ともしび
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第27号

2003年9月20日発行


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あなたはわたしのともしびをともし
 わが神、主はわたしのやみを照らされます。詩篇 1828

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  みことば

 

信仰とは、望んでいる事柄を稚信し、

見えない事実を確認することです。 へプル書 111

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 まえがき       H.N

 いろいろなことを積み残して日がどんどん過ぎていってしまいます。

新しい就職先に導かれて、慣れない仕事に忙殺されて、もう少し頑張れば光が見えてきそうな感じがして必死で頑張ってきた春からの月日でした。

主のみ心がどこにあるのか、とにかく早くノルマを果たして、時間通りに終われるように、そして後は主のご用をしたり家族と過ごしたりノーマルな生活がしたいと夢見て働きました。自分がどこに導かれるのか、どのような生活が展開されるのか、嵐の大海に浮かぶ木の葉のように、もみくちゃにされながらこの世の大きなエネルギーの中に翻弄されてきました。

でも私には禅様がいます。信仰があります。きっと、色々なことすべてを益にして働かせてくださる神様がいます。導きの主を信じます。

 こんな私が編集した、ともしびをお届けします。

 

 イザヤ書 49章9節~11節まで

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捕らわれ人には、出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる。

彼らは家畜を飼いつつ道を行き、荒れ地はすべて牧草地となる。

彼らは飢えることなく、渇くこともない。

太陽も熱風も彼らを打つことはない

憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

わたしはすべての山に道をひらき、広い道を高く通す。

 

 

 

 

 

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内容・もくじ

まえがき

H.N

カイワレダイコンのエクレシア

Tシャツの讃美

月の光

K.K

本当の信仰

Y.N

祈 り

E.I

創作物藷

天 使

H.N

小羊の声(種まき)

E.T

短 歌

M.I

ミレーの絵画

T,N

神は愛なり

T.H

書 評「アンヌと不忠義なダイアモンド」

T.T

桂坂集会での証し

K.N

近畿地区無教会合同集会の若者の集い

Y.N

詩編84編から

S.M

あとがき

H.N

 

 

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カイワレダイコンのエクレシア  K.K

カイワレダイコンの種を
お皿の上に蒔いてみた。

数日たって芽を出した。
どの芽もみんな
光のほうを向いている。
こんなところにも
小さなエクレシア。
仲間に入って
わたしも一緒に讃美しよう。


  Tシャツの讃美  K.K

ハンガーにかけて干した
洗濯物のTシャツたちが
風を受けて
とても上手に踊っている。
草や庭木も手を振って
スズメがピチピチ歌い出す。
主イエスの風が吹けば
みんな讃美がとまらない。


  月の光  K.K

寝静まった病棟の深夜の巡視
静かな寝息の聞こえる中
ひとりひとりを見まわりながら
でも本当は
どれだけの人が眠れているのだろうかと思う。
懐中電灯を持ってはいった病室に
ブラインドのすき間から
美しい月の光が射し込んでいる。
少しのすき間からでも中に入ろうとして
病室にできた
月の光のひだまり。
主の慈しみが注がれている。
光は人を照らそうとしているのだ。
どんな小さなすき間からでも入ってきて
光は闇を照らそうとしているのだ。
真夜中の病室の窓
ブラインドのすき間からこぼれる光が
主の思いを語り告げる。

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  本当の信仰    Y.N

 内村鑑三 1日1生8月3日より

『悪を避けよ、そうすればあなたは神を信じることができるというのは異端である。真正のキリスト教は言う、神を信じよ、そうすればあなたは善をなすことができると。
 心を潔くせよ、そうすればあなたは神の聖霊の恩賜にあずかることができるだろうというのは異端である。
聖書は明らかに私たちに教えて言う、神の聖霊を受けてあなたの心を潔められよと。

 行いを先にして信を後にするのは異端である。キリスト教は信を先にして行いを後にするものである。

 しかも人がその神の恩恵を信じることの薄いときは、彼らは自らの行為の報賞として天の恩寵にあずかろうと願う。

 天が地よりも高いように神の意(おもい)は人の意よりも高い。神が私たちの不信をお怒りになるのは私たちが私たちの行為をもって神の恩恵を買おうと願うからである。』
 20歳のころ、「賛美の力」という本を読んで、信仰とは律法のことではなく、イエス様の十字架の贖いを信じることであると知りました。それまでは、右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せるような人間になれるまで、クリスチャンにはなれないものだと考えていました。
神様の贖いが無代価の贈り物と知ったから、初めてその贈り物を受け取ることができたのでした。
 けれど最近、私はその贈り物が無代価であったことを、忘れがちになっていたと思います。その大切なことを忘れると、心から喜びや平安が失われ、信仰は苦しいものへ変わってしまいます。

