年の5月に高知集会が主催県として開催されましたが、この四国集会も38回と同じ年月を重ねています。)
今年は、北海道に出発予定のときに大型の台風がちょうど四国に上陸することが確実な情勢となり、出発予定日の前日に予定していた太平洋フェリーが欠航することになり、それとともに台風の接近でフェリー以外の交通機関も止まる、という状況になり、今年は参加できないのでは…と思われたことです。
しかし、唯一の道は、台風がまだ徳島県に接近、上陸する前に車で出発して、鳴門大橋や、淡路島と神戸を結ぶ明石大橋が通行止めにならない先に通過して、北海道まで車で行くことでした。
徳島県から北海道までの全行程を車で行くなどということは、北海道に過去8回、聖書集会のために訪れていますが、いままでは、考えたこともなかったことでした。
しかし、唯一の可能な方法だったので、とにかく出発して、途中で体力的に運転が難しくなったらそのときはその時で判断することにしたわけです。
台風の影響のため、途中で激しい雨にも出逢いましたが、北海道に無事に到達でき、しかも、行く途中で新潟県の柏崎刈羽(かしわざき かりわ)原子力発電所(*)に立ち寄って、どのようなところに原発があるのかを直接に知って、さらに原発に隣接するサービス館の展示内容を時間をかけて見る機会ともなりました。
そして、そこに書かれていた説明、「クリーンで安全」と大きく書かれた説明、核燃料サイクルが機能していないのに、あたかも核燃料サイクルが機能しているように書いてあり、それを大きく 「核燃料サイクルの現状」と書いてあるとか、また、放射性廃棄物がきわめて危険で、処理できないのに、一般の産業廃棄物の量が非常に大きく、原発の廃棄物の量が少ないことを棒グラフに書いて、いかにも原発の廃棄物は取るに足らないというような印象を与えようとしている記述、さらに、同じ東京電力の福島原発が、大事故をおこして数知れない人たちを苦しめているのに、この柏崎刈羽の原発でのサービス館では、ほとんどそれについて触れるところがなく、そんな事故などなかったかのような状態であったことへの疑問、福島の大事故をどう考えているのか、ということが疑問となってきたのです。

(*)新潟県柏崎市と刈羽郡刈羽村にまたがっているので、このように言われる。7基の原子炉の合計出力は、821万kWで、世界最大の発電所となっている。

このようなことについて、係の人に尋ねても十分に答えられない。そこで、館長への面談を求めたところ、閉館が近い時刻でしたが、1時間以上をいろいろと話すことができ、こうした不正確、あるいは間違った書き方が大事故から4カ月も経ったのに何も変更されていないのはなぜなのか、早急に削除、あるいは修正すべきことを話しました。原発の責任を持っている人がどのように考えているのかがかなりよくわかったのです。
そして驚いたことですが、世界最大の出力を持つ原発の副所長という重要な役にありながら、原発に最も一貫してその危険性を訴え、原発がたてられようとする地元の住民の反対運動や裁判での証人ともなってきた、京都大学原子炉実験所に勤める小出裕章、今仲哲二の両氏、あるいは、東芝の元原発設計に加わった技術者で国会(参議院)にも出て意見を言ったり、岩波書店の「世界」にも福島原発関係の論文があり、原発の技術者として明確に、原発やめるべきことを主張している後藤政志氏などのことを知らなかったことです。
小出さんは、福島原発の大事故以来、彼の書いた原発の本が新書本で日本のベストセラーとなり、また次に出した本もすぐに10万部も売れ、原発関係の本がベストセラーになるというかつて前例のないことが生じているし、新聞やラジオ、テレビ、さらにインターネットでもよく出ています。
小出、後藤の両氏は、5月23日に参議院の行政監視委員会でも意見を述べたこともあり、相当広く知られています。
