「集会だより」2019年

「集会だより」 2019年2月号 NO.460

 すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと…を心に留めよ。   (フィリピ4の8)

 ○一月一日(火)元旦礼拝 (午前6時30分~8時30

             二コリント五・17 29名(内スカイプ10名)

「主にあって新しくされる」

 新しい年となった。人が本当に新しくされるためには、神の光を受ける必要がある。この世は人工的な光があふれている。その光があるほどに、本当の光がわからなくなる。そして闇があふれる。清い星の光は見えなくなってくる。

 「キリストに結ばれる」とある。それは、原語の意味からは、「キリストの内にある」という意味である。今も、キリストはこの場でおられる。霊的な存在であり、すべてを包み込む。神の大いなる風、愛の息吹に吹かれている。そのとき人は新しい創造物となる。人が、本当に新しくされるためには、キリストの内にとどまる必要がある。

人は過去を見る。過去に悪いことをした、家柄が悪い、などで人を判断する。しかし、神は、今、あたらしい霊をうけなさい、という。そのとき、新しい創造物となる。過去は関係なくなる。そして新しくされると人を見る目も新しくされる。

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ!』こうして、光があった。」(創世記一・23

 新しくされる道が、聖書の最初から宣言されている。ステファノは、殺されるときに、天が開けて、イエスが見えた。新しくされると、死ぬ前に、天が開かれることもある。

 神が心に宿っていれば、同じものをみても、新しい何かを感じることができる。わたしたちが新しくされると、日々、新しい世界が開かれていくのである。そしてそれは、自分だけにとどまらないで他者にも分とうとする。

 罪を知らない心には光もさしてこない。自分の心の罪を知り、弱さ、間違うことが多いことを知るとき、そこから救いを求める。そして、キリストを求める。求めさえすれば復活のキリストの霊が与えられるのである。

 今も、苦しい状態にある人、家族の病、住むところもない人たち、数々の困難、苦難、すべての闇と困難の中に、神が光をあたえ、新しい力を与えることを神は願っておられる。

 最終的には、神によって新しい天と地にされる。わたしたちも、死んだ後に、キリストの栄光の体を与えられる。この世界も新しい地になる。

 創世記に、闇に光があったと、最初から新しくされたことが書かれている。そして、聖書の最後の黙示録にはまた、世界が新しくされることが記されている。「マラナタ、主よ来てください」と願いつつ、新しい年を迎えたい。

○一月六日(日)主日礼拝 

マタイ二十・1719 37名(内スカイプ11名)子供2名

「十字架と復活」

 イエスがエルサレムに上っていかれた。それは、殺されるためであった。非常な覚悟をしてイエスは上られた。

 イエスの十字架、それは人間の罪からの救いのためである。わたちたちの罪が、キリストを十字架につけた。そしてそのことによって、わたしたちは救われた。

 創世記に記されているように、アダムとエバは、良きもので満たされていた。しかし、食べてはいけないと言われているものを食べてしまった。わたしたちも、いま、日本で、必要なものに満たされて生きている。しかし、感謝することを忘れて、他の人のものまで持ちたいと願う。人は与えられているものに満足しないで、他者のものを奪おうとする。そして、神に問われたとき、それを他の人のせいにすることがある。人の罪はどこまで深い。

 そして、アダムとエバの息子のカインは兄弟殺しをした。これは、今も人間の心に流れている罪である。このすべての罪を解決するために、イエスは生まれた。

 十字架は、すべての人類の課題である。人はどうしても正しい道から、それていく。あらゆる民族において、罪ゆえに、さまざまな苦しみと悩みが世界にはある。人は能力や環境などさまざまな差があるが、罪という観点から見たら、平等である。

 「誰でも、自分の十字架を負って」とある。それは、自分の罪の重さを知りつつ、信じて歩むということである。十字架担うと言うとき、「重荷、苦しみを担う」という意味で使われることもある。それと、自分自身の罪、との意味もある。日々、罪人として罪を認識しながら歩む。そして、赦されたものとして、感謝しながら歩むのである。

 罪の解決がなければ、この世でどのように成功しても、変わらない。学問が発達しても、罪の問題は解決されない。それを解決するために、キリストは来られたのである。

 イエスを信じた時に、古い自分が死んで、新しい自分に変えられる。それは一方的な恵みである。しかしまた「求めよ」と言われている。

 「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」(エフェソ二・1)「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エフェソ二・46

 誰でも、その罪の根を持っている。それが、戦争になればその根が出てくる。また、誰でも、心も体も弱ってしまう。そして、新しい力を求めている。 

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」

欠けることが多くても、罪を赦してくださり、欠けることはないということができる。

  「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。」(詩篇二十三・12

主は緑の草を食べさせ、水を飲ませ、そこで魂を生き返らせてくださる。

 ただ、仰ぐだけで、大きな変化が起こる。そこから、復活が与えられるのである。復活したキリストは聖霊である。聖霊を与えてくださるのである。これがあるから、罪深きものであっても、赦され満たされていくのである。

「わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎわたしの杯を溢れさせてくださる。」(詩篇二十三・5)敵を前にし、苦しめる者を前にしても、聖霊を与えてくださる。同じものを見ても、そこに新しい目を与えられる。

 キリストと結びついているとき、そこから新しいものを受け取ることができる。内なる聖霊が見させてくださる。聖霊がすべてを教えるからである。そして肉体の死を迎えたとき、ありとあらゆる、奥深さを完全に知らされるのである。

