「集会だより」2019年
集会だより」 2019年12月号

 〇十一月三日(日)主日礼拝 列王記下十七章1から8

         39名(内スカイプ9名)こども3名

「すべては神のことばより」

 イスラエルの民は、神によってエジプトの奴隷の状態から救われたのに、他の神々に仕えるという罪を犯した。真実、唯一の神は大きな恵みをくださっていた。それを忘れて他の神に仕え、裁きを受けた。しかし、もし、そこから神に立ち返れば再び救われる。

 どんな罪をおかしても、神に方向を転換すると再び救われる。しかし、そのようにせず、民は神の言葉に聞かなかった。

神の言葉に聞かない。ここに滅びのもとがある。この世は、金の力、軍事力、権力で動こうとする。カネの力は、一時的にこの世を動かすことができても、それで、魂の救いを受けることはできない。

 「大いなる力と伸ばした腕をもってあなたたちをエジプトの地から導き上った主にのみ畏れを抱き、その前にひれ伏し、いけにえをささげよ。主があなたたちのために記された掟と法と律法と戒めを、常に実行するように努めよ。他の神々を畏れ敬ってはならない。

 「わたしがあなたたちと結んだ契約を忘れてはならない。他の神々を畏れ敬ってはならない。あなたたちの神、主にのみ畏れを抱け。そうすれば、主はすべての敵の手からあなたたちを救い出してくださる。」(列王記下十七・3639

 さまざまな苦難や闇は、人間的なことに従い、神に従わなかったことから生じている。現在のさまざまな問題を考えても、根本的には自分の罪、神にきかなかった、ということから、問題が生じている。しかし、その罪に気が付いたとき、たとえ、十年後、二十年後であても、そこから立ち返れば救われるのである。滅びも救いも、神の言葉がもとにある。

 わたしたちは弱く、立ち返っても、また背くといった罪を繰り返すものである。しかし、十字架は立ち返った者を赦す神の愛の象徴である。心を空しくして、信じるだけで、主イエスは来てくださる。

主に聞き従わなければ、神は、何らかの裁きを与える。人の罰は懲らしめるためであるが、神の罰は、そこから新しいことに導いていく。滅びから救うために与えているのである。

 神の言葉に聞かなければ苦しみがあり、聞き従えば祝福がある。聖書は一貫してそれを示している。

 初めに神は光を創られた。神のことばは、完全に清い。その神の言葉を聴くとき、清められる。主イエスは「わたしのことばによって、清くされている」と言われた。

 美しい自然は神からのメッセージである。どこを見ても汚れがない。人間は常に汚れたものであるが、だから主イエスは「野の花を見よ」といわれた。ふしぎな聖霊の風が吹いてきたら心が変えられる。神は清い風を常にいつも吹かせている。地上のものばかりをみていたら、神からのメッセージがわからない。きょうも、美しい自然がみえることに感謝をささげたい。

 ごく日常的なこと、歩いて、目が見え耳が聞こえること、指が動き、暑さ寒さに触れると感じることができるというような一切のことも、神の支えによっている。光あれ との御言葉によって光があるように、私たちの神経のあらゆる反応も、背後で神がそのように反応せよ、動け、という神のご意志、力がはたらいてなされているということになり、すべては、神の言葉によってなされているということになる。

 真実は神にある。神は真実で、かつ完全な愛であり、全能であるという信仰がなければ、すべてのことが偶然になる。生まれたことも死ぬことも偶然、この地球や宇宙の生成もすべて偶然。そこに目的はない。それと、対照的なのは、みことばによって始まり、支えられているということである。すべては、かみのことばから始まっている。

 「はじめに神のことばがあった。」とヨハネ福音書ではあり、そして神のことばはキリストであると示している。日常生活の中のすべてにおいて神のご意思を求めていくものでありたい。

〇十一月十七日(日)主日礼拝

    第二コリント十二章7から10    44名(内スカイプ8名)こども4名

「神の力は弱き所にあらわれる」

 誰でも「弱さ」を退けたいと願う。病気の時は弱さを感じる。また、老年なると確実に弱くなる。本人、家族もそれを思い知らされる。弱さの問題は誰もが感じざるを得ない。普通に考えると弱さには良いことがない。一番の弱さは死である。老年になり何もできない。誰もそばにいなくて目標も希望もなくなる。そのようなときでも、希望を与えるのが聖書である。

 「力は弱さの中で、十分に発揮される」力がないから弱くなるのに、なぜ強くなるのか。パウロは、最初はキリスト教を敵視していた。キリスト者を殺すことまでした。しかし、キリストの光を受け、変えられて、キリストを伝えるものになった。そしてキリスト教はわずか三十年ほどでローマ帝国の各地にも広がっていった。そこで、ネロ皇帝の迫害があったが、武力も一切もたないキリスト教が滅びるのではなく、最終的に滅んでいったのは迫害していたネロ皇帝であった。

 弱さの中に神の力が現れる。それは、真理であり普遍である。そして、それは信じるかどうかにかかっている。死刑が確定している人でも、キリストの光を受け、新しい力を受ける人がいる。

 この世は、1番とか優勝とか見せかけの強さをほめたたえる。しかし、すべての力が失われたとき、神の力が与えられる。だから福音なのである。

 病気になったら、何もできなくなる。しかし、死が近くなっても感謝と賛美はできる。動けなくなっても神の力によって支えられる。弱さの中にこそ、神の力が現れる証である。 


 *礼拝後、垣塚千代子さんの納骨式が、眉山の中腹にあるキリスト教霊園で行われました。集会員に加え、関東や関西、地元徳島などからご親族9名の方が参加されました。

〇十一月二十四日(日)マタイ二十六・6~25 

        33名(内スカイプ9名)こども2名

 「主イエスへの愛と罪の深み」

 ここでは、香油を捧げたマリアと、イエスを裏切ったユダが対比して書かれている。ヨハネの福音書ではとくに、この内容が並べて記されている。

「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」                (ヨハネ十二・3~5)

 イエスはユダが「生まれなかったほうがよかった」と言われた。悪を行い続け、悔い改めることもなく、他者を殺傷したりして苦しみや悲しみを与えて死んでいくのであれば、生まれないほうがよかったということになる。

何のために生まれてきたのか。自分中心に生きて、自分の利益のためだけに生きる。神はそのために人を創ったのではない。

 ユダは十二人の弟子のひとりに選ばれ、イエスの奇跡を見てきた。そのようなイエスをユダは計画的に、売り渡したのである。

 それと対照的に、ベタニアの女は、高価な香油をイエスに注ぎかけた。なぜ、このようなことをしたのか。

この女性は、神を愛するということでは、弟子たちに勝っていた。それは、多くの罪を赦されたゆえである。高価な香油をイエスの頭に注いだという行為は、葬る準備だけではなく、イエスが大祭司であり王であるという預言的な行為であった。名もない、権力もない女性のその行動が、最も深いことを示していたのである。

 それと対照的にイエスを売り渡すという闇の深淵がユダにあった。どうして、こんなことが起こるのか。社会でも、また身近なことでも、どうして、ということが起こり闇に落ち込むことがある。

 ここで、イエスが夕食の場所をどこにしましょうか弟子が聞くと、あらかじめ用意されていたことが記されている。すべてのことが予告もしていないのに、予定通りに起こっていることが示されている。

 食事の席についたとき、「この中の一人が裏切ろうとしている」とイエスが言ったことに驚かされるが、弟子たちが「まさか、自分ではないでしょうか」というのも驚かされる。他の人の誰かを探そうとするのではなく「まさか、わたしでは」という言葉に、誰もが罪のとりこになっていることを自分自身が知っていたことがわかる。

わたしたちも、大きな出来事が起こるとき、自分の罪の深さを知らさることがある。人間は何かが起こると、「相手が悪い」と思う。そこに、罪がある。

 イエスは、裏切る人は「わたしとパンを浸したもの」とみんなの前でユダとわかるようにほとんど名指しで言った。明言し、ユダがすべてを見抜かれていると知って方向転換する、最後の機会を与えた。しかし、ユダは方向転換しなかった。「まさか、わたしのことでは」と他人事のように言った。イエスは「そのとおりだ」と言ったがそこまで、いわれても、なお、ユダは悔い改めなかった。

 ペテロも、三回も、イエスを知らないと言ったが、イエスに見つめられて激しく泣いた。ペテロは意図的にイエスを裏切ったのではなかった。命をかけてもイエスについていくと言ったのに思いがけず、裏切ってしまったのである。それは、ユダの裏切りとはちがう。後悔と悔い改めは別であり、悔い改めは神に罪を犯したと、神に赦しを願うことである。

 ユダの闇の深さ、それは、イエスが地上の王国を作らないと考えイエスを計画的にお金で売り渡すという意図的な罪を持っていた点に見られる。

しかし、どんなに暗い闇、欺きがあっても、ベタニアの女性のような人が光を与える。それが闇の中に「光あれ」といわれた神のご意思である。闇のただ中に聖なる風、聖なる光を受けた人を神は起こしてくださる。

 わたしたちも、闇をみても、親しい人が闇になろうと、そこで、神が新しいことを起こされることを信じることが大事である。

神は常にわたしたちをそのような光の中に招かれている。イエスと三年間も共にいても、真理がわからないようにさせるサタンの力があるが闇があっても、光がある。汚れた世界であっても、空に星、木々の美しさ、どんなに闇があっても、清い世界がある。闇を見て、引き込まれてはいけない。その都度、神に方向転換をすることが大事である。 


〇十一月二十日(水)水曜集会と「いのちの水」誌の発送作業。

 参加者 8名

 毎月第二水曜日午後一時からに、水曜集会の後、「集会だより」の折り込みと「いのちの水」誌の発送作業を行なっています。11月は吉村(孝)が九州方面に出向いていたので、第三水曜日に行なわれました。

 聖書の学びは、旧約聖書続編のシラ書を学んでいます。

 シラ書とは、ベン・シラクの書の略です。ベンとはヘブル語は「息子」の意味で、シラクの息子の書という意味なので、「ベン・シラの書」とも言われ、また、「集会の書」とも言われることがあります。

 なお、31年ぶりに出版された新しい「聖書協会共同訳」では、シラ書は、ほかの多くの旧約聖書の続編(マカバイ書、トビト、ユディト、知恵の書などとともに収録されているので、今後は多くの聖書の読者にとってもなじみ深くなると思われます。)

 シラ書は51章から成り、100頁近くある分量で、多くの当時の信仰にかかわる教えが記されていて、旧約聖書の箴言と共通点のある内容も多く、心の残ることも多く見られます。 

 この日は、シラ書19章の後半の学び。

 「すべての英知(ソフィア)は、主を畏れることにあり)」 All wisdom is fear of the LORD 19:20

 

・ギリシャ語原文では、(パサ ソフィア フォボス キューリウー) 

 

 「主をおそれることは、

主に受けいれられることのはじめであり、

人は、英知によって主から愛を授かる。」

 英知(ソフィア)とは、何が価値あるか、真実なものは何か、といった洞察力である。

 キリスト者にとって、唯一の愛の神のことがわかることは、英知が与えられているしるしとなる。山上の教えにある心の貧しき者、心砕かれるならだれでもその英知が与えられると約束されている。

 

「主に喜ばれることを行なう人は、

不死の木の実を喜び味わう」(シラ書1919

〇十一月二十日(水)水曜集会と「いのちの水」誌の発送作業。
 参加者 8名

 毎月第二水曜日午後一時からに、水曜集会の後、「集会だより」の折り込みと「いのちの水」誌の発送作業を行なっています。11月は吉村(孝)が九州方面に出向いていたので、第三水曜日に行なわれました。

 聖書の学びは、旧約聖書続編のシラ書を学んでいます。

 シラ書とは、ベン・シラクの書の略です。ベンとはヘブル語は「息子」の意味で、シラクの息子の書という意味なので、「ベン・シラの書」とも言われ、また、「集会の書」とも言われることがあります。

 なお、31年ぶりに出版された新しい「聖書協会共同訳」では、シラ書は、ほかの多くの旧約聖書の続編(マカバイ書、トビト、ユディト、知恵の書などとともに収録されているので、今後は多くの聖書の読者にとってもなじみ深くなると思われます。)

 シラ書は51章から成り、100頁近くある分量で、多くの当時の信仰にかかわる教えが記されていて、旧約聖書の箴言と共通点のある内容も多く、心の残ることも多く見られます。。  

 この日は、シラ書19章の後半の学び。

 「すべての英知(ソフィア)は、主を畏れることにあり)」 All wisdom is fear of the LORD 19:20

 

