野の花
第24号
2011年1月発行
[
第一ページ]


はじめに

リストボタン「生きて働く神」
               徳島聖書キリスト集会(代表者) 

 生きて働いておられる神を少しでも実感しているかどうか、それが私たちの生活にも大きな違いをもたらすことになる。単に、宇宙を創造した神、あるいは十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んで下さったキリスト、あるいはその復活を信じていると思っていても、日々生きて働いておられる神をじっさいに感じているということとは大きな開きがある。

 神は、目には見えない。大多数の日本人は、唯一の神、万物を創造した神などいない、と思っているから、人間世界の数々の出来事も、自然のさまざまの姿もみな偶然と思っているのであって、生きて働く神などは思いもよらないことになる。

 しかし、神を信じている、と思っている場合でも、生きて働く神が本当にわかっていない場合も多くある。これは、すでに旧約聖書から繰り返し述べられているように、イスラエルの祭司や宗教的指導者たちは神のことを日常的に口にして信じていると思っていたが、実は、生きて働いておられる神についてはまったく知らなくて、生きた神から使わされた預言者を迫害した。

 生きた神から遣わされて、神の愛のはたらきをいのちがけで実行された主イエスも、当時の熱心な宗教的指導者たちから、受けいれられず憎まれ、殺されることになった。

 使徒パウロは、神のことについて詳しく学んできていたはずであるのに、生きて働く神のことは全くわかっていなかったから、その神から使わされたキリストの真理を滅ぼすために迫害をする指導的立場にあったほどであった。

 しかし、復活したキリストからの呼びかけによってパウロは初めて生きた神を知らされた。

 私たちは、このようにまちがった方向にどんどん進んでいっているとき、何かの苦しみや出来事によってはっきりとした方向転換が与えられることがある。そのとき、生きた神を、生きてはたらくキリストを実感するようになる。

 そして日々の小さな出来事のなかにも自然のさまざまのたたずまいの中にも、少しずつであっても生きて働く神、キリストを実感しつつ歩めるようになっていく。

 そして時に現実の自分の罪や周囲の混乱や腐敗に神が見えなくなり、実感できなくなったときでも、それでもなお主に祈りつつ、主を仰いで歩みを続けていくとき、後になって生きた神が導いて下さっていたのだと気付くようになる。 

「私たちは天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。」

                                      (使徒 1415

 私たちが常に立ち返るべきは、この聖句で言われているように生きて働いておられる神なのである。この「野の花」文集もそうした生ける神に立ち返るために主が用いてくださるようにと願ってやまない。


リストボタン「わび」を極めた人物

                       I.F  

 聖書を信じいつも神様ありがとうが口をついて出る私ですが、もう一つ大切なものがあります。利休(一五二二~一五九一)の確立した「わびの美学」です。

 「花をのみ待つらん人に山里の雪国の草に春を見せばや」

 藤原家隆(一一五八~一二三八)の歌ですが、利休はこの歌をわびの極意だと示しました。春といえば何より桜だと思っている人に、一面の銀世界の中でも雪の下には早くも新芽が顔を覗かせている、この小さな命こそが春なのだという意味で、利休はこの歌に茶の湯のあり方を重ねています。茶会とは、高価な道具の設(しつらえ)だと思っている人に、たとえ、粗末な茶碗であっても客のために心を込めて点(たて)たお茶こそが、最高のお茶であり心の通うもてなしだと説いています。利休の目は、常にこの世的には踏みつけられそうな価値のないものに向いていました。派手な物や高価な物に目がいくのは世の常で、人間関係でも大半が地位や経済力が主となり、それに伴って権力に諂(へつら)う者が出てきたりで、この図式は利休の時代も同じでした。利休は当時の最高権力者の側近ともいえる立場でしたので、時には心に合わないことに妥協したこともあったでしょう。しかし、美学に関しては、権力者に盾突こうとも己を曲げませんでした。

 青竹をばっさり切って作った花入(はないれ)名もない帰化人に焼かせた楽茶碗など、これらは当時の人には徒(ただ)の物でしかなかったのです。竹の持つ凛とした清浄感や楽茶碗の衒(てら)いのない素朴な味わいなどを。透過できる人は稀だったでしょう。世俗的なものを削ぎ落とした利休の美意識は、貧しい漁人の家の小さな戸口から茶室の躙口(にじりぐち)を思いつくといったように、その創意工夫には見捨てられたものへの心豊かな優しさがあり、風流への憧れがあったと思います。

 私は、利休の中で、汚されもせず存在し続けたものとして、先に挙げた家隆の歌と禅に裏打ちされた厳しい求道精神を思います。と同時に、そこに神様からの霊の光を感じます。仏教は確かに哲学です。しかしその中にあって禅は文字や教義によらないという教えで、従って形に囚われないところから我が国ではさまざまな文化の中に浸透していったのでした。茶においても、禅と共に将来した抹茶の飲茶法が禅を基礎として茶湯となりました。どんなことであれすべてプラス思考する禅の精神こそわび茶そのものであるとする利休は深く深く禅を極め、そしてついに神様を感じたに違いない。だからこそ捨て置かれた物や侘びし気な物に美が見えるのです。これらは正しく神様からの賜物です。

 私自身このような利休に出会わせて下さった神様のお計らいに感謝します。

 徳島市


リストボタン主を賛美

                                                         I.M

私達は、しょうがい者自立の場として「NPO法人いのちのさと」を運営しています。

  30年ほど前仲間数人で立ち上げ、四年前自立支援法による事業所の認定を受け、

現在しょうがい者約40人、職員16人とかなり大きな世帯になってきました。

  経営的には以前と比べ、だいぶん楽になり安定してきましたが、逆に人数が増えるに従って、いろいろな問題が毎日のように 起きています。

  自分自身も年齢を重ねだんだんと、みくに(?)に近づくにつれ、肉体的にも疲れやすくなり、精神的にイライラし不安定になることが時々あります。

 その様なときは思い悩むのではなく、主に問いかけることにより正しい答えが返ってきます。そして心に安らぎが与えられます。

 聖書に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ十一・28)とあります。

 思い悩むのでなく、全てを主に委ねることにより主が解決してしてくださいます。

  全て主がなさってくださいます。これらも全て主が与えて下さった恵みと捉えていきたいと思います。

 「あなたの重荷を主にゆだねよ主はあなたを支えてくださる」(詩編五十五・23)

  世の中には本当に思い悩んでいる人たちが数多くいます。その様な人たち、より多くの人が主を知り、主が働いてくださるよう願わずにはいられません。 

      俳句

草拾う足に涼しき青田風

山路行く夕暮れの虹くぐり抜け

高原の静けさにあり花野道

曼珠沙華夕日に染まり溶けてゆく

畑草に隠れて茄子の紺ひかる

           徳島市



リストボタン主は御座に居られる

          I.E 

  季節がぐらっと動くのを感じることがある。夏から秋へ。また別の季節へ。

 暑いときはただ暑い。神様から離れているときほど展望が無い。だが後になってわかってくるものがある。それは隠されていたものが、少しだけ見えるようにされる時かもしれない。

 だが人間には決してできないことがある。日常に起るどんなことも、そのごく表面しかわからない。隠れた部分への人間の推測が正しいとも限らない。全てを正しくご存知なのは神だけだ。

  どんな時も主はみ座に居られる。季節が移り変るのは、偶然でもなく突然でもない。振り返ってみるとみな意味があった。神様のなされることは時にかなって美しかった(伝道の書3章11)ことを、感謝と共に思い出す。

  また、―神は人の心に永遠を思う思いを授けられたーとある。永遠を思うことは神を思うこと。神様を知らなければ永遠もわからない。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

  けれど、神を知らないまま永遠を思うことと、神を知らされて後に永遠を思うことは、希望と絶望ほどの差がある。心が何によって満たされるかも両極ほどの差がある。主は言われる、「わたしの手が短かろうか」。今与えられている「時」が、奇跡のように新しくなる。この世が無価値のように思うもの、また無言のものにも、そこに真の意味と価値を見いだすとき、魂は感謝で一杯になる。―汝ら常に主にありて喜べ、我また言う、なんじら喜べ。(ピリピ四章4)

詩三題 

 

… 香り

 

ふっと

透きとおった香りがした

胸の奥ふかくにとどまった

 

その香りは胸に碧空を呼び入れ

清いものでいっぱいにした

 

…コモチマンネングサ

 

ルーペで覗いて驚いて

ハッと息を飲むとき

言葉が消える

 

あどけなく見開いた眼

金に光る眼

道ばたで靴に踏まれていたけれど

 

 

 …主とともに

 

生きることは

血を流すことかもしれない

主イエスを見ていてそう思う

わたしたちの主でさえ血の汗流し

心も張り裂けんばかりにゲッセマネで祈られた

 

血を流すのは体だけではない

ときにこころも血を流す

だが何を恥じることがあろう

誰を恐れることがあろう

それがまことのしるしなら

 

まことのこころは血を流す

主イエスを見ていてそう思う

物言わぬ土の器でも

流れるときはながれるままに

流しながら生きればいい

いのちの主イエスとともに生く


リストボタン試練

                       I.M 

 「苦しみにあったのはわたしにとって良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」(詩篇一一九章71)

 私たちの生きている間には様々な悲しみや苦しみがある。

 今、幸せであってもいつまでも続くことはなく不幸な出来事に出会う。そんな時、神様を信じていてもあまりの辛さに神様へ背を向けたり、神様の存在を疑いたくなる。

 今、夕拝で詩篇を学んでいます。詩篇の作者は私達の思いを超えた辛苦を嘗め尽くしています。「なぜこんな目に合わせるのですか」と叫んで最後には神様を仰ぐという信仰に立ち返っています。

 いつもどんな時にでも神様が共に居てくださるということを信じて、今の苦しみ悲しみは試練と思えるように神様に最後までついていけたらと思います。 

  徳島市


リストボタン生活雑感「丘の上の冠」

              I.T(沖縄) 

 二十年間、主の祝福の御手に守られて歩んできた「西表友和村」を去ってから、故郷の沖縄本島に導かれ、ゆい農場というところに、仮の住家を与えられて五ヵ月になりました。

 ゆい農場は、下の集落から丘に登り、そこから七百メートルくらいガタボコガタンガタン道を下った所にあります。

 西の丘の上には、八階建てのゴルフ場、プール付きの立派なリゾートホテルがあって、どこからもよく見えるので、このホテルがゆい農場の場所を示す目印となっています。

 夜になると、ホテルの窓に明りが灯って、まるで宝石をちりばめた冠のように見えます。私は日常に見る夜の風景として、”丘の上の冠”と言って楽しんで見ていました。

 ところが、この十日程前から、ホテルの冠は消えてしまって真っ暗になりました。うわさに聞いていた倒産?は本当だったのでしょうか。働いていた人達は失業してしまったのでしょうか。きっとアルバイトの人がほとんどだったのかも知れないと思いました。また経営者が代って再び丘の上の冠が見える時が来るのでしょうか。

 冠が消えてしまった同じ頃、ホテルの下、ゆい農場のすぐ近くの畑に電照菊栽培の明りが灯り、下から丘の上の方に向かって電照光を投げかけています。この明りはとても不自然で不安定な光で、人の心の不安や不信をかきたてる光です。

 東から上の空を仰ぐと、木星がひときわ澄みきった光で輝いています。木星の輝きが、イエス様の誕生を知らせ、博士達、羊飼い達を導いたあの大きなクリスマスの星と重なり合って見えてきます。

