野の花
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20021月号 最新版)

(第二部)

ヒイラギの写真
ヒイラギ

 



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     内容・もくじ  第一部                     内容・もくじ  第二部

第一部(第一ページ)

第二部(第二ページ)

リストボタンはじめに(上記)

T.Y

リストボタンアーメンやぞ

M.K  

リストボタンターニング・ポイント

E.I

リストボタン一年を振り返って

Y.S 

リストボタンケアハウス・オクトで学んだ事

S.I

リストボタン心に残った聖句

H.S 

リストボタン私の音楽日記から

E.I

リストボタン主による恵み

M.S 

リストボタンどこから来て、どこへ行くのか

U.I

リストボタン感謝して近況を

H.S 

リストボタン臨床で思うこと

M.I

リストボタン印象に残っていること

Y.T 

リストボタン短歌

M.I

リストボタン神のわざ

N.T 

リストボタン今年の作業所

M.I

リストボタン 「俗」と「聖」の交差点で

H.T

リストボタン人はどこへ行くのかな

M.I

リストボタン選んだ御言葉

S.N 

リストボタンイエス様の激語について思う

S.U

リストボタン選んだ御言葉

E.T

リストボタン聖書の学びの会

M.O

リストボタン手話の学びに行って

Y.T 

リストボタン家庭集会のこと

M.K

リストボタン葛藤

K.Y 

リストボタンこの一年をふりかえって

M.K

リストボタン今年一年のこと

H.N 

リストボタン振り返って

K.K

リストボタン心に残っている聖書の箇所から

H.N 

リストボタンクリスマス通信

Y.K

リストボタン詩編暗唱の恵みを感謝して

S.N

リストボタン二〇〇一年のこと

Y.K

リストボタンイエスのキス

T.N

リストボタン今年の海南・讃美堂集会で、特に印象深かったことから

K.S

リストボタン韓国からの通信

B.W 

リストボタン全国集会に参加して

I.K

リストボタンマザー・テレサの愛の言

T.H 

リストボタンこの一年をふりかえって

T.K

リストボタン今年の事を感謝

Y.M






リストボタン天に一人を増しぬ

M.K

リストボタン十二月

S.M

リストボタントンネルからの脱出

M.M

リストボタン内村鑑三の言葉から

T.Y

リストボタン昔の「はこ舟」より

Z.Y

リストボタンあとがき


第二部  本文


リストボタンアーメンやぞ    M.K

 八月の中頃、 夫の友人が我が家で一泊しました。 その翌朝、 「さっぱりしたものが欲しい。」 とのことで、 冷やしそうめんも加わりました。
「どーぞ」 と夫がすすめて友人も箸をとりました。
 私は例の如く食前の祈りを黙祷でしておりました。 すると、 突然 「声に出して祈れ!」 と言うではありませんか。 「!えっ?」 さあ、 祈りました。 友人の名前も入れて心からイエス様に感謝して祈りました。 祈り終えて目を開けると二人ともナント、お箸を持ったまま静止というか、 私の祈り終わるのを待っていた驚き (でも嬉しかった。)
 夫の首が友人の方へ伸び 「これ、 そーめん、 あれ、 アーメンやぞ。」 と言いました。 (公認とは。) おお、 神様ありがとうございます。 今年、 二〇〇一年の元旦の礼拝から決心し、 食前の祈りを続けてきて、 いや、 主に守られて継続させていただき、 今日に至ることは、 三日坊主の私自身、 よく解っております。 主のお守りなくば、 きっと途中でポシャッていたと思います。 「うるさい、黙って祈れ!」 「わしの前で、 当てつけみたいに祈るな!」 でしたから…。 外食時、人々の中、 夫の視線を感じたこともありました。 「祈るのか、 祈らないのか?」 だと思います。
 目を閉じると神様↓私となりますもの、 怯まず、 なんのそのそんな事のいろいろあり、 あり、 で今日に至っております。 感謝です。 ………とは言うものの、 つい先日、 その怯まず、 なんのそのとは全く逆に、 神様全然思い浮かばず、 神様忘れた一瞬がありました。 …恐怖心に呼吸が止まり、 脳天が吹き飛ぶばかり、 「キャッー」 と叫んだあの時。 それは、 何日か前の夕暮れ時、 我が家の階段を降りつつ、 背後に何か気配を感じました。 私以外の足音がしたような… 「!ん…。」 夫は今、 上のベッドでテレビを観ている。 二人しか居ないのに…かすかに背後のこの気配は何?…おそるおそる振り返ると、 逆光の中、 二段ほど上に黒い人影。 「キャーッ」 悲鳴をあげて、 手摺りにしがみつきました。
「ムコに向かってキャーッとは何ぞ!」 そんなことあり?たった今 「上がってくるとき、 眼鏡を持ってきてくれ、 忘れるな!」 と言ったばかりの夫が後ろに居たとは。 震えの止まらない私の前を 「退け、 ションベンじゃあ…」 一件落着とは言うものの、 その後の私の落ち込むこと甚だしい。 びっくりしたあの時、 全然神様思い出さず、 心が、 体が固まってしまった私は偽り者。 平常心の時、 「神様、 感謝。」 「主を讃美します。」 と、 すらすら言っておきながら、 あの一瞬 「おお、 神様!」 にならなかった私。 はあ…はあ…と呼吸を整えながら反省しきり。 そして気付いたこと。 恐怖で吸って止まった息を 「キャーッ」 と叫ぶことで、 とことん吐いてしまい、 大きく吸って、 大きく吐く、 繰り返しながら次第次第に平常心に戻って行く。 なるほど人間の身体とは、 うまく作られているなー。 あらっ…この空気、 神様が作られたこの空気。
地球上の人間総て、 当然のように吸って生きている。 生かされている。 今、 ずいぶん遅いお詫びと数々のお恵みに感謝し、 どうぞこの今のこの気持ちパニクった時も持続できますように、 神様、 私の弱いところを強めて下さい。
 ♪心をきよめ宮となして、 今より永遠に住まい給え♪手話讃美をしながら胸で固く指を組む。 ああ…この平安、 主よありがとうございます。 動悸もおさまり神様に感謝していると、 「まだそこにおるんか!眼鏡早う持って来い!」 ああ、 そうだった。 階段の上の人よ、 かたくなな心が砕かれ、 御言葉を求めて集会への足が早まりますように…主よ、 導き給え。
 追伸。 思いもよらぬことが起こりました。 あの、 「わしは真言じゃ!神さん用無い。」 の夫が、 イエス様を讃美する、 メサイア演奏会 (香川の四国学院大学) へ、 四姉妹を案内して行きました。 「何でわしが行かなならんのぞ!」 から始まって 「メサイアて何ぞ!」 はい、 それはメサイアはメシアに同じ。
メシアはヘブライ語で油を注がれ、 聖別された者の意味から、 キリスト=救世主としてのイエスに用いる形容とか、 オラトリオ=祈祷所の意味とか、 便せん一枚にぎっしり書き込み渡しました。 黙読している間、 読み終わって 「止めた!」 と言いはしないかと、 ひやひやしていました。 折りたたんで、 それを胸に出かけました。 帰ってきた姉妹達の 「すべて守られてよかったんよ。」 に、 心から 「神様、 ありがとうございます」 となりました。 夫の顔色を見ながら、 「どうでした?」 に 「わしの知らん歌を吠えまくって、 わしはカラオケも歌わんのに…。」 でも、 目元は笑っていました。 私はそのメサイア演奏会なるものを知りません。 夫の方が先に恵みに浴した次第。 御言葉の学びで、 主を信じて祈ること。 「今在し、 昔在し、 のち在す方」 いつくしみ深く、 万能であられる神様を教わりました。 信じて崇め讃えます。 アーメン