 8月3日の内村鑑三の言葉を読んで、本当の信仰について考えました。聖書によって真正のキリスト教を知り、神様から平安をいただけたらと、強く願います。

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  祈 り    E.I

 母親が入院しているので、殆ど毎日病院へ行きます。四人部屋なので、あと三人のお年寄りと、これもまた毎日のように顔を合わせます。
 ある時、ちょっと前に鼻から流動食を入れていた管がとれたばかりのAさんが、まばたきもせずに天上を見つめていました。
 今日は、いつも付き添っている人がいません。近づいて行って「具合はどうですか」とそっと声をかけました。すると、普段あまり口をきかない人が、その時はどうしたのか「私、さびしいんよ」と、ぽつんと言います。それから色々話していると、どうも目を閉じて眠ろうとすると「恐ろしい夢ばかり見る」らしいのです。
 Aさんがあんなにまばたきもせずに目を見開いて天上を見つめていたのにはこんな理由があったのだ、と思いました。恐ろしい夢を見ることの恐怖は私もよくわかりましたので、思わず「神様にお祈りして、もう悪い夢を見ないようにお願いしましょうか」というと、黙ってうなずくようにします。
 「あ、えらい事を言ってしまったな」と思いましたが、何かに後押しされるようにAさんの手を握って、「神様どうか助けてください、闇から救い出し、Aさんに平安をもたらし悪夢を追い払ってください」との気持ちを込めて、必死の思いで祈りました。祈り終わって目を開けたときAさんが「カーテンをしめてください、眠るから」と言います。それで、しどろもどろの祈りをも、神様は聞いてくださったのだなあと感じました。
 老齢になって、死を間近に控えた状態になったとき、神様を知らないというのは本当に耐えがたいものがあるのではないかと思えます。以前、ホスピスで「死を間近にひかえた人の話を聞く」人のための講座がある、と聞きましたけれど、こういった状態を本当に「救える」のは神様しかない、なんとかして神様に介入して頂けないか、と思っていました。
 そんなこともあってか、最近は、母に「神様が守って下さるように祈ろうね」というとにっこりして「それが一番ええな」と安心したように言います。長い入院生活の中にも母が、比較的平安に過ごせているのは神様が働いて下さっているからに違いありません。
 けれど、なかなか普通の病院では、しかも私のような何の資格も信仰の力もないものが、他の方にもこのような祈りが本当にできるかどうかは問い詰めて行くと、とても難しい。色々なひとが色々なこころで色々な事情を抱えていて、「神様‥」といきなり言っても、かえって反発されることもありそうですが、みこころなら、神様ご自身がその機会をいくらでも作ってくださる、と思っています。


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  創作物藷  香川  H.N


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わしのその巣びなを呼び起こし

その子のうえに舞いかけるごと
主はそのみつばさをさし伸べて
落ちゆくわれをにないたまえり
わしのごとく

わしのごとく

つぱさをひろげてわれはのぼらん

わしのごとく

わしのごとく

せかいのはてへも

われはかけらん

 
聖歌7291


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  天 使  香川  H.N

 借家の前にある入り江に停泊する漁船の風情が美しく、イーゼル(画架)を立て写生をしていた。そこに馴染みのネコがやってきて、あっちに行ったりこっちに来たりウロウロしはじめた。相当出来上がって来ている私の絵には何の感心も示さず、ただまわりに置いてある画材をクンクン嗅ぐばかりで。やがてはまた近くをウロウロしている。別に制作の邪魔になる訳ではないが彼の動きが気になる。

 そのうち彼は私の横の方でコロコロと転がりはじめて腹這いになったり身体を左右に振りながら仰臥したりしている。何やら落ち着き易い定位置を定めているようにみえる。私はネコから目を離して、またキャンバスに向かった。横が静かだ。ふっとまた横を見ると案の定ネコはじっとしている。しかも転がって仰向けになったままほとんどピタッと止まっている。おもしろそうなので、私はパレットを持ったまま彼のそばに近づいていった。このネコは私たち人間のように悩みはないのであろうか?何とも無邪気に転がっている。なんて独り言を言っているとネコが後ろにいた私の方をあごを上げてチラッと見て言った。「少し静かにしてくれないか!僕は今空を眺めて喜んでいるのだから。僕が空を見る時はいつもこんな格好だい。こうやって空を見上げていると、神様がこんなやんちゃな僕のような独りぼっちのネコでも大きな愛で包んでくださっているように感じるんだ。そりや転がり心地はあまりよくないよ。でも神様は僕達にどこにでも転がりやすいように毛皮をくださっているんだ。それに見えるだろ、帽子のような僕の頭の毛の色、半ズボンだってはいているようだろ?えへつ、これは僕の自慢なんだから。それにネ、君は今僕達には悩みはないのだろうか、なんて言ってたけどそうでもないんだ。君とは少し親しくなっているけど、君たちの仲間には、僕たちが小さく、言うこともきかないからといっていろいろなことでいじめるやつもいる。それに‥‥僕もこの間もまた、僕よりもひとまわりも大きいこの辺で威張っている僕たちの仲間と大げんかをしてしまったし、僕より小さいやつのエサを横取りもしたし、ほかにも良くないことをしているんだ。だって僕たち野良猫は住みどころも定まらず、この辺はエサがありそうで実は少なく、いつもお腹がペコペコなんだ。」