 イエスの十字架、そこから新しい風を受ける。それを一年間、忘れないで生きたい。

○一月十三日(日)主日礼拝

  マタイ二十・2028 34名(内スカイプ9名)こども4名

 「一番大きくなりたいものは、仕える者になれ」

 弟子たちの母親は、新しい時代になってイエスが栄光の座に就いたとき、二人の息子、ヤコブとヨハネを一番大事な地位においてくださいと、ひれ伏してまで願って言った。本人たちもそれを求めていた。イエスに三年間従い、イエスが常に最も弱い人のところ、障害を持った人のところ、この世では何の権力もない人のところに行っていたのに、弟子たちは、その心がわからないで、上になりたいと願っていた。人から認められたい、褒められたいというのは、誰の心にもあり、侮辱されたりすると、腹を立ててしまう。

 イエスはそれに対して、「自分が何を願っているのか、わかっていない」と言われた。本人たちは、明確に地位を求めてきたのに、何を願っているのかわかっていないと言われたのである。

そして、イエスは、「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるのか」と聞かれた。それは、イエスの十字架の苦しみである。ゲッセマネでイエスは以下のように祈られた。

「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ二十六・39

 死の苦しみ、途方もない苦しみを超えて行くのである。イエスが、どれほどの苦しみを受けるのか、弟子たちはまったく考えていない。弟子たちは苦しみを受けないで、楽々と支配の座につこうとしていることがわかる。弟子たちは、杯について問うこともなく、簡単に「できます」と言った。

「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(マタイ二十・1819

 この、イエスがこれから受ける苦しみについて語った、その話の直後のことである。これが、三年間もイエスに従ってきた弟子の姿である。どれほど、従ってきても、聖霊を受けなければ、自分中心の心を砕くことはできないことを示している。

 しかし、イエスは責めることもなく、「この苦しい杯を飲むことになる」と告げた。ヤコブは実際に殺され、ヨハネは長く生きたがしかし、そこに大きな苦しみがあった。

 わたしたちも、信じたら救われる。しかし、さまざまな苦しみの杯を飲む必要がある。神の国に入るには苦難が必要なのである。 他の弟子たちは、ヤコブやヨハネの言動を見て、祈るでもなく訂正するでもなく、腹を立てた。彼らも同じ思いだったことがわかる。

 神を知らない者は、この世の力、金や権力の支配にある。しかし、キリストにつくものは、違う価値観で生きるようになる。大きくなりたいものは、僕となるのである。

 キリストは神と同質であったが、仕えるためではなく仕えるため、多くの人の贖いとして命を捧げるために来られた。ここに、「死ぬ」ということ、贖いの血を流されたことが書かれている。捕らわれている者に、代価を支払い買い戻す。それは、人々が、自分中心の霊に支配されているので、その罪の力から買い戻すために、イエスは十字架につけられたのである。そして多くの人の身代わりになって、殺された。

 仕えるということは、命令通りに動くという意味ではない。イエスが仕えられた、というのは、苦しみの中にある人のために、絶えずよきものを与えられたということである。相手に何か、良きことを提供することが、仕えるということである。人生とは何か。なにかよきものを絶えず他者に分とうとする。そして、天の御支配(神の愛や真実)を他者に少しでも分かち与えようとして生きていくことである。

○一月二十日(日)主日礼拝 

 マタイ二十・2934 47名(内スカイプ12名)子供4

 「目を開けてください!」

 ふたりの盲人が道端に座っていた。物乞いをするためであった。この盲人は、イエスこそが、救い主であるということが見えていた。しかし、周りにいる目が見える人たちは、それが、まったくわからなかった。学問があっても、地位が高くても、愛や真理は見えるようにならない。かえって見えなくなることが多い。科学技術も、多くのことを見えるようにしてきたはずである。しかし、愛や真理は見えるようにはならない。神を抜きにして知識だけを知ろうとするとき、それは死に至る。神を知らず目が開かれるということは、悪しきことにつながっていく。しかし、神に関して目が開かれるときには、良きことにつながっていく。イエスの十字架、そして、自分の罪。罪を救う神の力。神に何して目が開かれていくということは、無限に高く深い。

 神に選ばれたモーセは、突然、神に呼ばれて、目が開かれた。そして、そこから、大いなる働きをして、キリストの働きにつながっていった。神の御手が触れたから、モーセの目が開かれたのである。この盲人も、イエスの手が触れられて、目が開かれた。一番大事なことは、イエスに触れられて、目が開かれ、見えるようになることである。

 この盲人は、誇るものを何も持っておらず、地位も学問もなかったが、イエスが神であり、救い主であるということがわかっていた。知識の目が開かれても、霊の目は開かれない。盲人はイエスを深く知っていた。しかし、周りの見える人たちは、霊の盲人であった。

 盲人は、イエスに「憐れんでください」と言った。イエスの愛を求めたのである。心の目を開かれるのは、聖霊による。イエスだけができることなのである。イエスの愛は、求めたら与えられる。求めすぎることはない。求めよ、そうすれば与えられると言われている。

 盲人の周りにいる人は「うるさい、黙れ」と言った。しかし、盲人はあきらめなかった。恐がって、やめることもなかった。願っているならあきらめない。あきらめるのは、本当に願っていないということである。大事なことはあきらめてはいけない。

イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。何を願っているか、イエスは御存じである。しかし、言葉にして祈るべきである。繰り返し、イエスの愛を信じて具体的に祈ることが大事である。

「目を開いてください」と願わなければ、真理は見えない。自分の力に頼ろうとするとき、正しいことは見えなくなってくる。イエスの真理が見えるようになり、愛を受けるとき、イエスに従っていきたいという気持ちが自然に起こってくるのである。

〇一月二二日(火)移動夕拝 奥住宅 ロマ書一二章九~二一

(参加者 I.(N)。O(E)、O.(A)、N.(H)。Y.、S、T、Y(T)、Y(E)、K.I.、K.T 11名) 