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リストボタン一年を振り返って     Y.S

 今年は、 娘の結婚、 出産と神様からたくさん恵みを頂きました。 人の思いや、 願いを越えて導いて下さり感謝でした。
 いつも、 みこころのままに、 と祈りながらやはり、 心の奥深いところでは、 自分中心の思い、 願いであることを思います。 神様の愛を心から信じてないからだと、 知らされます。 何かあると、 驚きあわてて、 人間的に解決しようとあせってしまう弱い者ですが、 このような者をも、 かえりみて下さり、 忍耐をもって導いて下っていること感謝です。

   善き力にわれかこまれ
   守りなぐさめられて
   世の悩み共にわかち
   新しい日を望もう    
(讃美歌-469番より)

(
聴力障害者) (会社員)  

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リストボタン心に残った聖句     H.S

  「しかし、 神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を神よ、 あなたは侮られません。」   (詩篇、 五一・)

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リストボタン主による恵み (ヨハネ福音書の学びを通して)     M.S

「エゴー エイミ ホ クリストス」 と言う言葉が、 今年は一番心に残りました。 イエス様は神様と同じ権威を持って、 いろいろなところで 「わたしはある」 と宣言されて、 ご自分をあきらかにされたことを、 詳しく教えていただいたことは、 わたしにとって、 大きな恵みでした。 この一年も、 わたしのまわりでは、 思いがけないことがいろいろとあり、 心が揺れ動くときがたくさんありました。 でも、 「エゴーエイミ」 を思い起こすだけで、 不思議な平安に満たされたことが何回もありました。 特に、 心に刻んでおきたいみ言葉を書きます。
イエスは再び言われた。 「わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、 命の光を持つ。」   (ヨハネ福音書 八・)
だから、 あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、 わたしは言ったのである。 『わたしはある』ということを信じないならば、 あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことにな る。」       (ヨハネ福音書 八・)
 新しい年も、 何があっても変わることのないイエス様の愛に深くとどまって、 内なるみ声に聞き従って歩みたいと思います。

(
はり師)

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リストボタン感謝して近況を     H.S

 今年は桂教会のクリスマス礼拝に出席することが出来て感謝しています。
 説教課題は 「新世界の到来」 (ルカ二・112) で特に・節を中心にイエス様御降誕の意味が説かれました。 話の終わりにヨハネ黙示録二一・1~4節が引用されておりました。
 私は説教の中で、 「…イエス様は宝である。 この価値ある宝を見つけた時から人は本当に生きることができる…」 という言葉が心に残りました。
 聖書の中に商人が 「…高価な真珠を見つけると、 出かけて行って持ち物をすっかり売り払いそれを買う」 の話 (マタイ・四五) 又、 パウロが、 「…私たちはこのような宝を土の器に納めています。」 とコリント書の四章に書いてあるところを今までに何度か読んだところです。
この日、 私はこの宝なるイエス様を心に聞くことが出来ました。
 この一年、 桂坂の祈祷会も主が守ってくださり感謝です。 今年はじめより聖書のみことばは 「詩篇」 になりました。 毎回、 兄弟姉妹と共に黙想に導かれていることに感謝しています。
  「いかに幸いなことか…」 と始まる第一篇1・2・3、 と読みつつ、 特に3節の 「その人は流れのほとりに植えられた木、」 この美しさはイエス様ご自身であると思いましたことも印象に深く残っています。