 人間の造った光はどんなに美しく輝いたとしても空しく消え去るものであります。人間の知恵と能力の限りを尽くして進歩し続ける現代文明。そこに無比の価値をおいて走り続ける人間。神から離れたこの物質万能文明は、決して人間を幸せにするものではありません。それらはサタンが喜ぶものであります。私たちが求めるものは神様しか与えることの出来ない、神の内にある確かな命なのです。

 丘の上の消えてしまった冠ではなくて、決して消え失せることのない神から頂く義の冠を求めたいと思いました。

 ”競技をする人は、すべてに節制しています。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。”(第一コリント九・25

 ホテルの冠が消えてしまった真っ暗な丘の上に、今はくっきりと朽ちることのない冠が見えています。それはイエス様のいばらの冠であります。神の栄光は、いばらの冠の上に輝いていました。この光を見ることの出来る人は”幸い”です。キリストのいばらの冠に輝く、救い、赦し、勝利、望み、永遠の命を見て信じて、私は心から”主イエスの御名を”

讃美いたします。

”いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ”(ルカ二・14)アーメン


リストボタン老いのしあわせ

                                    I.U 

「天つ真清水流れ来て、あまねく世をぞ潤せる」やっと覚えた、讃美歌二一七番です。台所に立っているときも、夜の眠りにつくときも、ふと気がつくと、心の中で歌っております。運動のため、近くのマーケットに行きます。何回も立ち止まって杖にもたれ、腰をたたいては歩いていましたが、最近は「天つ真清水、流れ来て」と歌いながら歩きますと、いつの間にか目的地です。

 神曲煉獄編でダンテがヴェルギリュウスに導かれ煉獄の山を登りますが、私もダンテの後から、ヴェルギリュウスならぬ、良き導者、主にある兄姉に導いていただき、讃美歌に力づけられ、老いの煉獄山を登っている心地です。老いとは心身共に弱り、悲しみ、淋しさを実感しますが、良き導者に恵まれ、輝く光を目的に進むことができますことは、この上ないしあわせです。

 そして、共に歩んでくださる兄弟姉妹に恵まれ、イエス様を「天のお父様」と仰ぐことは、本当に幸福です。

 天つ真清水、飲むままに

 渇きを知らぬ 身となりぬ

 尽きぬ恵みは 心のうちに

 泉となりて 湧き溢る 

 徳島市


リストボタン

              U.Y 

 一九四一年八月頃、父母と私は、大阪市港区寿町に住み、私は、市岡商業学校の三年生でした。日支事変、日米関係が大変な頃、私は数冊の小説を読むのに夢中になっていました。その結論は、最大多数の最大幸福でした。この言葉は誰かが言った言葉かもしれませんが、私はそれによって人生の指針を与えられたと思い安心しました。

 戦後、東京都目黒区内の無線電信講習所で無線技術専攻課程を一九四七年九月から翌年六月まで学びました。試験も終わり、やれやれと思いながら、神奈川県藤沢市鵠沼海岸の寮に帰り、窓辺に腰掛けて、ぼんやりと松林を眺めていました。

 その時、何かが頭上を通り過ぎた感じがしました。何だろうと思いましたが、それは愛だと直感しました。愛はこの地球と宇宙を支配する指導原理である。このような壮大な宇宙の大真理を、私ごときいと小さいものに啓示してくださり、誠に感謝の極みでした。

 それからはなんだか気持が明るくなり、道も朗らかな気分で歩けるようになりました。しかし、しばらくしてから、にっちも、さっちも行かなくなり、なんだか大きな岩にぶっかつたようでした。

 パウロは言っています、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう、死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ 七・二四)

 しかし日が経つにつけ、そのような気持ちも薄れ平常になりました。

 「それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント一三の一三)。

 一九五三年四月から内村鑑三著作集が毎月発行され、それを読み感激して、神様とキリスト様を信じるようになりました。

 その後同僚の紹介などもあって、一九五四年一月から今井館で、矢内原忠雄先生の聖書講義を伺うことが出来るようになり幸いでした。         千葉県


リストボタン「主よ、感謝します」

                         O.H 

 思いもよらない事が起こります。急性腎不全になり、死の淵を覗いた私ですが、発病からすでに八年も過ぎました。

 週三回、一回四時間の透析治療を続けています。

 患者は体重が決められ、一日の水分量も制限され、しかも果物を初め、食べ物にも様々な制限があります。

 一番透析が始まった頃、一番苦しかったことは水分です。喉が渇いても水を気まま身飲むことが出来ないことは、体験しなければわからないことでしょう。

 一日百ccでは、我慢はできません。

 そんな状況ですが、いくらか尿(小水)が出ることに気がつき、看護士さんにそのことを話すと、「透析をしている患者は、そのうちに出なくなる…」と、素っ気無い答えが返ってきたのです。

 いつ、そうなってしまうのだろうか?

 それから私は排尿の度に、「主よ、感謝します」「イエスさま、ありがとうございます」と感謝の祈りをするようになりました。

 私とイエスさまとを遮ろうとするあざ笑うような人の声を打ち破る祈りをもって立ち向かうこと。

 今年で、透析を始めて八年になりますが、今も、尿は出ています。

 絶えず、イエスさまに祈ることは、イエスを信じる者には誰にでもできることです。

 繰り返し繰り返し、いつもいつも心の内で祈る。

 時には声を出して「主よ、ありがとうございます」 、「主よ、感謝です」と八木重吉の詩の赤ちゃんの鳴声は、うるさいのでなく、キッと、神さまを呼んでいるのだ…と。

 「イエスさま、イエスさま…」(札幌市)


リストボタン神様のお恵み

                       O.Y 

 昨年の「野の花」誌に一人での学びから踏み出そうとしている旨の文章を寄稿しましたが、その原稿を編集者の吉村さんにお送りする際、「今冬は愛農聖研に参加したいと思っています」と書き添えました。

 そう思いつつも休みなしの農業をしているため2泊3日の日数を空けるのは大変で、しかも「玄米のよう」と聞いた愛農聖研に信仰初心者の私が参加するのは勇気がいり、参加しようか迷ってばかりでしたが、吉村さんにそうお伝えしたということと、「今や恵みの時、今こそ救いの日」という主題聖句に背中を押され、1月4~6日の日程になんとか時間を作って参加しました。

 初めての私を昔からの友人のように温かく迎えてくださった参加者の方達、その篤い信仰に触れ、玄米のよう、とは因習の強い農村でキリスト教信仰を貫いてきた方たちの強さ、真実さを表すのだと思わされ、聖霊が豊かに注がれる3日間をいただくことが出来ました。

 その後、聖霊誌に載った私の感想文と「野の花」誌を読まれた東京・府中市のJさんから気遣いに満ちた心洗われる丁寧なお手紙をいただき、何回かのやりとりのあと名前は知っていても連絡先がわからなかった水戸集会について教えていただきました。

 今年は忙しくなかなか参加する機会を作れませんが、車で一時間の場所で定期的に集会がもたれているということに心強さを感じ、お知らせ下さったJさんにとても感謝しています。

 また愛農聖研には夏も参加し、お正月明けの忙しさの記憶に今年はどうしようか躊躇していた冬の聖研もお役目をいただいて参加することになりました。後ずさりしそうになる私の手を神様が引っ張ってくださったのだと思っています。

 一人での信仰の歩みを始めてから6年近くが経ち、孤独感もあって新しい出会いを神様にお祈りしていたのですが、昨年の「野の花」誌が出てからこの一年でびっくりするほどたくさんの出会いをいただきました。

 祈りを聞いてくださったこと、備えていてくださったこと、有り難く、神様に感謝するばかりです。(養鶏・有機農業)

               茨城県


リストボタン描き続けること

                  O.K 

 こんな私ごとき者の為に、主イエスは十字架にかかって死んでくださった。このことがわかったとき、わたしは雷に打たれたようになりました。しばらくすると、心の底からの歓喜がわき上がってきました。そして、私は救い主イエスに対して、あふれるような感謝の気持ちをおさえられなくなってきました。

 自分は何をもって主イエスにこの気持ちを伝えられるだろうか、と考えました。私は口も重く、文章も下手、金も社会的地位もなく、何の取り柄もない男。信仰だってあやふやで、いつ転んでしまうかもしれません。しかし、ひとつだけ、物心つく頃から好きで、少し自信のあることがありました。それは、絵を描くことでした。

 二十歳の時、畳二枚サイズの油彩画を公募展の初出品し、初入選。しかし、わたしは喜びどころか、失望しか味わうことができませんでした。公募展というのは、その会派の傾向に沿った画題と描法でありさえすれば、ほとんど入選することが可能であること。公募展は相対的評価であり、絶対的評価ではない、ということを初入選することで知ってしまったのです。それ以来、わたしは、自分のペースで、自分の納得するものを、納得するまで描いてきました。

 主イエスに救われた今、わたしは自分が好きで描いてきて、そして続けられそうな絵をもって、感謝の気持ちを捧げられないだろうか、と考えました。

 早速、画材店で、サムホールのキャンバスを買ってきて、主イエスの御顔を描いてみました。その絵は今も所蔵していますが、茨の冠の主イエスが左に顔を傾けている御姿です。それ以来、自分は一生をかけて聖書をテーマに描き続けて行こう、聖書以外は画題にすまい、と決意をいたしました。自分にとって、絵を描かないことは、私が主イエスに救われた歓びを忘れた時であり、信仰を失った時であると、言い聞かせていました。三六五日、個展や病気以外の日は、毎日アトリエで描いています。インスピレーションが枯渇して制作に行き詰まった時は、所蔵の旧作の中から、納得できない作品を引っ張り出しては手を加えます。そうしている間に、また、新しい霊を天より与えられて、描き出します。

 今日も、朝六時のFMラジオ「バロックの森」を合図に制作に取りかかります。年間百点制作、二年ごとに個展開催の予定です。来年二月で三十年目を迎えます。


リストボタン復活の信仰

                                                                  O.T 

「わたしは復活である。命である。わたしを信じるものは、たとい死んでも生きる。」ヨハネ 一一・25

 内村鑑三のルカ伝八章の研究「ヤイロの娘と予の娘 」を読むと「クリスチャンは愛する者を取り去られてなお、神を疑わないのである」と結ばれている。

 私もこの思いは、今も心の中に秘めている。

 二度目の子、祐子の死である。三ヶ月の命であった。

子を愛することがどんなに嬉しい事かと毎日が幸せでいっぱいであった。この愛は私から去ってしまった。

 今なお目に焼き付いているのは、大きな室で、裸のままで、台に置かれた光景である。 仕事先に電話があり祐子の肺炎の報せであった。

  急いで帰ったら、家には妻と子の姿もなく、実家に行ったという。夕方であったが、後を追うが、そこにもいなく、日赤病院の近くの姉の家に行ったという。夜中一二時にもなり、大雪のためにどうにもならず、朝一番で家に帰る。病院より報せが届いた。祐子の死であった。すぐ病院に行く。もうろうとした妻、祐子の屑のように裸の小さな体、大きな室で、台の上に置いてあった。あの時ほど頭が真っ白になった事はない。出かける時は祐子の笑った顔、今は死体となって横たわっている。それでも私の中に信仰の力は残っていた。妻を起こし、祐子の死体を抱き、二人で庄原の教会の門をくぐった。二人は泣いた。二人の罪を悔い改め神に赦しを乞うた。