主題 「聖霊に導かれた者の歩み」

 キリストを信じた人はどのような歩みができるかが書かれている。究極的な事なので霊的に高いことを言っている。神様に導かれたらどこまでも高く有りうるかが示されている。自分の家族を置いて地球の裏側まで来たザビエルのような人もいた。周りの人だけを見て人間てこんなものかと思ってはいけない。モーツァルト、ベートーベンのような作曲家、科学や技術の方面でも、またスポーツなどにおいても一般の人々にはない能力を与えられている人たちもいる。生まれつきの全盲の人はなぞるようにして見える人には、不可能と思われるほどの速さで点字を読むことができる方がいる。そうしたこともみな神が与えたのである。精神的、霊的方面においても神が力を与えるときには、この個所に示されたような高い境地へと導かれていく。

 日本人は宇宙を支配し、かつ完全な愛の神はいないと思う人が圧倒的である。しかし、世界の状況を見ると、この宇宙を創造したのは唯一の神だと信じる人が圧倒的に多い。日本だけは特殊で、靖国神社のように戦争でたくさんの人を残酷な方法で殺したような人たちも神として祀られ、また豊臣秀吉や、織田信長のような権力的、また自分に従わない者を容赦なく滅ぼしていくような人間をも神として拝む。

 愛と真実の神、全能の神など存在しないと信じるならば、そのような神からよき力をもらうことはできない。神様は全能で愛であるからこそ、求めるならば、最も大切なものが与えられる。本当に必要なのは、人間関係や国同士の関係であっても真実がなければ、壊れていく。相手の国民に対する敬意により関係が築かれる。人間関係で根幹となる愛の問題がまず書いてある。

 愛というとすぐイメージでき、とても大事だが自分を大切にしてもらいたいと思うのは偽りの愛。一般の人たちが思っている愛は、真実の愛の影にすぎない。すぎに変質し、また消えてしまうからである。

 自分が好きな人だけを大切にするのは愛ではない。この世が思っている愛と違う。主イエスが「自分を愛してくれる人を愛したところで何になろうか。自分の同胞からお金をとっている徴税人でもこのような事はする。兄弟だけに挨拶したところで何の足しになるか。異邦人でもしている」と言われた。

 世界で最も絶大な影響を及ぼし歴史を変えたキリスト。マタイ五章四三節と今日の箇所は同じことを言っている。「隣人を愛し敵を憎めと命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し自分を迫害する者を愛せよ」と。自分によくしてくれる人はもちろん、悪をなす人であっても、その人の魂がよきものとなるように祈ること。これは人間関係のあり方のとしての最終目標である。

 本当の愛は兄弟愛をもって互いに愛する。二〇節。あなたの敵が飢えていたら食べるものを与える。渇いていたら飲ませる。悪い人間は滅ぼせ、でなく神様に変えられて良きことを行うような人になるようにと願い祈る。それが悪に対する勝利の道である。

 キリストは人間の究極的な在り方を示した。それは人間関係にとって永遠の真理である。

 憲法9条は武器をとらない。トルストイはキリストが示した精神を根本におき、悪に武力で抵抗せず、非暴力で抵抗した。そのトルストイの思想に深く影響されてインドを武力をとらずに、独立に導いたのが、ガンジーであり、さらにそうした流れを汲んでキリストの示した道を歩んだのがアメリカの牧師、マルチン・ルーサー・キングであった。

 日本の憲法憲法9条はそうした聖書に古くから示された精神から生まれたものである。武力をもって紛争解決の手段としない。歴史的に見ても、軍事力を大きくしていくと人々を守るよりも戦争が生じて民衆に多大の苦しみをもたらすことが多かった。現在の日本の置かれた状況を見ても、他国が攻めてくる可能性より、軍事力増強によって戦争への道につながる可能性がずっと大きいと思われる。

 この個所で使徒パウロが言っていること、自分でやり返すことなく、神の裁きに任せる。

 悪は必ず裁かれる。不正なことをすると、人は一時的にあざむくことはできても、心の中の非難する声を止められない。そこから生じる心の闇や動揺を消すことはできず、魂の平安や清い喜びというものを味わうことができなくなる。それが神の裁きである。

 隠れたことは必ず現れる。悪い事をされてもやり返したら自分も同じ罪を犯したことになり主の平安が失われる。復讐の気持ちがあれば祈れない。

 この世には三種の戦いがある。暑さや寒さ、また災害など自然との戦い、人間同士の戦い、心の中での戦い。その中でもとても難しいのは心の中での戦いである。仕返しの気持ちに勝ち、相手の為に祈る。善をもって悪に勝利する。これは普通の人間には難しく、神からの霊を与えられなければできない。聖霊が働くと悪いものに対しても憎しみが起らなくなる。ステパノは石で打ち殺されようとしたときでも、憎しみに燃えている人への愛と祈りをもって召され、霊的に勝利した。

 こうした人間関係における、愛の問題はだれにとっても最も身近な問題であり、この個所で示されているようなあり方が私たちの目標となる。

○一月二十七日(日)主日礼拝 マタイ二十一・15

 35名(内スカイプ11名)

  主題 「主が御入用なのです」
 イエスがエルサレムに近づいてきたとき、イエスは弟子たちに、道にろばがつないであるので、そのろばを連れてきなさい、と言われた。それも、大人のろばもいるのに、小さなろばを連れてくるようにいわれた。

 人のろばを勝手に連れてくるということは、盗みであり驚かされる。しかし、イエスは、あえて言われた。特別な意味があったからである。そしてイエスは、そのろばの持ち主に「主が必要である」と言いなさいと言われた。

「主の必要」それは、すべてを超えていく。主が必要とされたら、すべての妨げを超えていく。そして、本来は使えないものが、使えるようになってくる。

 真剣に求め続けるとき、不思議な道を主が開いてくださる。この日本において、唯一の神、そしてキリストを知らされているということは、主が選ばれたのである。ほとんどの人が神を信じないというこの日本の中で、主に必要とされて、信じることができるようになったのである。