・ギリシャ語原文では、(パサ ソフィア フォボス キューリウー) 

 

 「主をおそれることは、

主に受けいれられることのはじめであり、

人は、英知によって主から愛を授かる。」

 英知(ソフィア)とは、何が価値あるか、真実なものは何か、といった洞察力である。

 キリスト者にとって、唯一の愛の神のことがわかることは、英知が与えられているしるしとなる。山上の教えにある心の貧しき者、心砕かれるならだれでもその英知が与えられると約束されている。

 

「主に喜ばれることを行なう人は、

不死の木の実を喜び味わう」(シラ書1919

お知らせ

〇クリスマス集会

1222日(日)午前10時~午後2

徳島聖書キリスト集会場にて。


〇元旦礼拝

2020年1月1日午前6時30分~8時

 新しい最初のときを、早朝の祈りと御言葉、賛美によって始めましょう。

 

12月の移動夕拝

 奥住宅の予定でしたが、都合で1月に延期となりました。1月28日(火)が奥住宅での移動夕拝となります。午後7時30分~です。スカイプ参加もできます。スカイプの申込は、次のメールアドレスの吉村(孝)まで。emuna@ace.ocn.ne.jp

 

〇北田康広さんの「聖夜」のCDは、多くの方々からの申込が届いています。ピアノと讃美歌が交互に収録されていて、聞いた方々から好評を受けています。キリストが二千年前に生まれただけでなく、現在の私たちの心の中に新たに来てくださる、生まれてくださると受け止めるとき、また、ピアノ演奏も多くあるので、クリスマスが過ぎても味わうことができる内容となっています。左記の吉村まで申込されますと、特価でお送りできます。 

1120日の発送作業の写真が掲載されています)

 集会だより 2019.11 NO. 466

 私のあなた方に対して、抱いている計画は、平安と、将来と希望をを与えようとするものである。(エレミヤ2911より)

〇十月六日(日)主日礼拝 37名(内スカイプ8名)

     列王記下十五~十六章 イザヤ七章一~十節

「動揺する心を静める」

 「しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。 主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、 彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。」(イザヤ七・2~4)

 息子の「シェアル・ヤシュブ」とある。それは「残りのものは(シュアル)、帰る(ヤーシューブ)」という意味である。それをイザヤは息子の名前につけた。どんなに遠くまで連れていかれても、何があっても、残りのものが残され、守られる。そして、主は「静まれ」「恐れるな」といった。敵対するものが襲ってきても、燃え残りの切り株は必ず残る。たとえ、目に見えるものでは、強そうに見えても、神の目から見たら、燃え残りにしか見えない。それは、信じることがなければ確かにされない。

「 エフライムの頭はサマリア サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」(イザヤ七・9) 神を信じたら、堅固にされる。

 この世は悪しき風、恐れさせる風が吹いている。しかし、預言者は永遠の真理を語り掛ける。神に向かって、固くされていなければ、真実ではいられない。動揺するばかりとなる。新しい聖書協会共同訳では「あなたたちは、信じなければしっかりと立つことができない」と訳されている。神様を信じるのでなければ、闇の力に立つことはできず、恐れる。そして、そこから、逃れようと、問題が起こる。信じなければ、倒れる。武力や憎しみで戦うときには滅びるのである。殉教の時も、ステファノは恐れず、自分を殺そうとする人のために祈って死んでいった

「わたしにとどまれ、そうすれば実を結ぶことができる」「神の国と神の義を求めよ」すべて、このことを示している。

 国際間、日本、家族、集まりにもさまざまな問題がおこる。しかし、最終的には神様が最善に導いてくださる。神様がすべてのことを最善にしてくださることを信じていきたい。

  〇十月七日(月)小羊集会  使徒言行録二七・29~二八・10

 神を信じていても、危険や苦しみは襲ってくる。しかし、その困難の中に、助けがあり道が開かれる。

 パウロの乗った船がやっと陸地を見つけ、上がろうとしたが難破した。そこで、船に乗っていた兵士たちは囚人が逃げないように殺そうとした。パウロも囚人であり殺されそうになったが、百人隊長は囚人を殺すことを制止し、パウロは助かった。

 そして、全員、マルタ島についた。そこで、住人たちに親切にされたが、住人たちが起こしてくれた火の中から出てきたマムシにパウロは噛まれた。危険から守られたとしても次々と新たな危険がパウロに迫ってくる。しかし、その都度神の助けがあり、パウロは害を受けなかった。

 神を信じていても、危険に遭う。このマムシの毒はさまざまな、悪の力の象徴である。しかし、神を信じていたら、毒が働いても、守られる。神などいない、という世の中で、困難や誘惑がある。しかし、かならず神は守って下さる。

 最初の殉教者であるステファノは、激しい憎しみの中で殺されているときに、天が開け、平安の中で敵を赦しながら死んでいった。毒から守られたのである。

 「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ十六・1718

 パウロは、船の暴風から逃れても、また蛇の毒が襲ってきた。次々と困難や命の危険が襲ってきても、神を信じているものは、すべて乗り越えていくことができるのである。

 〇十月十一日(金)天宝堂集会 マルコ十四・1~10
  祭司長たちと律法学者たちは、指導的な立場であった。考えも違っていたが、イエスを殺すということに関しては思いが一致した。妬むだけではなく殺そうとまで考えていたのである。闇の支配にあった。

 そして、そのあとのナルドの香油の内容が書かれている。闇のできごとと光のできごとが対照的に記されている。

 イエスはハンセン病の人の家に行った。ハンセン病になるということは病気そのもの苦しみだけではなく社会的、宗教的にも虐げられる苦痛がある。これも闇の象徴である。

 その家で、高価なナルドの香油の入った石膏の壺をもってきた女性がいた。三百万円もするほどの高価な香油を、女性はイエスに注ぎかけた。まわりにいた人は無意味なことであると女性をとがめた。しかし、イエスは「わたしに良いことをしてくれたのだ。」と言った。

 この「良いこと」は原語のギリシャ語は、カロスであり、プラトンとは、真・善・美の三つの根本的に重要なものの一つ、美の原語である。本当に善きことはまた、霊的に美しいことでもある。そしてこの内容は、4つの福音書すべてに記されている。

 もうすぐ殺されるイエスに対して、全財産を捧げた女性。このことは、後々まで続いていったことの象徴である。キリストを伝えるために命がけで、すべてを捧げてきた人によって福音は伝えられてきたのである。「この人はできるかぎりのことをした。」イエスに最大限の愛を捧げる。そこから、さまざまなことが波及していった。

「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」名前さえ書かれていないこの女性は、実際にいままで世界中に知られるようになった。まず、イエスへの愛を捧げることから始まっていった。

 祭司長たちと律法学者たちは、イエスを殺そうとした。この女性はイエスに愛を捧げた。まわりの人たちは、女性をとがめた。とがめられても、イエスにすべてを捧げたこの女性は、それほど多くのことをイエスから与えられたと実感していたからである。

「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(ルカ七・3738

 「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ七・47

 罪の赦しが神とキリストへの愛の出発点である。そして、女性が香油を捧げたことが、後々まで広がっていくことになった。

 まず、罪を赦され、それによって神、キリストへの真の愛が生まれる。その与えられた愛をもって他者をも愛することへの道が開かれる。

〇十月十三日(日)主日礼拝 マタイ二十五・1330 

          30名(内スカイプ6名)こども4名

 「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

 1タラント受け取った人は、主人に対して蒔かないところから刈り取る人、と考えていた。

 種を蒔いていなければ、収穫できない。そこから取り立てるというのは。偽りを言う不正な主人である。そんな主人は恐ろしいので、預かったお金を使えず、隠しておいた。この人の特質は、主人を全く正しく受け取っていないことである。嘘つきであり、蒔かないところから刈り取る不真実な人と考えている。全面的に主人を信じて、与えられたものに感謝して用いて5タラントを得た人とはまったく異なっている。主人の大きな愛を信じて用いた人と、主人が不真実と考えていた人との違いがある。

 だれでも、神様からのタラントンをゆだねられている。それは、自分が楽しむために与えられているのではない。与えられたものを用いて、増やすために与えられている。そして、それは増えていく。

 神から与えられ預かったもの、それは健康や能力だけではなく、それらよりも、もっと大きなもの、誰でも差別なく与えられている霊的なものを指す。神の愛を信じ、神の愛を実感している人ほど、神の愛を自発的に使おうとする。そしてまた、その愛が広がっていき、次々と豊かになっていく。最も必要なものは神の愛であり、それは差別もなくどんなところでも、通じるタラントンである。

 それが、イエスの山上の話で言われている「ああ、幸いだ、心の貧しい者、神の国はその人たちのものだからである」ということに通じる。「ああ、幸いだ、心貧しき者」これは、能力の有無には関係はない。自分は正しい道が歩けない、愛がない、といった弱さ。それは、誰にでもある。心の貧しい人、とは、霊において貧しい人、つまり、霊において誇るべきものがない、という意味であり、その人は幸いだと言われている。それは、天の国、神のご支配は、その人たちのものだからである。

 神の愛と真実のご支配は、死んだのちも含めて、生きているときに与えられることである。自分の貧しさ、罪、弱さを知ってはじめて与えられる。人間にとって、一番大きなタラントンはこの「神の国」である。神の国に、愛、真実、思いやりがはいっている。神の国のそれらが与えられたら、自ずから感謝して使うようになる。その神の国の中に、わたしたちの、罪の赦しもある。罪の赦しの中にこそ、神の愛を最も深く感じることができる。赦しが与えられ、平安な心でこの世の仕事に取り組む。そのときにまた、神は愛であるということが知らされる。

 心の貧しさゆえに、神の愛を知らされ、その神の愛を使っていくとき、それが膨らむ。そして、あたりいったいに広がってく。神の国のタラントを受け取ったら、まず広がる。自分の罪にもかかわらず赦して用いてくださるのである。

 信仰、希望、愛も神から託されたものである。信仰を使って、周囲の人が無駄だと感じることでも信じて進んでいくことができる。人が見ていて見ていなくても、関係なくできる。神様が見つめておられるからである。

 信じても、何もいいことがおこらないときもある。そのときこそ、信仰が必要になる。困難であればあるほど、神を信じて求める。この世はどうなるか。死んだらどうなるか。すべて神は完全であると信じることができるとき希望につながる。

 信じておのずから与えられるのが希望である。神は永遠であり、神は愛であるから、死んでも復活の命を与えて下さる。神は愛であり、全能であると信じる。そしてイエス様がわたしたちの罪を担って死んでくださったと、信じた時に平安が与えられる。そのことによってまた、信仰が深まり、他者にも伝わっていくのである。

 青い空を見ても、神の愛を信じることができる。信じるときには、特別な能力がいらない。病気も、苦しみ、神の愛などないと思う時でも、神を信じていく。それは、求めたら与えられることであり、求めるとき希望も増え信仰も増える。そのことによって神の愛が広がっていくことが知らされる。

 罪の赦しをタラントンがゆだねられたと知って、用いるとき、そのタラントンは増えていく。この世のものは使えなくなる。しかし、神の愛は、つかえば、つかうほど、広がっていく。 自分の心にもひろがり、他者へもひろがる。与えられたものに感謝せず、使おうとしなければ、希望の光を与えられても、消えていく。

 神の真実や愛を信じることがなければ、平安は失われ、怒りや不信が生じる。

 朝起きて、まず、祈り、神への信仰と希望と愛をつかう。本当に祈っていたら、できるようにしてくださる。つかえば、つかうほど、広がるものが、信仰、希望、愛である。

 自分の限界や弱さを知り、そこから、神の国をあおぐときに、それは与えられる。問題や困難があっても、これも、試練で、神がそこから道をひらいてくださると信じることがタラントを使うことになるのである。

 〇十月二十日(日)主日礼拝 マタイ二十五・3146

         36名(内スカイプ7名)こども4名

     「この小さき者へ」

 わたしたちが、受け継ぐもの。それは、天地創造の前から備えられてきたとある。想像できないスケールである。それほどのものが与えられる理由はなにか。それは「裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」とある。ここでその人は、自分がしたことを覚えてもいなかった。したことを本人も覚えていない。しかし、イエスは見ておられたのである。

 ここで「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」にしたとある。イエスが「わたしの兄弟」と言っているのは、病気の人や牢につながっている人を指している。その小さな人にすることが、イエスにすることになるとある。貧しい人、死にかかっている人にすることが、イエスにしたことになる。その啓示をうけて、このキリストの言葉に従った人がマザー・テレサで、世界中に知られることになった