 心の闇の中で
「主よ、 なぜ遠く離れて立ち
苦難の時に隠れておられるのか、」 … (十篇)
 と嘆く日を通りつつ、 詩人は主の高きみわざを讃め、
「主よ、 わたしの岩、 わたしの贖い主よ」 と主を告白します。 今年十二月に聞いた第三十篇では、 「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、 粗布を脱がせ、 喜びを帯としてくださいました。
わたしの魂があなたを讃め歌い、 沈黙することのないようにしてくださいました。
わたしの神、 主よ、 とこしえにあなたに感謝をささげます。」
と結ばれておりました。
過ぎた日の重き出来事の中にも、 そしてこの価なき身にも絶えざる主の深い慰めと、 のぞみを覚えています。

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リストボタン印象に残っていること     Y.T

 あれは、 忘れもしない、 九月のことでした。 私は、 いつものように、 ラジオを聞きながら、 膨大な資料を整理していました。 ところが、 とつぜん臨時ニュースが入り、 作業も中断してしまいました。 はじめは、 映画のシーンかと思い、 内容を聞いたところ、 アメリカでの、 同時多発テロのニュースでした。 このころから、 全番組が、 特別編成となったもので、 時間を追うごとに、 死者の情報ばかりが入ってくるものでした。
 この一ヶ月後には、 今世紀最初の戦争が始まり、 いまだ、 戦は継続しているものです。 今世紀だけは、 平和が訪れるように祈っていましたが、 残念な結果となってしまったものです。
 六〇年前の、 十二月八日には、 真珠湾攻撃があったもので、 多くの犠牲者も出たものです。 今、 平和憲法が改正されようとしており、 戦前の時代に逆戻りしようとしています。 今一度、 悲惨な戦争を思い起こしたいものです。

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リストボタン神のわざ     M.T

人間の知恵の愚かさを通して神の知恵を教え、
人間の苦難を通して、 神の力を示して下さる。

(
公務員)

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リストボタン「俗」と 「聖」 の交差点で     H.T

 人生においては数々の名言名句に出会います。 ときには余りにも見事なその表現に絶句したり、 ごく稀には俗に言う 「眼から鱗」 の例えのように、 突然に眼前の世界が一挙に大きく広がり、 また深まったような気分になり、 しばしその余韻に浸ることがあります。
 聖書の世界に導かれて三年有半になりますが、 その世界の広大さ、 深淵さ、 そして時空を超えた歴史的現実に鍛え錬りぬかれた聖言聖句の宝庫群に圧倒されます。 そして前段で出会った名言名句のなかにも、 その出典を聖言聖句よっているものがかなりあることに気付きます。

 さて、 最初のころはどうしても、 これまでの名言名句に接するような通常の言語的解釈や経験的解釈に頼ろうとしますが、 厄介なことにこの聖言聖句はこのような態度を門前払いにすることがあります。 この時点で、 これまでの長い人生のなかで収得し培ってきた見識のようなものに疑念を感じはじめます。
今、 振り返るとこの時点が、 私にとっての 「俗」 と「聖」 の交差点だったのでは、 と想うこの頃です。


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リストボタン選んだみ言葉     S.N

  「神が御子を世に遣わされたのは、 世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」   (ヨハネによる福音書 三・)

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リストボタンただひとこと     E.T

 アメリカの同時多発テロ事件以来、 日本も世界も揺れ動かされています。 私自身も大きな悪の力を巨大に感じてしまい、 主になぜですかと問いました。 何かが起きたとき、 すぐに動揺してうろたえてよくわからなくなってしまいます。 初めのころ家族や治療に来た人達とこのことで話したり聞かれたりしても考え込んでしまいました。
 そんななかで聖書はどう言われているかを学ぶ必要があると教えられ、 礼拝や夕拝で聖書に書かれているみ言葉からのお話を聞きました。
旧約聖書も新約聖書もイエス様の義と真実のご支配が流れています。 世界がどのようであろうと、 イエス様の愛と真実のご支配はとこしえに変わらないという希望があります。 そんな聖書のみ言葉にたって内村鑑三は戦争について、 「愛することは勝つこと、 憎むことは負けること」 と、 広い視野で深く見つめて書いてあることも学んで驚きました。
 マタイ福音書八・8に 「ただひとことおっしゃってください、 そうすれば私の僕は癒されます。」 というみ言葉があり心に残っています。
イエス様のただひとことに力があります。 無限の力があります。
 それなのにささいなことで心が萎えたり高ぶったり、 人の痛みが感じられなくなってしまいます。 私のうちには、 主のひとことを求める心が弱くなっていました。 目に見えるものはまったく頼りにならないことをすぐ忘れてしまいます。 イエス様を心の中から追いだそうとする罪の力から立ち帰り、 イエス様のみ言葉に触れさせていただこう。 主イエス様を見上げ、 ともにいてくださることを祈り求めよう。 どんな時にも 「ただひとこと (み言葉) を下さい」 と。

    「ともにいてください、 主イエスよ。
    闇のなかの光、 主イエスよ」
(讃美歌のより)

 この歌を初めて聞いたときは、 終わりのメロディーがへんだなと思いました。 でも、 何度も繰り返し歌っているうち、 愛称讃美歌になりました。 自分の心の闇にも世の闇にも光となって下さるイエス様が、 いつもともにいて下さいとの祈りです。

(
はり師)