 さまざまな問題、解決の道ができないような困難な問題が起こるとき、その時にはわからないが、それは、必要として、与えられたことなのである。主の必要にあって、与えられたといえる。人間は、そんな苦しみは欲しくないと願う。しかし、主は必要であれば、苦しみを与えられるのである。

 イエスがエルサレムに入るのに、ろばなどなくても入ることができる。しかし、神の言葉が成就するため、神の大いなる御計画のため、神が必要であったから、備えられたのである。

間社会では別である。主の必要ではなく、自分の必要を求めている。そして人は一番になるために、必死になっている。しかし、神は「神の国の御支配をまず求める」ことを求められている。このことが、一番必要なことであり、そして病気であっても、貧しくても、誰でもできることである。

 人間が必要なのか、神が必要なのか。主のみことばに従っていくとき、主が備えてくださる。予想しないことを備えてくださるのである。それは創世記から記されている。

「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている。」(創世記二十二・14

 アブラハムはひとり息子を、捧げよといわれた。神を信じて息子を捧げようとしたとき、そこに羊が与えられた。神の言葉に従うとは、神が必要とされていることである。そのとき、必要が備えられる。

人間がどんなに備えても、簡単に壊れていく。備えても足りないことである。しかし、神の備えがある。イエスは「明日のことを思い煩うな」と言われた。誰でも先のことが心配である。しかし、神の国を求めていたら、必要が与えられる。

 主の山に備えあり。たえず、主の山に登っていく。そのときには、主の備えがある。これは、死後も続いていく。イエスは、死んだあと「あなたたちのために家を備えている」と言われた。

 今、明けがたの東の空に、二つの星が並んでいる。金星と木星である。ふたつのまなざしが、見つめている。星の光をみていると、そこにこそ、神の備えがあることが伝わってくる。神の光が常にわたしたちに備えられているのである。

130日スカイプ集会(参加者18名)詩篇118

「苦難の中から答えてくださる神」

 迫り来る大きな苦しみや悩みのただ中から主に叫ぶ。そうすれば主が答えてくださった。生きて働いておられる神であるゆえ、当然何らかの答えを与えてくださる。

 時には、どんなに待っても答えてくださらないように思うことがある。答えてくださらないことが答えであることもある。病気が癒されなくても、そこから深い信仰が与えられることもある。

…わたしが苦しみのなかから主を呼ぶと、

主は答えて、わたしを広い所に置かれた。(5節)

 それは言い換えれば自由にしてくださったということである。安らぎを私にもたらしてくださった。私たちはいろいろな意味で狭くされがちである。日本も狭い。他の国との交際も少ない。他国はしばしば国も代わり、国境が代わり、別の民族が入り、そうしたことによってキリスト教が広がっていったが、日本にはそのようなことがなかった。

 日本の伝統的な音楽や文学は、高みから響き来るものを聞き取った音楽というのが見られないし、人々の人間を超えた高く清いものへの憧憬というのがどれだけあるだろうか。究極的な高みや清い存在を知らなければ当然そのような状況になる。民族的な狭さがある。

 他方 どの国にも、人間の精神的狭さと言う問題がある。自分の国を一番とする考えの狭さは、しばしば破局が来なければ分からない。戦前の日本もアジアで天皇を盟主、王として支配する体制を考えて大東亜共栄圏なるものを言い出した。それは日本中心のごく狭い発想だった。

 そうしたさまざまの狭い所から本当の広い所に導き出すのが神である。私たち一人一人も真理のわからない狭い所に生きていたが、神は目を開いていただいた。だからこそ、感謝しようという気持ちが自然に出てくる。

 原文では118篇は「主に感謝せよ」という言葉から始まる。ホードゥ―というヘブライ語は「ほめたたえる、賛美する」という意味のヤーダーの命令形。ユダと言う名前は、ヤハウェの短縮形とほめる、賛美するという言葉からなっていて、主をほめたたえるという意味をもっている。

 なぜほめたたえるべき存在なのか、それは、主は あらゆる良いもの(トーブ)の源泉であるお方であるから。 そして、主の慈しみ(ヘブル語でヘセッド)は永遠だからである。

 トーブは、さいわい、良い、善、健康、健やか、喜ばしい、尊い、繁栄…などあらゆる良いことを含む言葉である。

 「愛には偽りがあってはいけない」と新約聖書に記されているが、この世には愛と見えるものであっても欲望や本能的なも

の、また人間的な感情が混じっている。人間の愛は、好きな人や関わりのよい人にしか及ばないものであり、ふとしたことによって壊れ、心はうつり、無関心や憎しみに変化してしまうゆえに、それは実体のないものであり、真実の神の愛の影のようなものである。

 しかし神様の愛は真実であり永遠である。

人間に頼らず君侯(王・支配者)にも頼らない。10節は国々のような大きな範囲に広がっている。滅ぼすという言葉は馴染めないと思う人も多いかと思う。「必ず」と言う言葉は原文にはなく、本来「断ち切る」という言葉である。国々が幾重にも構えてくるが、主の御名、本質であり力・愛・慈しみによって、私たちは出エジプトの時のように飲み込まれずにそのような力を断ち切っていくのである。

 悪は蜂のように包囲してくる。しかし茨が燃えるようにそれらは燃え尽きる。だから、その主をほめたたえよう。15節そういった救いを喜び歌う声が讃美歌の源流となった。本当に救われたということから讃美が湧き出てきて、その経験を通して神様の力、その右の手と言うものがありありと示される。17節このように大きな真実なものがあるのだから、どうしてもこれを語り続けよう。証しを続けようということになる。18節様々な苦しみも、そこからの救いを体験させるためであった。22節はマタイ2141節でそのまま引用され、これが主イエスのエルサレム入城の時に叫ばれた。主の心の内にはこの詩篇がありありと浮かんでいた。詩篇はしばしば預言の書でもある。25節どうか、私たちに救いを(ホーシューアー・ナー、これがホサナのもとの形)、あるいは、さぁ今、救ってくださいーという意味。これが、喜ばしい歓迎の言葉、間投詞のように用いられるようになった。はるか昔の人の非常な苦難の時、悪の力を退けて、神様に対する愛が生まれてきた。神様によって私たちも悪の力を断ち切り、そこから聖霊を注がれて、神様への賛美を歌っていく者とさせていただきたいものである。         (要約 KK HN  YN

