リストボタン神の国に属するものの循環と永遠性

 谷川に流れる水、長い間にわたって山の大地を深いところを通って出てくる。地下の深いところでは、1年経ってもせいぜい数百メートルほどしか移動しないと言われている。ゆっくりと目には見えない大地の深いところを通ってきた水は澄みきっている。
 それが合わせられて谷川となる。その流れは清く山を歩いていた頃は、よくそのような水をそのまま飲んだものである。
 土の中を通ってくるというとふつうは土は汚れたイメージがある。しかし、自然の仕組みはよくできたもので、そうした土を通過してきた水は清くそのまま飲める。
 また、山野では草木の葉や、動物たちの死骸や排泄物など汚れたと思われているものもすべて細菌類のはたらきによって分解されて、土に帰り、肥料となって新たな草木の栄養となる。
 二酸化炭素といえば現在では、温暖化を思いだす場合が圧倒的に多く、有害なもの、というイメージがある。しかし、空気中の二酸化炭素こそは、私たちの日々の食物の主成分をなす有機化合物を造りだすもとになっているのであって、きわめて重要な物質なのである。有機化合物とは炭素化合物であり、食物はみな炭素が主成分でありその炭素は空気中の二酸化炭素に由来する。
 二酸化炭素も太陽の光のエネルギーによって地中から吸収した水と結びつけられて、ブドウ糖になり、それからタンパク質や脂質などさまざまの生物体に不可欠の有機物が造られていく。そして、動植物が死ぬとそれらの有機物は細菌類によって二酸化炭素その他の気体となって大気に戻り、一部は土中にとどまる。
 そしてそのようにして大気中の二酸化炭素を取り込んで成長し、葉を繁らせ、そこで酸素を造り、大気中へと放出し、その酸素を取り入れることによって生物の命は支えられている。
 このように、水も、目に見える動植物も、そして目に見えない二酸化炭素や酸素なども効果的に循環し、さまざまな命を支えている。
 このように考えると、全体としてみるとき、科学技術の産物はこのような自然のよき循環を阻害し、人間や動物にとって有害なものを生み出していくという側面がある。
 例えば、車一台を考えても、その車に使われている鉄や銅、亜鉛、アルミニウム…等々、様々の金属が用いられている。それらを生産するときにはその鉱山周辺に関して多大の自然破壊が生じる。
またアルミの製造にはとくに多大の電力を要するし、様々の科学技術を用いた工場、会社には大量の電気を要するから、火力、水力等さまざまの発電設備が必要となってくる。
 それらはいずれも大気を汚染し、谷川、村落を破壊し、あるいは原発のように何十万年も放射能による環境汚染が続くようなものとなる。
 自然のままでは、前述したように有害なものに見えてもみなそれは効果的に循環してよいものに変わっていくが、科学技術の産物というものは、その有害なものは生物体にたいていは有害なものであって、しかも蓄積していくのである。
 環境問題に最初に強いメッセージを発した書として有名な、「沈黙の春」は、レーチェル・カーソンが人間の造り出したさまざまの有害物質、とくに塩素化合物であるDDT ディルドリン、エンドリンなどがじわじわと環境に蓄積し生物たちもその害を受けて死んでいく有り様が多数の資料によって記されている。
 このように、人工的に造った物質は、それは非常に便利で有益なことにも使われる反面、環境を確実に破壊していく。
 このように考えると、谷川の水一つとってもその清らかさ、途絶えることなく続く永遠性、それが動植物を支える命の水となっている有益性などが次々と思い起こされる。
 このように、神の直接の被造物というのは、古びることなく、朽ちていくものも新たに再生する。
 このことは、目に見えない霊的なことについても言える。
 神の本質と結びついている神の言葉、それは無駄になることはない。人間が造る物のように、有害なものを生み出すということは決してなく、あるときは地下水のようにその存在が見えなくとも歴史の中を、また人々の魂を流れ、神のご意志にかなった働きをしている。
 …雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ書 55の10〜11)

 イザヤ書の著者は、自然のごく普通のできごとが、神の言葉の永遠のはたらきを指し示すものとして示されたのである。このようなことは、エレミヤ書にも見られる。春が近いころ、身近に咲いている花、それが神がいつも目覚めてこの世を見つめていることを表すと記されている。
 自然のさまざまの出来事は、聞く耳を持つ人、見る目を持つ人なら、みな何らかの意味で神の国に属することを象徴的に表しているのを感じ取ることができる。
 神の言葉は、雨のようにその姿が見えなくなっても、どこかで何らかの生命を支えている。同様に、神の言葉もそれが何にも力を発揮せずに消えていくように見えても、どこかで誰かを支えているのである。
 たしかにそのような不滅の力を持っているからこそ、神の言葉は、ありとあらゆるこの世の変動、迫害などにも関わらず、世界の日々をうるおしてきたのである。
 主イエスは、訪れる家の人に対して次のように言われた。

…その家にはいったなら、平安を祈れ。
もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来る。
もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来る。(マタイ10の12〜13)

 これらのこと、それは神の国に属するもの、それはなくなることがないということである。神の言葉、それも神の国に属するものであるが、主イエスは、「天地は滅びる。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイ 24の35)と確言された。
 私たちの存在そのものも、主イエスを信じて結びつくときには、やはり滅びることがない存在と変えられる。キリストと同じ栄光の姿となると約束されているからである。(ピリピ3の21)


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