 祐子の魂を天国に預けた。夕方家に帰ったら、父親が葬式の段取りをして待っていた。寝床に入っても目が冴えた。内村鑑三の「ルツ子とその死」を読み力が湧く。朝早く友人に助けを求める。牧師不在の時であった。寺に行く足止めの積もりが、今出る所だったと言われ、家に帰るが友が現れない。それから元牧師の河野先生に頼む。三名ばかり来て下さった中は仏教、ほかはキリスト教の葬式となった。墓では、賛美歌、祈りとなった。「今天在我国籍」の墓標の下に私の愛する子、祐子とその長女の壺が二つ入っている。

 私の室には、祐子の写真がかかっている。ほほえんでいるのか、眠っているのか、晴れ着の姿でいる。葬儀の時、妹が急いで買ってきてくれて写真を撮ってくれたのである。そのまま、晴れ着のまま埋めた小さな墓にヨハネ福音書のよみがえりの聖句が刻まれている。 復活の信仰があるから、死の悲しみも喜びとなって歌と変わる。イザヤ書一五・19

 「あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜び歌え」 

 広島県


リストボタン箴言十五章から(主の目、開かれている道)

                O.N

 どこにも主の目は注がれ

善人も悪人をも見ておられる。

         (箴言十五・3

怠け者の道は茨にふさがれる。

正しい人の道は開かれている。

         (箴言十五・19

 板野郡


リストボタン神様のお恵みの中の出会い

              O.Z 

 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ書八・28)

 この世の旅路で私たちの人生の歩みの中では色々な出会いのあること思います。主イエスさまにお出会いできた事の幸せは一番の感謝ですけど、私は今日までの歩みの中でどんなにか素晴らしいたくさんの出会いを頂いた幸いを思い知らされるこの頃です。

 そして、良き師に出会い、良き友に出会えたことのお恵みと嬉しさは何ものにも代えがたい喜びでもありました。今から五十年余前にひとりの姉妹と出合ったことによって、私の信仰の歩みも深められた幸いを思います。赤ちゃんの時から病弱でおそらく健康の喜びなど全然体験したことのない姉妹が主イエスさまの証し人として生かされた喜びや感謝を文章や詩や短歌などにして、私のところへも送ってくださったのでした。

 長島愛生園の方々との出会いもまた大きなお恵みでした。子供の頃にたまたま見た、顔の皮膚が真っ赤に爛れて、鼻もなく、目と口のみの姿をさらせて物乞いをしておられたその姿は、それは恐ろしい印象を私の心の中に残しました。

 その人がライを病む人の姿だと知ったのは大人になってからでしたが、そんな私が愛生園に導かれ、家族共絶縁され、社会の偏見や差別に苦しめられながらもそして、身体にも色々な障害を持ちながら主イエスさまをただ一人の救い主と信じて喜びと希望を持って、心温かく、心優しく祈りつつ感謝の日々を生きておられる姿に深い感動を覚えましたし、色々助けていただきました。

 人の姿やかたちだけを見てものごとを決め付けてはいけないこともたくさん教えられました。私はいつも自分勝手で心が汚いので、神さまはそんな私を憐れんで本当にたくさんの出会いを与えてくださいました。

 松浪閑子さんの書かれた本の一冊に「数えてみよ。主の恵みを」と言う題の本がありますが、本当に数えてみたら、どんなにか素晴らしい方々との出会いによって、私の小さい信仰の歩みも支えられて来たことを覚えずにはおられません。この夏の猛暑で身体が弱り、食物を受け付けなくなった時、私はこのまま死ぬのか・・・と思いました。

 死への恐怖と何とも言えない寂しさを感じました。日頃の信仰の自信の思いも消えてしまって私の中には何もないことに気付かされました。どんなに素晴らしい証しを書いても弱く醜い私しか残っていないことも知らされました。そのことも又悲しいことと考えました。今年は春頃から新約聖書の一日一章ずつを学びながら読み進んできて先頃やっとヨハネ黙示録にたどりつきました。

 「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている。」(ヨハネの黙示録三章より)

 今まで何度も読んで学んできたみ言葉なのに、神さまから吐きだされたらどうしようと真剣に考えました。つまり私は、〝名前だけのキリスト者でしか無かった〟と知らされました。

 本当の私は、キリスト・イエスさまの命の中に生かされていることを忘れていました。聖書を毎日読んで、たくさんのみ言葉をいただきながらしっかりと心に刻んでいないから怖れたり、迷ったりしてしまうことも知りました。多くの主にある方々との出会いの中で、祈られ守られ助けられている上に、聖書のみ言葉との出会いにも神さまのお恵みによって導かれている幸いを忘れず感謝して生きねばいけない。神さまは、いつも召された者たちと共に働いて万事を益としてくださる。もういちどそのことに思いを寄せた時、私は少しずつ元気が回復してきました。感謝です。

 右腕の骨折がまだ完全でないので、文字を書くことができませんがパソコンのワードで拙い証しを書かせていただけました。みなさまのお仲間に入れていただくことに、ためらいもありますが、お祈り頂いていることへの感謝と喜びを持っておりますので、宜しくお願いいたします。

 これから季節は冬に向かって進んで行くことでございましょう。そして私たちはクリスマスの喜びを戴くことでしょう。お身体お大切にお過ごしくださいませ。十月三十一日記 (愛知県 七十九歳)


リストボタン人生航路の賜物 

                O.E 

 涙の水がなければ歳月を通じて心の奥底は

希望のつぼみを閉じる。

人生どんなところにも気をつけ耕せば

豊かな収穫をもたらすものが手の届く

範囲にたくさんある。 

 このメッセージは何かに載っていた一部分なのかどうか覚えてないですが心に残ったものです。

  自身が思ったことは、この世にある目先のものばかり楽しみ、むさぼったりして、清い生活がもたらす報いも期待せずにしていては、手の届く範囲にたくさん収穫するものがあっても、神様の賜物はいただけないと思いました。

 ヨハネ福音書十五章6で言われている通りで、いつも神様につながっていてこそ、神様からの賜物もいただけ、収穫もでき実も結ぶことができるから、神様から離れないよう、日々歩みたいと願っています。

               (中途失聴者)

  板野郡


リストボタン「アシュレー!」   インターネットによるスカイプ礼拝に参加して

                      K.K 

 秋の夜。帰りの遅い家族に感謝しつつひとりの部屋でスカイプ集会に参加した。

インターネットのスカイプ、というソフトを利用して、自宅のパソコンを通して、共に祈り、讃美し、メッセージを聞く、礼拝である。

 誰もいない静かな部屋。聞こえてくるのは、讃美と祈りとみことば。

きょうは、詩編四十一編の学びだった。「アシュレー!」(なんと幸いなことだろう!)ということばから始まっているこの詩編。本当に、なんと幸いなことだろう。こうして、静まって、共にメッセージをうけることのできる恵み。祈ることのできる幸い。 

 闇の力に引き込まれそうになったり、自分の弱さを責めて落ち込んだり、うまくいかないことが多い精神科病棟の勤務の中。渇き苦しんでいる人にイエス様を伝えることもできず、わたしはいったい何をしているんだろうかと思うことがある。よかれと思ってしたことが、裏目に出る関わりの難しさ。疲れることも多い。

 でも、きょう、詩編四十一編の学びの中で、ただ、病む人の心に寄り添っていく、それでいいんだというメッセージを聞いて慰められた。難しくても、失敗しても、懲りずに信じて寄り添っていこう。何もできなくても、祈っていこう。

「主よ、憐れんでください!」この祈りは、どのような状況であっても、たとえことばにして祈れなくても、この叫びはできる、と学んだ。それならば、祈っていこう。神様を知らずに祈れない患者さんに代わって祈ろう。病識がなくて、医療者が敵にしか思えない患者さんに代わって祈ろう。幻覚や妄想、死にたい気持ち、依存、自傷、さまざまな症状に苦しむ患者さんに代わって「憐れんでください!」と祈ろう。全能の神は祈りに答えてくださる。 

 人を苦しめるものは、病気、罪、他者の攻撃や悪意。しかしあらゆるものから神様は救い出してくださるとこの詩編に示されている。闇から救い出し、「アシュレー!」という喜びと感謝の声をあげさせてくださる。「いかに幸いなことでしょう。」と訳されている「アシュレー」ということば。今もし叫ぶならば、「やったー!」「バンザーイ!」「ああ、何てうれしい!」…何を並べても軽くなる。やはり「アシュレー!」でしかないのかもしれない。

 どうか、主よ、病める人が、虐げられた人が、「アシュレー!」と叫び「ハレルヤ!」と讃美できる日がきますように。待ち望みます。


リストボタン里がえり
                   K.T)

 とるものとりあえず帰りたかったが、夏バテ寸前ではどうしょうもなく、秋を待ち侘びて十月一日の帰省となった。
 徳島につくと病院へ直行した。九十四歳の義姉にはイロウが始まっていたし、救急で入った翌日手術という処置で友は危機を脱していた。「よかった」との一語ですべては通じ合えた。何が起きるか判らないのが常だと言いながら、身近な人の上に起きるのは衝撃であった。
 病気見舞いではじまった里がえりだったが、楽しいこともたくさんあった。二つのクラス会、とりわけ七十五年ぶりの顔合わせは圧巻であった。分校で四年まで複式学習を受けた二十四名のうち十名が集まってきた。全くブレイクのまま横ならびの八十五歳、計八百五十歳ネと大よろこび、言いたい放題の二時間が瞬く間にすぎた。これが始りで終わりかも…。誰もが思ったに相違ないのに生き生きとして、「春にはお花見といこう」などと、それを合言葉に元気を互いに貰い合って別れていった。「院長の許しが昨夕おりたの」と眼を輝かした人の「よかったわ」の言葉がほんとに嬉しかった。ありがたかった。
 徳島聖書キリスト集会に出られたこと、二度目は礼拝の日の午後は伝道コンサートになった。水野源三さんの詩の作曲を手がけて来られた阪井和夫さんと浜田盟子さんの歌とトークを息のかかるところで聴くことができた。「神様の真実」「美しい秋」など、祈りと感謝にしみじみと導かれた。美しい秋に満ちた聖日だった。
 また十年間、座員の一人としてボランティアで施設を回り歩いた人形座の公演に呼ばれ、成熟してきた芸に触れたこともうれしかった。七十五年目のクラス会や人形劇などは予定外のプログラムだったが、心地よい刺激が心身の癒しになった。
 家事、とりわけ食は生きていく基本の基、よくも一ヶ月間一度も欠くことなく続いたものと、われながら感心している。やる気が自信につながったような気分が湧いているがー。果たして。ではお前は自立していたか、どうしてどうして「人独りなるは善からず」と。
 友だちが時々とび込んで来てくれた。買物の帰りだとか、そこまで来たからと言いながらお土産ご持参である。手作りの御惣菜がおでんであったり、魚や野菜・豆、つくだ煮、刺身、寿司という御馳走。時にはお好み焼きも、降って湧いたマナさながら。冷蔵庫が空になりそうな時には、思わず「助かった」と本音をあげた。近所に住む姪たちは頼りになる太い綱だし、ついでだからと買出しを買って出てくれる力持の助っ人。幼名であいさつを交わす隣人の存在も支え、出産だの入院中だの町雀と呼ばれる立話の仲間も、ひとり居にはよい情報源。野菜のおすそわけがあったりもする近所づき合いが今も息づいているわたしのふる里。だからひとり居でも孤独ではない。ふる里はありがたきかな  
 私は毎日のように散歩に出た。天神山紅葉山と呼ぶ里山、裾の径や園瀬川の川べりを歩く。眉山に落ちる夕日や、川面の夕映えの美しいこのごろは渡の鴨が数増す季節でもある。餌づけのパンを投げる人もみかける。里山の裾の小径は、農家の集落のある界隈、おそらく昭和の初め頃までは、自給自足の営みがあったのだろう。
 家々は石積みや生垣で囲まれて、果樹や花木、野菜畑や花畑がある。人通りが少なく西に丘を背負っているので、冷たい風の吹く季節に好んで歩く。藩主の別荘の跡地の基盤や池も残っている。我が家も没落以前はこの辺に居を構えていたと幼い頃年寄りからよく聞かされたもので、そのせいか全く無縁とも言い切れない、ちょっと歴史をさぐりながらという楽しい小径でもある。
 ふる里は、いわば私の育て親のようなもの、今、大阪にいて時折帰りたい思いが慕るのは私の大切な宝物に触れたいからか、所有はいつまでなのか、」どうやら期限の切れる時も近いよう。そう思えば尚更帰るところが美しく思われる。今回のような特別な動機は別として、八十余年肌に刻み込まれた生まれ故郷はもう私の分身も同じいや私が分身。この愛着はかりそめではない。
 十一月一日に家族が車で迎えに来てくれた。三日、秋晴の朝、眉山に見送られ、藍をたたえた吉野川を渡った。ふる里さらば、暫くは青い流れも白い波紋も見られまい。いまが一番!と眼底に焼きつくまで。「鶯の啼くころまたね」そんな言葉で希望をつなぎながら幸せを噛みしめていた。
 高槻には三日の午後無事に戻った。」家族の「おかえりなさい」にぬくもりが溢れていた。八日には久々の集会、いつもの席に招じられて座ると、ここが私の居場所だとおどろく程の安定が与えられた。第二のふる里!
「数えてみよ主の恵み…」と主に感謝して歌うがこの度の帰郷は、その初めから終わりまで数えあげられないほど有形無形の恵みに預かった。一年、十年まして八十五年間の恵みがどれほどのものか、神は何と無尽蔵に塵のような人を顧みて恵みと愛を下さっていることか。人は、私は何をもって応えてゆけるのだろうか。       (高槻聖書キリスト集会)