 やはり私の絵にはまるで関心がないらしい。衣食住の話だと私は心でそう思っていると更に彼はしゃべり続けた。「小さい子供の頃からの事、ずっと覚えているよ。物心がついた時には一人だった。こうやって一人で空を見上げると、何年も前からの事が空に浮かび上がるんだ。ケンカや盗人のような悪さばかりしてきていつも傷だらけで生きてきた。でもそんなこともみんなみんな悪いことはみんな雲が散るように神様が帳消しにしてくださっているように思うんだ。こうしているとね。それに君も時々いくらかくれるけど何日か前からある漁師さんと仲良くなって毎日魚をくれるので今ちょっと肥えたりして・そんな優しさにも出会うこともあるんだ。そんな時も、こうやって空を見上げている時のように、神様が僕たち何の役にも立っていないように思われる小さな者も愛してくださっているんだなあと感じるよ。「神様、ご免なさい」の方が多いけど、君たちよりずっと身軽で自由であることは、たぶん君が考えているとおりだと思うな。だってほら、僕はごらんのとおり財産という財産もなく、また必要もないし、その日暮らしで心配も少ないからね。さっ大分背中が痛くなってきたし、ソロソロ今日はいっもと違う散歩のコースをまわろうかな。どうだい君も後ろからついてくるかい?」
 「いや、また今度にするわ」と私は答えた。するとネコは転がったままさっきのようにあごを突き出して私を見て言った。
 「それじや、僕たちが出会った記念として君に歌でもプレゼントしよう。プレゼントというより紹介かな。というのもこれは僕が作った歌じゃないから。もっぱら君たち人のために作られている歌だ。それは聖歌の392番で「神は独り子をたまうほどに」というもの。それは君のひっぱりさがしている部屋でほこりをかぶったあの本の中にあるよ。たまには開いて歌ってくれよ。
あの歌集の中には、他にもたくさん僕の大好きな歌があるよ。そして、この歌を歌うとき、たまには僕のことも思い出してくれればいいな。僕も君のことずっと忘れないさ」そう言い終わると、くるっと彼は起き上がって私をしばらく何か悲しげにじっと見つめてから北にある堤防の方に少しづつ歩き、止まってはまた歩いていった。「お-い」、と私は叫んだが一度も彼は振り返ることなく進んでいった。シッポがゆらゆら揺れている。少し気になることを言っていたが思い煩いが少ない彼はきっと幸せなんだろう。それからしばし私は考えた。ネコがあれほどおしゃべりとは思わなかった。それともさっきのことは私の空耳か?あっ、いけない。ネコに気をとられているうちにとうとう日が暮れてきた。絵の仕上げは後日ということか。次の日から、数年開この辺りになついていたあのネコを再び見ることはなかった。もしかしたら、彼がひっくりかえって眺めるのが大好きだった光のふるさと(空)へ羽根でもつけて帰っていったのかもしれないな。もしかすると、天使とはこのようなものかも・・・。

☆ 文中 ひかりのふるさと(空)とは心の目においては天国の意もあり。
これらは私が一枚の図(写真)により感興生じほぼ即興的に作った小話である。一抹の感情移入(かんじょういにゆう)があろうけどたいがいは私がネコを客観的に見ていて事実上感じたことに基づく創作である。


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小羊の声E.T


 種まき


 月に一度私の治療院で聖書を学ぶ家庭集会を開いていますが、治療に来る人の中でこの人はと思う人にだけ呼びかけて、日時を知らせていました。

 先月から「天宝堂集会のお誘い」の案内のチラシを友が作ってくれたので、待合室に置きました。

 それを見っけたM子さんが、いつからしていたの?何をするの?といろいろ尋ねてくれます。初めてからちょうど3年になります。

 たとえ参加できる人が少なくても、小さな集まりのただ中にイエス様が共にいて祝福してくださることを願ってのことでした。

 いろんな悩みをかかえていて、心が重くて疲れている人に、聖書のみ言葉を今生きている私たちに分かりやすくときあかしてくださり、平安の中で休ませてくださる。私も目が見えなくなってとても苦しかったけど、聖書のみ言葉でもっと良いものが与えられて心が軽くされました。

 何が一番大切かが見えなくなっている中で、なくてならぬものは多くはなくて、ただひとつだけ、それが分かるからおいでよと誘ってみました。

 初めは来てお話を聞いてみようかなと言っていたのが、集会の日が近づくにつれ、だんだん気持ちが重くなってきたと言って、結局、集会には参加しないと言われました。残念ね、いいお話なのにと言っても今はやめておくわ、と気持ちは動かないようでした。

 でもそのかわりにM子さんが治療に来たときに、治療しながらその時に語られたみ言葉を伝えてよと言われました。

 次の天童堂集会が過ぎてからM子さんが治療に来て、この前の集会の時のお話を聞かせてと言います。私がもう忘れていたのに、ちゃんと催促したので驚きました。不思議です。小さな集会の案内が霊の羽を広げ、いろんな人の目に心に飛び込んでいって、よきものをあたえようとする神様の御意志を思いました。
 八月の天宝堂集会の聖書の学びで私の心に残ったのは、マタイ福音書13章の種まきのたとえのところでした。