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リストボタン手話の学びに行って      Y.T

 私は、 毎週土曜日に徳島市南田宮の徳島聖書キリスト集会場で手話を習っています。 何年か前の私は、 誰かいっしょについて行ってもらわなければ、 一人ではとても集会場には、 いけませんでした。 そんな私が、 一人で手話に行けるようになったのも、 神様からの導きがありましたので、 迷わずに手話の勉強に行き、 子供たちも、 賛成してくれて、 とても楽しく行っています。
 手話の他にも、 植物を観察したり、 名前を教えてもらったりしていますが、 私には、 最初は、 全然関心がなく、 ノートに植物を貼って名前を書いて、 きれいだなぁとか、 不思議だなぁとか、 ぐらいしか思いませんでした。 教えてもらっているうちに、 少しずつですが、 私の頭の中に入ってきて、 興味がわいてきました。
 ルーペで見る花の中の世界は、 とても神秘的で、 すばらしい。 このような花一つ一つを神様が作られた事にびっくりしています。 そして、 散歩に行く時、 買い物に行く時など、 自然と道端の草花の方に、 目がいくようになりました。 神様からのめぐみを受けていると思いました。
そして、 手話も聖書の中から、 文章をわかりやすく説明を受けてから、 手話をしています。 私は、 神様からのめぐみをたくさん頂いているのが、 本当によくわかります。 そして、 神様からの導きによって、 手話に来れたことを感謝しています。

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リストボタン葛  藤     M.Y

 今年もクリスマスの時期が来ました。 今年は二十四日が月曜日で家庭集会の日だ。 (そうだ近所の子供たちに、クリスマスの事をお話出来たらなあ) と言う思いがフッとわいて来たのは十二月になるかならないかの日だった。 その時の思いは、 軽く浅いものであったので、 気にも留めなかった。 それから、 同じ思いがまた起こった。 私は、 やはりうち消す。 何度かそういう事の繰り返し。 (これは神様がそうしなさいと言っているのかな) と、 そんな気もしたけれど、やはり腰は重い。 (何をためらっているのか?出来ない理由は?私には勇気がない。) と自問自答する。 そんな中でも、(あの子を呼ぼう。 あの子は一人でよう来なければ、 お母さんと一緒に呼べば。) 等々先走りをする。 (この事が神様からのものでしたら、そのようになりますように) と祈るけれど… (子供が一人も来なかったら…その時はどうするの?なぜそんなに心配するの。 神様にお任せすればいいのよ。) でもやはり心は決めかねていた。 でもそれをしないと後々後悔して、 背を向けるような気がして、落ち着かない。 姉妹に心境をメールで出したが、 … (出すのでなかった。 聞かなかった事にしてもらおう。) と思ってる矢先に姉妹からの電話。 励まされ、 祈ってるからと言ってくれた。 私も少し勇気が出た。 少し前向きに考え始めた。 夫の言う言葉は解っていたけど、 夫にも相談をする。。 私の心は決まっていった。祈って次の段階へ。
  「子供たちが集まるかどうかは問題ではない。 初めから来る事を期待してはいけない」 と言われたY兄の言葉は、 私の心を軽くしてくれた。
 以前、 近所の子供が、 クリスマスはサンタの日としか、 思っていないのを知った時には、 家庭集会をしていたにもかかわらず、 子供たちを集めて、 クリスマスのお話を聞かせたら、 なんて思いもしなかった。
 神様から示されたら、 積極的に勇気を持って、 従って行く者に変えられたい。

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リストボタン今年一年のこと     H.N

 今年もあとわずかになり二〇〇一年も終わろうとしていますが、 今年はどんな年だったか、 今振り返っています。
 四国集会、 全国集会と参加でき、 そういう意味では恵まれた年だったと思います。 信仰の面で、 主がいろいろなことを叶えて下さっています。
 でも、 主を忘れそうになり、 大した試練でなくても、 試練が起こり、 自分の力で対抗しようとしたとき、 たちまち心は暗くなります。
 いつも一歩間違えば、 心の奈落が待ち受けていて、 信仰によってしか歩めなくされていることは、 恵みだと思います。
 心が自由にいかず、 思ってはならない事を思ったり、 熱中してはならないことに打ち込んだり、 罪のとりことされていることを感じる時もあります。
 この一年、 まず、 仕事で転勤があり、 仕事が新しくされましたが、 初めての仕事で戸惑いや試行錯誤がありました。 一年間が過ぎてつくづく思うことは、 主にあって仕事をするのでなければ、 全部無に等しいということです。 いくら熱心に仕事をしても、 世の中と同じように、 状況は日々移りゆきます。 同じ一日はありません。 すべてが過ぎ行き、 すべてが滅びに向かっています。 滅びないのは、 変わらないのは主のみです。 主に根を下ろしているのでないなら、 私も変化の中に基盤を失い、 飲み込まれ滅びるでしょう。
 食べるも、 飲むも主のために…遺伝子的に、 私は、 この世の仕事があまりにも好きで、 打ち込んでしまう体質なので、 気をつけていようと思います。 二十年ほど前、 福祉の仕事についたときも、 仕事が好きで好きで、 目をつぶったら、 お世話させてもらっている入園者の姿が映り、 休みの日は、 早く仕事に出たく、 心もやせ細る思いで、 とらわれている自分を感じました。
  「ああもしなければ、 こうもしなければ」 とほかのものが入る隙間がないほど仕事のことばかりが頭にありました。 「あの坂を降りて帰るときは仕事のことは忘れよう」 と努力をして、 信仰の思いに心をふり向けましたが、 なかなかうまくいかなかったのを思い出します。
 今もこの世の仕事のことが頭を離れず、 その後に信仰のことがありますが、 恵み深い主は私をとらえて下さっており、 試練を送り込んでくださいます。 この世の思いによって、 魂に平安や喜びや、 希望がなくなり、 代わりに、 究極の寂しさと、 不安、 寄る辺なさを感じて、 道が違っていることを悟れるようにしてくださいます。
 主の道でないところには、 魂の喜びや平安がありません。 主による信仰以外には、 本当の祝福がありません。
 主よどうか、 これからも、 生きて働いてくださって、 主を信じる一人一人が迷い出ないように、 信仰の道を歩きつづけることができるように守ってください。

