2008年 著者:大阪狭山聖書集会代表者(月刊誌) 年度版への戻ろ、及び進むボタン |
福音 bQ47 2008年12月
「隠された宝・クリスマスの喜び」
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」
マタイによる福音書13章44節
クリスマスが近づくと、天使の告げた「すべての民に与えられる大きな喜び」で、心をいっぱいにしたくなる。「神に栄光、地に平和」と歌う天使たちの歌声を聞き逃すまいと、夜空を見上げていたくなる。
主イエス様が来てくださった。この地上に、私たちの日々の生活のただ中に。平凡な日にも困難の日にも、みんなと一緒でうれしい時も、一人ぼっちで泣く時も、私たち一人一人と共にいるために。一人一人の救い主となって私たちすべてのものを天の御国に導くために。
そんなクリスマスの喜びを思っていると、イエス様が話された「隠された宝」の話を思い出した。そうだ、このクリスマスの喜びは、すべての人に与えられているのに、隠されているから多くの人が気づかない。だから、「クリスマス、クリスマス」と言いながら、その喜びはやっぱり美味しいケーキやお酒であったり、恋人と過ごす一時であったり、家族でゲームを楽しんで終わったりする。ああ、それではあまりにももったいない!この隠された宝、クリスマスの喜びを、どうしたら伝えることができるだろう。
宝は隠されていた。神様が意地悪だからではない。宝は自分で見つけないといけない。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。」とイエス様は言われた。求めもしないで、探しもしないで宝が与えられたのでは、その宝の価値が分からないのだ、きっと。だから、神様はわざと隠しておいて、一人一人が自分なりに精いっぱい探すのを待っておられるのだ。
そう考えながら、畑に隠された宝の続きを読むと、次は高価な真珠の話。
「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
なるほど、ここでは良い真珠を探し求めていて見つけたことになっている。畑の宝は、たまたま見つけてびっくり仰天という感じだが、ここではやっと見つけて「ヤッタアー」と、喜ぶ声が聞こえてきそうだ。ところが、たまたま見つけても、探し求めて見つけても、「持ち物をすっかり売り払い」それを買うというところは同じである。そうか、天の国、すなわち神の愛と平和に満ちた世界、それがクリスマスの喜びでもあるのだが、それは自分の財産はしっかり確保しておいて、プラスその宝もいただこう、と言うわけにはいかないらしい。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねた青年に、「完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われたイエス様のお言葉を思い出すが、でもどこか違う。宝を、真珠を見つけた人は、誰からも何も言われないのに、それを手に入れるために喜んで自分の持ち物をすっかり売り払うのである。「これが欲しければ全財産と引き換えだ」と言われて、しかたなく持ち物を売り払うのではなく、もう自分の持ち物などどうでも良くなるのである。宝を見つけるとスッカラカンになることさえうれしいのである。天の国、 神の愛、 クリスマスの喜び、 十字架の贖い、 永遠の命、 復活の朝、 再臨の主、 ・・・こう書きながら、この一つ一つが私にとっても隠された宝、最高の真珠だと心の底から思う。それらを手に入れるために自分の持ち物を売り払った覚えはないが、その宝のあまりのすばらしさのゆえに、自分の時間も、体も心も、持ち物もすべてを捧げたいという心持になることは確かである。
ああ、しかしと思う。宝はやっぱり隠されているのである。一度宝を見つけても、いつもいつも永遠の命の喜びに感極まっているわけではなく、「イエス様こそ私のすべて」と口では言いながら、いつしか心はぼんやりとうつろになり、時には怒りっぽく、時には投げやりに、生きる力も喜びも失せてしまう。まさに宝が隠されてしまって、しかたなく畑の周りをぶらぶら歩いているような気分である。宝は隠されている、一度神様を信じても、宝は日々発見しなければならない。神様を信じない人も、今日宝を見つけるかも知れない。チャンスは同じである。
