2007年5月

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(二六四)神は人間にそれだけの力ができてくると、神以外の支えを残らず次々に取り去られる。これは、よいしるしであって、決して不幸ではない。...
最高の段階は、自分の運命をただ不平をいうのでなく、あるいは受動的な忍耐をもって受け取る、というだけではなく、それが正しい運命だという喜ばしい確信をもって迎えうる境地である。これができるようになった人は、キリストとともに言うことができる。
「この世では苦しみがある。しかし、私はすでに世に勝利している」と。(ヒルティ著「幸福論」第三部一一八〜一一九頁)
・神以外の支え、それは自分の意志や力、能力あるいは健康などに置いている人は多いだろうし、自分以外の人間とくに家族であったり敬愛する先生や友人であったりすることもあるだろう。さらに、金をたくさんもっているのが支えとかいう人もいる。人が神のみに支えられている状況になってくるにつれ、このような支えが除かれるというのであるが、そのようなことは誰も喜んで受け入れたりはできない。
しかし、そのような不幸とか災いとしか考えられないようなことが、実は神の大きな御手の内にある出来事であって、私たちをただ神だけに頼るようにしようという神の愛のご意志だというのである。 だからそうした出来事であっても、神は最善をなさっているのだ、という喜ばしい思いをもって受け入れる、このような受け止め方こそ、私たちの目標となる。
これこそ、新約聖書に、「いつも喜べ、いつも感謝せよ」と言われていることである。


(二六五)ソクラテスは、「どこの国の人か」と尋ねられて、「アテネの人だ」と答えずに、「世界の人だ」と答えた。
彼はすぐれて広く豊かな思想を持っていたので、世界を自分の町と考え、その友人や交際や愛を、全人類に向かって広げていたのである。
「エセー」(随想録)第一巻二六章 モンテーニュ著 世界文学体系 筑摩書房版 一一五頁 )

・ソクラテスは今から二四〇〇年余りも昔の人である。そのような古い時代であっても、すでに自分が世界市民であること、すなわち真理、英知といった世界に共通のものと交わり、自分の国だけに関心を持つのでなく、世界の人々を愛し、人間全体にかかわる真理の探求に生きたゆえにこのような言葉が自然に出てきたのである。
現在の日本では愛国心を強制的に教えようとしているが、そのような狭い愛国心など養成すればかえって害があるだけである。
キリスト者は本来は、ソクラテスが言った世界市民よりはるかにスケールの大きい永遠の国の市民、神の国の市民なのである。

...
イエスは答えられた、
「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。
しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。(ヨハネによる福音書十八・36
私たちは、この世の国に固執して争いあうのでなく、神の国を愛する愛国心を持つべきなのである。