(
グループホーム)

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リストボタン心に残っている聖書の箇所から     H.N

  「イエス様は涙を流された。」 (ヨハネ十一・)
 イエス様は、 人間を死の支配から開放して、 神様の栄光を現わすために、 ラザロを死から復活させましたが、 そこに、 人間への深い愛と、 真の神の力が秘められていたのを感じました。

(
大工) 〒七七四-〇〇四八 阿南市中大野町南傍示一四二-三

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リストボタン詩編暗唱の恵みを感謝して     S.N

 昨年 (二〇〇〇年) の秋の聖日集会で旧約聖書を学んで居りました折りに、 お話が詩編二三編のすばらしさに及び、 吉村兄が 「旧約を学ぶ以上は詩編二三編の一つくらいは暗記しておいた方がいいと思う。」 と、 何気なくおっしゃいました。 私も本当にもっともだ、 と思ったのですが、 暗記は子どもの時から大の苦手で、 まして六十の手習いをとうにすぎて、 七十の手習いではとても無理だと思いました。
 しかし、 そのことがいつも気にかかるようになり、 ついに、 だめで元々と思って詩編二三編の暗記を始めました。 大変短い詩で意味もよくわかるのですが、 どうしても覚えられないのです。 古カレンダーの裏に書いて、 壁に貼って朝も晩も暗記して、 やっと覚えたと思っても、 少し時間が経つとだめなのです。 とうとう、 肩が凝ってコチコチになり、 首が回らなくなり、 やはり自分は何もできない駄目人間だ、 と失望しながら、 でも今更止めるわけにも行かない、 と思い直して、 二ヶ月かかってどうにか言えるようになりました。
 ひとつ覚えると欲が出て、 もうひとつ覚えたくなり、 なるべく短くて心に響く聖句の入って居る詩を選び、 格闘し始めました。 また、 同じような苦労をして、 半年以上かかってどうにか十編覚えました。 しかし、 二、 三日怠けると全部の詩がまぜこぜになってしまいます。 それで嫌でも一日一回は復習しなければなりません。
 そんな訳で今年は詩編十編に振り回されて無我夢中で過ぎてしまいましたが、 今しみじみ思うことは本当に御言葉は人を生かす力を持って居ると言うことです。 私のような半ボケの何の役にも立たぬ高齢者でも、 今年ほど充実した実感を持って一年を過ごしたことは初めてでした。 もうこれ以上は詩を覚える力も気力もありませんが、 私にとってこの十編の詩は生きた宝石となりました。
 すべてのものを創造し、 罪人を愛して生命を与えて下さる主の、 限りない御愛を賛美いたします。 また、 この様な尊いヒントを与えて下さった吉村兄の御愛労に心から感謝申し上げて居ります。

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リストボタンイエスのキス     T.N

 ある本の心に残った言葉から
 愛が本当の愛であるためには、 痛みを負えなくてはなりません。
 …イエスは、 あなたをも、 私をも、 心が痛むほど愛しておられるのです。
「苦しみ、 痛み、 屈辱、 病気、 失敗は 『イエスのキス』 です。」
 ある時、 私は恐ろしいガンにかかった夫人に会いました。 彼女は非常に苦しんでいました。 私は言いました。 「今こそあなたの十字架についたイエス様に近づいたのです。 イエス様があなたにキスをしてくださっています。」 彼女は祈るように手を合わせて言いました。 「マザー・テレサ、 私にキスするのをやめるように、 イエス様に言ってください。」
 …苦しみは神の賜物です、 ですから、 その苦しみを罰のように受け止めるべきではありません。
 本当に真実な祈りは一つです。 大切な祈りは一つだけ、 キリストご自身です。 キリストの声です。 祈ることはキリストと一致することです。 祈ることが出来ない時が来たらどうしますか?簡単なことです。 イエス様が私の中におられるから、 イエス様が祈るのにまかせます。
私は話すことが出来ないから、 イエス様に話してもらいます。 私は祈ることが出来ないから彼に祈ってもらいます。 「(マザー・テレサ) なくても与える人」 第九章 マザー・テレサのキリストより
 聖地旅行に行く機会に恵まれました。 団長はH牧師、 ユーモアたっぷり、 漫才でも聞いているような信仰の弱点を笑いと涙で語ります。
私は 「部落民」 差別は信仰しているからとてなくならない。 現実はそういうもの 「イエス様の苦しみ、 味わせてもらっとんで」 と喜んでいる。
 二〇〇〇年八月広島障害者キリスト伝道修養会に招かれました。 長島、 光明国、 津島牧師は 「ハンセン病にならなかったらイエス様にお会いできなかった。 「土の器でよかった。」
 広島のT兄の奥様N姉はクモ膜下出血で倒れました。 クリスマス会には病棟から自宅に移り、 私たちの讃美をベッドの上から見守ってくださいました。 イエス様がここにいると思いました。
 竹原の安芸澤キリスト教会のクリスマス会に招かれました。 二日間教会に奉仕させてもらいました。 牧師ご夫妻は共に障害者です。 お二人は地域の方たちに惜しみなく愛を与えています。 寝食を共にし、 信仰の尊さ、 美しさを感じました。 私がポロッと夫のグチを話しますと、 「忍耐ですよ、 忍耐は練達を、 練達は希望を」 と淡々と語ってくださいました。
 松山の家は神様より 「神の家」 「祈りの家」 としてプレゼントされました。 祝福を感謝いたします。
 徳島・兄弟姉妹、 松山にいらしてください。 終わり。