 M子さんは聖書はカタカナが多くて書いてある内容もむつかしそうだし、みんなが集まっている中でついていけないような気がするようです。私も初めのころはそうでした。でもここの箇所は、とても私たちに身近な種まきのことを話してくれています。イエス様は聖書の中で、いろんなたとえを用いていますが、ごく普通の人、弱い人、貧しい人、病気の人に、日々の生活の身近なことを、たとえでわかりやすく話してくれています。

 神様は真理の種をまいてくださるけど芽を出さないように見えます。迫害や弾圧の時代には悪の力に踏みつけられ何故と思うこともあります。でも真理の種はそれを乗り越えて増えていきます。

 私たちは神様が悪い地にまかれたのだ、不公平だなどと間違って読んでしまいます、私も以前はそんなふうに思っていました、でも、今私が信仰を続けていられるのは、よい地にまかれたという神様の選びなんだと実感しました。神様はみんなよい地にまかれているのに、それを拒むのは私たちの側で、そこに自我の罪があると示されました。神様はみんなが救われるため、豊かに実を結び祝福されるようにと願って良い地に真理の種をまいてくださいます。

 私の心が石だらけの地になったり、いばらの中になったりしないで、周りから妨げがおきてもイエス様が良い地にと選んでくださっているから、神様の力を信じていよう。そうすれば必ず豊かな実を結ばせていただける。

どんなことがあっても神様の計画は着々と進んでいるのだから、感謝して神様の御意志を求めていこう。

 こんなふうに私の宿題が終わりました。

 本当は集会の中に清らかな塞が流れているので、そこに共にいてみ言葉を聞くことが一番なのよと言っても、当分この形でお願いしますと言われてしまいました。この方も神様の選びの中に入れられていると信じ、今はこのような形でみ言葉に少しでもふれてもらっていようと思っています。そしてM子さんの中にもイエス様の霊が注がれ、まかれた種がゆたかに成長しますようにと祈ります。今回の集会の案内を掲げることを通して、具体的に自分ができることをしてみること、ことばだけでなく、印刷物もとても大切な旗印だったこと、何事も私の側で選ぶのでなく、神様が選んでくださるのだなと思いました。

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短 歌   M.I

☆また今度 またいつの日かと 思うまま
          与えられしし 時は短く

☆醜さも 弱さも 知りぬ主ゆえに
          申し開きは できぬ毎日
☆永遠の 別れと違う 永遠の
          命授かる 主を信じた日
☆死ぬことの 恐れに勝る 希望あり
          主のみもとへの道 備えられ
☆この傷を みことばという.包帯で
          癒して下さい どんな時にも

☆自ずから トイレへ行ける 身の恵み
          重き病や 老いる人の中

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ミレーの絵画  T,N

 世界的に名画とされている絵画を見ても、その絵が何を訴えているのか私には分からない作品が多いのですが、フランスの画家ミレーが、農民の友としてその生活を措いた作品「晩鐘」は、子供の頃から「落穂拾い」や「鍬を持つ男」と共に知っていたのですが、私が信仰を持ってからは一番気に入りの絵です。

 二人の農夫が畑で暮れの鐘を聞きながら、祈りを捧げている姿は二人の神様への思いが伝わってきます。

 私自身この絵を見ていくつかの御言葉をいつも思わされます。そして、「朝起きて聖書を読み、昼は疲れるまで働き、夜は祈りて眠る」という言葉も思います。キリスト者として、一日を一生のごとく生きる大切さを感じました。


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  神は愛なり  T.H

私と無教会のY先生はじめ集会員さんとのつながりは、7年前召天した義父(義太郎)によるものです。私が悩み、苦しんでいた時、父が聖書に書き添えてくれた言葉は神のほか、頼るべきもの何もなし、神は愛であり、いのちであり、光である。光のなかを歩めよでした。このようにして導かれて、信仰歴11年になります。信仰をもってからも苦難の連続でした。勿論祝福もありました。信仰を持てば、すべては解決し、何事もうまくいくと思っていた私は、信仰がなくても、毎日楽しく過ごしている人を見て、理不尽な思いを持ったものでした。前々から苦難は宝になるとよくきかされていましたが、本当だろうかとなかなか信じられませんでした。なかなか信仰にしっかり立てない私をも、主はお見捨てにならずに、憐れみを以て応えてくださいました。今から2年位前になりますが、み言葉、私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きている体験をしました。

 イエスさまが私とともにいてくださっている!何ともいえない思いで胸が一杯になりました。長い間、神様にすべてをお委ねしますといいながら、何も出来ない私が、神様の前にしゃしゃりでて、気が付いたら自力で、どうにかしょうとしているのです。私は、委ねることの難しさ(本当は一番たやすく、楽なはずなのに…)と大切さをイヤと言う程思わされました。信仰の基本の出来ない者でした。自分の愚かさ、弱さ、無力さを神様の前にさらけだしました。委ねてはじめて神様がご介入くださることを幾度も体験しました。

  今に至って、やっと私は、苦難は神様に愛されているがゆえの訓練と受けとめられるようになりました。神様は、信じるものには無駄一つなさらないお方であるがゆえに、すべてを受け止めて感謝しています。一生分の涙をながしたと思われる娘雅子の童話が2年前、神様の祝福にあづかり、出版されました。神様の思いは私達の思いより高いといわれていますが、今回の出版は思いもよらないことでした。