リストボタン美しい秋

                               K.M 

 徳島聖書キリスト集会で、阪井和夫さん、浜田盟子さんのコンサートが開かれました。阪井さんが、水野源三さんの詩に曲をつけて「瞬きの詩人 コンサート」と題して行われました。

 二人の歌声や詩に感動を覚えて涙が溢れました。

 

美しい秋

1.木々の紅葉を見ましたか

  百舌の声を聞きましたか

  主のみ名を呼びましたか

  主の愛に触れましたか

  美しい秋を

  美しい秋を

  創られた父なる御神を

  喜び讃えていますか

  喜び讃えていますか

 

2・赤いりんごを食べましたか

  栗の実を拾いましたか

  主の御名を呼びましたか

  主の愛に触れましたか

  美しい秋を

  美しい秋を

  創られた父なる御神を

  喜び讃えていますか

  喜び讃えていますか 

  先日、友人と美しい秋を見に剣山に行きました。

木々の紅葉も見ました。小鳥の声も聞きました。すすきも見ました。ヤマシロギクやノコンギク、ツルギカンギクやリンドウが咲いていました。赤い実もありました。真っ青な空に白い雲、そこで神様が創られた愛に触れました。

 思わずこの前聞いた美しい秋の歌を口ずさみました。

 この一年間もいろいろな出来事がありました。自分の力ではどうする事もできない問題も起こりましたが、神様を信じて待つことによって、その問題も神様が解決してくださいました。私には奇跡のような出来事でした。

 神様の声が後ろからも前からも私たちを導いてくださると学びそのことを信じることができました。感謝です。  (美容サロン ルカ 美容師)

  板野郡


リストボタン嵯峨山和代さんとの20年

      K.Y 

 嵯峨山さんが私の介護者となってくれたのは、約20年前でした。嵯峨山さんを一見した時、この人なら委せられると直感しました。家族と同様の雰囲気を感じました。

 発声の訓練を始めた頃で、訓練の手伝いをしてくれました。長く失っていた声を取り戻しました。嵯峨山さんも喜んでくれました。

 それまでの意欲のない生活から抜け出して、何かしようと考えていて、パソコンを思い付きました。そのパソコンは音楽の入力が出来、聖書が読めました。

 徐徐に前を向くようになって、そんな時に、徳島聖書キリスト集の集会員の紹介で、次々と病室に来てくれる友が増え始めました。私の友人は嵯峨山さんも共通の友達です。ほぼ全てがクリスチャンです。私は初対面の人と、どんな話をすれば良いかを考え込む性格です。そんな時に、嵯峨山さんが助けてくれるのは、人との会話のワン・クッションになって、会話がスムーズになります。

 96年には一つの出会いがありました。集会の中で一番初めに来てくれた吉村孝雄さんです。話題が讃美歌のことになり、集会で使っている讃美歌本が7冊あって、これをパソコンで伴奏を作ったらどうか、と提案してくれました。今から14年以上前のことで、パソコンを使える人は少なかったようです。皆さんは讃美歌データの仕事を、私が吉村さんの手伝いをしていると思っているかも知れません。しかしそれは私の想いとは違います。初めはまだ信仰がなかったために、あの仕事は、暇潰しと吉村さんのために始めたのです。吉村さんなら伝道に役立ててくれるというつもりでした。神様のためだと思えるようになったのは、それよりずっと後のことです。嵯峨山さんにも、パソコンや楽譜の設置、CD-Rの録音、荷造りや発送などで、かなりの協力をして貰っています。目的の7冊は7年で終わりましたが、まだ続ける気持ちがあるので、嵯峨山さんにも助けて貰うことになるでしょう。

 2008年の全国集会を最後に、車いすには乗っていません。疲れがその日の内に取れなくなったからです。以前は、留守にしている時に人が来てくれても会えずに、大切な機会を逃すことがよくありました。それに比べて今は間違いなくベッド上にいるので、来てくれる人も来やすくなったと思います。

 私の介護のことを人に訊かれることがあります。嵯峨山さんは24時間の仕事で、私の傍らにベッドを置いて寝起きをしています。月に何日かの休暇を取りながら、20年近く私と生活を共にしてくれています。私のような重度障害者の介護とは、そういうものです。それに加えて、私の喉には人工呼吸器が繋がっています。チューブが外れたら大変です。実際に危険に遭ったこともあります。緊張感も大きいです。

 私の友達が来てくれても快く迎えてくれます。それは多分、二人の共通の友達だと思っていてくれるからです。誰もが外界の神様の風を運んでくれるのを、私たちは喜んでいます。

 看護も大事ですが、それにも増して直接生活に影響する介護のほうを私は大切に考えています。嵯峨山さんの介護があるから、私の日常は成り立っているし、こんなに長く生きていられたのだと思います。嵯峨山さんの仕事とはそんな内容です。これは皆さんに知っていて欲しい気持ちから書きました。

 私たち二人が何故こんなに長く一緒に居られたか?まず大事なのは、嵯峨山さんにキリスト教の精神があること。次に私のことを一個の人間として尊重してくれていることだと思います。

 「ありがとうと感謝します。」これ以上の言葉はありません。


リストボタン聖書の御言葉、賛美、祈りに支えられて

                            K.H 

お前たちは、立ち帰って

静かにしているならば救われる。

安らかに信頼していることにこそ力がある。

        イザヤ書30章15節

 

心の貧しい人々は、幸いである、

天の国はその人たちのものである

悲しむ人々は、幸いである、

その人たちは慰められる。マタイ5章3~4節

 

粉雪    水野源三作詞 阪井和夫作曲

1、 粉雪が 静かに降り

 誰も 見えない 誰も 通らない

 主よ 身姿を仰がせたまえ 

 今年は森祐理さんや、阪井和夫さん、浜田盟子などをお迎えして賛美のひとときを過ごせて感謝でした。

森祐理さんの賛美や証も力づけられとても良かったです。また、阪井和夫さん、浜田盟子さんにより水野源三さんの世界にふれることができて特別集 会が心に残りました。

 神様は、弱い人、苦しんでいる人の所に来てくださり御業を表してくださっていることをまた思わされ、恵みと力を与えられて帰ってくることができて感謝でした。

 祈りの友のかたからのお葉書や、毎月送られてくる福音、いのちの水、集会を休んでいると尋ねてくださるお葉書などをいただき、主の内にある嬉しさを深く思わされる一年でした。

 聖書の御言葉、賛美、祈り、日々毎日のことを反芻して新しくされ主に信頼していきたいと思います。ヒルティも主に信頼して裏切られたことがない、と言っていますので人ではなくまず神様に聞いていただき祈っていきたいと思わされています。

 また心が砕かれて、神様に新しくされ、神様に喜ばれるようになりたいと思いました。

 お祈り本当に有難うございます。

 私も一人でも多くの人のお祈りができるようにしたいです。

 鳴門市


リストボタン三本の十字架― 2010年オーバーアマガウ受難劇

     K.M 

 十年来の念願が叶えられ、家族四人と共に舞台の三本の十字架を見つめていた。血潮滴るイエス様の御姿であった。

 裁判では、むち打たれ、嘲笑され、茨の冠をかぶせられているイエス様。あんなに、エルサレム入城の時には、ホサナの声に迎えられたのに。ピラトの両翼にバラバと共に立たせられ、ピラトはイエス様を許すよう促したのに、群衆は「バラバを許せ」のシュプレヒコール。群衆のこの流れに、今更ながら驚く。

 祭司や学者ら宗教的権威者に追随する大衆は、根を持たない浮草のような存在だ。ピラトはピラトで自分は「この裁判に責任はない」と持って来させた水差しの水で、長いこと手を洗っていた。聖書の一つ一つが思い出される。

 そして弱り切っているイエス様にロマ兵は重い十字架を担がせ、倒れればムチ打ち痛々しいお姿に、目を伏せていた。このお苦しみは、誰が為ぞ!

 広い舞台いっぱいに居た群衆は遠巻きとなり、手足に釘を打たれる時の絶叫のあと、三本の十字架が立てられた。ここで、両側の罪人がイエス様に語り掛けていた。イエス様は「今日私と共にパラダイスにいる」と右の罪人に言われ、最後まで御救いの愛を傾けられた。突然「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれて、息絶え給うた。胸の締め付けられるような思いで、目に涙がにじんできた。息を飲む瞬間であった。この時、舞台は突然暗くなり雷鳴がとどろいた。至聖所の幕が真ん中から裂け、大祭司イエス様を通して私達が神様の所へ直接伺う道を開いて下さった。歴史の大転換である。

 聖画で見る「キリスト降架」のように、三人の人がイエス様を十字架から白い亜麻布を使って御降ろしする。アリマタヤのヨセフや、ニコデモたちの葬り。そして、舞台は一転して清らかな静けさの中に、天使や女たちに囲まれて復活されたイエス様の場面に変わる。ハレルヤの賛歌と共に、私たち観客一同も苦難の十字架から勝利の復活で心が晴れやかになって退席することが出来た。 

 お慕わしいイエス様に劇とは言え、お会いした気持であった。そしてイエス様の受難の厳しさは、とりもなおさず、この私の罪を許して下さるためのものと思えば、涙なくして見れないものであった。死にて、死に打ち勝ち給うた主イエスにハレルヤ! 