お知らせ

祈りの課題

〇3月23日(土)の森 祐理コンサートが祝福され、御言葉と賛美を通して福音を信じる方々が起こされますように。

 

〇特別な重荷を負っておられる方々ー意識不明で入院中の息子さんの介護に日々尽くされている、M・Kさん、M・Aさん、また何十年もの間、大学病院の個室で人工呼吸器にて生きておられる勝浦良明さんたちが、主の助けと支えをつねに受けますように。

 

〇徳島聖書キリスト集会とその関係の方々、「いのちの水」誌につながる方々、各地での集会、また「祈りの友」の方々が、さまざまの重荷を主によって軽くされ、日々新たな力を与えられますように。そして主に用いられて福音を伝えていくことができますように。

集会だより 2019.1 NO.459


  神は私の魂をあがない、闇の世界に下らせないようにした。

   私の命は光を見る。(ヨブ記3328

○十二月二日(日)主日礼拝 列王記下五・114 

         大人45名(内スカイプ13名)こども4名

 「清めを受けるために必要なこと」

 アラムとはユダヤ人のいるところではない。そのアラムの王の軍司令官ナアマンがらい病(*)になった。らい病は特別な苦しい病気である。

 

 「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人のらい病人を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」(マタイ八・12

 イエスが山上で教えを話し、そのあとで、一番先にイエスが行ったのは、らい病の人のところであった。それは、らい病が特別に苦しい病であったからである。徐々に体が溶けるように崩れていく、人から忌み嫌われ、家族からも引き離される。そのような特別な苦しい病であった。その、らい病に、ナアマンはかかったのであった。

 そこに捕虜として連れてこられ、ナアマンの妻の召使として来ていた娘がいた。その娘が、ナアマンにサマリアの預言者のところに行くようにと伝えた。娘の言うことを、不思議にナアマンは聞き、その王に伝えるとアラムの王も金6000シェケル、それは66㎏もの金を持たせて、イスラエルの王のもとにいかせたのであった。

 イスラエルの王は、ナアマンがそのようにやってきたのを知って、らい病を癒すなどできるはずのこともないのに、なぜ、連れて来たのかと怒った。しかし、それを聞いた預言者エリシャが、執り成し、わたしのところに連れてきてくださいと言った。ナアマンは、エリシャのもとに来た。そしてエリシャはナアマンに「ヨルダン川で7回体を洗え」と言った。ナアマンは、バカにしていると怒ったが、部下がエリシャのいうことを聞いてみるように助言し、ナアマンは従った。金も権力もない部下のいうことに、ナアマンは従い、エリシャのいう通りにしたのである。そして癒された。

 神は、小さな者を用いて大きな業をなされる。まず、召使いの娘のいうことを、ナアマンもアラムの王も聞いた。聞く耳を神が与えたのである。そして、また、エリシャのことを聞くようにと、いったのも部下であった。ここでも、部下のいうことを聞く耳を神がもたせた。そして、行うことは、川で身を清めることであった。

 人間は心を清める必要がある。しかし、学問によっても、科学でも、経験でも清めることはできない。お金や権力でも清めることはできない。それらは、かえって、しばしば人の心を高慢にしたり、その科学技術などは、世界を破滅に導いていきかねない闇をともなう。

 神は弱いものを用いられる。そして、それに従うことで清められる。

 らい病ーこれは、古代からあって特殊な病だと思われがちであるが、それは霊的な見地からみるとき、人間はだれでも救いがたい汚れにとりつかれているということができる。

それが罪を表している。その罪を清めるために行なうことは、単純である。ただ神とキリストを信じるだけでよい。

 イエスがわたしたちのために、罪をあがない死んでくださった。ただ、素直に信じる。そのことによって清められる。

「川に行き、身を洗うと癒される」このことを信じたところに、癒しがあったのである。信じて救われ清められる。これが、今も流れているメッセージである。 

*)「らい病」の訳語について…新共同訳では、ヘブル語のツァラアトという原語を「重い皮膚病」、改訂版の聖書協会共同訳では、「規定の病」と訳した。他方、新改訳の改訂版では、原語のままのツァラアト とした。 しかし、原語のままにしたり、重い皮膚病とか規定の病などという訳語では、なぜ、聖書において今日の個所や、福音書の個所において特別に重要な意味を持って記されているのか全く理解できなくなる。アメリカの代表的な英訳聖書である、NRSVNew Revised Standard Version)、NIVNew International Version、またカトリックの代表的聖書であるNJBNew Jerusalem Bible)なども、みな らい病(ハンセン病)を意味する leprosy と訳している。日本語訳でも、以前からの口語訳、そして新しい岩波書店から出版された新約聖書においても、らい病と訳されている。

○十二月三日(月)小羊集会 使徒言行録二十二・616

 この箇所はパウロの証である。パウロはキリスト者を迫害するための旅に出ていた。ダマスコに近づいたとき、天から強い光が差した。そのような光は創世記にも記されている。

「地は混沌(空しい、荒涼とした)であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記一・23

そして、このことは、今、私たちにも語られていることなのである。空しく荒涼としていた心。人は何によっても満たされない闇がある。しかし、そこに神によって与えられる光がある。

 「光あれ」これは、今も通じる。神が光あれと言われたとき、そこに光が入ってくる。

 パウロは、何が真理であるかわからず、キリスト者を迫害していた。真理がわからないから、真理を求めることができなかった。そのようなパウロのかたくなな心にも、光は入ってきた。どんな人でも、神の光によって変えられることができる。神は全能だからである。