今はすべてが益となりつつあります。苦難が苦難に終わることなくすべてを益としてくださる主に信頼し、すべてを委ねてこれからもイエス様とともに歩んでいきたいと思っています。


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  書 評  T.T

雅子の童話「アンヌと不恩義なダイアモンド」が嬉しいことにいのちのことば社のこの夏お務めの本キヤンペーン50冊に選ばれています。思いがけない祝福と感謝しています。

 

縞集者:「アンヌと不忠義なダイアモンド」の書評を掲載します。

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<アンヌと不思議なダイヤモンド書評

小さないのちを守る会 代表

原田雅子箸
いのちのことば社 1500円〈税別)


人が人を平然と殺し合うテレビや漫画に毒され、大人も子どもも本を読まなくなりたと言われて久Lい年月が過ぎました。映像の世界に生きる子どもたちは夢もファンタジーもありません。自己中心の世界にしっかりと根を下ろし、心が冷え、荒んできています。
 心ある親や、教会学枚の先生たちが、打開策を模索し出口を見いだそうしている今、彗星のごとく現れ、ダイヤモンドのように〔まだ原石ですが〕、光を放ち始めているのがこの「アンヌと不思議なダイヤモンド」という不思議な童話です。
 テレビを見る時間を節約して、この不思議な本を、ぜひ親子で一緒に読んでください。読後の感想会は親子が同じ話題を共有できる、すばらしいひとときとなるでしょう。

 教会学校の生徒数が減少する傾向にあります。教会学校の先生もどうか、この本をご一読ください。このようなファンタジーは、子どもたちの心をふくらませ、潤し、福音を素直に受け入れる土壌を耕す大切な要素だからです。

 本書は、三つのアンヌの物語からなっていますが、どうしても子ピもたちに、神さまの話をしたい、福音を宣べ伝えたい、という作者の切なる祈りから生まれました。自然なかたちで、物語の中で福音がストレートに語られています。子どもたらもわくわくしながら、神を知り、信仰に生きることができるように物語が展開します。信仰のすばらしさを確信させてくれます。この事実を親子で、教会学校の先生と生徒で共有してください。

 子どもの心はそのままでは原石です。あなたの家庭、教会学校に、『アンヌと不思議なダイヤモンド』を。そしてその原石を輝くデイヤモンドに育ててください。

 日頃「小さないのちを守る会」の働きの修羅場の中で、子どもの心が豊かにされなければと、痛感している妻が、子どもや孫たちのために早速十冊購入しました。まず一冊を購入して、この新進福音童話作家を皆さんの手で励まし、温かく育てていきましょう。

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 桂坂集会での証し 大阪   K.N

エレミヤ書17章5節 「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとしその心が主を離れ去っている人は.・・・・・・・・祝福されよ、主に信頼する人は.主がその人のよりどころとなられる.」

今日、この証をするにいたって何をまとめて話していいか昨日までいろいろと考えていました.そのような時私の家の二階の窓に面した勉強机から隣の竹やぶを眺めていると、青々とした竹の枝が折れて、その先は見事に枯れて茶色くなっていました.竹の根から注がれている水を受けない枝はこのように朽ちていく.私達もイエス様という幹につながっていなければかくも無残に霊魂が鈍り、生命を絶たれていくのだと、しみじみと思ったものです.