それにもかかわらず、原子力発電所の解説を仕事とするサービス館の解説者の方々も、そして副所長という要職にある方すら、小出裕章という名前すら知らなかったというのに驚いたのです。それほど、原発の危険性を訴える主張にはまるで耳を傾けないという有り様が露呈したわけです。
ただ、その後そのサービス館の閉館時刻をすぎても、外に出て原発だけでなく、人間の本性とその変革などについて立ち話を30分近く続けることになりました。
今回の事故に関して、東電や政治家、科学者、技術者が絶対安全だと嘘をついてきたことや、大地震や大津波も想定されていたのに金のことをまず考えて、対策もしなかったこと、以前からデータの改ざんや事故隠しなどがいろいろとあったことが、事故につながっていることを話しました。その副所長は、それならそのような人間性をどうしたら変えることができるのか、と問われたので、それはキリスト教だと、私自身の信仰を与えられた経験もまじえて語るという機会となったわけです。
その後、夜中に仙台に着き、翌朝は、3月下旬の神奈川県・春風学寮での集まりで、東松島市で被災されたと聞いていた教友のTさんを訪ねたのですが、まだその付近は被災を受けたままの家々がたくさんあり尋ね当てたお家も不在でした。それで時間と体力があったらと、あらかじめ出発のとき、車にのせてあった各種のキリスト教関係の書物を石巻市の避難所2箇所を訪ねて手渡し、そこからさらに、原発の実態に少しでも直接的に触れるために、宮城県の牡鹿半島にある、女川(おながわ)原子力発電所まで車で行くことにしたのです。そのとき、Tさんから電話あり、山形に4ヶ月間 避難していたが、今日帰って来たばかりだとのことでした。わずかの時間のすれ違いは残念なことでしたが、女川原発に向かう途中、石巻の町々の津波による生々しい破壊のあとが道路の左右至るところに見られる地域を通り、女川町付近にさしかかると、さらに津波によって破壊しつくされ廃墟となった地域、辛うじて家の形を留めている家々、まだ、傾いたままの家、鉄骨が曲げられ、内部がほとんどなくなっている建造物等々、4カ月を経てもなおそのままに放置されているところもいろいろあり、これらの地域に住んでいた方々、この崩壊した家々で生活していた方々が根こそぎその生活を破壊され、どれほどか苦しみ、あるいは悲しみの涙を流されたことだろうと、そして今なお困難な生活を続けておられることだろうかと胸に迫るものがありました。
海岸地域であっても、ある部分から上部の地域はほとんど被害を受けず、壊れてもいない家々が並んでいると見受けられましたが、そのすぐ下が徹底的に破壊されているあまりの大きな対照にもあらためて驚かされたことです。
また、そのように家が破壊されてしまった人たちのための避難所は、海から遠いところにあり、周囲はふつうの生活がなされていて、その避難所の狭い一角だけが、困難と悲しみのなかに置かれているわけで、そこにおられる方々は、そうした周りの平和な生活との大きな落差にも、精神的に疲れ果ててしまうのではと思われました。

北海道瀬棚での聖書集会の今回のテーマは、「主の御心のままに〜試練と信頼」でした。
個人的にもいろいろな試練に置かれている方々も多く、また日本全体においても、東北大震災、原発災害と今なお解決ということにはほど遠い問題を抱えています。そのことから、今回の主題も決められたと思われます。
主のみ心とは、主のご意志であり、神のご意志はいかなる災害、個人的に不幸と見えることが生じても決して変ることなく、この世界、宇宙の最終的な目的―神の国(新しい天と地)に向かって進んでいると言えるのです。
神のご意志がどのように表されているのか、それを創世記、出エジプト記、あるいはエレミヤ、イザヤなどの預言書を通し、また詩篇と新約聖書にある内容によって神のご意志が行われること、そしてそのご意志に沿って私たちが歩もうとするときに天よりの力が与えられ、ふりかかる困難にもうち勝って行けることなどを学びました。