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リストボタン韓国からの通信     B.W

 去年の末、 徳島聖書キリスト集会に参加できてから、 もう一年という時間が過ぎ去って行きました。 今年は、 徳島集会に参加することができなかったのですが、 私の心のなかにはいつも集会がありまして集会とつながっていると思っております。
 今年は全世界的にも、 韓日関係にもいろんなことがありましたが、 結局、 人間の罪の問題であると思われます。 キリストが来られたことがいかに大きな神様からの祝福であるかを思わされて感謝であります。
 主にあって真の兄弟姉妹になれることを祈っています。 集会の皆様に、 主にあって御平安をお祈りいたします。

(
大学教員)

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リストボタンマザー・テレサの愛の言      T.H

 先日、 マザー・テレサについての、 テレビ放映があり、 スラム街の貧しい人々との生活も出ておりました。 その中の言葉について、 「愛のわざは、 平和のわざである。 愛は行動で表す。 私が、 するのではなく、 神の、 みわざなのです。」 愛を語る人は多いが、 彼女は、愛の実践者である。
  「私のすることは、 一滴の水、一滴の水だ。 けれども、 一滴、一滴が大きな、流れとなり、 大河となす」 愛とは、 いつくしみ、 めでる、 とありますが、 神の愛と、 マザー・テレサの純真な愛と、 敬虔な祈りに依って愛を成就なさいました。 感謝でした。

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リストボタン今年の事を感謝     Y.N

  「『わたしはアブラハムの神、 イサクの神、 ヤコブの神である』とあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、 生きている者の神なのだ。」 (マタイ二十二・)
 今年は、 自分の内面の中で色々な変化があり、 神様に心から感謝です。 神様は、 私たちがこの世で生活をしているところに共にいて、 生きているものの神様として、 今、 関わって下さってると信じます。
 すばらしい友人を備えてくださったこと、 友達と共に成長できること、 自分にはなかった気質や、 何かを乗り越える力を得られる幸せ、 これらのことを特に感謝します。

(
看護婦)

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リストボタン天に一人を増しぬ     M.F

 今年二〇〇一年八月十七日、 「聖書の日本」 主筆政池仁氏夫人ユキエ様御召天の由、 高知の森下さだい姉より、 ご連絡いただきました。 年齢が九十五歳でもあり、 平素からある程度、 覚悟をしていた筈ですのに、 勝手に母のようにお慕いしていましたので、 オロオロしてしまいました。 後日、 東京聖書集会のK.Y姉から政池ユキエ奥様の前夜式、 告別式のテープが、 M姉に送られてきました。 それは東京聖書集会の方で出席できなかった数人に回送するようになっていました。 そこで、 M姉がダビングをして、 私に送ってくださったのでした。 同時に式次第も送られて来ました。 前夜式は八月十六日、 今井館聖書講堂で、 ご遺体は献体されましたので遺影を前に執り行われました。 プログラム通りに式は進み、 最後の 「お別れの言葉」 となりました。
 トップはK.Y姉で、 開口一番最初に朗読したのが 「天に一人を増しぬ」 の詩でした。 時も時、 折も折だけに深く打たれました。 後日、 高知での日本友和会全国大会でK.Y姉にお目にかかった折、 この詩をコピーをして、 渡して下さいました。 すばらしい詩なので、 この機会に書かせて頂いた次第です。
 昨年、 大病をされたS.M姉が癒され、 高知での無教会四国集会と日本友和会全国大会と二度、 お目にかかることが出来、 心から感謝したことでした。 K.Y姉にも、 この後、 山形小国町での、 無教会全国集会と二度、 お目にかかれました。 平素は離れている、 兄弟姉妹方と顔と顔を合わせて、 共に恵と祈りの時を持つことが出来ました。 E.Y姉妹もお元気なお姿で、 共に主日礼拝を守ることが許され、 感謝しても感謝してもたりぬ思いがしております。
 多くの兄弟姉妹方の主にあるご愛を感謝しつつペンをおきます。

天に一人を増しぬ
Sarah
 Geraldine Stock作 植村正久訳

家には一人を減じたり 楽しき団欒は破れたり 愛する顔 いつもの席に見えぬぞ悲しき
さはれ 天に一人を増しぬ 清められ 救われ全うせられしもの一人を
家には一人を減じたり 帰るを迎ふる声 一つ見えずなりぬ 行くを送る言葉 一つ消え失せぬ
別るることの絶えてなき浜辺に 一つの霊魂は上陸せり 天に一人を増しぬ 
家には一人を減じたり 門を入るにも死別の哀れにたえず 内に入れば空しき席を見るも涙なり
さはれ はるか彼方に我らの行くを待ちつつ 天に一人を増しぬ
家には一人を減じたり 弱く浅ましき人情の霧立ち蔽いて 歩みもしどろに 目も暗し
さはれ みくらよりの日輝き出でぬ 天に一人を増しぬ 
げに天に一人を増しぬ 土の型にねじこまれて キリストを見るの目も暗く 
愛の冷ややかなるここいかで我らの家をなつべき
顔を合はせて わが君を見まつらん かしここそ家なれ また天なれ
地には一人を減じたり その苦痛 悲哀 労働を分つべき一人を減じたり 旅人の日ごとの十字架をになふべき一人を減じたり
さはれ あがなわれし霊の冠をいただくべきもの一人を 天の家に増しぬ
天に一人を増しぬ 曇りの日にもこの一念に輝かん 感謝 讃美の題目 更に加はれり 
われらの霊魂を天の故郷にひきかかぐるくさりの環 さらに一つの環を加へられしなり
家に一人を増しぬ 分るることのたえてなき家に 一人も失はるることなかるべき家に
 主イエスよ 天の家庭に君と共に坐すべき席を 我らすべてにも与へたまへ