私は自分の信仰を振り返ってみて様々な曲折や信仰の学びから離れている時期がありましたが、神様からの不思議な導きがあって今このように弱く何の力も持たない人間だけれど、細々と信仰生活を歩み続けていられることの恵みと感謝を思っています.人間的な事やこの世の事の様々な煩いの中で揺れる日々ですが、祈りイエス様の事を思えば煩いから離れ、新たな力が与えられることを思います.イエス様に従っていこうと又、思いを新たにできます.さて、私は今、高槻で小学校の教員をしています.私にとっての信仰はもっぱら教育という営みの中で示されてきました.学校という仕事が生活の大半を占める中で教育ということがどうしても大きな意味を持っている.毎年、毎日、たくさんの子どもたちの前に立たされる.教師である前に一人の人間として立たされる.このような時いろいろな場面で、いろいろな形で自分の中にある“罪”を示されることが多くあります.自分がいかに力のない者で虚栄に満ちた人間であるかを思い知らされます.そして否応なく苦しみの中に突き落とされやめたくなることもありますが、そうした時にイエス様がいつも共にいてくれることを感じています.また幾度か重要な判断や決意を迫られるとき、私は最後は祈りの中で聖書のみことばから神様の声を聞いてきたような気がします.子どもは純粋でいつも大人を見ている.少しでもいい加減な対応、ありきたりの授業をするととたんに反応します.1時間1時間の授業は真剣勝負です.1時間の授業をするのに、2時間3時間教材研究をしなければいけないときもあります.また、1つの行事や取り組みをするために連日遅くまで準備をすることもしばしばです.帰ってからも家事を終え寝床につくまでの時間、子どもたちの顔を思い浮かべながら明日の授業の用意もします.一日の中で子ども達と共にいると思いもかけないことが起きて悲しみに暮れることもあります.思うように事が運ばなかったり授業がうまくいかなかったりした時教室の中で瞬時に<イエス様>と祈ることもあります.心が騒がしくなったとき黒板を向いてチョークで書いている間ほんの短い間でも<イエス様>と祈り、振り向いたときは心静かに子供たちに向かうことができるように祈っていることもあります.又、朝から重苦しい気持ちで教室に向かうとき一歩一歩階段を上りながら「イエス様、私の力ではどうすることもできません.精一杯がんばりますからあなたがよいようにしてください」とすべてを委ね祈っていることもあります.
 聖書を学ぶ中でイエス様がいつもこの世的には最も底辺に置かれている人たち、様々な差別や迫害、偏見をもたれている弱き人々をもっとも大切にされてきたことを学び感じてきました.学校の子供たちの中にも、あらゆる障害を持つ子、社会に被差別に置かれている子、又、問題行動を抱えている子、家庭的に困難な状況の中にいる子などたくさんいます.同様に他の子ども達も一人一人多かれ少なかれ何らかの悩みや課題を持っています.そうした中でどうしても、そのような弱さを抱えた子どもほどいとおしく感じてきました.そして障害を持つ子や問題だと思われている子ども達と付き合えば付き合うほど神様の深い意志の中にこうした子ども達がいるのだということを実感してきました.それはこうした子供たちを通して私も周りの子どもも自分のいたらなさや弱さ、罪を示されるからです。このような子ども達が本当に大切にされるクラスは、同時に他の子も大切にされるクラスだということを信念としてこれまでやってきました。これはイエス様が聖書の中でずっと語り続けてこられたことでした。マタイ伝12章に「・・・正義を勝利に導くまで彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」とあります。これは私の好きなみことばです.弱い者へ目立たぬようにイエス様は手を差し伸べられる.弱き人々といつも共にあった.そこまではできないけれど祈りつつ教育という仕事の中心にしていきたいと思っています.
 又、ルカ伝948節「わたしの名のためにこの子どもを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである.あなた方の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である.」というみことばがあります.

 私は今年6年生を担任していますが、いろいろと課題が多く5年のとき、3人担任が交代した学年でした.が、この学年を受け持とうと決意させてくれたのが先のルカ伝のみことばでした.イエス様の名のために受け入れる・・・ということ.この子ども達を受け入れることはイエス様を受け入れるということなのだ、そして、最も小さき者・・・自分は何もいいものは持っていないと本当に自覚できた者、罪を深く知っている者・・・そういう者たちがイエス様を持つことができる.このみことばが私の中に働いてくださって今年はこの6年生の子ども達と日々を過ごしています.4月以降寝ていても覚めていてもこの6年生の事が頭にあるという目まぐるしく忙しい日々ですが、うまくいかなくても気持ちが落ち込む時でもやはりイエス様は「思い煩うな.私を見なさい」と声をかけてくださり、又、次の日に向かう力とエネルギーを与えてくれていることを思い感謝です.

 今、学校現場はたくさんの課題を抱えている.多くの少年事件に見られるように多くの心の闇を子ども達や少年は持っている.そうした社会背景の中で、子どもたちの心とどう向き合うかが問われています.又、現場で大切にしていることとして、自尊感情の持てる子、自己表現ができる子、コミュニケーション能力を持ち人と繋がれる子どもにしよう.自分に自信を持つ、自分を大切に思える子どもにしようという事があります.

 しかしこれらの事を思うとき、パウロが、コリント書で、

 「思い上がることのないように一つのとげが与えられた.

  力は弱さの中でこそ十分に発揮される.

  キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いによろこんで

 自分の弱さを誇りましょう・・・行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足している.

 なぜなら、私は弱いときこそ、強いからです」にあるように苦しみの中からしか本当の自分を見つけることはできない.心の弱いとき(謙虚な時、弱さを知っている時)こそ神様が入ってこられることを思います.子ども達に本当の自尊感情:自分を大切に思う心を持たすためには少しでもその子がその子なりに心の弱さとか自分の課題とかをみつめていけること.そうして気持ちがとことんへりくだった時に本当の意味で自分や友だち、他者をいたわる心、大切に思う心が芽生えてくるのだと信じています.聖書の価値観がいつも私自身の中にあって一つの揺るがない信念を持たせてくれ子ども達に語りかけることができるのだと思います.一人ひとりの子に直接神様を語ることはできなくても、子ども達と共に自分の罪を見つめることができるような取り組みをしたいと思います.

 最後に私はあえて次の事を証して終わろうと思います.冒頭に読んだエレミヤ書に「呪われよ.人間に信頼し、肉なるものを頼みとし、その心が主を離れ去っている人は.・・・」とありますが、教育という仕事は確かにやりがいのある仕事であり、自分の罪を示される具体的実践の場であるけれど、そこには深いヒューマニズムの思想がある.人間中心の世界、人間を大切にする場所です.人間に依り頼み人間を良くしようとする.うまくいくと、すぐにそこに傲慢、名誉心、虚栄心が生まれる.物事がうまくいっている時私達はつい神様から心を離してしまう.自分の力を過信し神様に頼まず自分や人間に頼ってしまいます.自分が何か為したかのようにうぬぼれます.

