2007年6月

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本文

266)「私は捕らわれの身になった時からはじめて、聖書のみ言葉の深い意味、そしてそのみ言葉が人に与える精神的な力が大きいのを悟ることができました。
世界を支配するあらゆる権力も、小さな虫にも及ばないと思われてきました。私は四〇年前から激しい病苦に悩んでいますが、多少の苦しみを忍ぶのは当然のこと、今こそよきわざをなすべき時であり、その場所にいるのです...
御主は私に勇気を与え、世界のあらゆる試練、あらゆる責め苦も何とも思わないほどにして下さいました。この勇気が御主のものでないなら、私はとてもこんなことを申し上げられないでしょう。
自分の弱さも、御主が私を助けて下さることも、きょうこのごろほど明らかに悟ったことはありません。」

(「長崎の殉教者」一五五〜一五六頁 片岡弥吉著 角川選書 一九七〇年)

・これは、一六一七年五月にイエズス会の神父が牢内で書いた手紙の一部。この人はこれを書いて二十日ほどの後に殉教した。聖書に記されている最初の殉教者、ステファノが周りの人たちに石で打たれて殺されようとするときに、初めてイエスが、神の右に立っておられるのをありありと見ることができた。そして周囲の荒れ狂った人たちのために祈りつつ息絶えたと記されている。普通では考えられないような恐ろしい状況にあって、神は驚くべき力と平安を、そして啓示を与えられるのだと分かる。
267)私たちが何を言うかは問題ではないのです。大切なのは、神が私たちを通して(他の)魂たちに何を語りかけるかということだけなのです。
What we say does not matter, only what God says to souls through us.
(「MOTHER TERESA IN MY OWN WORDSGRAMERCY BOOKS 三七頁 )

・これは、使徒パウロが、「たとえ天使の舌で語っても、愛なければうるさいシンバルのようなものだ」と言ったのと通じるものがある。神の愛を受けて語るとき、最も神が私たちを通して他者に語るかけるだろう。私たちはただ器であり、管のようなものにすぎない。
私たちがいかに多くを語っても、主が働いて下さらなければ何もできない。この「いのちの水」誌のような印刷物も同様で、この小さなものを通して神がそれぞれの読者に語って下さることを願うのみである。


268)伝道とは、神様が私たちを通して働かれることです。(「SOWERーソア 種まく人」日本聖書協会発行 二〇〇三年一月号11頁)

・ここにあげた言葉は、日本から中国に訪れた牧師たち数人が、苦難の中を歩んできた「家の教会」の指導者に会ったとき、なぜ中国ではそのように多くのキリスト者がいるようになったのかと尋ねた。そのときその老伝道者が逆に「伝道とは、何だと思われますか。」と意表をつく問いかけをした。驚いてしばらく答えられなかった日本の牧師たちに語ったのがここにあげた言葉である。
中国では、第二次世界大戦後、共産主義政権が成立したときには、七〇万人ほどのプロテスタントキリスト者がいたと推定されている。それが五〇年後の現在、およそ一〇〇倍にもなって、七千万人ものキリスト者がいるとの報告がなされるほどになった。最近の報道では、大体五%のキリスト者がいると言われる。中国の現在の人口は十三億人余りであるから、六五〇〇万人もに達する。
日本では、一%にも満たないし、毎年五〇〇〇人の受洗者があっても、その数以上に教会を離れる人がいるから、実質は、二五万人ほどだという。 いかに、中国と大きな差があるかを知らされる。
伝道に限らず、私たち一人一人の清めや、愛が生れること、平和、重要なことはすべて私たちが人間的な判断や意図ですることでなく、究極的には神が働かれることによってなされる。私たちはただそのための小さな器となるだけである。