 わたしたちは、よいことを少ししかしない。だから、自分がしたことを覚えている。しかし、この人は自分がよきことをしたのに、おぼえていなかった。

「心の貧しい人は幸いである」という言葉に通じる。自分が何かをした。しかし、それ以前に大きな罪があり、赦していただいている。実は罪ばかりの人間。たまに、いいことをしたのは、神の力であって、自分がしたのではない。この人は自分がしたという記憶さえない。それが、心の貧しさである。自分の罪深さをしっていたら、良いことをしても、それは、取るに足りないことであるとわかる。罪を知っている人こそが、神の国を受け継ぐことができるのである。

 この小さなものを大事にする、という内容は、ほかの個所でも記されている。それは、律法学者、パリサイ派の人は、イエスが王であるとわからなかったのに、小さなこどもたちがイエスに「ホサナ」と言ったことである。

 またイエスは「小さなものをつまずかせるものは、首に石臼をつけてしずめられたほうがましだ」と言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ十八・3~5)

「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」(マタイ十八・6) ここに小さなものを守る神様の姿が示されている。

 「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」という厳しい言葉はどういう意味か。神が持っている、命、愛や清さ真理を、永遠の命とあらわしている。そして、それと対照的に、闇の世界を永遠の火と表している。

 自分がこれだけのことをしたのだ、と神を無視して、驕る心は闇に陥る。イエスは「わたしにつながっていたら、実を結ぶ」「つながっていなかったら、焼かれる」と言われた。自分中心でいたら、かならず裁きを受けるということを示しているのである。この裁きを受けないためにすること、それは簡単なことである。

イエスが十字架で罪を赦してくださったということを信じる。それだけで、永遠の火からのがれることができる。

 わたしたち自身が小さき者である。神からの愛を受けなければ、小さなものへの配慮はできない。イエスは目を覚ましていなさいといわれた。目を覚ましていると、自分の罪がわかり、それを赦してくださる、神の愛もわかる。このことは、ぶどう園の労働者のたとえでもわかる。朝から働いた労働者と夕方から行って、ほとんど働いていない労働者が書かれている。朝から働いた人は主人をせめた。しかし夕方から行った人は自分が働いていないことを知っていた。罪を知っていたら、何かをしても、実は何もしていないことがわかる。

 ここでは、まず、自分が小さき者となって、罪赦され、いのちの水をいただいて、それから小さき者に何かを提供することが示されている。

〇十月二十七日(日)主日礼拝 マタイ二十六・113

「キリストへの愛」

 イエスが十字架につけられたのは、贖いのためであった。イエスは人類の罪を担って身代わりに死なれた。この重要なことを最後のときに言われた。しかし、当時の祭司長たちはまったく理解しようとしないで、イエスを計画的に殺そうとした。そのような、サタンの働くただ中で、六節からの香油を注いだ女性の記事がある。この記事の前には、長老たちの殺意という闇が記されている。また、この記事のあとは、もっとも、イエスに近かった弟子たちへのサタンの働きが記されている。しかし、そこに大いなる光として、この女性の記事が書かれているのである。どんなに闇が暗くても光は指すのだと示している。聖書はつねに闇の中の光を語っている。

 ここで、らい病の人の家シモン、とある。らい病は最も恐れられていた病気である。イエスはわざわざ、らい病の人の所に行かれた。闇の中に行かれたのである。その中に、一人の女性が三百デナリオン(現在の日本のお金の価値でいえば三百万円ほどになる)以上に売れるほどの香油をイエスに注いだ。香油というのは特別な高価な油を配合したものであり、この香油を注がれたもの、という意味のことばがヘブル語で「メシア」ギリシャ語で「キリスト」である。そのような大祭司などに注ぐ、特別な香油。それを頭に注ぐということが、重要な意味を持つ。

 しかし、弟子たちは、それを無駄遣いである、それなら貧しい人に施せ、と女性を責めた。しかし、イエスは「わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われた。この「良いことをしてくれたのだ」という言葉。人間にとって、最も大事なこと、それは真、善、美、である。人間が求めるべきことである。教育でも、このことが重要である。「真」は真理の探究であり重要である。そして、「美」について言えば、人間には理屈抜きに、美しさを感じる能力が与えられている。「善」についても、何が善か、たとえば人を殺すことはいけないということも魂に刻まれている。そして、その「美」そのものは目にはみえない。その「美」そのものは、ギリシャ語で「カロス」(美しい)ということばの名詞形(カロン)である。この「良いことをしてくれた」という「良い」というのは「美しい」という言語であり「カロス」ということばである。マザーテレサは「神様のために、何か美しいことを」Something beautiful for God と言った。そして、本当に良き事はうつくしいことである。

 イエスは「わたしに香油を注いだのは葬る準備である」と言われた。香油を注いだのは、単なる死者への儀式でなく、イエスの死は、万人のあがないー罪の赦しのための死であり、その死に神の本質たる愛が深く結びついている。油注がれることはそのことに対する象徴的行動となった。

 イエスが十字架で死んで復活する。もし、イエスが死んでそのままであれば、人は救えない。わたしたちは、自分の罪でさえ、どうすることもできない。しかし、イエスは全人類の罪を贖うことができる。神はイエスの死に対しても油を注がれるー神の本質を注がれるということを意味している。キリストこそ、真の王であり、大祭司、神と人とを完全な形で、結びつける方である。この女性は、そのことを示すために、用いられたのである。

 神は、大いなることをなすためには、どのような人をもちいられるかわからない。そして、このことは、福音が伝えられるところには、どこでも伝えられるとある。そして、実際にそうなった。

ユダがイエスを売り渡すという、その闇のただ中で、イエスは王となる。それは。闇の中の光であり、神の本質を与えられた人であるということを示した。

 人々はその女性に「なんで、こんなことをするのか」といった。イエスに高価な油を注いだ女の行動、それは、その女性のキリストへの愛が、もとにあったのである。ルカの7章36節に似た内容がある。これは別の女性か、同じ人かはわからない。ここでは、罪深い女が、香油を取って、イエスの足元に塗ったとある。そして、その時に、イエスは弟子たちに、多くの借金の返済の例えを話した。そして、この人が多くの罪を赦してもらえたのは、わたしに示した愛の大きさでわかる、といわれた。

 高価な油を注いだ女性。この金を使えば、なにかできると人は言った。

 しかし、イエス(神)に対する愛こそが原点である。イエスは、まず神を愛し、隣人を愛することが最も重要と言われた。そのイエス(神)への愛は、自分の深い罪を赦されたという実感によって自然に生じる。その罪が赦されたということを与えられたら、キリストを愛するようになり、その愛が、さまざまなところに波及していく。

 この女性は、何らかの深い罪の赦しを受けた人であると考えられる。その愛から、深い洞察を与えられてイエスが殺されて、復活するということを啓示され、この出来事が全世界に伝わっていったのである。キリストの愛を、伝えるためには、神の愛を深く実感しなければできない。

 わたしたちも、何か、良き事ををしたいと願う。そのためには、まず、イエスから自分の罪の赦しを受け、愛を受ける必要がある。そこから、自然と、何か良きこと、美しいことができるように、導かれるのである。

 お知らせ
〇今年のクリスマス特別集会は、1222日(日)午前10時~午後2時です。

会費500円(弁当代) この会費は手渡しでも結構です。


〇「いのちの水」誌11月号で紹介した、北田康広のクリスマス関係の讃美とピアノ演奏が交互に入っているCDは、一人で、歌とピアノ演奏が交互に配置されているというほかには見られない構成となっていて、讃美歌の歌詞に含まれる御言葉とメロディーで共感し、励まされ、またピアノ演奏 によってその美しい音楽で心に清流が流れ込むような感じになります。


 このCDは、定価三千円ですが、末尾の吉村に申込みますと、特別価格で提供できます。


 内容は次のようになっています。


1,「もろびとこぞりて」讃美歌21-261(歌)、


2、ヘンデルのラルゴ(ピアノ演奏)


3、「ああベツレヘムよ」讃美歌21-267


4、シチリアーノ(ピアノ演奏  バッハ作曲)、


5、「神の御子は」新聖歌75  (歌)


6、樅の木 (シベリウス作曲)


7、きよしこの夜(歌)


8、主よ、人の望みの喜びよ(ピアノ演奏  バッハ作曲)


9、天なる神には(歌、新聖歌80)、


10G線上のアリア(ピアノ演奏) 

11、天には栄え(歌 新聖歌79

12、来れ、異邦人の救い主よ(ピアノ演奏 バッハ作曲)

13、牧人羊を(歌 新聖歌82、) 

14シューベルトのアヴェ・マリア(ピアノ演奏 )

15、マリヤは歩みぬ(歌、讃美歌第2篇124

16、グノーのアヴェ・マリア(ピアノ演奏 )

17、ふるさとを離れて遠く(歌  、讃美歌21- 279


18、イエスよ 私は主の名を呼ぶ (ピアノ演奏 、バッハ作曲)19、まぶねのかたえに(新聖歌83 歌)


20、村の教会(ピアノ演奏 、シベリウス作曲)、


21、みつかい歌いて(歌、讃美歌21- 216


22、鳥の歌(ピアノ演奏  スペイン・カタルーニャ民謡)


23、いざ歌え、いざ祝え (歌  讃美歌21- 260


〇春期四国集会


 「いのちの水」誌11月号にも書きましたが、来年五月に、キリスト教独立伝道会と徳島聖書キリスト集会の共催で、春期四国集会が開催されます。


・日時…2020年5月9日(土)13時~5月10日(日)16


・場所…サンシャインホテル 徳島(2016年5月に無教会のキリスト教全国集会が開催されたのと同じ会場です。)


徳島市南出来島町2丁目9    電話 088-622-2333


 今回は、聖書講話とキリスト者としての証し、賛美、祈り、交流といった従来の内容にくわえて、音楽プログラムとして、上記の北田康広さんの賛美とピアノ演奏があります。


・なお、宿泊に関しては、各自が直接に、会場のホテルあるいは、航空機の場合は、ホテルとセットでの予約など、都合のよいホテルなどに予約していただくということになったことです。


 しかし、会場と別のホテルに宿泊しますと、会場まで移動の必要がありますので、そのため、参加希望の方で、宿泊を希望される方は、早めにサンシャインホテルに予約をされると会場と同じなので好都合だと思います。


11月の移動夕拝の場所は、いのちのさと作業所で、時間は午後730分~9時です。スカイプでの参加もできます。申込は、下記の吉村まで。

集会だより 2019年10月号集会だより NO. 465

 天には、永遠に慈しみが備えられ、

あなたの真実が、そこに立てられる。(詩篇893

〇九月一日(日)主日礼拝

  列王記(下)十三・22~十四章 創世記十四章1324

   「祝福を受ける勝利」

        41名(内スカイプ8名)こども4名

 ユダの王、アマツヤが一万人の敵エドム人を打ち破った。勢いに乗って、イスラエルの王に「来い、戦争をして打ち負かす」といった。戦争をするのは王ではなく兵士である。多くの人が殺されるのに、王は戦いを挑んだ。アマツヤは勝利が続き傲慢になっていた。イスラエルの王はレバノン杉とアザミとの戦いに例えて、なぜ、挑発して災いを起こすのか、と言った。しかし、アマツヤは、聞こうとせず戦いになった。ユダは敗北し、逃げた。イスラエルの王、ヨアシュはユダの王を捕らえて、城壁を壊し、財宝を奪った。

 人間は、傲慢になると、過信して罪を犯す。褒められると舞い上がり、力もないのに、うぬぼれる。キリスト者は、褒められるよりは、けなされるほうがよい。キリストの苦しみに少しでも預かれるからである。傲慢になると、自分の力を誇り、本当は空しい者であるのにわからなくなり、神の力、神のまなざしも見えなくなる。

 イエスの弟子たちも、イエスがもうすぐ、十字架で殺されるということを告げたのに、だれが一番偉いかといった。自分がどれほど弱いか、空しいものであるかわからなくなっていたのである。わたしたちが、出会う苦しみ、それは傲慢にならないための導きである。

 傲慢な王アマツヤと対照的なのが、戦いに勝利したアブラハムの態度であった。ソドムとゴモラの財産や食糧がすべて奪い去られ、 ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られたときのことである。(創世記14章11~)