酪農の方が多いが、ほかに養豚、米作農業の方もおられ、また子供たちも土曜日の午後に土曜学校というのがあって、付き添いの大人とともに学びがなされました。この瀬棚聖書集会を主として運営されているのは、40歳台前後の壮年期の方々で、そのご両親や、子供、幼児など三代にわたっての参加が38年にわたって続いているというのは、全国的に見ても他には見られない集まりだと思われます。また、瀬棚以外の地、札幌などから結婚して瀬棚に来られた若い女性たちが、それまで全く聖書やキリスト教との関わりがなかったのに、この年に一度の聖書集会に参加され、次第に、信仰的になって歩んでおられることを知らされたこと、またそうした若き女性の信仰の成長によって夫君のほうも信仰的に強められていると感じる方もあり、主の導きに感謝でした。
四日目の利別(としべつ)教会での礼拝説教では、「神の力と核の力」と題して語らせていただきました。教会の一部の方も、瀬棚聖書集会にも参加される方があり、年に一度ですが、私自身も教会の若干の方々とも交流を与えられて感謝です。
25日(月)の午前10時〜午後2時半までの、札幌での交流集会には、地元の札幌市内だけでなく、小樽、釧路、苫小牧、そして部分参加でしたが瀬棚集会からも加わり、み言葉の学び、祈りと賛美、そして主にある交流がなされました。参加者は20名余り。
こうした各地のキリストの名による集会において、たしかにそこにキリストが長く留まり、働いて下さってきたことを実感します。そして、この世の交わりや会合にはない喜びと平安と力を与えられます。
その後、午後3時半から5時すぎまで、苫小牧にての集まりでした。 この苫小牧の集会で長く導かれてきた船澤さんは入院中でしたが、そのご自宅を用いてほしいとのことで、そのお家での集会でした。
26日(火)は、午後から仙台市での集会。平日でもあり、参加のできないと思われた方も都合をつけて参加しておられたり、あるいは、大津波によって大きな被災を受けた方々の参加、また初参加の方もありました。とくに津波で死を覚悟されたほどの状況をも経験された方の証しや、勤務先の学校の被災のことなど、いまも地震、津波の被災の傷を日々感じつつ生活されている方々もおられ、そうした中でのみ言葉の学び、礼拝はとくに意義深いものを感じました。
み言葉は、そのような状況に置かれている方々に力を与えるものなので、どうかこの集会がそうした主の祝福を受けますようにと祈りつつの集会でした。
その日の夜は、山形に移動し、去年と同じ大手門パルズという施設にての集会でした。午後6時半〜9時までの集会で、今回は、いつも必ず参加されている方が何人か不参加でしたが、その代わり、初参加の方々が3名おられ、そのうちの一人は、こうしたキリスト教の集会に参加するのは、何十年ぶりと言われていました。
各地での集会で、このような初参加の方やふだんは参加していない方が参加されることがあるのは、特別集会にはいつもより以上に祈りをもって備えることもあり、主がそのことを覚えて下さり、私たちの思いを超えた聖霊の風の吹くゆえだと思われたことです。
翌日は、山形から福島に向かい、3カ所の避難所を訪ね、各種のキリスト教書籍を届けることができました。長く苦しい避難所の生活にあって、そのような本が主の用いるところとなり、神への信仰に目覚める方が一人でも二人でも起こされますようにと祈りました。
訪れたいくつかの避難所は、原発から遠く離れた美しい田園地帯、あるいは高原の緑豊かなところにあり、周囲はごく普通に生活している様子で、その静かな山野に囲まれたごく狭いある建物のなかで、いつ帰れるともわからない不安と焦燥感、そして家族とも分かれたり、職業も失ってしまった方々が、苦悩のうちに日々を過ごしておられる。
その方々の苦しみを共有するといっても、当事者の切実な苦しみは、その状況にない者は本当にごく表面でしか感じ取ることができないと思われたことです。