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リストボタン十二月     S.M

  今年一年の
    恵みを数える十二月
  あのこと、 このことも
  すべて主の恵みであったと
    感謝を捧げる十二月

  この世の闇を照らすため
  救いの光かかげるために
  来てくださった主イエスを思い
    涙を捧げる十二月

  今年もまた、 こんな者を
  よくも捨てずに導き続けてくださった。
  朝毎に主に立ち帰り
  夜毎に主の赦しを請い
  ただそれだけの故に守られてきた。
  神様の愛の確かさを
    伝えたくなる十二月


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リストボタントンネルからの脱出     M.M

 新緑が美しく、 太陽が眩しくなり始めた頃、 私はまだ、 長い信仰的なトンネルの出口あたりでぐずぐずしていました。 思いっきり新緑を楽しみたい、 でも、 眩しすぎるなんて、 まさに、 「人々はその行いが悪いので、 光よりも闇の方を好んだ」 です。 そんな時、 郵便局の「お預かりしています」という葉書が入っていました。 直径センチもある帽子をかぶり、 サングラスにマスクと言うすごいいでたちで、 郵便局ヘ向かいました。 手渡された分厚い茶封筒には遠くに住んでおられるN姉妹のお名前がありました。 郵便局の方はびっくりされたかもしれません。 はやる思いを抑える事ができず、 その場でバリバリと封筒を破いて、 立ったまま読み始め、 更に座って読み続けたからです。 そこには、 私をトンネルから引っ張り出すに十分な神様からのメッセージが詰まっていました。
 最初のページに、 「私たちが自分を苦しめている状況を変えてくださいと神に願うのでなく、 私たちの身におこるあらゆる事について神を讃美し始める時に、 さまたげが除かれて神の力が働きはじめる」 ということが述べられていました。 それは決して簡単な事ではありません。
アルコール中毒のお父さんの事も、 もう手の施しようのない娘の精神的な病も、 LSDの恐ろしい幻覚症状に苦しんでいる妻の事も、 「神様の素晴らしいご計画の内にあるのだから、 神様を讃美しよう」と言っていたのです。 そうすれば、 神様がその望ましくない事を益に変えてくださると言うのです。 とにかくやってみなさいと勧めていました。
 あ丶、 私は分かっている積りでした。 「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 全ての事について感謝しなさい」の御言葉も頭では分かっているはずでした。 私に起こる事全て神様の御支配の中にあることも分かっている積りでした。 でも、 私がやっていた事は、 感謝できる事をできるだけたくさん感謝する事でした。 私たちに与えられるのは、 私たちにとって好ましい、 望ましいことばかりではありません。
自分が苦しい時、 その苦しみも神様からのものであることをすっかり忘れて、 そのことを感謝するなんて事を思いつきもしなかったのです。
全く、 少しも分かっていなかったのです。
 太陽の光、 月の明かり、 美しい木々や雨、 蒸し暑い日の一陣の風、 日々の糧。 これらはどれもこれも全ての人に与えられる神様からの恵みで、 容易に感謝する事ができます。
が、 この内的な苦しみは私だけのもの。 神様が私を覚えてくださっていて、 私だけに与えてくださったものだった。 しかも「何か良い目的をもって」。 そう、 このことを感謝しない限り、 「神様の力が働きはじめない」 のだと言う思いがわぁーっと波のように押し寄せてきました。 「全ての事について感謝しなさい」 という御言葉を実行に移すことは、 単に知っている事と違ってなんと重い事でしょう。 続きを読むために、 その本を抱えて家へと急ぎました。 私は歩きながらその御言葉についての根本的な私の間違いを訂正してくださったことを感謝しました。
 思いがここに達した時、 以前聞いた、 そしてその時はただ「すごい!」と思った、 三浦綾子さんの言葉が生き生きとして戻って来ました。 「私は神様にえこひいきされているのではないか」。 三浦さんは、 次々と襲う病魔に耐えつつそう言われたそうです。 それも、 やれ風邪だ、 胃炎だ、 捻挫だと言う類のものでは決してなく、 どれひとつとっても、 人に希望を失わせるに十分な病気ばかりだったのです。 あんなに苦難の連続なのに、 特別神様から愛されていると感じられたと言う事を、 その時はまだ容易に納得できるものではありませんでした。
 それに引き換え、 けちくさくたびたび私にやってくる憂いのたびに、 神様は私に祈り、 学び、 考え、 新しい思いにたどり着くよう導いて下さっている事に気付きます。 それは 「愛」 でなくてなんでしょう。 私には三浦さんのような丈夫な靴を与えられていないので、 それに耐えられるような平坦な道に、 それでも、 少しずつ神様の御心に気付くようにその道の上に多少の起伏をつけてくださっているようなそんな気がします。 ですから、 何か辛い事、 悲しい事がある時は、 神様が私を 「神様の目的地」 へ導こうとしてくださっていることを決して忘れたくありません。 心から感謝できるようになりたいものです。
 「最もよい時期として思い出に残るのは、 しばしば、 それに直面しているときは最も苦しく思われた時期である。 というのは、 その時期に我々は成長をとげたか、 あるいは、 その苦しみがなければ、 いつまでも残ったであろう欠点を脱ぎ捨てたからである。」 (「眠られぬ夜のために」 十一月十四日)

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リストボタン内村鑑三の言葉から     徳島聖書キリスト集会 代表者

