2006年11月

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本文

246)いまだ道を知らざれば、夢見て覚めざるがごとし。
心を正しくする道は、まづ善を好み、悪を嫌ふこと、真実なるを本(もと)とすべし。(貝原益軒著「大和俗訓(やまとぞっくん)」岩波文庫 81P 86P

・これは、儒学者の言葉であるが、キリスト者にとっては、道とはキリストである。何が正しい考え方なのか、何が価値あるものなのか、その道の行き着く先は何であるのか、その道を歩むときに何が与えられるのか等々、すべてキリストが示し、与えて下さる。それを知らなかったときには、私自身、どんなに高校や大学で学んでも、魂に力を与えてくれないものであった。その時の状態はまさに夢の世界に生きているような空しさがあった。
心を正しくする道とは、まず善を好み...とある。 まず何かをする、ということでなく、まず善を好む、すなわち、善を愛するということ、それによっておのずから悪を(悪人でなく)憎むことになり、真実をもとにすることになる。主イエスが、まず神を愛せよ、と言われたことに通じるものがある。
ここに引用した大和俗訓は、「誰にでも分かるようにやさしく説いた教え」、という意味で「俗訓」という題名となっている。一七〇八年刊行。貝原は、江戸前期の学者。(16301714) 彼は、ここにあるような人間のあり方に関する著書だけでなく、植物、薬草などに関する学者でもあって、「大和本草(ほんぞう)」という著書では、一三六二種の植物を主とする薬物を記載した。


247)聖句を暗唱することは、力を得ることである。詩編七三編の聖句を暗唱していると、急に力が心からわき上がって、私は力強く空を見上げた。...
...
私はもうすっかり疲れ切り、空気のもれた風船玉のようになった。それで、心に力をつけようと思い、聖句を暗唱した。聖句はいつでもすばらしい霊の食物であった。
(「たとえそうでなくとも」安利淑著 102475頁)

安利淑という女性は、韓国生れ。日本の統治中の韓国では、神社参拝が学校でも強制的に行なわれた。キリスト者であった安女史は学校の教師であったが、生徒や教職員全体の学校行事としての神社参拝のときに、天皇や天照大神に向かっての最敬礼をしなかったがゆえに、教師を続けることもできなくなり、いろいろな迫害を受けた。その時の詳しい記録が、「たとえそうでなくても」である。
その書物には困難な生活の中で、聖句や讃美の歌詞が力づけてくれたことを随所に記している。聖書の言葉はとくに主のために困難な歩みを始めた者にとって一層の力を与えてくれるのがよくわかる。