 アブラハムは、ロトのために戦った。そして奪い去られたものだけを取り返すと、あとは何もいらないといった。

 戦争はものを奪い取る。人も奪い取り、軍力を高めようとする。しかし、アブラハムは、受け取るべきでないものは受け取らないといった。それは、人に捧げるのではなく神に栄光を帰していたからであった。人を喜ばせるために捧げても、その人しか喜ばない。そして、軋轢も生み出す。キリストにつくということは、神に捧げるという気持ちで、いつも、神を念頭に置く必要がある。

 勝利したのも、神が与えられたからである。アブラハムは必要ないものは受け取らなかったゆえに「サレムの王、メルキゼデク」に祝福された。この王はキリストを象徴している。

 わたしたちは、武力を使わない戦いの中に置かれている。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」(エフェソ六・1015

 外を歩くには履物がなければケガをする。霊の戦いにおいて、神の言葉の福音が履物である。そして、救いを兜としてかぶる。救いとは十字架で罪赦された確信である。また、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさいとある。神の言葉は、履物でもあり、剣でもある。そして、戦いに負けないためにも集まる必要がある。人間にとっての本当の戦いは霊の戦いなのである。

 ここであるように、傲慢になれば、人間はどんな愚かなことをするかわからない。だから、たえず、修正される必要がある。この個所は一人ひとりにとっての身近な問題なのである。

〇九月二日(月)小羊集会 

         使途言行録二十六・24~二十七・38

 パウロがアグリッパ王の前でキリストが死者の中から復活したことを話した。すると、頭がおかしいのではないかと言われた。しかし、パウロは「真実を話している」と言った。真理を話しても理解はされるとは限らない。むしろ、キリストの真理を伝えるとき「頭がおかしいのではないか」と言われることがある。しかしパウロは自分に起こったことを、相手が誰であっても伝えた。

 キリストを伝えるのに学問が必要なのではない。聖霊が必要である。まず、聖霊が与えられなければ、キリストを信じることはできない。パウロは反対する人のためにも祈りをもって福音を伝えた。

 そしてパウロはローマに向けての厳しい船での旅に出ることになった。パウロは、クレタ島から出るとき、この航海が危険であることを示され、やめるように言った。しかし船員たちは出航した。そして嵐に遭遇し、命の危機に遭い、すべての人が希望を失った。ただ、パウロには神からの語り掛けがあり、元気が与えられていた。

 わたしたちも、苦しい事態にあうことがある。しかし、そのようなときでも「恐れるな」と力づけてくださる方がいる。

 そしてパウロは、他の人たちを励ましてきた。このようなパウロの苦難は以下の個所にも記されている。

「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(Ⅱコリント十一・2327

 このように、パウロも、非常な苦しみを受けてきた。パウロの苦しみ、危険は想像を超えるものである。この苦しみを経て、福音は伝えられてきたのである。苦しみの程度は、人それぞれに違う。わたしたちも、与えられている苦しみを通して神の力が働くことを信じ、福音を伝えるものとさせていただきたい。 

〇九月八日(日)主日礼拝 マタイ二十四・3644 

「目を覚ましていなさい。主は思いがけない時に来る」

      35名(内スカイプ8名)こども3名

 「その日、その時」というのは、世の終わりのとき、新しい天と地が来た時である。それは、わたしたちの死の後の世界にも言える。それはどのようなものなのか誰もわからない。

 「天使たちも、子も知らない。」とある。子、というのは人として生きておられたキリストである。地上で生きているときには、示されていなかった。

「人の子が来るときは、いつなのかわからない」

 キリストの誕生は預言されていた。終わりの時も預言されているが、それがいつなのか、示されていない。。

 目を覚ましていることの重要性。どれほどこの世の仕事を頑張っていても、神を知らずに世の為に働くとき、神の目から見たら、眠っていると言える。病気や障がいでこの世の仕事は何もできなくても、霊の目が開かれていると目を覚ましていると言える。

 「目を覚ましている」とはどのような状態をいうのか。美しい自然を見たとき、神の創造の技を感じることができる心が、目が開いていると言える。そして、これは信仰がなくても、自然の美しさをわかるようにされている。

 病気や家族の苦しみなど大きな困難に出逢うとき、心の目が閉ざされ、自然からの語り掛けがわからなくなることがある。目を覚ましていないことである。しかし目を覚ましているときには、苦難の中にも、そこに神のご意思を知る心が与えられる。

 この世でどれほど称賛されても、霊の目が開かれているときには、人の称賛には意味がないことがわかる。さまざまな社会問題も、心の目が開かれているとき、その根本を知ることにつながる。原発問題は目が閉ざされ、その危険性がわからなかった。

 目を覚まして、神の真理を知るとき、そこには戦いや苦しみが生じることがある。社会問題に関しても目が開かれているとき真実をもって戦うことが必要になる。福音を伝えるために、目を覚まし命がけで戦う人もいた。

 バッハも心の目が開かれ、音楽を生み出してきた。目を覚ましている人が聞くとき、その心がより深く伝わってくる。

 常に目を覚まし、開かれた目で、人間関係、過去、未来を見る必要がある。そして聖書のことばも、目を覚まして受け取るべきである。

 イエスは突然来る。それは世の終わりだけではない。罪を知らされるために突然罰を与えられることがある。また、真理に対しても、突然目が開かれ示されることがある。

常に目を覚まし、霊の目が開かれているものでありたい。

〇九月十三日(金)天宝堂集会 詩編十一編

…主のもとに私は逃れた。

 どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。

見よ、悪しき者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。

世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。

主は聖なる宮におられる。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し/そのまぶたは人の子らを調べる。

主は、主に従う人と逆らう者を調べ/不法を愛する者を憎み

悪しき物に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。

主は正しき方、正義を愛される。御顔を心のまっすぐな人は、み顔を仰ぎみる。

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「どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか」とある。「あなたたち」とは誰か。それは、主に逆らうもの、悪しきものをさす。そして、悪しきものが「主に従う人(正しき人)に何ができようか」という。

 この世の人は、唯一の神への信仰や真実、神の愛などあざ笑う。何が神か、災害も絶えず起こり偽りもはびこり、どこに正義があるのか、どこに神の愛があるのかという。

 しかし、そのようなこの世の風潮に、信仰は打ち勝つ。現実を見据えたうえで、それに打ち勝つのが神への信仰である。主が天におられる。この世から、いかなる影響も受けないところに主はおられる。その神は人間全体を見渡し、正義と真実の支配をもって人間世界の不正もすべてを見ている。

この世の人が、どんなに神がいないといっても神はおられる。そして、神の時が来たら正しく裁かれる。

 「逆らう者に災いの火を降らせ」とある。火はどのような硬いものも焼き尽くす。神の裁きは火のように、悪を焼き尽くす。

 神の啓示によって作者は確信を与えられた。この世の悪がどれほど強くても、神は正しい人と悪しき人を絶えず調べる。そして、神をまっすぐに見つめるものには、よき御国をあたえ、神を全面否定するもの、正義などないというものには、神の力が及んで時が来れば根源的な力は焼かれる。最終的には世の終わりをさす。

 主は正しくいまし、恵みの業(正義)を愛される。神の正義が強調されている。

御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。これは、原文は「心のまっすぐな人は神の顔を見る」なので、他の日本語訳、多くの英訳もそのように訳している。

・直き者は、御顔を仰ぎ見る。(口語訳゜新改訳)

upright men will see his face.

 心の直き人は神を仰ぎ見る、そして神もそのような人を見てくださる。その視線の交流によって、悪に打ち勝つことができる。

 神がいるなら、なぜ、このようなことが起こるのかというこの世のただ中で、「わたしは神を信じる」と明言する。それが神を知らされたものの使命である。

〇九月十五日(日)主日礼拝 マタイ二十四・4551

 「備えとその報い」

  44名(内スカイプ9名) 子供4

「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。」

 この忠実とは真実ということである。賢いとは理性的で周囲のことに動かされないことである。真実で理性的である僕は誰か。言われた通りにする僕に対して、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない、と書かれている。神の全財産を管理させるという大きなことである。

 時間通りに食事を与える。それだけで、全財産の管理をゆだねる。ここでは食事を与えるということに関してのみ記されている。これは上に立てられた人に対して言われているが、しかし聖書はつねに、特定の人ではなく信じるもの全てに言われていることである。それは、別の個所では以下のように記されていることからもわかる。

 「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ十三・3437

この同じ内容が凝縮されている。そして弟子たちだけではなく、すべての人に言われていると記されている。

 「食事を与える」とは何を指すのか。イエスが取税人と食事をしていることをパリサイ派の人が批判した。また、復活した後もイエスが姿を現し弟子と共に食事をした。イエスが殺される前に弟子たちと共にも最後の食事をした。霊的な交流を象徴することとして、食事を共にすることが書かれている。

 自分がかかわる人に、自分が神から受けた霊のパンが与えられるようにと祈る。祈り続けるとき時がきたら神がパンを与えてくださるであろう。それは、御国を来たらしてくださいという祈りに通じる。この人にも神の真実なご支配が来て、いのちのパンが与えられるようにしてください、と祈る。たえず一番大事なもの、霊のパンを与えることを願い続ける、拒まれてもあきらめないで祈り続けることが大事である。そのとき神の全財産を管理させると示されているのである。

 「心の貧しい人たちは幸いである。神の国はその人たちのものである」イエスが山上で言われた。神の財産を管理させてくださるという大きなこと、それは、神の国、つまり神のご支配を与えられると言いうことである。それは、心の貧しい者、つまり罪を知り、弱さを知り、自分には何の力もないことを知る心、そこに神の国が与えられる。イエスに忠実に真実に従いたい。しかし、従えない弱さがある。それが罪を知るということであり、心の貧しいものである。そしてその心で主を仰ぐとき、忠実ではないのに、イエスの十字架によって忠実なものとしてくださる。

 その反面、神の正義の力などない、キリストがふたたび来られて悪を滅ぼすことなどはない、という不信の心がある。

 そのような心を持つ人はまた、イエスのたとえにあるように、殴ってまで、相手を従わせ、略奪しようとする心。そこには必ず裁きがある。そのような心は、神の愛や真実から引き離され平安もない状態であり、それがすでに裁きである。真理を踏みつけるときには、厳しい裁きがある。

 常に祈りをもって他者と接し、いのちのパンを提供するものとさせていただきたい。

 〇九月二十二日(日)主日礼拝 マタイ二十五・113

        38名(内スカイプ7名)子供4

「聖霊の火を灯し続ける」

 十人の乙女とは、神(キリスト)を信じている人、あるいは、形だけ信じているように見える人をも含む。そして十人ともキリストが来られるのを待っている。しかし、愚かな五人の乙女たちは灯の油を持たず、花婿なるキリストが来られても、入れてもらえず「開けてください」と言ってもあけてくれなかった。

 この愚かな乙女とは、メシアを待ち望んでいたイスラエルの民が、イエスが来た時に、まったくわからず、死刑にまでしたことをも指す。同じようにメシアを待ち望んでいても、油を持っていなかった人たちは、わからなかったのである。

 これは、「忠実な僕と悪い僕」の例えと同じことが示されている。悪い僕は、主人が帰ってくるのが遅いと思い。食べたり飲んだり、僕を殴ったりして、まったく準備していなかった。表面的に「主よ、主よ」というだけでは神の国に入れてはもらえない。この、乙女たちも、準備していたか、準備していなかったかで、キリストとの婚宴に入れるか、入れないかに分かれたのである。

 イエスは言われた。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ七・2123

 当時、ユダヤ人はメシアも待ち望んでいた。しかし、天の国には、神のご意思を行うものだけが入ることができるとある。これは、律法学者のように、自分の欲望のため、人からあがめられるために、主よ主よ、と言っていたことを指している。神を信じていても、自分中心か、神中心か、神はいつも、見られている。

 しかし、人は、常に正しくできないし、常に神のご意思をおこなうことはできない弱さがある。そのために、イエスが十字架にかかって死んでくださった。信じるだけで、正しくないのに正しいとみなしてくださる。だからたえず、十字架の赦しを思う必要がある。

 いつも、目覚めているとは、常に神をみつめることである。そこに聖霊が与えられる。聖霊は求めたら与えられると主イエスが約束してくださっている。

 目が覚めているということは、自分だけが目が覚めていることだけではない。信じる人同士の中で、祈りあい、愛し合う。そこから他者へも波及していくのである。

 祈りは目を覚まさせる。礼拝、集会も目を覚まさせるためにある。集会のつながりから離れるとき、神などいない、というこの世の力に引き込まれていく。そのために、集まることが必要なのである。