 私の田舎にクリスチャンで教師をしておられ白血病で40代にして天に召された姉妹がいました.皆に慕われている教師でした.ガンの末期で苦しむその方を見舞ったとき、彼女はこういいました.

「私はこれで良かったんよ。あのまま健康でいたら私はイエス様のところにいけなかったかもしれない.」人として慕われていることで潔められなかったかも知れないと・・・.私の方が慰められました.又、徳島のKさんが四国集会の証でこういわれました。

 「最後の日までイエス様につながっていけたら私の人生はそれだけで成功です.」又、Tさんは「私の目を見えるようにしてくださいという祈りは聞かれなかったが神様は霊の眼を開いてくださいました.」と.これらの方々の証が私の心に残っています.

 ここに私達が求めるものは地のことより天のこと、イエス様の十字架の信仰があると思います.体が元気であることも素直に感謝すべきことだけれど一番の事は霊魂の救済.なかなか確かな信仰を持てない、すぐにこのことで一喜一憂してしまう.仕事や人の事で思い悩んでしまう.神様を忘れて自分の力に頼ってしまう.このどしようもない深い罪のためにイエス様は最も低いところにまで落ち、私の代わりに死んで下さった.ゆるすからきよと、私が代わりに罰を受けるから新しいいのちを生きよと言って下さった.そういうイエス様を日々時々刻と実感して生活ができるようにイエス様の声を聞き、イエスさまに促されて与えられた仕事が果たしていけるように、これからも祈っていきたいと思います.


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 近畿地区無教会合同集会の若者の集い  Y.N


 第3回近畿地区無教会合同集会は、台風で各地の交通機関が麻痺するという状況の中、一人の欠席者もなく開催することが出来、神様の恵みを感じました。

 そのプログラムの中に、初めての試みでしたが「若者の集い」を用意して下さり、私が司会をさせて頂くことになりました。宮田さんの、「若い人も、一員として参加して、発言する場を与えられ、みんなが恵まれて帰って欲しい」というご配慮で企画されたものでした。

 私はつい最近まで、交わりというものをあまり求めてこなかったので、以前から知っていた同世代の集会の人の近況さえ、ほとんど知らない状態でした。そんな私が、宮田さんの導きで今年の1月から「大倉山集会」という家庭集会をすることとなり、川上るつこさんという若い信仰の友が与えられました。また松山の四国集会に参加すると、同い年の桧垣みよさんと知り合うことができ、お手紙をいただきました。今までになかった交わりの機会が増やされている所で、そんな中での「若者の集い」は、まさに神様の導きだったと思います。
無教会は、矍鑠とした年配の方や、信仰に燃えている中年期の方々が多く、若者パワーはあまり見かけませんでしたが、内村鑑三の「聖書のみ、キリストのみ」という思想は、若くても充分理解できる信仰の「核」のようなものだと思います。
「若者の集い」は、若いからと言って世の中に迎合した話をするのでなく、若さ故の信仰の悩みや、経験がないから分からないこと、そして信仰の恵みなど、今、自分が置かれた状況、信仰の状態を、ありのまま話せるような集いにしたいと思いました。集いの前に聖書を読んでいると、「あなた方はキリストの体である」というみ言葉が与えられたので、そのみ言葉どおり、一つの体のように思い合えるとよいと思いました。そして、そういうお祈りから始めました。

テーマは、合同集会に合わせて「信仰」にさせてもらいました。

まず、自分がどのように信仰を持ったか、いま、どのような信仰を持っているか順番に話しました。不思議なことに、信仰を持っている人たちの経験は、よく似ているという印象でした。ある人は「神様は知っていても、信じることがまだよく分からなかったとき、まず信じてみるといいよ、という助言をもらって、まず信じる訓練をしていった」と教えてくれました。それは、信じている人たちから同じように出た言葉でした。信じないと、分からない。信じないと経験できない、と確認しあえました。そして、信じるとは、まず神様に話しかけること、なんでも神様に言ってみることから始まるのではないかと話し合いました。ある人からは、「信じたら、もう、信者として良く生きていかなければいけないのか、どっちか選ばないといけないのか」というような疑問も出ました。私も、信仰は道徳ではないと知っていても、悪口を人と言ったりしたとき、これでいいのかと悩むことがあるので、それは是非、話し合いたい内容でした。それも、同じように感じている人がいて、「私もそんな経験をする。でも悪口を言ってしまっても、後味が悪くて、それが悪いと知ることが出来る。言いっぱなしでなく、信仰によって変わろうと出来ることに意味があるのでは。」と教えてくれました。私はとても感動しました。こうして、生活に沿って感じたことを忌憚なく話せる集まりって嬉しいなぁと思いました。

そして、まだ信仰が分からないという人のために、ある人が力をこめて言いました。「現状に満たされていると、信仰が分からない。一つ一つ、大切な物を失って、苦しい思いをして、求めていく内に、ひとつひとつ扉が開かれていって、信仰を与えられていくのではないか。」「信仰は、まず自分の罪を知ることから始まる。罪が分からなければ、十字架も分からない。」