オーバーアマガウの思い出

 この村はミュンヘンから南へ170km、人口5000人のアルプスに近い村で、標高800mの高地のため夏でも日本の3月の気温であった。このような劇を、この村で行うようになった理由は何であろう。西暦1633年ペストがこの村にも流行し、死者が出たので村人は教会に集まりこう祈った。

  「神様。もしこの病から私達をお救い下さるなら、あなたのお受けになった烈しい苦難を私たちは劇にして、10年毎にあなたにお捧げします」と。

以後ペストも収まり、村人は感謝の受難劇を翌年の復活祭から始めて今日に至っている。

 商店の並ぶ繁華街は、200m四方であろうか。すぐ畑や、豚や牛の昔懐かしい香り漂う家畜小屋にぶつかる。青空の向こうに、頂きに十字架の見える高い山が望まれる。平和で静かな村に、世界各地から10年に一度ひと夏で50万人もの人が訪れるという。

 この村には、家々の壁に聖画や、童話のフレスコ画が描かれており、旅人の心を豊かにしてくれる。宿泊したホテルの入口の壁には、十字架のキリストが描かれていた。

 この村のもう一つの特徴は、木彫り彫刻の伝統があり、昔から雪に閉ざされた冬季に、森から切って来たハンノキや菩提樹で彫刻を

して親から子へ、孫へと教え伝えて来た。今は、村に彫刻の専門学校もでき、本格的な産業になっている。キリストを主題としたものが多い。作品の人物は良いお顔をしていて、見事な作品ばかりであった。

 小さな村の村民が信仰による強い団結力で、50人の合唱隊とオーケストラに支えられた見事な劇を演じていた。澄み切った歌声と、その見事な演奏が耳の奥に残っている。座席数4800の劇場は、世界各国の、特に白人で満席となりアジア人の姿は余り見られなかった。思い出深いのは開演直前に雲行きが怪しくなり、強風が吹き込み暗くなって来た。強い雨音が聞こえ、雷鳴もとどろき一同緊張した。まさに、受難劇の幕開けに相応しい情景であった。

 幕間には合唱と共に、人物が静止して絵になっている旧約聖書からのリビングアートが、光に照らし出され、この演出にも驚かされた。例えば、「イサクを捧げるアブラハム」・「モーセの十戒」・「ダニエルとライオン」等であった。

 十年一度のこの劇のために、素人の村人がこぞってここまで出来るのはどうして?と思わされた。それは、「信仰」の力であろう。尊い体験をさせて頂いた感謝は、尽きない。(2010.9.9記)


リストボタン主イエス様は全てご存知

             K.M 

 聖霊の導きで、高槻聖書キリスト集会にご縁をいただいて一年四ヶ月が過ぎました。

 私は長崎県北松浦郡小佐々町矢岳(現在は佐世保市に統合)という、九十九島の島々が点在する小さい片田舎の、産業も何もない貧しい村で生まれ育ちました。神崎(こうざき)という、日本本土最西端のそこに、キリスト教会があり記憶は定かじゃないのですが、小学校時代その教会に何度か遊びに行った時の事、十字架にかかったキリストの姿が幼い心にただ意味も知らず、釘で手足を打ち付けられ、頭を垂れて痩せ細ったその姿に“むごい”と目をそむけてしまった事を覚えています。それからはキリスト教というのは絶対おかしい、神様はこのようなむごい事をされない! イエス・キリストが救い主なら、このような死に方はされない! とずーっと反発していました。

 十才の頃から「生きるって何だろう? 死ぬって何だろう?どうせ人は死ぬのに何で一生懸命勉強して、仕事して生きていかなきゃならないんだろう。」と人生を儚(はかな)む変な子どもで、母からは「この子はまるで世捨て人みたいだ。」と言われていました。それでも、神様だけは本当にいらっしゃる!世界中でいろいろな神や仏の名は沢山あるけど、唯一全てを創られた、創り主の神はただひとり! と強く信じている変な子どもでした。

 そんな私がイエス様を信じるようになったのは、去年の六月二九日、五島ちまりさんとの、ひょんな出会いから、七月の始めの日曜日、主日礼拝に参加させていただいた時からです。その日はちょうどルカ伝の復活するという箇所でした。その時復活されて今も生きて働いてくださってる、主イエス様に出会えた事をしっかり感じさせていただきました。それからは、私は十字架のイエス様が私達人類の罪を全て背負い罪をあがなってくださる為に、あのようなむごい死に方で亡くならなければならなかった事を、解らせていただき、勝手に勘違いして長年反発していた事を懺悔しました。私がずーっと苦しんできた事もイエス様は全てご存知で、主日礼拝に行って、イエス様に会える事が楽しみで、また参加する事で心身共に救われて、その後も無事生活していける事が感謝です。

 讃美にも救われ、最初は『もしも私が苦しまなかったら』の讃美に、本当にその通りとずーっと涙しながら口ずさんでいました。『人生の海の嵐に』も最近は応援歌のように歌っています。イエス様と共にいさせていただいている事に感謝しているのに、この世の生活の中では、御意志に反した言動、行動ばかりで反省しきりの生活です。私の今一番の悩みで日々悶々としている事も、イエス様は全てご存知で今日の礼拝(十月十七日)の終わりの讃美では新聖歌二〇〇番『心に悶えあらば』を那須さんが選んでくださって、歌い出したときは、なんとイエス様の深い愛に包まれ、本当に私の心の中まで全てご存知で、私に語りかけてくださっているようで、涙涙で歌えない程でした。その讃美をまた応援歌に、これからも主イエス様が共にいてくださるので、家族の者にも、どんな時でも、愛をもって接していきたいと思います。

 ここにその歌詞も書かせていただきます。

新聖歌二〇〇 心に悶えあらば

一、 心に悶えあらば イエスに話せ イエスに話せ

悲しみ憂(うれ)いあらば イエスに話せよ

   (折り返し)

  イエスに話せ 良き友なる イエスに話せよ

  思案(しあん)せず 何事をも イエスに話せよ

 

二、 涙の急()き来るとき イエスに話せ イエスに話せ

  隠(かく)せる罪を持たば イエスに話せよ

  

三、 恐れに囲(かこ)まれなば イエスに話せ イエスに話せ

    明日の日 気にかからば イエスに話せよ 

四、 死ぬるに 安きなくば イエスに話せ イエスに話せ

   (まど)える その心を イエスに 話せよ 

 高槻市


リストボタン御言葉を聞く

          K.I 

子は父の諭しによって知恵を得る。

不遜な者は叱責に聞き従わない。

口の言葉が結ぶ実によって

人は良いものを享受する。

欺く者の欲望は不法に向かう。

自分の口を警戒する者は命を守る。

いたずらに唇を開く者は滅びる。

怠け者は欲望をもっても何も得られず

勤勉な人は望めば豊かに満たされる。

神に従う人は偽りの言葉を憎む。

神に逆らう者は悪臭を放ち、辱められる。

慈善は完全な道を歩む人を守り

神に逆らうことは罪ある者を滅ぼす。

           (箴言13:1-6)

 神様は、私たちの意志を自由にさせていただいている。神様の御言葉に聞くことも聞かないことも私たちの意志にまかせてくださっている。どちらか選び方でわたしたちの途が大きく違うことを思わされます。

 日常の生活では、御言葉に聞くことを忘れて自分の思いだけで歩むことが多いこと思います。神様を思いつつ歩む時に、平安や良い結果をいただいたことを感じます。 罪が多くまだまだ御言葉に聞き従うことができない者ですが、御言葉を学び、聞き、折々に神様を思いつつ、祈って歩める途を選びつつ毎日を歩みたいと思います。

     徳島市


リストボタン独立伝道会に所属して
                      K.T 

 いくつかの会に私は関わってきて、日曜日の浦和キリスト集会(埼玉県さいたま市)とキリスト教独立伝道会が、大切に思えてならない。この二つの会を通して信仰の上で、最良の兄弟姉妹と交わることができた。(他の会でも良き方々にお会いできたが…) 

 「伝道をしないと自らの信仰さえ取り去られる」と先輩から教えられてきた。私のような小さな者で、そんな資格は、ないと常々考えてきた。しかし今年、相模原集会(神奈川県)や松川集会(長野県)の日曜集会に行った。キリストの証しをするために祈り、備えてきた。苦しかったが、一番恵まれるのは、私自身であった。 

 独立伝道会の宿泊を伴う集会が、夏は山中湖(山梨県)、新年は伊豆市(静岡県)で行われる。当然ながら準備に他の運営委員と共に当たる。パソコンの力量は乏しく、労力と時間を費やす。何度もメールや電話の交換をする。しかし、これも主に在る喜びで満たされる。 

 「キリスト教独立伝道会通信」の編集の補助をする。原稿を校正するたびに一文字一文字読む。一般の読者は、好きな所だけ、しかも一回しか読まないであろうが。信仰誌の校正とは何という歓喜なのだろう。 

 運営委員会での話し合いが、また素晴らしい。二〇歳代から七〇歳代までの方々、静岡県や山形県からの運営委員も、東京に集まる。教えられることが大である。 

 キリストにあって信仰を全うした先輩の生涯を知る。感動的であった。私もあのようにありたいと何度も痛感した。「アーメン、アーメン」である。 

 私は七二歳、人生の四季(春夏秋冬)では、「冬」である。天の国を目指して、重要なただ一つのことに絞り込み、キリストを証ししたい。現在の一番の感謝は、毎日、聖書を読み、祈り、日曜礼拝と独立伝道会との関わりを持っていることである。 

       埼玉県


リストボタン花の恵み
            K.T 

「あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。」(フィリピ1:19)

 私の家は、はり治療院(主人)がしています。その治療室には、私が、庭で咲いたり兄弟姉妹からいただいた四季折々の野の花などを中心にいけています。

 それを見て患者さんが、「いつも花が生けられていて、心が安らぎます」とか、「体調がよくない時には気づかなかったけれど、楽になると花の美しさに気づいて心の余裕が出てきました」とか、あるときなどは、花がなくていけることができなくていると、「奥様はお元気ですか」と聞いてくださる方、また、「優しい花ばかりで心が伝わってきます」。色々な声が、直接だったり、主人から聞かせてもらいました。

 花を生けてある出窓の上には、『愛』と大きい文字に続き、『キリストの愛が私たちを取り囲んでいる(コリント第二::十四)』と書かれた壁掛けがあります。

 礼拝では、神様が創られた被造物すべてに愛が顕れていることを学びました。花を見て先のような言葉をいただきうれしいのですが、壁掛けの御言葉とあわせて、その奥には神様の愛があることを知ってもらえればと願っています。

 私の故郷は、山と海に囲まれた所です。野山に咲いている花はたくさんあり、好きで興味がありましたので、名前が分からないものは母親などに聞いていました。しかし、図鑑もなく詳しくもなかったため、ごく一部の名前しかわかりませんでした。

 その後、信仰を与えられ、徳島聖書キリスト集会のY兄に出会って、聖書と共に数え切れない沢山の植物の名前を教えていただき、共に神様の愛も伝えてくださいました。私にとっても植物がぐんと身近な存在となり、神様の愛が感じられるようになりました。 

  徳島市


リストボタン不安について

                    K.T

 キルケゴールによれば、キリスト教における精神という人間規定が入るまでは感性は感性として自覚されていなかった。ところがこの規定が入ることによって感性は精神に対立する者として明らかになってきた。身体と魂を根底から支配しているのが精神である。

 不安について古代ローマ皇帝・暴君ネロの場合について考察する。ネロ(在位五四~六八)は地上のあらゆる権力や快楽に酔いしれるが常に不安におぴえている。そして母を殺し皇后を殺し、最後はローマを火災で焼き尽くす。そして不安の結果自殺する。