 心の中は汚れであふれ、宗教的な偽善があるとき、神様に「全く知らない」と言われる。

「そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」(マタイ二十四・3942

 神はいつ来られるかわからない。神を畏れることは叡智のはじめである。神への畏れもなくなれば、滅びに向かう。

 神を信じていても間違えることがある。その時には十字架を仰ぎ赦しを受ける。

 神は常に目を覚まさせてくださるために、自然の美しさや力で神を示されている。

「聖霊の火を消してはいけません」とある。聖霊は油でもあり、また、風でもある。だれも、弱さがある。だからこそ、神からの風を受け、内なる火を燃やし続けさせていただきたい。

                                         (要約 K.K

お知らせ

10月の移動夕拝は、熊井宅です。1022日(火)午後7時30分~9時

〇キリスト教霊園(眉山)での県下の教会の合同記念礼拝が例年通り行なわれます。とくに霊園のカロート(納骨堂の区画)を購入している方々は、ご参加ください。

未購入の方も参加は自由です。

・日時… 11月3日(日)午後2時~3時

〇故 垣塚千代子姉の納骨式が、親族の方々を迎えて行なわれます。

なお、親族の方々は、午前の主日礼拝にも参加され、その後、眉山のキリスト教霊園に向いますので、集会の方々で可能の方は、参加してください。

・日時…1117日(日)礼拝終了後。眉山のキリスト教霊園にて。

〇毎年発行している文集「野の花」の原稿をお送りください。

 二千字前後で、それを越える場合には、適宜短縮することがあります。内容は、聖書からの感想、生活からの経験、祈り、聖句、讃美歌、聖歌などの心に残っている歌詞、短歌、俳句、あるいはごく短い文でも可です。

・原稿の締切…1031

 送付先

「いのちの水」誌には、吉村孝雄のみを書いていましたが、

貝出久美子姉宛ても可です。

・貝出久美子 

・吉村孝雄(住所、電話番号、FAX番号 E-mail:は

「いのちの水」誌の奥付にあります)

10月に神戸市、高槻市で吉村孝雄が聖書講話をさせていただく集会

〇阪神エクレシア…

1013日(日)午前10時~12時  兵庫県私学会館

 元町駅から徒歩5分

・問い合わせ(川端)

〇高槻聖書キリスト集会

1013日(日)14時~16時 高槻市塚原585

問い合わせ (那須) 

〇春季四国集会について

 以前から「キリスト教四国集会(無教会)」あるいは、無教会四国集会という名称で最初は四国4県、後に香川以外の3県の持ち回りで集会が続けられてきましたが、去年の高知での44回目の集会が最後になる予定でした。 四国集会という名称でしたが、徳島担当のときは、無教会全国集会を兼ねての開催も三度あり、広く北海道から九州までの参加者も加わる集会となっていました。

  来年から、キリスト教独立伝道会と徳島聖書キリスト集会との共催で、新たな合同集会(「春季四国集会」)としてはじめられることになりました。

 キリスト教独立伝道会は、以前から、1月に伊豆半島や横浜で数日の期間で、冬季聖書集会、夏には、子どもたちのためのバイブルキャンプ、そして大人の夏期聖書集会が開催されてきました。 しかし、それは関東地域でしたので、来年から関西地域(四国・徳島)にも開催場所を新たに設けてはじめることになりました。

 新たな集会の名称は、従来からの独立伝道会の冬季、夏期の集会に続く春季の集会ということと、以前から続けられてきた四国集会の延長上にあるという意味を兼ねてキリスト教独立伝道会によって決定されました。

・日時…2020年5月9日(土)13時~5月10日(日)15

・場所…サンシャインホテル 徳島(2016年5月に無教会全国集会が開催された。)徳島市南出来島町2丁目9

・まだ、プログラムの概要が決まった段階ですが、従来の四国集会との違いの一つは宿泊は、各自が直接に、会場のホテルあるいは、航空機の場合は、ホテルとセットでの予約など、都合のよいホテルなどに予約していただくということになったことです。そのため、参加希望の方で、ホテルでの宿泊を希望される方は、早めに宿舎の予約をしていただいたほうが確実と思われます。

 それから、会場の都合などもあり、ほとんどのプログラムは、全体会場のみで開催する予定です。(今後、若干の変更はあるかもしれません。)

 

「集会だより」 2019年2月号 NO.460

 すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと…を心に留めよ。   (フィリピ4の8)

 ○一月一日(火)元旦礼拝 (午前6時30分~8時30

             二コリント五・17 29名(内スカイプ10名)

「主にあって新しくされる」

 新しい年となった。人が本当に新しくされるためには、神の光を受ける必要がある。この世は人工的な光があふれている。その光があるほどに、本当の光がわからなくなる。そして闇があふれる。清い星の光は見えなくなってくる。

 「キリストに結ばれる」とある。それは、原語の意味からは、「キリストの内にある」という意味である。今も、キリストはこの場でおられる。霊的な存在であり、すべてを包み込む。神の大いなる風、愛の息吹に吹かれている。そのとき人は新しい創造物となる。人が、本当に新しくされるためには、キリストの内にとどまる必要がある。

人は過去を見る。過去に悪いことをした、家柄が悪い、などで人を判断する。しかし、神は、今、あたらしい霊をうけなさい、という。そのとき、新しい創造物となる。過去は関係なくなる。そして新しくされると人を見る目も新しくされる。

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ!』こうして、光があった。」(創世記一・23

 新しくされる道が、聖書の最初から宣言されている。ステファノは、殺されるときに、天が開けて、イエスが見えた。新しくされると、死ぬ前に、天が開かれることもある。

 神が心に宿っていれば、同じものをみても、新しい何かを感じることができる。わたしたちが新しくされると、日々、新しい世界が開かれていくのである。そしてそれは、自分だけにとどまらないで他者にも分とうとする。

 罪を知らない心には光もさしてこない。自分の心の罪を知り、弱さ、間違うことが多いことを知るとき、そこから救いを求める。そして、キリストを求める。求めさえすれば復活のキリストの霊が与えられるのである。

 今も、苦しい状態にある人、家族の病、住むところもない人たち、数々の困難、苦難、すべての闇と困難の中に、神が光をあたえ、新しい力を与えることを神は願っておられる。

 最終的には、神によって新しい天と地にされる。わたしたちも、死んだ後に、キリストの栄光の体を与えられる。この世界も新しい地になる。

 創世記に、闇に光があったと、最初から新しくされたことが書かれている。そして、聖書の最後の黙示録にはまた、世界が新しくされることが記されている。「マラナタ、主よ来てください」と願いつつ、新しい年を迎えたい。

○一月六日(日)主日礼拝 

マタイ二十・1719 37名(内スカイプ11名)子供2名

「十字架と復活」

 イエスがエルサレムに上っていかれた。それは、殺されるためであった。非常な覚悟をしてイエスは上られた。

 イエスの十字架、それは人間の罪からの救いのためである。わたちたちの罪が、キリストを十字架につけた。そしてそのことによって、わたしたちは救われた。

 創世記に記されているように、アダムとエバは、良きもので満たされていた。しかし、食べてはいけないと言われているものを食べてしまった。わたしたちも、いま、日本で、必要なものに満たされて生きている。しかし、感謝することを忘れて、他の人のものまで持ちたいと願う。人は与えられているものに満足しないで、他者のものを奪おうとする。そして、神に問われたとき、それを他の人のせいにすることがある。人の罪はどこまで深い。

 そして、アダムとエバの息子のカインは兄弟殺しをした。これは、今も人間の心に流れている罪である。このすべての罪を解決するために、イエスは生まれた。

 十字架は、すべての人類の課題である。人はどうしても正しい道から、それていく。あらゆる民族において、罪ゆえに、さまざまな苦しみと悩みが世界にはある。人は能力や環境などさまざまな差があるが、罪という観点から見たら、平等である。

 「誰でも、自分の十字架を負って」とある。それは、自分の罪の重さを知りつつ、信じて歩むということである。十字架担うと言うとき、「重荷、苦しみを担う」という意味で使われることもある。それと、自分自身の罪、との意味もある。日々、罪人として罪を認識しながら歩む。そして、赦されたものとして、感謝しながら歩むのである。

 罪の解決がなければ、この世でどのように成功しても、変わらない。学問が発達しても、罪の問題は解決されない。それを解決するために、キリストは来られたのである。

 イエスを信じた時に、古い自分が死んで、新しい自分に変えられる。それは一方的な恵みである。しかしまた「求めよ」と言われている。

 「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」(エフェソ二・1)「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エフェソ二・46

 誰でも、その罪の根を持っている。それが、戦争になればその根が出てくる。また、誰でも、心も体も弱ってしまう。そして、新しい力を求めている。 

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」

欠けることが多くても、罪を赦してくださり、欠けることはないということができる。

  「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。」(詩篇二十三・12

主は緑の草を食べさせ、水を飲ませ、そこで魂を生き返らせてくださる。

 ただ、仰ぐだけで、大きな変化が起こる。そこから、復活が与えられるのである。復活したキリストは聖霊である。聖霊を与えてくださるのである。これがあるから、罪深きものであっても、赦され満たされていくのである。

「わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎわたしの杯を溢れさせてくださる。」(詩篇二十三・5)敵を前にし、苦しめる者を前にしても、聖霊を与えてくださる。同じものを見ても、そこに新しい目を与えられる。

 キリストと結びついているとき、そこから新しいものを受け取ることができる。内なる聖霊が見させてくださる。聖霊がすべてを教えるからである。そして肉体の死を迎えたとき、ありとあらゆる、奥深さを完全に知らされるのである。

 イエスの十字架、そこから新しい風を受ける。それを一年間、忘れないで生きたい。

○一月十三日(日)主日礼拝

  マタイ二十・2028 34名(内スカイプ9名)こども4名

 「一番大きくなりたいものは、仕える者になれ」

 弟子たちの母親は、新しい時代になってイエスが栄光の座に就いたとき、二人の息子、ヤコブとヨハネを一番大事な地位においてくださいと、ひれ伏してまで願って言った。本人たちもそれを求めていた。イエスに三年間従い、イエスが常に最も弱い人のところ、障害を持った人のところ、この世では何の権力もない人のところに行っていたのに、弟子たちは、その心がわからないで、上になりたいと願っていた。人から認められたい、褒められたいというのは、誰の心にもあり、侮辱されたりすると、腹を立ててしまう。

 イエスはそれに対して、「自分が何を願っているのか、わかっていない」と言われた。本人たちは、明確に地位を求めてきたのに、何を願っているのかわかっていないと言われたのである。

そして、イエスは、「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるのか」と聞かれた。それは、イエスの十字架の苦しみである。ゲッセマネでイエスは以下のように祈られた。

「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ二十六・39

 死の苦しみ、途方もない苦しみを超えて行くのである。イエスが、どれほどの苦しみを受けるのか、弟子たちはまったく考えていない。弟子たちは苦しみを受けないで、楽々と支配の座につこうとしていることがわかる。弟子たちは、杯について問うこともなく、簡単に「できます」と言った。

「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(マタイ二十・1819

 この、イエスがこれから受ける苦しみについて語った、その話の直後のことである。これが、三年間もイエスに従ってきた弟子の姿である。どれほど、従ってきても、聖霊を受けなければ、自分中心の心を砕くことはできないことを示している。

 しかし、イエスは責めることもなく、「この苦しい杯を飲むことになる」と告げた。ヤコブは実際に殺され、ヨハネは長く生きたがしかし、そこに大きな苦しみがあった。

 わたしたちも、信じたら救われる。しかし、さまざまな苦しみの杯を飲む必要がある。神の国に入るには苦難が必要なのである。 他の弟子たちは、ヤコブやヨハネの言動を見て、祈るでもなく訂正するでもなく、腹を立てた。彼らも同じ思いだったことがわかる。

 神を知らない者は、この世の力、金や権力の支配にある。しかし、キリストにつくものは、違う価値観で生きるようになる。大きくなりたいものは、僕となるのである。

 キリストは神と同質であったが、仕えるためではなく仕えるため、多くの人の贖いとして命を捧げるために来られた。ここに、「死ぬ」ということ、贖いの血を流されたことが書かれている。捕らわれている者に、代価を支払い買い戻す。それは、人々が、自分中心の霊に支配されているので、その罪の力から買い戻すために、イエスは十字架につけられたのである。そして多くの人の身代わりになって、殺された。

 仕えるということは、命令通りに動くという意味ではない。イエスが仕えられた、というのは、苦しみの中にある人のために、絶えずよきものを与えられたということである。相手に何か、良きことを提供することが、仕えるということである。人生とは何か。なにかよきものを絶えず他者に分とうとする。そして、天の御支配(神の愛や真実)を他者に少しでも分かち与えようとして生きていくことである。