 キリスト教関係の著作家は数え切れないほどいます。 しかし、 その力において内村にまさる日本のキリスト者はいないと思われます。 文は人なりと言われる通り、 その人の内なるものが文に自ずからにじみ出てきます。 文がいかに表現が美しくても、 また博識を思わせるものであってもそこに力が感じられない場合はいくらでもあります。
 内村鑑三のとくに短文には彼のキリスト教信仰からにじみ出る力があります。 神が与えた力です。 私たちが本当に苦しいとき、 また決断の必要なときには長い論文など必要でなく、 短い言葉、 力ある言葉、 確信に満ちた一言で足りることが多いものです。
 そうした内村の文に親しんでもらいたいと思い、 ここにいくつかを紹介します。 (原文は文語で、 独特の力のこもった文なのですが、 より多くの人に理解して頂くために口語文にしてあります。)

世論
 世論は神の声なりと思うのは誤りである。 神の声は常に世論に反対する。 昔の預言者はみなことごとく世論の反対者であった。 人間とはどういう存在か、 聖書にいわく、 「主は天より人の子を見て、 悟る者、 神を尋ね求める者あるかと見られた。 だが、 皆ことごとく腐れてしまった。 善をなす者はない。 一人もない」 と (詩篇十四篇二、 三節)
 神に背き去った人類の世論は神意を伝うるものではない。 我々は神の言たる聖書に聴くべきであって、 悪人が多数を占むる社会の世論なるものに従うべきでない。 (一九〇五年  「聖書の研究」)

政治も教育も、 またテレビや新聞などのマスコミもいつも人 の声、 人間の移ろいゆく考えや意見で満ちています。 今回の アフガンでのアメリカの報復戦争などについても同様です。  それらは時間が経てばまた大きく変わってしまうのです。
  しかし、 聖書に記されている真理は永遠に変わらない神か らのものであって、 そこに究極の真理があります。 あらゆる 民族や歴史、 国境を越えた真理、 すなわち神の声があるのに、それを大多数の人々が知らないということが根本問題なので す。

幸福の秘訣
 この世にあって幸いであろうと欲してはいけない。 そうすれば幸いを得る。 この世の不幸はわれらが幸福であろうと欲するところから来る。 この世にありては (神のためには) 憎まれようと欲せよ、 誤解せられようと欲せよ、 迫害せられようと欲せよ、 そうすればわれらは幸いなる者となって神とともに永久の平和を楽しむことができる。                         (同上)

この内村の言葉は、 「まず、 神の国と神の義を求めよ」 という主イエスの言葉を言い換えたものだと言えます。 私たちは 絶えず人の気に入るようにという考えがあります。 それが真 理かどうかでなく、 他人がどう思うか、 ということをまず考 えてしまう。 そこから数々の不幸が生じてくるというのです。

わが唯一の武器 
  「万軍の主が言われる。 武力によらず、 権力によらず、 ただわが霊による」 と (ゼカリヤ書四章六節)
 政権によらず、 武力によらず、 ただ神の霊による。 教会によらず、 神学によらず、 ただ神の聖霊による。 わが武器はただこれだけである。
私はこれにより自分に勝ち、 世に勝ち、 ついに死に勝ちたいと願う。
私たちは何によって進もうとするのか、 何を頼って前進しようとするのか、 たいていは自分の能力、 健康、 金、 家族や友人など他人の力、 組織等などです。 それらはもちろん何らか の助けとなります。 しかし真理の道へと導くものではなく、私たちが重い病気になり、 家族からも離れて老年の孤独なと きにも心の支えとなってくれるものではないのです。 私たちが本当の道、 永遠の命の道を歩み、 死の迫るときにもうち倒 されないためには、 それらと全くちがったもの、 神に頼り、神の聖霊が必要なのです。

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リストボタン昔の 「はこ舟」 より     Z.Y

 信仰とは神の大能の力に信頼し、 その御言葉のままに生きることである。 もとよりその道は決して平坦ではなかろう。 使徒パウロなどは信仰が大きいだけに、 受けた苦難も深刻であった。 飢えや寒さで眠れなかった事などは軽い方で、 難船が三度、 川の難、 盗賊の難、 など第二コリント第十一章にある。 ユダヤ人から妬まれ、 石打に会い、 死んだと思われたのに死んでおらず、 すぐ起きあがり、 他へ行って福音をといた。 苦難以上の保護が彼には与えられた。 (第二コリント十二・1~4)
「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る言葉による。』 この聖句に世界の食糧問題解決のかぎがある。 地球上の人口が今の十倍になろうとも、 主のみ教えに聞き従うところには恩恵の道も加えられるであろう。」 とありました。
 こうした言葉と説明が印象に残っています。

(
日本キリスト教団日和佐教会員、 日和佐集会に参加・塾教師)

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リストボタンあ と が き

 この文集は、 誌上のエクレシアとして、 ふだん会っている人々や遠くにいる人たちとの主にある出会いや交わりの場を提供するものとして作られています。 印刷物になると、 言葉で話したことと別に神が用いてくださることもあり、 そのことも願っています。
 私は自分が信仰を与えられたきっかけが、 書物の中のほんの短い言葉であったために、 印刷物に特別な重要性を感じてきました。 キリスト者の文集は、 神への感謝や人への証しのためであり、 神への捧げ物です。 だからそれは何も名文でなくとも、 素朴なもの、 ごく短いものでもよいのです。 そのためにこの文集には、 短い文、 聖句だけのものも収めています。 ただ神が用いて下さることを願って書けばよいのであって、 そうして作られた文集は、 主がみ心に従って祝福してくださると思われます。
 原稿用紙に書かれた文からの入力とかパソコンに入力した文の校正などは、 K S K T F N I Y Y などの兄弟姉妹たちによって分担してなされました。 (T・Y)


野の花 第十五号    二〇〇二年一月二〇日 発行

発行所 〒七七三-〇〇一五

          小松島市中田町字西山九一の一四

                徳島聖書キリスト集会

           電話 〇八八五三-二-三〇一七