 ネロの場合精神が暗雲のようにネロの上に集まり精神の怒りはネロの魂の上に覆いかぶさり彼は快楽の瞬間にも絶えず不安となる。皇帝ネロの眼差しの鋭さや暗さは彼の魂の奥底にひそむ暗闇のせいである。その暗さや不安は精神が発現できないで抑圧されて精神の固有の働きが発現できないところから生じている。ネロはこのような状態を鋭く指摘する者をおそれている。またネロも自己の内奥を省みる時、そこにはこの世の何をもっても埋める事が出来ない空虚が潜んでいる事、また見るに耐えない荒野が広がっている事に気がつくのである。

 ネロのより高い快楽は人々を不安に陥れることである。彼は自分自身が謎であり、彼の本質は不安であるので、人々の不安によって元気を養おうとする。ネロは人々に畏敬の念を起こさせようとせず不安がらせようとする。

 ネロは精神の切願を拒絶して魂と身体の充足の次元だけで生存を理解する人間を代表している。

 憂愁は精神の病であるが悲哀や心痛は魂の病であるという事が出来る。精神だけが憂愁を除去する事ができる。精神の病は人間存在の全体のあり方関係する病状であるといってよい。

 新約聖書では ヘレニズムの魂に対立する言葉として霊 身体に対する言葉として肉という言葉が使われている。パウロは神に対して正しく接しない事を罪として肉の思いとしている。肉の思いは姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術。敵意 争い。そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、など列挙している。(ガラテヤ五・19)ここには不安しかない。さらにてパウロの言葉を引用しよう。『神の霊を導かれる者は皆神の子なのです。あなた方は人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく。神の子とする霊をうけたのです。この霊によって私たちは「アッパ父よ」と叫ぶのです。この霊こそは私たちが神の子供である事を私たちの霊といっしょになって証してくださいます。』(ロマ八・14~16)

 神との正しい関係が樹立した時 私たちは罪から解放され不安から逃れる事が出来るのである。(岡山市)


リストボタン「子どもの主へのまなざし」

                       K.K 

 我が家には長女(福音6歳)と長男(嘉門1歳)と2人の子どもがいます。

長男はまだ幼いのでまだはっきりと話すことができないのだが、長女は大人顔負けの言葉を発すことがありそれがまた面白い。

 聖書のなかで子どもに関する記述があるが、子どもというのは清らかな特別な心で神様と接することができるのではないかと思うことがたびたびあります。

 最近、長女の行動で考えらされることがあったのでそれを書こうと思います。

 幼稚園のお迎えに行くと雨上がりの園庭のど真ん中で長女と友達が空に向かって手をあわせて必死になにかを拝んでいます。

 理由を聞くと、「ママが前にね、お空の雲と雲の間からさす光の上には神様がいて綺麗な光を福音(長女の名)に見せてくれているっていったよね。だからお友達と神様にお祈りしているの。」

 あぁ~、確かそんなこと言ったわよね、と思いながら雲と雲の間からさす一条の光に真剣に祈る娘たちの素直さに心を打たれたのでした。

 あるとき、長女とこんな話をしました。

「困っている人やお友達に優しくしてあげたり助けてあげることはいいことなんだよ。お空のうえにある神様銀行にいいことをした分だけ貯金がたまるの。いっぱいいいことをしたら死んだあとに神様の椅子の隣に座らせてもらえるんだよ。」

 子どもにわかりやすいように脚色して話したのですが私は長女が「じゃあ、いいこといっぱいする!」ということを狙いました。

 しかし、長女からでた言葉は以下のものでした。

「神様の隣にすわれるのは福音(長女の名)ではなくさゆりちゃんだと思う。さゆりちゃんは強くてやさしくて助けてくれるよ。」

 親のよこしまな計画通りにはいきませんでしたが、「自分が」ではなく友達のいいところを褒めることのできる長女を嬉しく感じました。

 もちろんさゆりちゃんが素敵な人物だからこそ、というのはいうまでもないのですが。それからえんえんとさゆりちゃんのよいところ話が続きました。

 最後になりますが、長女が5歳のとき机の上の長女の書いた落書きがふと目にとまりました。「こんな言葉を教えたつもりはないのだ神様は特別な力を子どもに与えられるのだなぁ。」と感じました。

 偶然、主人の目にも止まったようです。主人は感動して自分の手帳にその落書きの紙を貼ってしまいました。(親ばかですいません)

 その内容は一つの詩でした。

「いつでもたのしいときはわらってさびしいときはないて

こどもたちはいつもおおいそがし

 おとなはいつもげんきでいますようにわたしはそうおもいます。

 ふくねとかもん きょうだいまもってください

 いつもかみさま ありがとう あいしてます」 

 大きな虹が書かれていました。

 世界ではさまざまな事情から笑うことができず寂しいときにも泣くことができない子どもたちがいることを思い出します。

 どうかその子どもたちが神様の愛を知ることができ一刻も早く平安が与えられることを願わずにはいられません。

 また私たちにできることがあれば主にお使いくださるように祈ります。 東京都


リストボタンS君のあーとー

              K.E 

 私が養護学校に勤めていたとき子どもたちからたくさんのことを学びました。その中で今も印象に残っていることの一つにS君の「あーとー」があります。

 S君は高等部の生徒でした。いつも仕事をするのが好きで朝の掃除の時間の後に全部の教室を回ってゴミを回収してくれるのです。

 その時にS君はゴミを出してくれた時に必ず「あーと」と言うのです。「あーと」というのはありがとうということですが言葉がはっきりと言えないので

 いつも「あーと」と言うのです。S君に「ありがとうというのはゴミを出したこっちの方がが言うことなんよ。こっちこそありがとう」と言うのですが、あいかわらずS君は「あーと」と言いながら毎朝全部の教室のゴミを集めてくれるのです。私はこのS君に本当に大切なことを学びました。普通はしてあげたらありがとうと言ってもらえることが当然のように思ったり、ありがとうと言ってもらえることを期待したりしてしまうのですがS君はしてあげているのに「あーとー」いつも言うのです。

 仕事をさせてもらうのが嬉しいのかいつもにこにこと笑顔つきの「あーとー」は言われる度にこちらが恥ずかしくなるほど感動してしまいます。

 人のためにしてあげているという思い上がりや傲慢さのかけらもなく反対にさせてもらって嬉しいありがとうの純粋な気持ちがあふれています。

 どんなことも自分がしてあげているのでなく神様にさせていただいている、そのための健康や力や時間も与えられていることは本当に感謝することでやっぱり神様に感謝します、ありがとううございますといつも言い続けなければいけないことなのです。いつもこのS君の「あーとー」を思い出す度に自分の傲慢さを反省させられて全てさせていただくことに感謝することを気づかせてくれます。

 そしてこのS君は言葉はほとんどしゃべれなくてはっきりと言えないのですがこの「あーとー」と「ごめん」だけははっきりと言えるのです。人間にとって大切なありがとうとごめんだけははっきりと言えるところも素晴らしいと思っています。たくさんの言葉を知っていて話が出来る多くの人がこの大切なありがとうとごめんが言えないことがよくあります。

 私も言えないことがあります。そんなときにやっぱりS君を思い出して聖書のみことばの中の「大切なものは多くない」ことに気づかせてくださるのです。 (徳島県)


 リストボタン山に登る恵み ―ローマ人への手紙        1章16~23の講話を聴いて

                  高槻  G.T 

 私は、細い体だし、脚力も大した事はないのだけれど、4年前から毎年、夏にアルプスの高い山に1,2回登るのが楽しみであり、山登りの一年の目標でもある。

楽しみと言っても、やはりしんどくて、ギュウギュウ詰めの山小屋で寝る時は、早く家でゆっくり寝たいなと思う。

 しかし、3000mの山に挑戦してやっと山頂近くに来た時に癒されるのは、岩の隙間から、しっかりと咲いているイワギキョウなどの高山植物に出会った時だ。この夏も西駒山荘から木曽駒ケ岳に向かう途中、チングルマのすすきのようなあの実に宝石のように朝露がきらめいているのを見て、本当に自然は美しいと感動した。 そして、その日、午前5時半ごろ、山小屋の近くの丘で、はるか彼方の東の空から、オレンジ色の太陽が昇ってくる瞬間を見た時も、ご来光のその光に染まる雲海を望む時も、その壮大さに涙が出てくるくらい心が震える。 

 そうした自然の素晴らしい現象、仕組みは、神さまの力が至る所にある事を示していると聴いて、又、あの夏の中央アルプスや北アルプスの山の姿を思い出した。

確かに、人間の力の及ばない大自然の美しさであり厳しさであるなと。


リストボタン心に残った聖句から

                       K.T 

 主に信頼する人

「彼は水のほとりに植えられた木、水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ書十七・8)

鳴門市


リストボタンみ名をほめよ―松尾達子さんの文より

                                    K.N

今年の夏、秀村宅で日曜聖書集会がありました。その時秀村さんが松尾達子著「み名をほめよ」の一節を読んでくれました。

あまりにも衝撃的だったので、もっと読みたいと思い図書館にリクエストして、福岡女学院から取り寄せてもらいました。心に響いた文章をノートに書き写したのが以下の文章です。ほんの一部分ではありますが、皆様と共有したいとの願いから紹介させてもらいます。

松尾さんの半生は病との闘いでした、この文章も病院での出来事です。 

文章は抜粋ですのでそのつもりでお読み下されば幸いです。

(あめつちこぞりて)

爆発とはあのことでした、胸の内底よりいっぱいにあふれて、ほとばしって、声を出して、私は賛美しました。部屋中が私の賛美と和し声をそろえる思いでした。声を出して歌うとは、ついほんのさっきまで、この私がどうして、自分にも人にもおもえたことであったでしょうか。絶え間ない咳にともなってあぶくのように溢れ出る血痰と気管支の出血が咳をこずかせ、その咳はまた失血をうながし、まことに食べることも眠ることもできず、「バナナ一口食まんとすれば噴き出づる血の泡、ただの半分も食えず」でありました。それは術後何日目のことだったでしょうか。第三回目の手術後は麻酔よりさめて以来、湧いてやまない気管支からの出血に苦しみ続けていました。(気管支の手術であったけれど、弱い気管支は筋肉充填されきらなかったのでしょう) 

(み名をほめよ)

せきあげて来るものとのたたかいの中、せんすべもない思いで、その日届いていた一通の絵葉書を枕の横から左指先に取り上げて読みました。それは大阪の聖燈社の仲先生からのものでした。絵はなんであったか忘れてしまったけれど、励ましのお言葉と共に聖句が記されてありました。右の脇下から入っている胸液吸引のためのゴム管と、胸に乗っている砂嚢.のためというよりも、鉛のような身の重さのために上半身を動かせず、わずかに首を傾けることができました。

初めは何気なく手にとってそのお葉書の聖句を一度読み、もう一度読み、更に繰り返して読み、なおも目はそこに吸いつけられました。

あなたがたはこの世でなやみがある、しかし勇気を出しなさい。

わたしはすでに世に勝っている(ヨハネ16.33)

私の苦しみは何であろうか、死ぬまいとする苦しみではないか、助かりたいとする焦り、よくならないことへのいらだち、悪くなっていくことへの恐れ、一括すれば「死ぬまい」とするあがきであり、苦しみの拒否でした。その生に執着し、現状を不満とする精一杯の何者かへの抵抗、それが私をがんじがらめにしていたのです。それから抜け出せるものではなく、まさに死の床であったのです。その聖句の中で、主は死を目前にしておられました。それも残酷な十字架上の処刑の直前です。それなのに主は言われるのです、「私はすでに世に勝っている」と、「えっ死なれる前に勝っておられたんですか?」