○一月二十日(日)主日礼拝 

 マタイ二十・2934 47名(内スカイプ12名)子供4

 「目を開けてください!」

 ふたりの盲人が道端に座っていた。物乞いをするためであった。この盲人は、イエスこそが、救い主であるということが見えていた。しかし、周りにいる目が見える人たちは、それが、まったくわからなかった。学問があっても、地位が高くても、愛や真理は見えるようにならない。かえって見えなくなることが多い。科学技術も、多くのことを見えるようにしてきたはずである。しかし、愛や真理は見えるようにはならない。神を抜きにして知識だけを知ろうとするとき、それは死に至る。神を知らず目が開かれるということは、悪しきことにつながっていく。しかし、神に関して目が開かれるときには、良きことにつながっていく。イエスの十字架、そして、自分の罪。罪を救う神の力。神に何して目が開かれていくということは、無限に高く深い。

 神に選ばれたモーセは、突然、神に呼ばれて、目が開かれた。そして、そこから、大いなる働きをして、キリストの働きにつながっていった。神の御手が触れたから、モーセの目が開かれたのである。この盲人も、イエスの手が触れられて、目が開かれた。一番大事なことは、イエスに触れられて、目が開かれ、見えるようになることである。

 この盲人は、誇るものを何も持っておらず、地位も学問もなかったが、イエスが神であり、救い主であるということがわかっていた。知識の目が開かれても、霊の目は開かれない。盲人はイエスを深く知っていた。しかし、周りの見える人たちは、霊の盲人であった。

 盲人は、イエスに「憐れんでください」と言った。イエスの愛を求めたのである。心の目を開かれるのは、聖霊による。イエスだけができることなのである。イエスの愛は、求めたら与えられる。求めすぎることはない。求めよ、そうすれば与えられると言われている。

 盲人の周りにいる人は「うるさい、黙れ」と言った。しかし、盲人はあきらめなかった。恐がって、やめることもなかった。願っているならあきらめない。あきらめるのは、本当に願っていないということである。大事なことはあきらめてはいけない。

イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。何を願っているか、イエスは御存じである。しかし、言葉にして祈るべきである。繰り返し、イエスの愛を信じて具体的に祈ることが大事である。

「目を開いてください」と願わなければ、真理は見えない。自分の力に頼ろうとするとき、正しいことは見えなくなってくる。イエスの真理が見えるようになり、愛を受けるとき、イエスに従っていきたいという気持ちが自然に起こってくるのである。

〇一月二二日(火)移動夕拝 奥住宅 ロマ書一二章九~二一

(参加者 I.(N)。O(E)、O.(A)、N.(H)。Y.、S、T、Y(T)、Y(E)、K.I.、K.T 11名) 

主題 「聖霊に導かれた者の歩み」

 キリストを信じた人はどのような歩みができるかが書かれている。究極的な事なので霊的に高いことを言っている。神様に導かれたらどこまでも高く有りうるかが示されている。自分の家族を置いて地球の裏側まで来たザビエルのような人もいた。周りの人だけを見て人間てこんなものかと思ってはいけない。モーツァルト、ベートーベンのような作曲家、科学や技術の方面でも、またスポーツなどにおいても一般の人々にはない能力を与えられている人たちもいる。生まれつきの全盲の人はなぞるようにして見える人には、不可能と思われるほどの速さで点字を読むことができる方がいる。そうしたこともみな神が与えたのである。精神的、霊的方面においても神が力を与えるときには、この個所に示されたような高い境地へと導かれていく。

 日本人は宇宙を支配し、かつ完全な愛の神はいないと思う人が圧倒的である。しかし、世界の状況を見ると、この宇宙を創造したのは唯一の神だと信じる人が圧倒的に多い。日本だけは特殊で、靖国神社のように戦争でたくさんの人を残酷な方法で殺したような人たちも神として祀られ、また豊臣秀吉や、織田信長のような権力的、また自分に従わない者を容赦なく滅ぼしていくような人間をも神として拝む。

 愛と真実の神、全能の神など存在しないと信じるならば、そのような神からよき力をもらうことはできない。神様は全能で愛であるからこそ、求めるならば、最も大切なものが与えられる。本当に必要なのは、人間関係や国同士の関係であっても真実がなければ、壊れていく。相手の国民に対する敬意により関係が築かれる。人間関係で根幹となる愛の問題がまず書いてある。

 愛というとすぐイメージでき、とても大事だが自分を大切にしてもらいたいと思うのは偽りの愛。一般の人たちが思っている愛は、真実の愛の影にすぎない。すぎに変質し、また消えてしまうからである。

 自分が好きな人だけを大切にするのは愛ではない。この世が思っている愛と違う。主イエスが「自分を愛してくれる人を愛したところで何になろうか。自分の同胞からお金をとっている徴税人でもこのような事はする。兄弟だけに挨拶したところで何の足しになるか。異邦人でもしている」と言われた。

 世界で最も絶大な影響を及ぼし歴史を変えたキリスト。マタイ五章四三節と今日の箇所は同じことを言っている。「隣人を愛し敵を憎めと命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し自分を迫害する者を愛せよ」と。自分によくしてくれる人はもちろん、悪をなす人であっても、その人の魂がよきものとなるように祈ること。これは人間関係のあり方のとしての最終目標である。

 本当の愛は兄弟愛をもって互いに愛する。二〇節。あなたの敵が飢えていたら食べるものを与える。渇いていたら飲ませる。悪い人間は滅ぼせ、でなく神様に変えられて良きことを行うような人になるようにと願い祈る。それが悪に対する勝利の道である。

 キリストは人間の究極的な在り方を示した。それは人間関係にとって永遠の真理である。

 憲法9条は武器をとらない。トルストイはキリストが示した精神を根本におき、悪に武力で抵抗せず、非暴力で抵抗した。そのトルストイの思想に深く影響されてインドを武力をとらずに、独立に導いたのが、ガンジーであり、さらにそうした流れを汲んでキリストの示した道を歩んだのがアメリカの牧師、マルチン・ルーサー・キングであった。

 日本の憲法憲法9条はそうした聖書に古くから示された精神から生まれたものである。武力をもって紛争解決の手段としない。歴史的に見ても、軍事力を大きくしていくと人々を守るよりも戦争が生じて民衆に多大の苦しみをもたらすことが多かった。現在の日本の置かれた状況を見ても、他国が攻めてくる可能性より、軍事力増強によって戦争への道につながる可能性がずっと大きいと思われる。

 この個所で使徒パウロが言っていること、自分でやり返すことなく、神の裁きに任せる。

 悪は必ず裁かれる。不正なことをすると、人は一時的にあざむくことはできても、心の中の非難する声を止められない。そこから生じる心の闇や動揺を消すことはできず、魂の平安や清い喜びというものを味わうことができなくなる。それが神の裁きである。

 隠れたことは必ず現れる。悪い事をされてもやり返したら自分も同じ罪を犯したことになり主の平安が失われる。復讐の気持ちがあれば祈れない。

 この世には三種の戦いがある。暑さや寒さ、また災害など自然との戦い、人間同士の戦い、心の中での戦い。その中でもとても難しいのは心の中での戦いである。仕返しの気持ちに勝ち、相手の為に祈る。善をもって悪に勝利する。これは普通の人間には難しく、神からの霊を与えられなければできない。聖霊が働くと悪いものに対しても憎しみが起らなくなる。ステパノは石で打ち殺されようとしたときでも、憎しみに燃えている人への愛と祈りをもって召され、霊的に勝利した。

 こうした人間関係における、愛の問題はだれにとっても最も身近な問題であり、この個所で示されているようなあり方が私たちの目標となる。

○一月二十七日(日)主日礼拝 マタイ二十一・15

 35名(内スカイプ11名)

  主題 「主が御入用なのです」
 イエスがエルサレムに近づいてきたとき、イエスは弟子たちに、道にろばがつないであるので、そのろばを連れてきなさい、と言われた。それも、大人のろばもいるのに、小さなろばを連れてくるようにいわれた。

 人のろばを勝手に連れてくるということは、盗みであり驚かされる。しかし、イエスは、あえて言われた。特別な意味があったからである。そしてイエスは、そのろばの持ち主に「主が必要である」と言いなさいと言われた。

「主の必要」それは、すべてを超えていく。主が必要とされたら、すべての妨げを超えていく。そして、本来は使えないものが、使えるようになってくる。

 真剣に求め続けるとき、不思議な道を主が開いてくださる。この日本において、唯一の神、そしてキリストを知らされているということは、主が選ばれたのである。ほとんどの人が神を信じないというこの日本の中で、主に必要とされて、信じることができるようになったのである。

 さまざまな問題、解決の道ができないような困難な問題が起こるとき、その時にはわからないが、それは、必要として、与えられたことなのである。主の必要にあって、与えられたといえる。人間は、そんな苦しみは欲しくないと願う。しかし、主は必要であれば、苦しみを与えられるのである。

 イエスがエルサレムに入るのに、ろばなどなくても入ることができる。しかし、神の言葉が成就するため、神の大いなる御計画のため、神が必要であったから、備えられたのである。

間社会では別である。主の必要ではなく、自分の必要を求めている。そして人は一番になるために、必死になっている。しかし、神は「神の国の御支配をまず求める」ことを求められている。このことが、一番必要なことであり、そして病気であっても、貧しくても、誰でもできることである。

 人間が必要なのか、神が必要なのか。主のみことばに従っていくとき、主が備えてくださる。予想しないことを備えてくださるのである。それは創世記から記されている。

「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている。」(創世記二十二・14

 アブラハムはひとり息子を、捧げよといわれた。神を信じて息子を捧げようとしたとき、そこに羊が与えられた。神の言葉に従うとは、神が必要とされていることである。そのとき、必要が備えられる。

人間がどんなに備えても、簡単に壊れていく。備えても足りないことである。しかし、神の備えがある。イエスは「明日のことを思い煩うな」と言われた。誰でも先のことが心配である。しかし、神の国を求めていたら、必要が与えられる。

 主の山に備えあり。たえず、主の山に登っていく。そのときには、主の備えがある。これは、死後も続いていく。イエスは、死んだあと「あなたたちのために家を備えている」と言われた。

 今、明けがたの東の空に、二つの星が並んでいる。金星と木星である。ふたつのまなざしが、見つめている。星の光をみていると、そこにこそ、神の備えがあることが伝わってくる。神の光が常にわたしたちに備えられているのである。

130日スカイプ集会(参加者18名)詩篇118

「苦難の中から答えてくださる神」

 迫り来る大きな苦しみや悩みのただ中から主に叫ぶ。そうすれば主が答えてくださった。生きて働いておられる神であるゆえ、当然何らかの答えを与えてくださる。

 時には、どんなに待っても答えてくださらないように思うことがある。答えてくださらないことが答えであることもある。病気が癒されなくても、そこから深い信仰が与えられることもある。

…わたしが苦しみのなかから主を呼ぶと、

主は答えて、わたしを広い所に置かれた。(5節)

 それは言い換えれば自由にしてくださったということである。安らぎを私にもたらしてくださった。私たちはいろいろな意味で狭くされがちである。日本も狭い。他の国との交際も少ない。他国はしばしば国も代わり、国境が代わり、別の民族が入り、そうしたことによってキリスト教が広がっていったが、日本にはそのようなことがなかった。

 日本の伝統的な音楽や文学は、高みから響き来るものを聞き取った音楽というのが見られないし、人々の人間を超えた高く清いものへの憧憬というのがどれだけあるだろうか。究極的な高みや清い存在を知らなければ当然そのような状況になる。民族的な狭さがある。

 他方 どの国にも、人間の精神的狭さと言う問題がある。自分の国を一番とする考えの狭さは、しばしば破局が来なければ分からない。戦前の日本もアジアで天皇を盟主、王として支配する体制を考えて大東亜共栄圏なるものを言い出した。それは日本中心のごく狭い発想だった。

 そうしたさまざまの狭い所から本当の広い所に導き出すのが神である。私たち一人一人も真理のわからない狭い所に生きていたが、神は目を開いていただいた。だからこそ、感謝しようという気持ちが自然に出てくる。

 原文では118篇は「主に感謝せよ」という言葉から始まる。ホードゥ―というヘブライ語は「ほめたたえる、賛美する」という意味のヤーダーの命令形。ユダと言う名前は、ヤハウェの短縮形とほめる、賛美するという言葉からなっていて、主をほめたたえるという意味をもっている。