 イエスと一緒に十字架にかけられた罪びとも、最後に救われ、イエスと共に最初に天国に入る人となった。

 天からの光。それは、日々の生活の中で祈りの時、聖書を読むとき、光となって、差してくることがある。

 パウロは神からの光を受けて、地面に倒れた。そのとき、イエスは、「どうしてわたしを迫害するのか」とパウロに問いかけた。イエスは知っていたが、尋ねた。神はわかっておられるが、人にあえて尋ねることがある。

 パウロは、神の声に対して、「主よ、どうしたらいいのでしょう」と尋ね、従った。パウロは目が見えなくなった。そしてアナニアに出会わせた。アナニアが、見えるようになりなさい、というと、パウロの目が見えるようになった。神がアナニアを用いられたのである。

 パウロは何か善いことをしたのではなかった。キリスト者を殺すことまでしていた。しかし、神に選ばれた。神の選びは、どのような重い罪を犯した者であっても、そうでなくとも、そうした人間の基準によらない。だれが選ばれるのか、まったく予想できない。人間の世界では、能力、容姿、家柄、学歴等々が選ばれるための必須のことになるのと大きな違いがある。

 

 アナニアはパウロに言った。

「神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。」神の選びの目的は、パウロに証をさせるためであった。そして「その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」と言われた。しかし洗礼という儀式によって人は清められるのではない。

「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ三・2224

 「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル九・12

「まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(ヘブル九・1214

 イエス・キリストの贖いを信じただけで、人は救われ清められる。人を救い清める、天からの光、イエス・キリストは今も求めるものの心に来てくださる。

 ○十二月九日(日)主日礼拝  マタイ十九・1626

         大人39名(内スカイプ12名)こども4

   「天の国に入るために」

 永遠の命とは何か。それは、命の時間がいつまでも続くという意味ではない。時間や空間に限定されない、時間をすべて超越している神、その神の命をさす。聖書で意味する「永遠の命」とは、神の命である。神は愛、真実、正義、すべてを持ち、時間に左右されない。完全であり、無限である。その神の命によって美しい自然も造られている。神の御支配の中にある命、それを、永遠の命とあらわしている。

「先生、神の命を受けるために何をしたらいいのか」と青年は尋ねた。彼は、何か、良いことをしたら与えられると考えていた。彼はお金持ちであったために、自分が何でもできるように考えていた。それで、イエスは、神の掟を守れと言われた。青年は「そんなものは守っている。ほかに何をするのか」と言った。ここに、青年の傲慢があった。お金で何でも解決できた。お金があるゆえに、掟は何でも守っていると思っていた。

 殺すこと、それは憎むことだけで罪である、姦淫すること、考えるだけで罪である、盗むこと、ほしいと思うことだけで罪である。隣人を愛するとは、誰に対しても苦しみを自分のことのように感じる。人間にはできないことであるが、彼は、そのような弱さや罪を理解していなかった。それで、イエスはあえて、隣人を愛すること、そのために不特定の貧しい人に、自分のお金をすべて使って施しなさい、と厳しいことを言われたのである。

それは、人間は、正しい道を少ししか歩めないという、自分の限界を知らせるために、そして、律法そのものを深く見つめるために、言われた。とても、施せない、できないということを青年が思い知って、そこから、神を見上げて歩んでいくようにとイエスは語られた。青年はできない自分に悲しみながら立ち去った。そこから、この青年はどうしたであろうか。そこから、罪の赦しを願うべきである。

 悲しむものは幸いである、神によって慰められるとイエスは言われている。悲しみとは自分のさまざまな限界を知らされ、思い知らされた時に出てくる。徹底的に自分の弱さを知らされる時である。「心の貧しいものは幸いである」それは霊的に貧しいということである、自分の弱さ、欠点を知る。そして神に向かう。それが幸いである。

 イエスは言われた。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがたやすい」人間にはできないことを、よりわかるように、表現された。弟子たちは、それほど厳しく言われるのであれば、だれも救われない、と言った。弟子たちは、このような、基準で示されたことがなかったので、万事において、こんな厳しい基準で言われるのであれば、だれも救われないであろうと考えた。確かに、人間はできない。人は金や物に執着する。しかし、人間にできないところに、神が手を伸ばして、救うのだ、とイエスは言われた。

 人間は、律法を守って、神の国に入ろうと思ってもできない。しかし、神は、そのできない人間を神の国に入れることができる。それは、神が全能であり、愛であるからである。パウロも「正しい人はひとりもいない。」と言った。神という無限の真実から見たら、人はすべて、限界があるものにすぎない。人間は、努力しても、修行しても、神の国へはいけない。その限界を、イエスがその罪を担って、死んでくださった。

 万人の罪をあがなうことは人にはできない。神は全能であるから、その道を開いてくださった。人にはできないが、神の力、聖霊の力を受けたらできるのである。わたしたちがすることは、ただ、祈り続けることである。

 世界には悪がはびこり、いつわり、ねたみなどが渦巻いている。その一切の悪にかかわらず、霊的な世界では、神によって転換できるのである。「神は何でもできる。」それを、信じていくべきなのである。

 永遠の命についてはヨハネ福音書に特に記されている。

「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三・1416

「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ三・36

「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ四・14

「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」(ヨハネ四・36

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(ヨハネ五・2425

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ五・3940

 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」(ヨハネ六・27

「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」(ヨハネ六・47

「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。』」(ヨハネ六・68

「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ十一・2526

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ二十・31

 絶対に消えない、永遠の命はただ、信じたら与えられるのである。


○十二月十四日(金)天宝堂集会 マルコ十三・1~2

  「不滅の親石なるキリスト」

 エルサレムの神殿に使われている大きな石に弟子たちはまず驚いた。しかし、イエスは、それには関心を示さなかった。そして、イエスは、これから終末にかかっては、どんな素晴らしい石も消えるのだと言われた。