不思議な事よ、不思議な事よ。私は左手を枕の横にもってきて思い切り左目を使いつつその聖句の箇所を開きました。ヨハネによる福音書十六章の終節でした。主は死を目の前にして、すでに勝っておられたのです、そして「あなたがたはこの世ではなやみがある、しかし勇気を出しなさい」と、それも言葉ではなく、実に主ご自身、極苦の死を遂げようとしておられながら、人生に勝っておられたのです。死がなぜいやなのか?それは人生を勝利していないからです。

そこにおける何もかもが自分の生きざまの総決算であり、それは失敗にすぎなかった生きざまの悔いの集計であります。その自分自身を手の中にもってる限り,解放は来ないのです。(悔いのない苦しみはいかに輝かしい苦しみであろう)

「それを棄て、己が十字架を負い我に従え」(マルコ8,34)と主は言われました。よし私も死のう!こつぜんとして湧いた決意でした。苦しもう!死ぬことも、苦しむことも恐れまい。そう思いきったとき、りつぜんとして勇気はみなぎり、自由は胸中にあふれ、その自由は爆発する歓喜を呼んだのです。歌わざるを得なかったのです、一声を出すにさえ、痰を誘発することを恐れ、極度に気管支の運動を、一呼吸、一呼吸、抑えることに努力していた私が、声を出してそれも、歌ったのです。部屋の内も外も、私の肉体も何も変わらず、魂の内に起こった出来事!それは私の肉体を動かし、それまで陰気にしずみ、黙りこんでいた殺風景な部屋さえもが王者の部屋と化したのです。

あめつちこぞりて かしこみたたえよ

みめぐみあふるる ちちみこみたまを

恐れるものはもはやなくなっていました。死は迎えるものであり、苦しみは喜ぶべきものと変わったのです。それは主への愛でありました。平安は胸をひたし、もはやあせりもいらだちもなく、唯、わが愛の主を仰ぎみていたのです。


リストボタン神様!

                        K.M 

「坂道に強き御手を差し伸べ試みの時は恵みを給う」「共にいて下さい主イエスよ、闇の中の光り主イエスよ」「天の神祈ります」「救い主イエスこそはサレナム、サレナム、サレナム」「人生の海の嵐に」

 つぎつぎと目覚めている時、平常心の時に口ずさむ賛美歌。それが「神様!」と苦しい夢の中のもがきの時は一度も出てこない。

 何者か得体の知れぬモノに追い駆けられて逃げ惑い、私は石に化けたり、電信柱に化けたりしているのに見破られて、間近く迫ってくる追っ手に逃げ切れず悲鳴をあげて目が覚める。又いつも同じ所で道に迷う夢。先日は底なし沼に沈んで行く夫を助け出そうと踏ん張っているのに、力尽き果て共に沈みかけ、またまた悲鳴を上げて目が覚めた。あの時何で「神様!」と叫ばなかったか、夢は五臓六腑の疲れと自分に言い訳をして・・でも悪夢の中で「神様!」と叫んでいない私が本当の私だとも思う。(今夢の話ではない、野の花〆切りが迫っているのだ。「う~ん」)

 神様のお恵みは数々ある。逆算して十三年と八ヶ月以後時々文章に言葉に「夫と共々に集会に参加、出席出来ますように~」と表現したが、真剣には祈っていなかった。自分の考えで「アカン」だろうと思っていたのに今年八月から出席、九、十月も末が来ている。

 夫と共に「主の日」の出席が守られている怖くなるような事実。

「主の日」に出席したい私と、日曜日はデイサ?ビスが無く側に私に居て欲しい彼、二人の希望どおり。いろいろ考えて駄目だと思うより、行動を起して知る「主の恵み」。

 日曜日の朝バスで迎えに行き、弱弱しく足が前に出ない夫を介添えして、上り下りバスを途中で乗り換え(それも日曜日ゆえの車の渋滞、遅延無く)接続時間の僅か数分も守られて十時三十分迄に出席出来る嬉しさ。聖書の学びは全くその気の無い夫が、賛美歌の唱和に膝に置いた指先がリズムをとっている嬉しさ。集会後の兄弟姉妹のお声かけに、常日頃、無表情の夫が微笑んで会話する嬉しさ。

先週の水野源三さんの「まばたきの詩人コンサ?ト」阪井さん浜田さんのお話や歌声に「胸の琴線に触れまくって涙が出て止らなかった」と話す娘も十三年八ヶ月前に私を徳島キリスト聖書集会へ連れて来てくれて以来の出席という嬉しさ。

 いつも集会後の夫の楽しみ徳島駅へ出ての食事散策に、偶然夫とも共通の知人に出会い、その人が「ご主人も、お元気そうで~」の挨拶に夫答えて「いや、この人のムコは死にました~。」私に腕を支えられながら発した一言。「え!??」途惑うその人に「時々は生き返っていますが~。」失笑から声を出して笑いあって別れた。夫もヒユ?ズが飛びっ放しではなく、つながる事もあるのだ。

 生き返らせて頂けるのは神様のもとに集まる集会の場。生きる活力を頂いていると信じる。「何事にも刻がある事」も解らせて頂いた。

元気で出席出来るのも日頃の兄弟姉妹のお祈りあってこそ、

神様のお守りあってこそ、有難う御座います。

 感謝です。

 主を讃えます!        シャ??

           (主婦)    徳島市


リストボタンパソコンで新たな挑戦

                         S.H 

 年初めにパソコンを買い換えました。

主人はゲーム大好き人間で、「デスクトップのパソコンを自分専用にしたい。」という一言から、私専用のパソコンを買うことになりました。

 実家にあるノートパソコンより一キロ軽い一・六キロということで、なんとか私の力でも持ち運びが可能になりました。

 右手にも浮腫が出現し始めたので、ガラガラとショッピングカートに聖書とノート類を入れて、パソコン用のカバン・リュック・ウエストポーチと重さの負担を前後左右に分散しています。見かねた兄弟姉妹が家まで送ってくださることが多々あります。感謝です。 

 新しいパソコンを使って、今年もいろんなことに挑戦しました。 

 KEYやTENPOの変更を教わりつつ、賛美の音楽出しをさせてもらうようになりました。ずっと担当の人がしているのを横目で見ていましたが、簡単にしているように見えて、結構大変です。 

 五月の入院の時に「スカイプ」を知りました。四国集会の時に勝浦兄がスカイプを使って参加できたことで、すごいなぁと思いました。まさかホスト役という難しそうな役割が回って来るとは思いませんでしたが、緊張しつつもパソコンは割と好きな方なので楽しんでやっています。 

 兄弟姉妹が分担して入力してくださった賛美歌の歌詞(テキストファイル)も大変役立っています。

 音楽出しのKEYやTENPOをすぐ分かるように書き加えたり、賛美の時にスカイプのチャット欄にコピーして貼り付けたりしています。

 フォントの変更や追加入力などを確認しながら歌詞を読んでいると、キリストの愛や力が迫ってきて圧倒されます。食事や生活が不規則になっているので『わたしはなにをしているんだろう。』と自分の罪ばかりが見えてきます。「正道」に戻らなくてはと思います。 

 「ブログ」はだんだん更新が怠ってきていますが、学びの復習もできるので頑張ろうと思います。もっと簡潔に書ければ楽なのですが、まとめるのが苦手で困ります。読んでくださっている兄弟姉妹に感謝です。

 「写真日記」のために道端でいろいろ植物を撮影するのですが、名前が分からないのが多いです。また空の美しさを撮りたいときにはカメラを持っていない日が多いです。 

 使いすぎてパソコンのほうがストライキを起こす時があるのが難点です。以前より点検・修理に持って行くのが多い気がします。

パソコン歴二十年以上なので、使い方は大体わかりますが、システムエラーみたいになるとチンプンカンプンです。 

 私は二週間毎に大学病院に通院しているため時間を有効利用しようと思い、パソコンを持参して勝浦兄が長年利用している音符の入力ソフトの使い方を教わることを思い立ちました。八月から始めたばかりですが、少しは楽譜が読めるようになるかな?と期待しています。

 勝浦兄は「これってどうするの?」と質問すると、必ず答えを探してくれます。検索をするのも何をするのも素早くて、いつも知恵を分けてもらっています。 

 家の中で自分のことだけに使うのでなく、また新しい使い方が増えました。 

 総蛋白質やアルブミンの値は悪いままで、アルブミン点滴のたびに看護婦泣かせの右手になってしまいましたが、元気に集会に参加できていることが恵みです。神さまが良き交わりの形を与え、良き役割を与えて用いてくださっていることが力に変えられているのだと思います。 

 父は三週間に一度、抗がん剤治療を継続中です。抗がん剤の後、四日間ぐらい体調が悪いです。検査がある日は病院に母と付き添っています。白血球を上げる皮下注射を抗がん剤の一週間後に三回程度しているので、毎週病院に出入りするようになりました。慌ただしい生活が続いていますが、がんの大きさは変わらないようなので頑張ってもらいたいです。 

「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」(エフェソ四・2~3) 

 父の体調が悪い時、荷物が多い時などは『車の運転ができたら良いのに。』と思いますが、こればかりは挑戦できそうもありません。 

 誰でも得手・不得手の分野がありますが、互いに補い合って共に御国まで歩んでいきたいです。

            (主婦)  徳島市


リストボタン心が軽くなった讃美歌

                          S.K 

安かれ わが心よ(新聖歌303)

 

 安かれ わが心よ

 主イエスは 共にいます

 痛みも 苦しみをも

 雄々しく 忍び耐えよ

 主イエスの 共にませば

 耐え得ぬ 悩みはなし

 

心が苦しく感じた時に、歌詞の中で「主イエスは 共にいます」と「苦しみをも雄々しく 忍び耐えよ」に心が軽くなりました。


リストボタン祈りを聞いて下さる神様

             S.Y 

「主はあなたの呼ぶ声に答えて

 必ず恵みを与えられる。

 主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。」

             (イザヤ三十・19)

 このイザヤ書の学びで心に残ったこと。神様が私達一人一人のすべてを知っていて下さって、祈る祈りに答えて下さる。なんと幸いなことかと思う。祈ってもなかなか聞かれないとき、周りのいろいろな状況に左右されて、いつの間にか神様を人間と同じように、力のないもの、災いを防ぐことが出来ないと思って弱くなってしまう。人間がどのような状態であっても、神様は真実であり、人間の思いと違う。神様の計画がある。変わらない愛を持って絶えず見つめて下さっている。祈りを聞いて下さるから祈ることが出来る幸いを改めて思いました。

 祈りは必ず聞かれる、どんな時でも希望があることをいつも覚えていたいと思います。

 徳島市


リストボタン「手を離しなさい」の言葉から

                           S.Y 

 今年も「野の花」文集に参加させていただきたいと思い、あらかじめ心にとどめて置いたことを、書き出してみるのですが、しっくりいかないのです。締め切りの日は近づくばかりで焦る気持ちになりましたが、ふと思い出しました。「これだけは・・・・と思ったものから手を離しなさい」と言う言葉です。

 二〇〇〇年夏の基督教独立学園高等学校「叶水(かのうみず)夏の学校」に、参加した時のことです。この時のテーマは[ 聖書の読み方・読まれ方・福音の喜び]でした。講師は藤尾正人氏で(マタイ福音書)山上の説教六章「思い悩むな」の中で、語られた言葉だったと思います。『手を離せ、上を見よ、ブランコに乗れ(イエス様と言うブランコにゆられる)、そうすれば君は自由になる。』でした。その時に、猛練習しても響かなくなったバイオリンに、悩み苦しんだバイオリニストの話をされました。バイオリニストは、断念したそうです。その時に音が甦(よみがえ)ったとのことでした。