 なぜほめたたえるべき存在なのか、それは、主は あらゆる良いもの(トーブ)の源泉であるお方であるから。 そして、主の慈しみ(ヘブル語でヘセッド)は永遠だからである。

 トーブは、さいわい、良い、善、健康、健やか、喜ばしい、尊い、繁栄…などあらゆる良いことを含む言葉である。

 「愛には偽りがあってはいけない」と新約聖書に記されているが、この世には愛と見えるものであっても欲望や本能的なも

の、また人間的な感情が混じっている。人間の愛は、好きな人や関わりのよい人にしか及ばないものであり、ふとしたことによって壊れ、心はうつり、無関心や憎しみに変化してしまうゆえに、それは実体のないものであり、真実の神の愛の影のようなものである。

 しかし神様の愛は真実であり永遠である。

人間に頼らず君侯(王・支配者)にも頼らない。10節は国々のような大きな範囲に広がっている。滅ぼすという言葉は馴染めないと思う人も多いかと思う。「必ず」と言う言葉は原文にはなく、本来「断ち切る」という言葉である。国々が幾重にも構えてくるが、主の御名、本質であり力・愛・慈しみによって、私たちは出エジプトの時のように飲み込まれずにそのような力を断ち切っていくのである。

 悪は蜂のように包囲してくる。しかし茨が燃えるようにそれらは燃え尽きる。だから、その主をほめたたえよう。15節そういった救いを喜び歌う声が讃美歌の源流となった。本当に救われたということから讃美が湧き出てきて、その経験を通して神様の力、その右の手と言うものがありありと示される。17節このように大きな真実なものがあるのだから、どうしてもこれを語り続けよう。証しを続けようということになる。18節様々な苦しみも、そこからの救いを体験させるためであった。22節はマタイ2141節でそのまま引用され、これが主イエスのエルサレム入城の時に叫ばれた。主の心の内にはこの詩篇がありありと浮かんでいた。詩篇はしばしば預言の書でもある。25節どうか、私たちに救いを(ホーシューアー・ナー、これがホサナのもとの形)、あるいは、さぁ今、救ってくださいーという意味。これが、喜ばしい歓迎の言葉、間投詞のように用いられるようになった。はるか昔の人の非常な苦難の時、悪の力を退けて、神様に対する愛が生まれてきた。神様によって私たちも悪の力を断ち切り、そこから聖霊を注がれて、神様への賛美を歌っていく者とさせていただきたいものである。         (要約 KK HN  YN

お知らせ

祈りの課題

〇3月23日(土)の森 祐理コンサートが祝福され、御言葉と賛美を通して福音を信じる方々が起こされますように。

 

〇特別な重荷を負っておられる方々ー意識不明で入院中の息子さんの介護に日々尽くされている、M・Kさん、M・Aさん、また何十年もの間、大学病院の個室で人工呼吸器にて生きておられる勝浦良明さんたちが、主の助けと支えをつねに受けますように。

 

〇徳島聖書キリスト集会とその関係の方々、「いのちの水」誌につながる方々、各地での集会、また「祈りの友」の方々が、さまざまの重荷を主によって軽くされ、日々新たな力を与えられますように。そして主に用いられて福音を伝えていくことができますように。

集会だより 2019.1 NO.459


  神は私の魂をあがない、闇の世界に下らせないようにした。

   私の命は光を見る。(ヨブ記3328

○十二月二日(日)主日礼拝 列王記下五・114 

         大人45名(内スカイプ13名)こども4名

 「清めを受けるために必要なこと」

 アラムとはユダヤ人のいるところではない。そのアラムの王の軍司令官ナアマンがらい病(*)になった。らい病は特別な苦しい病気である。

 

 「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人のらい病人を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。」(マタイ八・12

 イエスが山上で教えを話し、そのあとで、一番先にイエスが行ったのは、らい病の人のところであった。それは、らい病が特別に苦しい病であったからである。徐々に体が溶けるように崩れていく、人から忌み嫌われ、家族からも引き離される。そのような特別な苦しい病であった。その、らい病に、ナアマンはかかったのであった。

 そこに捕虜として連れてこられ、ナアマンの妻の召使として来ていた娘がいた。その娘が、ナアマンにサマリアの預言者のところに行くようにと伝えた。娘の言うことを、不思議にナアマンは聞き、その王に伝えるとアラムの王も金6000シェケル、それは66㎏もの金を持たせて、イスラエルの王のもとにいかせたのであった。

 イスラエルの王は、ナアマンがそのようにやってきたのを知って、らい病を癒すなどできるはずのこともないのに、なぜ、連れて来たのかと怒った。しかし、それを聞いた預言者エリシャが、執り成し、わたしのところに連れてきてくださいと言った。ナアマンは、エリシャのもとに来た。そしてエリシャはナアマンに「ヨルダン川で7回体を洗え」と言った。ナアマンは、バカにしていると怒ったが、部下がエリシャのいうことを聞いてみるように助言し、ナアマンは従った。金も権力もない部下のいうことに、ナアマンは従い、エリシャのいう通りにしたのである。そして癒された。

 神は、小さな者を用いて大きな業をなされる。まず、召使いの娘のいうことを、ナアマンもアラムの王も聞いた。聞く耳を神が与えたのである。そして、また、エリシャのことを聞くようにと、いったのも部下であった。ここでも、部下のいうことを聞く耳を神がもたせた。そして、行うことは、川で身を清めることであった。

 人間は心を清める必要がある。しかし、学問によっても、科学でも、経験でも清めることはできない。お金や権力でも清めることはできない。それらは、かえって、しばしば人の心を高慢にしたり、その科学技術などは、世界を破滅に導いていきかねない闇をともなう。

 神は弱いものを用いられる。そして、それに従うことで清められる。

 らい病ーこれは、古代からあって特殊な病だと思われがちであるが、それは霊的な見地からみるとき、人間はだれでも救いがたい汚れにとりつかれているということができる。

それが罪を表している。その罪を清めるために行なうことは、単純である。ただ神とキリストを信じるだけでよい。

 イエスがわたしたちのために、罪をあがない死んでくださった。ただ、素直に信じる。そのことによって清められる。

「川に行き、身を洗うと癒される」このことを信じたところに、癒しがあったのである。信じて救われ清められる。これが、今も流れているメッセージである。 

*)「らい病」の訳語について…新共同訳では、ヘブル語のツァラアトという原語を「重い皮膚病」、改訂版の聖書協会共同訳では、「規定の病」と訳した。他方、新改訳の改訂版では、原語のままのツァラアト とした。 しかし、原語のままにしたり、重い皮膚病とか規定の病などという訳語では、なぜ、聖書において今日の個所や、福音書の個所において特別に重要な意味を持って記されているのか全く理解できなくなる。アメリカの代表的な英訳聖書である、NRSVNew Revised Standard Version)、NIVNew International Version、またカトリックの代表的聖書であるNJBNew Jerusalem Bible)なども、みな らい病(ハンセン病)を意味する leprosy と訳している。日本語訳でも、以前からの口語訳、そして新しい岩波書店から出版された新約聖書においても、らい病と訳されている。

○十二月三日(月)小羊集会 使徒言行録二十二・616

 この箇所はパウロの証である。パウロはキリスト者を迫害するための旅に出ていた。ダマスコに近づいたとき、天から強い光が差した。そのような光は創世記にも記されている。

「地は混沌(空しい、荒涼とした)であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記一・23

そして、このことは、今、私たちにも語られていることなのである。空しく荒涼としていた心。人は何によっても満たされない闇がある。しかし、そこに神によって与えられる光がある。

 「光あれ」これは、今も通じる。神が光あれと言われたとき、そこに光が入ってくる。

 パウロは、何が真理であるかわからず、キリスト者を迫害していた。真理がわからないから、真理を求めることができなかった。そのようなパウロのかたくなな心にも、光は入ってきた。どんな人でも、神の光によって変えられることができる。神は全能だからである。

 イエスと一緒に十字架にかけられた罪びとも、最後に救われ、イエスと共に最初に天国に入る人となった。

 天からの光。それは、日々の生活の中で祈りの時、聖書を読むとき、光となって、差してくることがある。

 パウロは神からの光を受けて、地面に倒れた。そのとき、イエスは、「どうしてわたしを迫害するのか」とパウロに問いかけた。イエスは知っていたが、尋ねた。神はわかっておられるが、人にあえて尋ねることがある。

 パウロは、神の声に対して、「主よ、どうしたらいいのでしょう」と尋ね、従った。パウロは目が見えなくなった。そしてアナニアに出会わせた。アナニアが、見えるようになりなさい、というと、パウロの目が見えるようになった。神がアナニアを用いられたのである。

 パウロは何か善いことをしたのではなかった。キリスト者を殺すことまでしていた。しかし、神に選ばれた。神の選びは、どのような重い罪を犯した者であっても、そうでなくとも、そうした人間の基準によらない。だれが選ばれるのか、まったく予想できない。人間の世界では、能力、容姿、家柄、学歴等々が選ばれるための必須のことになるのと大きな違いがある。

 

 アナニアはパウロに言った。

「神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。」神の選びの目的は、パウロに証をさせるためであった。そして「その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」と言われた。しかし洗礼という儀式によって人は清められるのではない。

「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ三・2224

 「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル九・12

「まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(ヘブル九・1214

 イエス・キリストの贖いを信じただけで、人は救われ清められる。人を救い清める、天からの光、イエス・キリストは今も求めるものの心に来てくださる。

 ○十二月九日(日)主日礼拝  マタイ十九・1626

         大人39名(内スカイプ12名)こども4

   「天の国に入るために」

 永遠の命とは何か。それは、命の時間がいつまでも続くという意味ではない。時間や空間に限定されない、時間をすべて超越している神、その神の命をさす。聖書で意味する「永遠の命」とは、神の命である。神は愛、真実、正義、すべてを持ち、時間に左右されない。完全であり、無限である。その神の命によって美しい自然も造られている。神の御支配の中にある命、それを、永遠の命とあらわしている。

「先生、神の命を受けるために何をしたらいいのか」と青年は尋ねた。彼は、何か、良いことをしたら与えられると考えていた。彼はお金持ちであったために、自分が何でもできるように考えていた。それで、イエスは、神の掟を守れと言われた。青年は「そんなものは守っている。ほかに何をするのか」と言った。ここに、青年の傲慢があった。お金で何でも解決できた。お金があるゆえに、掟は何でも守っていると思っていた。

 殺すこと、それは憎むことだけで罪である、姦淫すること、考えるだけで罪である、盗むこと、ほしいと思うことだけで罪である。隣人を愛するとは、誰に対しても苦しみを自分のことのように感じる。人間にはできないことであるが、彼は、そのような弱さや罪を理解していなかった。それで、イエスはあえて、隣人を愛すること、そのために不特定の貧しい人に、自分のお金をすべて使って施しなさい、と厳しいことを言われたのである。

それは、人間は、正しい道を少ししか歩めないという、自分の限界を知らせるために、そして、律法そのものを深く見つめるために、言われた。とても、施せない、できないということを青年が思い知って、そこから、神を見上げて歩んでいくようにとイエスは語られた。青年はできない自分に悲しみながら立ち去った。そこから、この青年はどうしたであろうか。そこから、罪の赦しを願うべきである。

 悲しむものは幸いである、神によって慰められるとイエスは言われている。悲しみとは自分のさまざまな限界を知らされ、思い知らされた時に出てくる。徹底的に自分の弱さを知らされる時である。「心の貧しいものは幸いである」それは霊的に貧しいということである、自分の弱さ、欠点を知る。そして神に向かう。それが幸いである。

 イエスは言われた。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがたやすい」人間にはできないことを、よりわかるように、表現された。弟子たちは、それほど厳しく言われるのであれば、だれも救われない、と言った。弟子たちは、このような、基準で示されたことがなかったので、万事において、こんな厳しい基準で言われるのであれば、だれも救われないであろうと考えた。確かに、人間はできない。人は金や物に執着する。しかし、人間にできないところに、神が手を伸ばして、救うのだ、とイエスは言われた。

 人間は、律法を守って、神の国に入ろうと思ってもできない。しかし、神は、そのできない人間を神の国に入れることができる。それは、神が全能であり、愛であるからである。パウロも「正しい人はひとりもいない。」と言った。神という無限の真実から見たら、人はすべて、限界があるものにすぎない。人間は、努力しても、修行しても、神の国へはいけない。その限界を、イエスがその罪を担って、死んでくださった。