 この世の中のどんな、素晴らしいと褒められるものも、地位も栄誉も消えていく。科学的な見地から考えても、最終的には太陽さえも消えていく。しかし、残るものがある。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ十三・31

 神の言葉の真理性は、世の中がどのように変わっても、変わることはない。そして、決して滅びない。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ一・1~3)キリストが神の言葉である。

 讃美すべきものは、建物や石、あるいは、何らかの競技や大会などでの優勝者、文化勲章、金メダリストやノーベル賞などの栄誉…等々の目に見えるものではない。

 神、そして神の本質をそのまま受けておられるキリストだけが、讃美されるお方である。

 それゆえに、旧約聖書の詩編の最後はハレルヤ!神を賛美する、ということが繰り返されている。神に限界があれば、讃美するに価しない。神は全能であり、かつ愛と真実、そして完全の正しさや美に満ちておられるからこそ、讃美されるべき存在である。

イエスがお生まれになった時、天使たちが賛美した。素晴らしいものは神である。神がイエスを遣わされた。だから賛美すべきなのである。

「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し、長らえる限りわたしの神にほめ歌をうたおう。」(詩篇一四六・12

  「主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。」(詩篇一四六・10

「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。」(詩篇一四七・1011

詩篇の最後に、ハレルヤと繰り返されているのは、キリストに向けられているのである。旧約聖書は、キリストを指し示すものだからである。

「聖書(旧約聖書)はわたしについて証しをするものである」(ヨハネ福音書5の39

 人は目に見えるものにとらわれ、そこから、この世で地位や名誉、あるいは規模の大きなイベントーいろいろなスポーツその他の日本や世界の大会、オリンピック.や万博等々のもの)、地位が高いもの、そしてそれらすべての大きなものを手に入れるのに不可欠である多くのお金…等々に引かれる。しかし、キリストは、そのようなものに心を向けることはなさらず、ハンセン病や盲人、ろうあ者、精神の病の人、重度のてんかん…等々の当時最も見捨てられた存在であって、弱く、苦しみや悲しみに満ちた人々のところに行かれた。それは、現代の複雑な状況に生きるわたしたちに対しても同様であって、事故や災害、病気、あるいは老齢となって、どのような状態になろうと、キリストを待ち望むときイエスは共にいてくださる。

「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ十六・18)岩とは、イエスこそ神の子と信じる信仰であり、神の子とは、通常の日本語での意味とちがって、神と同じ本質の御方という意味である。この意味の神の子であるからこそ、万人の罪のあがないも可能であり、死者からの復活もなされたのだった。

  キリスト教信仰が与えられたものは、誰でも、自分の存在の土台石といえるものは、キリストであると実感しているであろう。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」(マタイ二十一・42)と言われているように、この世の支配者、指導的階級の人々が見捨て、殺すことさえしたイエスこそが、復活し、神と同じ存在の聖霊となり、過去二千年にわたって世界の伝えられ、さまざまの新しい道を開いて来られた。

イエスこそが、この世界において、永遠に滅びることのない親石となったのである。

○十二月十六日(日)主日礼拝 マタイ十九・2730

         44名(内スカイプ7名)こども4名

「わたしたちが受け継ぐもの」

 ペテロは漁師であった。イエスに不思議な力を感じ、漁を捨て、家族を捨てて、イエスに従ってきた。それから、今に至るまで、多くの人がそのようにイエスに従ってきた人がいた。

 キリスト教に三つの柱がある。ひとつは、復活である。もうひとつは罪の贖いである。すべての人間の心に自分中心の思いがあり、どのような人も、無償の愛、無差別的な愛はない。どうしても他者を本当には大事にはできない。その心の状態を罪という。その罪の裁きを身代わりに受けて、十字架で死んでくださったことである。そして、もうひとつ、最終的な世界の問題の解決が再臨である。それはすべての闇の解決である。

「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき」というのは、再臨の時を指す。と同時に、キリストを信じた時から、また、誰もが新しい時代となる。そして「キリストの再臨」も信じることができるようになる。

この世界の最後はどうなるのか。人間の最後は死という闇であるように、この世界の最終的な状況は、太陽も地球もなくなるという私たちの通常の判断力では受けいれがたい闇の世界である。しかし、そこに答えを与えるのが「再臨」である。

 「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は」とある。しかし、実際、そのようなことはできる人は少ない。この箇所だけを、読むときには、自分にはできない、関係ないことと思えてくる。だから学ぶ必要がある。

「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェソ一・14

 キリストを信じる者は、神の御支配が与えられる。それは、どのようなことがあっても、壊れない、愛と真実が支配している世界であり、それを受け継ぐことができるのである。

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(一ペテロ三・9

わたしたちが受け継ぐものは祝福である。無差別的な愛、清い心、真実、それは祝福そのものである。敵対する者にも、祈る心が与えられる。それも、祝福である。それが、キリスト者が受け継ぐものである。そして信じるだけで、受け継ぐことができるのである。

 イエスと共に十字架につけられた罪人も、最後にイエスの前に悔い改めた時、祝福を受けついだ。

もっとも、受け継ぐべきものは、神の祝福である。信仰が与えられたということは、誰かの祈りによって、導かれたといえる。多くの人が祈りを合わせたことによって祝福は伝わっていった。

 他者のため、敵対する人、病気の人のために祈る心は、誰でも受け継ぐことができる。

「その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」とある。それは、何かを捨てなければ、与えられないのではない。信じるだけで与えられる。しかし、このように書かれているのは、聖書の指し示す究極の姿を現しているからである。

 実際に、キリストのために、すべてを捨てて従い、そこから大いなる祝福を受けてきた人もいた。神のために、大事なものをおいて従うとき、神は大いなる報いを与えてくださる。そして、その祝福は百倍以上になって広がっていく。神を信じるようになると、神を一番にするようになる。大事な何かをおいて神を一番とするとき、そこに祝福が新たに与えられる。礼拝を守る。それも、神の祝福の基である。その祝福を求める。求めよ、さらば与えられる。それは神の約束である。

○十二月二十三日(日)クリスマス特別集会 

            63名(内スカイプ8名)子供8名

プログラム   ○第1部 子供とともに  ・賛美 「生けるものすべて」新聖歌 73  

・オカリナ演奏 … 75「神の御子は」、 325「歌いつつ歩まん」(いずれも新聖歌)     T.(T)、T.

