2006年10月

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本文

祈り―その中心は「主の祈り」である―は、隣人との交わりのなかで、その衝動を覚えるのである。祈りにおいて、いかに卑しいものであっても、そこでキリストの働きにあずかるこの上なき特権を得る。(「主はわが光」19頁 好本 督著 日本キリスト教団出版局 一九八一年)

・祈りとは他者への祈りがここではとくに重視されている。私たちは自分自身の苦しみや痛みのなかから、その痛みや苦しみをいやして下さいと祈らずにいられない。しかし、それはキリストの愛がその人に注がれていなくてもできることである。神を信じていない人すら、困ったときの神頼みと言われるように、自分のことならどんな人でも祈る。
しかし、他者への祈り、ことに自分に対して害悪をなした人がよくなるようにとの祈りは、キリストの愛が私たちに注がれていなかったらできない。
隣人との交わりの中で私たちは自分が罪を犯し、また他者が私たちに罪を犯す。そうしたとき、自分自身の弱さ―罪―そのものについて神に祈り、力を与えて下さいと祈らずにいられない。
神を愛し、隣人を愛することが最も重要なこと、と主は言われた。それはそのまま祈りについていうことができる。神を愛するとは、神に心を注ぎだすことであり、それはそのまま神への祈りとなる。そして隣人を愛するとは、感情的に好きになることでなく、その人の前途が最善になるようにと祈ることであるからだ。