 万人の罪をあがなうことは人にはできない。神は全能であるから、その道を開いてくださった。人にはできないが、神の力、聖霊の力を受けたらできるのである。わたしたちがすることは、ただ、祈り続けることである。

 世界には悪がはびこり、いつわり、ねたみなどが渦巻いている。その一切の悪にかかわらず、霊的な世界では、神によって転換できるのである。「神は何でもできる。」それを、信じていくべきなのである。

 永遠の命についてはヨハネ福音書に特に記されている。

「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三・1416

「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ三・36

「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ四・14

「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」(ヨハネ四・36

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」(ヨハネ五・2425

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ五・3940

 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」(ヨハネ六・27

「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」(ヨハネ六・47

「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。』」(ヨハネ六・68

「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ十一・2526

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ二十・31

 絶対に消えない、永遠の命はただ、信じたら与えられるのである。


○十二月十四日(金)天宝堂集会 マルコ十三・1~2

  「不滅の親石なるキリスト」

 エルサレムの神殿に使われている大きな石に弟子たちはまず驚いた。しかし、イエスは、それには関心を示さなかった。そして、イエスは、これから終末にかかっては、どんな素晴らしい石も消えるのだと言われた。

 この世の中のどんな、素晴らしいと褒められるものも、地位も栄誉も消えていく。科学的な見地から考えても、最終的には太陽さえも消えていく。しかし、残るものがある。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ十三・31

 神の言葉の真理性は、世の中がどのように変わっても、変わることはない。そして、決して滅びない。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ一・1~3)キリストが神の言葉である。

 讃美すべきものは、建物や石、あるいは、何らかの競技や大会などでの優勝者、文化勲章、金メダリストやノーベル賞などの栄誉…等々の目に見えるものではない。

 神、そして神の本質をそのまま受けておられるキリストだけが、讃美されるお方である。

 それゆえに、旧約聖書の詩編の最後はハレルヤ!神を賛美する、ということが繰り返されている。神に限界があれば、讃美するに価しない。神は全能であり、かつ愛と真実、そして完全の正しさや美に満ちておられるからこそ、讃美されるべき存在である。

イエスがお生まれになった時、天使たちが賛美した。素晴らしいものは神である。神がイエスを遣わされた。だから賛美すべきなのである。

「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し、長らえる限りわたしの神にほめ歌をうたおう。」(詩篇一四六・12

  「主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。」(詩篇一四六・10

「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。」(詩篇一四七・1011

詩篇の最後に、ハレルヤと繰り返されているのは、キリストに向けられているのである。旧約聖書は、キリストを指し示すものだからである。

「聖書(旧約聖書)はわたしについて証しをするものである」(ヨハネ福音書5の39

 人は目に見えるものにとらわれ、そこから、この世で地位や名誉、あるいは規模の大きなイベントーいろいろなスポーツその他の日本や世界の大会、オリンピック.や万博等々のもの)、地位が高いもの、そしてそれらすべての大きなものを手に入れるのに不可欠である多くのお金…等々に引かれる。しかし、キリストは、そのようなものに心を向けることはなさらず、ハンセン病や盲人、ろうあ者、精神の病の人、重度のてんかん…等々の当時最も見捨てられた存在であって、弱く、苦しみや悲しみに満ちた人々のところに行かれた。それは、現代の複雑な状況に生きるわたしたちに対しても同様であって、事故や災害、病気、あるいは老齢となって、どのような状態になろうと、キリストを待ち望むときイエスは共にいてくださる。

「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ十六・18)岩とは、イエスこそ神の子と信じる信仰であり、神の子とは、通常の日本語での意味とちがって、神と同じ本質の御方という意味である。この意味の神の子であるからこそ、万人の罪のあがないも可能であり、死者からの復活もなされたのだった。

  キリスト教信仰が与えられたものは、誰でも、自分の存在の土台石といえるものは、キリストであると実感しているであろう。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」(マタイ二十一・42)と言われているように、この世の支配者、指導的階級の人々が見捨て、殺すことさえしたイエスこそが、復活し、神と同じ存在の聖霊となり、過去二千年にわたって世界の伝えられ、さまざまの新しい道を開いて来られた。

イエスこそが、この世界において、永遠に滅びることのない親石となったのである。

○十二月十六日(日)主日礼拝 マタイ十九・2730

         44名(内スカイプ7名)こども4名

「わたしたちが受け継ぐもの」

 ペテロは漁師であった。イエスに不思議な力を感じ、漁を捨て、家族を捨てて、イエスに従ってきた。それから、今に至るまで、多くの人がそのようにイエスに従ってきた人がいた。

 キリスト教に三つの柱がある。ひとつは、復活である。もうひとつは罪の贖いである。すべての人間の心に自分中心の思いがあり、どのような人も、無償の愛、無差別的な愛はない。どうしても他者を本当には大事にはできない。その心の状態を罪という。その罪の裁きを身代わりに受けて、十字架で死んでくださったことである。そして、もうひとつ、最終的な世界の問題の解決が再臨である。それはすべての闇の解決である。

「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき」というのは、再臨の時を指す。と同時に、キリストを信じた時から、また、誰もが新しい時代となる。そして「キリストの再臨」も信じることができるようになる。

この世界の最後はどうなるのか。人間の最後は死という闇であるように、この世界の最終的な状況は、太陽も地球もなくなるという私たちの通常の判断力では受けいれがたい闇の世界である。しかし、そこに答えを与えるのが「再臨」である。

 「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は」とある。しかし、実際、そのようなことはできる人は少ない。この箇所だけを、読むときには、自分にはできない、関係ないことと思えてくる。だから学ぶ必要がある。

「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェソ一・14

 キリストを信じる者は、神の御支配が与えられる。それは、どのようなことがあっても、壊れない、愛と真実が支配している世界であり、それを受け継ぐことができるのである。

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(一ペテロ三・9

わたしたちが受け継ぐものは祝福である。無差別的な愛、清い心、真実、それは祝福そのものである。敵対する者にも、祈る心が与えられる。それも、祝福である。それが、キリスト者が受け継ぐものである。そして信じるだけで、受け継ぐことができるのである。

 イエスと共に十字架につけられた罪人も、最後にイエスの前に悔い改めた時、祝福を受けついだ。

もっとも、受け継ぐべきものは、神の祝福である。信仰が与えられたということは、誰かの祈りによって、導かれたといえる。多くの人が祈りを合わせたことによって祝福は伝わっていった。

 他者のため、敵対する人、病気の人のために祈る心は、誰でも受け継ぐことができる。

「その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」とある。それは、何かを捨てなければ、与えられないのではない。信じるだけで与えられる。しかし、このように書かれているのは、聖書の指し示す究極の姿を現しているからである。

 実際に、キリストのために、すべてを捨てて従い、そこから大いなる祝福を受けてきた人もいた。神のために、大事なものをおいて従うとき、神は大いなる報いを与えてくださる。そして、その祝福は百倍以上になって広がっていく。神を信じるようになると、神を一番にするようになる。大事な何かをおいて神を一番とするとき、そこに祝福が新たに与えられる。礼拝を守る。それも、神の祝福の基である。その祝福を求める。求めよ、さらば与えられる。それは神の約束である。

○十二月二十三日(日)クリスマス特別集会 

            63名(内スカイプ8名)子供8名

プログラム   ○第1部 子供とともに  ・賛美 「生けるものすべて」新聖歌 73  

・オカリナ演奏 … 75「神の御子は」、 325「歌いつつ歩まん」(いずれも新聖歌)     T.(T)、T.

・「いのちのさと」の賛美…「埴生の宿」、「まきびと羊を」

・絵本を読む…「マローンおばさん」   T(T)、K.(K)

 うた… 「世界ではじめのクリスマス」  (絵は、プロジェクター)

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 ○第2部 み言葉に聞く              司会  F.F.

・ 讃美 「ああベツレヘムよ」新聖歌84

・祈り            (司会者)

・聖書朗読 …マタイ福音書2117節、ルカ2814より
・ メッセージ「イエスの誕生ー闇の力と小さき者」   Y.T

・祈り                  (講話者)

・賛美 「御使いのたたえ歌う」新聖歌86 ・黙祷

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○第3部 讃美のひととき           司会  K.I. K.T.

 ・デュエット…「きよしこのよる」 S.(M)、N. (Y)

・手話讃美…①新聖歌76 諸人こぞりて13  ②リビングプレイス69 鹿のように

・コーラス…    新聖歌96 われらは来たりぬ

              友よ歌おう14 世界ではじめのクリスマス

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○第4部 感話会 (県内1人3分以内)    司会   N(H)

  1I.<.、2O.E. 3T.Y. 4T.K. 5N.Y. 6N.H.  7F.Y.県外 N.YY/K/K.

〇第5部 食事と交流   司会  N(H)

 

聖書メッセージ

「イエスの誕生―闇の力と小さき者」(マタイ二・117)(ルカ二・814

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」(マタイ二・1

 ヘロデは残虐な王であった。ヘロデ王の時代に生まれたということは、全くの闇の中に生まれたことを現している。悪との戦い、これはいつの時代もある。戦争、さまざまな諍い、また自分の心の中の罪。他者の痛みに寄り添えない、自分中心な心、それが罪である。それは、誰の心にもある。

 いつの時代にも、悪がはびこり、悪との戦いがある。そして人は弱く、悪に負ける。イエスが来たのは、そのような悪の力のはびこるただ中である。悪の力に勝利されたイエス。その力は今も信じる者に与えられる。

「ヘロデ王の時代に生まれた」これだけで、悪のただなかに生まれたこと、そしてその勝利を与えるために来られたことを指し示している。

「東方の博士たちが、東の方からエルサレムに来ていった。『ユダヤ人の王としてこられた方はどこにおられますか』」

博士たちは、どこに救い主が生まれるのかわからなかった。しかし、イエスに出会うために行った。

 そして、イエスに出会った。このイエスに出会うということが、最高の賜物である。そこで、イエスに捧げものをしたのである。博士たちと同じように、人それぞれに砂漠のような道を歩んできて、イエスに出会ったといえる。それは、人それぞれ、さまざまな形で与えられる。イエスを信じて祈っても、事態はすぐにはかわらないことがある。しかし、祈ることによって心が変わる。そのとき見える景色が変わる。それが、イエスに出会うということである。

 マタイ福音書ではイエスの誕生についてヘロデ王の時代の闇の力から書きはじめているがルカ福音書では、「羊飼い」に最初に知らされたとある。

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」(ルカ二・8

「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」(ルカ二・16

 羊飼いは、貧しく、また安息日を守れないために、人々に見下されていた。しかし、そのような小さな弱いものに、最初にイエスの誕生は知らされた。そして、イエスは家畜小屋という、特に暗くて汚いところに生まれた。それは、小さい弱いものを見ておられる神の御心を示している。

 いま、イエス様、来てください、と祈る。今、苦しんでいる人のところに来てください、と祈る。クリスマスはそのイエスを記念し、感謝する日なのである。

○十二月三十日(日)主日礼拝 マタイ二十・116

        42名(内スカイプ11名)こども4

「この最後の者にも」

 ここは、ぶどう園での働きについて記されている。これは、神の国のための働きを指す。つまり神から呼び出され、神から働きなさいと言われることである。ほとんどの人が、神がわからないため神の国のための働きがわからず、待っている状態である。

 神の国で働くということは、神に呼び出されなければできない。そして、ここで、遅くに、神の国のために働き始めた人のことが書かれている。たった一時間働く。それでも、朝早く最初から働いた人と同じ報酬が与えられる。普通の考えではありえないことを、神はなさるのである。

 神は愛である。神は無限である。もっとも大事なのは、神の愛である。すべてに打ち勝つのは、神の愛である。そのために、もっとも大事なのは聖霊を受けることである。人間の社会では数えられることを大事にする。どれほど、働いたか。しかし、神は数えられないことを大事にしてくださる。

 ここでは、最後に来て、1時間しか働いていない人も、同じように報いてくださるとある。大事なことは、働いた時間の長さではない。最初から働いた人は、長く働いたが、愛がなかった。だから、少ししか働かなかったものに対して腹を立てた。神への愛と感謝がなければ、時間が長くても祝福はない。神は心を見ておられるのである。

 イエスと共に十字架につけられた悪人のうちのひとりは、最後にキリストを信じた。そして天国に入れられた。最後にキリストに出会い、短時間だけ働いても、そこに神への真実と愛、感謝があれば神は顧みてくださる。祈るということも、大事な神の国の働きである。神は祈られる人も、また、祈る人の心も祝福してくださるからである。