・「いのちのさと」の賛美…「埴生の宿」、「まきびと羊を」

・絵本を読む…「マローンおばさん」   T(T)、K.(K)

 うた… 「世界ではじめのクリスマス」  (絵は、プロジェクター)

---------------------------------            

 ○第2部 み言葉に聞く              司会  F.F.

・ 讃美 「ああベツレヘムよ」新聖歌84

・祈り            (司会者)

・聖書朗読 …マタイ福音書2117節、ルカ2814より
・ メッセージ「イエスの誕生ー闇の力と小さき者」   Y.T

・祈り                  (講話者)

・賛美 「御使いのたたえ歌う」新聖歌86 ・黙祷

  --------------------------------- 
○第3部 讃美のひととき           司会  K.I. K.T.

 ・デュエット…「きよしこのよる」 S.(M)、N. (Y)

・手話讃美…①新聖歌76 諸人こぞりて13  ②リビングプレイス69 鹿のように

・コーラス…    新聖歌96 われらは来たりぬ

              友よ歌おう14 世界ではじめのクリスマス

---------------------------------

○第4部 感話会 (県内1人3分以内)    司会   N(H)

  1I.<.、2O.E. 3T.Y. 4T.K. 5N.Y. 6N.H.  7F.Y.県外 N.YY/K/K.

〇第5部 食事と交流   司会  N(H)

 

聖書メッセージ

「イエスの誕生―闇の力と小さき者」(マタイ二・117)(ルカ二・814

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」(マタイ二・1

 ヘロデは残虐な王であった。ヘロデ王の時代に生まれたということは、全くの闇の中に生まれたことを現している。悪との戦い、これはいつの時代もある。戦争、さまざまな諍い、また自分の心の中の罪。他者の痛みに寄り添えない、自分中心な心、それが罪である。それは、誰の心にもある。

 いつの時代にも、悪がはびこり、悪との戦いがある。そして人は弱く、悪に負ける。イエスが来たのは、そのような悪の力のはびこるただ中である。悪の力に勝利されたイエス。その力は今も信じる者に与えられる。

「ヘロデ王の時代に生まれた」これだけで、悪のただなかに生まれたこと、そしてその勝利を与えるために来られたことを指し示している。

「東方の博士たちが、東の方からエルサレムに来ていった。『ユダヤ人の王としてこられた方はどこにおられますか』」

博士たちは、どこに救い主が生まれるのかわからなかった。しかし、イエスに出会うために行った。

 そして、イエスに出会った。このイエスに出会うということが、最高の賜物である。そこで、イエスに捧げものをしたのである。博士たちと同じように、人それぞれに砂漠のような道を歩んできて、イエスに出会ったといえる。それは、人それぞれ、さまざまな形で与えられる。イエスを信じて祈っても、事態はすぐにはかわらないことがある。しかし、祈ることによって心が変わる。そのとき見える景色が変わる。それが、イエスに出会うということである。

 マタイ福音書ではイエスの誕生についてヘロデ王の時代の闇の力から書きはじめているがルカ福音書では、「羊飼い」に最初に知らされたとある。

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」(ルカ二・8

「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」(ルカ二・16

 羊飼いは、貧しく、また安息日を守れないために、人々に見下されていた。しかし、そのような小さな弱いものに、最初にイエスの誕生は知らされた。そして、イエスは家畜小屋という、特に暗くて汚いところに生まれた。それは、小さい弱いものを見ておられる神の御心を示している。

 いま、イエス様、来てください、と祈る。今、苦しんでいる人のところに来てください、と祈る。クリスマスはそのイエスを記念し、感謝する日なのである。

○十二月三十日(日)主日礼拝 マタイ二十・116

        42名(内スカイプ11名)こども4

「この最後の者にも」

 ここは、ぶどう園での働きについて記されている。これは、神の国のための働きを指す。つまり神から呼び出され、神から働きなさいと言われることである。ほとんどの人が、神がわからないため神の国のための働きがわからず、待っている状態である。

 神の国で働くということは、神に呼び出されなければできない。そして、ここで、遅くに、神の国のために働き始めた人のことが書かれている。たった一時間働く。それでも、朝早く最初から働いた人と同じ報酬が与えられる。普通の考えではありえないことを、神はなさるのである。

 神は愛である。神は無限である。もっとも大事なのは、神の愛である。すべてに打ち勝つのは、神の愛である。そのために、もっとも大事なのは聖霊を受けることである。人間の社会では数えられることを大事にする。どれほど、働いたか。しかし、神は数えられないことを大事にしてくださる。

 ここでは、最後に来て、1時間しか働いていない人も、同じように報いてくださるとある。大事なことは、働いた時間の長さではない。最初から働いた人は、長く働いたが、愛がなかった。だから、少ししか働かなかったものに対して腹を立てた。神への愛と感謝がなければ、時間が長くても祝福はない。神は心を見ておられるのである。

 イエスと共に十字架につけられた悪人のうちのひとりは、最後にキリストを信じた。そして天国に入れられた。最後にキリストに出会い、短時間だけ働いても、そこに神への真実と愛、感謝があれば神は顧みてくださる。祈るということも、大事な神の国の働きである。神は祈られる人も、また、祈る人の心も祝福してくださるからである。