それゆえにこそ、何らかの手段によって、その方々に神の御手がのぞんで、そのような生きていくのが困難となるような現実のただなかにも光と生きる力を与えるお方―キリストがおられることを知ってほしいと願いました。
すでに述べた石巻の二つの避難所も含め、福島の三つの避難所にも届けたそれぞれ10数冊程度ずつの本は、集会の方々からの協力費によって購入しておいたもので、主が用いて下さいますようにと願いました。
このような本や冊子を手渡したのは、私自身、一冊のごく小さい本のわずか1頁ほどの内容によってキリストの真理を知らされたからです。主が用いようとするときには、どんなささいなものであっても、予想しない働きをするからです。
また、その後、福島在住の何人かの教友を個人的に訪問して、福島における無教会の方々の歩みの一部をうかがったり、原発と信仰のことなどについて語り合い、交流の機会が与えられました。
聖書の学び、礼拝の集会の場合は、出発前から時間と場所もきちんと確定しておかねばならないので、2週間、長距離にわたる旅程の場合は、体調の維持管理がとても重要になります。途中で体調を崩すとあとのすべての集会もできなくなり、多大の迷惑をおかけするからです。
そのために、可能な方法はとるという方針で各地への移動を続けましたが、幸い東北最後の日の夜は体調も支えられ、その日の宿舎に深夜に帰り着くということにして、福島県内での最後の訪問先では、夜遅くまで、信仰ととくに原発のことに関していろいろと語り合うことができて感謝でした。
これは、車でいかなければ決してできないことで、行き帰りに大きな負担となりますが、他方、ほかの交通手段では決してできない各地といろいろな方々への訪問と集会が与えられることを感謝でした。
その後、翌日は名古屋にフェリーで着き、そこから高速道路を使っても2時間を要する岐阜県の山中で、ハム工場を運営されている石原潔さんのところを初めて訪問しました。以前、石原さんとは静岡県清水市での集会で出会ったことがありました。
平日の昼ごろで、従業員の方々と共に食事をいただき、その後じっさいの働きを現場で見せていただきました。キリスト教独立学園、愛農高校、愛真高校など無教会の方々が祈りと協力費で支えてきた学校の卒業生たちもいて、若い方々がこのような山地の不便なところで、30年もこうしたハム造りが継続されてきたものだと、印象的でした。
主となって運営しておられる石原さんご夫妻が信仰にたち、まず神の国と神の義を求める精神で歩み続け、主がそこに大いなる御手をもって導かれてきたのだと感じました。工場からさらに奥地に入った石原さんの自宅も訪問、そこで最初にはじめた家も見ました。個人の離れ、納屋のようなところから出発して、石原さんも3年も続いたら、と思っていたが、30年続いてきたと言われていました。
ここでも、原発の影が落ちていて、販売しているハムに関して放射能の影響の有無を尋ねる方々があり、今後のために、そうした農業や食品関係団体の有志と共同で、500万円の放射能計測機器を購入して、きちんと検査をし、安全保証をしたうえで、販売するという方向になって、私が訪問したときには、名古屋でそのための会合が夜に行われるのでそこに石原さんも参加予定とのことでした。
そこから、彦根に向かったのですが、途中で、時間と体力が持続しそうであったので、突然の訪問でしたが、高速道路に近い「祈の友」会員と教友を訪ねることもできました。
主の守りと支えによって、また徳島聖書キリスト集会の方々、さらに県外の方々の多くの祈りに覚えていただき、途中でそうした祈りの支えを感じつつの2週間でした。
主がそうしたすべての方々、各地の集会に参加された方々、そこにつながる方々を覚え、とくに東北の津波と原発の被災を受けてなお長い苦しみを受けていく方々に、主の御手が臨みますよう、いかなるときでも力を与えてくださる愛の神へのまなざしが与えられますようにと祈ったことです。


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