 私は賛美にもあるように、「もしも苦しまなかったら」という苦しみの大切さを、自分も心から信じていたけど、楽しそうに生活をしている人には、罪や苦しいことについて考えずに済んだらそのままにしてあげたいという、甘さがありました。けれど、私が言えなかった大切なことを言ってくれる人がいて、本当に良かったなぁと、神様に感謝しました。そして、人間的な思いではなく、本質というものは、どんなときにもないがしろにしてはいけないと反省しました。また別の人は、「でも、はじめから罪が分かる人ばかりではない。罪は知らなければいけないが、まず、神様を信じて、求めていくこと。それも大切だ。そうしていくうちに、罪も知らされていくのでは。」と言ってくれました。それにも、本当にその通りだ、という思いです。

はじめから終わりまで、神様が共にいてくださって、私たちの話を聞いて下さっているのを感じました。そして誰もが、必要なときに必要なことを語らせてもらっていることも感じました。9人で1時間という時間でしたが、とても内容の濃い話し合いが出来たと思います。そして、最後もお祈りで終えることが出来ました。後で、「もう少し話せたらよかったのに」「いい会だった」「罪や、自分の恵みについて考えさせられた」という声を聞き、無事に司会が務められたことも神様に感謝でした。

 そして、「若者の集い」に呼ばれなかった方々からも、多大な関心をいただきました。

「なぜ私は若者ではないのか」や、「若者とはいくつからいくつなのか」と言ったご意見から、「何を話したか是非聞きたい」というご意見まで、「若者の集い」に対して皆さん興味津々という感じで、それは少し驚くほどでした。それで、「ともしび」に報告を書こうと思いました。ある姉妹が夕拝で、「若者の集い」というのが開かれたのは、本当に感謝なことだ、若者のためにこれからも祈っていかなければいけない。と心を込めて言って下さり、自分のことのように会の開催を喜んで下さいました。わたしはそこに、先輩方の強い愛情と、無教会精神の継承という願いを感じました。


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詩編84編から   大阪 S.M

    万軍の主よ、あなたのいますところは
   どれほど愛されていることでしょう。
   主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです

   命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。
                        (詩編84編2~3節)
 愛することは、心ある人間の欲求だ。小さな子供が泣いているのを見れば、駆け寄って抱き上げ、「どうしたの」って聞いてあげたい。痛み苦しんでいる人に出会えば、その人のために、どんな小さなことでも、何か役に立ちたいと思う。「一日一善」、「小さな親切」、などという言葉があるけれど、それは決して人のためではなく、自分の内にある「愛したい」という欲求が満たされ、満足するためなのだ。「人には愛がある」、「人は愛することができる」と言っているのではない。そうではなくて、「人は誰かを、何かを愛したいと願っている存在だ」と言っているのだ。神の似姿に造られた人間は、愛すること無しに生きる喜びを知ることはできない。どんなに愛され、回りの人から大切にされても、もしその人が愛することを知らなければ、その人の人生はまったく空しいものに違いない。
 そして私は、私の愛したいという欲求を満たしてくださるお方として神様に出会った。神様を少し愛すると、もっと愛したいと思う。もう少し愛すると、もっともっと愛したいと思う。こんなに愛していると感じるときには、その百倍も千倍も愛したいと思う。どんなに愛しても愛し足りないお方、愛すれば愛するほど、もっと愛したいと願わずにはおられないお方。
  主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。
  命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。
 この詩人の叫びは、神様を知った私たちの叫びである。神様に、愛によって造られた私たちは、その愛に応えたいという願いを、どんなにか深く内に秘めていることだろう。神様を知らなければ、私たちは一番深い心の願いに気づかず、満たされることもない。

 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」
 「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ福音書12:29~31)
と主イエス様は教えてくださった。この御言葉は、戒めと言うより、私たちが喜びに満ちて生きるための知恵であり、私たちを正しく導く灯火なのだ。

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  たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。


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  あとがき  H.N
 ともしびのスタイルが変わりました。
ささやかな歩みでも主に用いていただければと願っています。

 8月の9日から10日にかけて、京都の桂坂で、S.Mさんたち狭山集会の方が準備してくださり、近畿地区無教会キリスト集会が行われました。台風の余波が残る朝大変な思いをして、京都に到着しました。妨げがある時、その向こうには祝福が用意されている事を体験しました。今回はその時の恵みを娘の陽子が投稿してくれました。
 また、主にある兄弟、柿妹が原稿を寄せてくださり、こうして発行する事ができました。
 自分の力は小さく乏しく何もありませんが、こうして主が備えてくださる事を感謝です。
 そして、職業の事で私も忙しいと言いながらも、大きな集会や、主日の礼拝に、また夕拝にと以前より回数的には多く参加できていることが不思議です。祈って進んだら、それなりに道が備えられるということを感じます。

 今年の夏ももう終わろうとしていますが、どうか今試練に遭っている方や体調が良くない方に特に主のお守りと癒しがありますように。また、信仰によってすべての兄弟柿妹が益々主に燃やされますように。

第27号  2003年9月20日 発行  終わり。

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