 その後私が対人関係に行き詰まり出口が見えない状態になった時、自分は無になろうと思ったのです。瞬時のことでしたが、キリスト様が仕向けて下さったのでした。次第に相手の人との関係は修復して行きましたし、何よりも主による平安、自由、喜び、感謝の思いが与えられました。キリスト様の世界に生きる呼吸の仕方を、教えていただいたと思っています。

 二〇〇二年に、再び藤尾正人氏の講演を聴く恵みをいただきました。新潟聖書研究会主催、キリスト教講演会においてです。「まかせて全力」の演題で(人生の走り方)をフィリピ三章12~14にそって語って下さいました。パウロはキリスト様を知って、あまりのすばらしさに、うれしくて、又キリスト様に捕らえられていると思ったから、パウロが大事と思っていたものから手を離して、神様、キリスト様に自分のすべてを、おまかせしたのです。そして、ゆったりとして、神様のご用を、大きな使徒の働きをすることになったのですと。

 小さな小さな私、小さな場所で生きる私ですが、キリスト様と言う土台を置いていただいたので、信じて、委ねて生きることは出来ます。キリスト様が掛けて下さるお声に耳を傾けながら、仕向けて下さる通りに進んで行くゆったりした思いの中で、何か神様、キリスト様のご用に立てないものかと、願う日々です。

 山形県


リストボタン富弘美術館をたずねて

                 S.Y 

一日は 白い紙

消えないインクで

文字を書く

あせない絵の具で

色を塗る

太く、細く

時には ふるえながら

一日に一枚

神様がめくる

白い紙に

今日という日を綴る 

 これは、星野富弘さんの「秋のアジサイ」という絵に添えられている詩です。私はこの夏に、群馬県みどり市にある富弘美術館に行く機会がありました。美術館はその名の通りとっても美しい緑深い山中にありました。

 星野さんは、体育教師をしておられた二四歳の時、事故のために頚髄を損傷し、体の首から下の自由を失われました。その星野さんが、同室の中学生が退院する時に、皆で寄せ書きをするというので、初めて口にペンをくわえて「点」を一つ残されたのを、看病しておられたお母さまが「お富」とされたことがきっかけとなり、多くの努力を重ねられて、美しい花を描き、詩を添えられるようになりました。

 ひとことで「努力」などという言葉ではとうてい言い尽くせないであろうその人生に、神様が触れられた時その人生は大きな意味をもつこととなりました。星野さんはその時のことをこのように言っておられます。「こういう自分でも生きていていいんだな。生きて立派なことをする、いい仕事をする、そういうことが人間にとっていちばん大事なことではなくて、とにかくこの世に生を受けて生き続ける、それを神さまに感謝して生きる、そのことが非常に大事なことなんだ。生きていること自体が、不思議で有難いことなんだから。」(花のように生かされてより)

 私はこの星野さんの証しと秋のアジサイの詩を読んで、星野さんは、一日一日を精一杯生きておられる、神様に生かされておられるのだと思いました。

 聖書に「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ六の34)とあります。明日を思い悩むことは、今日を精一杯生きないことだと学びましたが、神様が与えてくださった今日という日を、神様を信頼して生きていくことが大切だと感じました。

 神様の造られた美しい自然を満喫し、星野さんのやさしさあふれる絵画と詩を深く味わえた、感謝なひと時でした。

              (高槻聖書キリスト集会)


リストボタン詩編三七篇に学ぶ

         Z.M 

  『キメラー満州国の肖像』

 満州国(現中国東北部)について記した山室信一『キメラー満州国の肖像』(中公新書)は優れた作品として評価されており、著書の扉には次の聖句が記されている。

「義なる者たちは地を所有し、そこに永久に住むであろう。」(詩編三七・29)

義なる者たちは地を所有しの訳は、聖書により異なっている。

 正しい者は地を継ぎ(口語訳)

 主に従う人は地を継ぎ(新共同訳)

 義人は地を継ぎ(関根正雄訳)

 満州国は日本の傀儡国家として一九三二年に建国され一九四五年、日本の敗戦と同時に消滅している。厚生省の資料によると、敗戦当時の在満日本人は一五五万人を数えたが、日本の敗戦により総引き揚げとなり、満州には永住できなくなった。

 キメラはギリシャ神話の怪物。著者は「頭が獅子(関東軍)、胴が(天皇制国家)、尾が(中国皇帝および近代中国)」という怪物キメラに満州国の肖像をなぞらえて描き、日本人が国家の不義のゆえ、満州に永住できずに終わった歴史を、詩編三七篇29節に収斂(しゅうれん)している。

 在満日本人一五五万人の中には、キリスト者もおり善意をもって現地の進歩発展に努め貢献を惜しまなかった人々もいた。しかし満州国は、日本が軍事力と政略をもって野望を実現すべく成立させた不義なる国であった。中国人は不義によって建国された、満州国であることを示すため偽満(うえいまん)と称している。このような満州国に日本人が永久に住み続けることは許されなかったのである。

 以上の事実を考察するとき、詩編三七・29の聖句が生命ある言葉として迫ってくる。

  内村鑑三「満州国」興亡への予言

 内村鑑三は一九〇三(明治三六一)年八月、『万朝報』に「満州問題解決の精神」を寄稿し、満州国建国二九年前、既に満州国の興亡を預言していたといえる。

 満州問題とは、当時、ロシアと日本が満州から利益を得ようとしていたことを指す。内村は「第一に満州人の利益を謀(はか)るべきである」ことを述べさらにこう論じている。

 「国は到底、剣や政略を以って取ることの出来るものでないことは、世界歴史の充分に証明する所である。其国を愛する者が終には其国の主人公となるのである。最も多く満州を愛する者が終(つい)には満州の持ち主となるのである。此事は是れ宇宙を支配する法則であって、適当の時間を経過した後に此事が事実となって現れない例(ためし)はない。(『内村鑑三全集』)

  地を継ぎ、神の国を受け継ぐ人たち

 二〇一〇年八月三日、吉村孝雄兄は北海道瀬棚聖書集会の帰途、八王子市に立ち寄り「地を継ぎ、神の国を受け継ぐ人たち」の題で述べられた。私は都合で出席できなかったが、録音を拝聴でき感謝であった。講話では「地を継ぐ」につき詳述され、満州問題と関連し興味深く拝聴できた。以下に講話の要点を記したいと思う。

 詩編三七篇には国(地)を継ぐとの言葉が六箇所ある。地と言ってもぴんとこないが、土地という不動産的なものではない。旧約における地を継ぐとは、約束の地を受け継ぐことである。創世記に、時に主はアブラハムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます。」(十二・7)とある。

 新約ではどうなるのか。新約では御国を受け継ぐものとなった。詩編三七・9・34において、すでに主を待ち望む者は地を受け継ぐことができる。とある。旧約から新約には地下水のような流れがあることを知る。その流れを見い出さなければならない。つまり、旧約の表現を新約のイエス様の光に照らして読み直さなければならない。

 ローマ人への手紙八・17に「もし子であれば、相続人でもある」とある。エペソ人への手紙一・41には「この聖霊は、わたしたちが神の国を継ぐことの保証」とある。このようにこのことは聖霊を受けないと分からない。聖なる風、神の風(聖霊)を受けることによって地を継ぐを神の国を受け継ぐ、と読みかえる、読み取ることができる。

 心の貧しい人たちと神の国の関係を説きつつ終わりに、イザヤ書四五・22「地の果てなるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。」をあげ、旧約は善人、悪人の別なく、等しくすべての人々に呼びかけている。救いの道は主を仰ぐ、方向転換だけで救いは与えられる。単純明解、新約はキリストの十字架を仰ぐこと、基本はここから流れている。詩編三七も同じ、と説き明かされた。

            (聖書を学ぶ・多摩集会)

 東京都


リストボタン恩恵 

               S.R 

フィリピ信徒への手紙

「わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」一・29

「あなたがたのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」二・13

「私達の国籍は天にあります。」三・10

「イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」四・23

 歩行も困難になった九十四歳であります。顧みると恩恵の生涯でありました。罪の赦し、身体の甦り、永遠の命を信じて残余の生涯を賜りたく祈ります。

  静岡市


リストボタン愛と真実に満ち溢れた神様

                       S.M 

  「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ四・9~10)

 今年のまだ寒いころ、ある人との関わりの中でとても落込んでいる時にこの御言葉を与えられました。その相手の人だけでなく自分の罪をも深く知らされ どれだけ深い愛を持ってイエス様を私の心の中に送って下さり 滅びに向かって突き進んでいた私を救って下さったかということを思い出させてくれました。いつもながら御言葉にこめられた不思議な力と導きを思わされました。どんな時にも御言葉によって、また周囲の方の祈りによって、神様の許に連れ戻して下さる神様の愛と真実に感謝です。罪と闇から救い出してくださるためにイエス様を私の心に届けて下さり、イエス様を信じる心も与えて下さり滅びに向かって進んでいた私に手を差し伸べて頂いた主を崇めて求め続けて歩んで行こうと思わされました。御言葉には本当に不思議な力があります。これからもイエス様が指し示して下さる道に幼子のように素直に従って行ける心を下さいと祈り求めて生きようと思います。

(鍼師)徳島市


リストボタン神の憐れみ

               S.K 

「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」。(ロマ2:4) 

 憐れみに関して「神は憐れんで主イエス。キリストを送ってくださり・・・」

パウロは「憐れみの器に栄光を・・・」、イエスさまは「深く憐れんで・・・、」「憐れむものは幸いである。(山上の垂訓)」など、たくさんの箇所でこの「憐れみ」が見出される。

 エレミヤは、「憐れみの預言者」だと思います。

 聖書を手にしたころ「憐れみ」という言葉にひかれて夢中で読んだことを覚えています。主が憐れみ慈しんでくださる、このことを他者に述べ伝えられたらと思う。

「主よ 憐れんでください。(キリエ・エレイソン)」

 徳島県


リストボタン「イエスの名を呼びつめよう」

               浦和キリスト集会 

 数日前のある日、何の気なしに食堂の部屋にある本棚に「わが喜びの頌歌(うた)はきえず」という本があるのに気がつきました。前に一度読んだことがあり、そのまま忘れられたようになっていたのですが、取り出して見ました。「いのちのことば」社から出された、八木重吉の生涯と信仰を紹介したものでした。  

 その名を知らないわけでは勿論なく、でも、だからと言ってそんなに夢中になって読んだ、というわけでもなかったのですが、今度そのB5判変形の、わずか80ページほどの、絵本のような、ハードカバーの本を手に取って見て、その中のいくつかの、短いながら、珠玉のような言葉に完全にひきこまれてしまいました。

 それはつぎのようなものでした。

 
          イエスはまたきっと来る

        きりすとが

        うそをつくものか

        またくるといったら

        こないことがあるものか

          キリスト

        キリストは生きていなさるとおもうと

        からだがおどりだす

        

          イエス

        いえすの名を呼びつめよう

        入る息 出る息ごとに呼びつづけよう

        いきどおりがわいたら

        イエスの名で溶かそう

        弱くなったら

        イエスの名でもりあがって強くなろう

        

        イエスの名できれいになろう

        死のかげをみたら

        イエスを呼んで生きかえろう

 

 彼の、これらの短い言葉に、明瞭に言い表されたイエスへの熱い思いは、キリストへのわたしの思いと完全に重なります。とくに「きりすとがうそをつくものか」そして「キリストが生きているとおもうとからだがおどりだす」はわたしの信仰の原点でもあります。そのことを再確認できただけでもわたしの喜びは溢れました。