今年のクリスマス講演会で「相対的限定的神」「絶対的包括的神」という言葉を聞いた。「相対的限定的神」とは「一部の人だけを正しいと認め、それ以外の人を疎外する神」、それは人間がつくり上げた神(たとえば戦時中の天皇のような)であり、そのような神への信仰は限りなく危険である。それに比べて「絶対的包括的神」とは「全人類を肯定し、また全人類を否定する神」「一部の人だけを正しいとして、他の人を排斥したりしない、誰をもえこひいきしない神」これこそイエス・キリストの示された真の神であると学んだ。
「宝はすべての人に隠されている」と気づいた時、神様はクリスチャンと呼ばれる人たちだけをえこひいきはなさらない、すべての人に今日という日を与えて、宝を見つけるチャンスを与えておられるのだと思った。たとえイエス様という宝を見つけて喜んでも、その喜びは日々新たにされねばならない。「私は信じているから大丈夫」などと誰が言えるだろう。宝は今日も、一人一人が見いだすために、隠されているのである。
しかし、宝はある。イエス・キリストは生きておられる。ふっと見つかる時もあれば、真珠商人のように真剣に祈り求めて発見する時もある。
夜空に星が光り、天使たちの歌うクリスマス。にぎやかな人との語らいを少しおいて、マフラーを巻き、一人外に出てみよう。その暗さ、冷たさ、静けさの中で天を仰げば、きっとまことの光があなたの心にも届くはず。
クリスチャンも、そうでない人も、全人類の神という宝を、その神が与えてくださった救い主・イエス様という宝を見つけ、その宝のために残された人生のすべてを喜んで捧げるようになるなら、それこそ最高のクリスマス。
福音 bQ46 2008年11月
復活の朝、マリアの愛
☆週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。
ヨハネ福音書20:1
十字架の上で息絶えたイエスを納めた墓に、朝早く、まだ暗いうちに行ったマリア。墓の入り口の大きな石が転がされているのを見て、「主が取り去られた」と伝えるために、弟子たちの所へ走ったマリア。空になった墓を見て、弟子たちは家に帰って行ったのに、墓の外に立って一人泣いていたマリア。イエスは復活して、まずこのマリアにご自身を現された。
マグダラのマリアについて、聖書に詳しい記述は無い。ただ「このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。」とだけ、マルコとルカ福音書に記されているが、この短い記述でマリアの心を思い量るには十分である。七つの悪霊に付かれた心の苦しみ、それは「墓場に住み着き、誰も寄りつけないほど凶暴に荒れ狂う」ガダラ人(マタイ8:28〜34)のようであっただろう。死ぬに死なれずのた打つマリアに、主イエスは近づき「マリア」と、その名を呼ばれた。マリアは振り返り、自分の名を呼んでくださる主イエスを見た。この時七つの悪霊は去り、マリアの心に注ぎ込まれた主イエスの愛は、マリアの中で泉となり、主イエスを、隣人を愛してやまぬ人と変えられたにに違いない。
墓の前で泣きつづけるマリアにイエスは声をかけられた。「なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」それでも、それがイエスだと気づかないほど悲しみに打ちひしがれているマリアに、イエスは「マリア」と名を呼ばれた。あのなつかしい御声で。
☆イエスが「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
復活の主イエスを見上げるマリア、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と優しく諭されるイエス。マリアの愛は自分だけがイエスのもとに留まることを善しとはしない。
☆「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」
というイエスの伝言をもって、弟子たちのところに出かけていった。
弟子たちの前に立ち「わたしは主を見ました」と告げるマリア。そのマリアが伝えた主イエスのお言葉は、弟子たちにとって何と大きな喜びであっただろう。イエスの父は私たちの父、イエスの神は私たちの神、イエスが帰っていくところに私たちもいずれ迎え入れられるのだという確かなる希望を伝える言葉だった。
昨日の日曜礼拝で学んだヨハネ福音書20章1〜18節はあまりにも印象的だった。これから「聖書で特に好きな箇所は?」と問われたら、迷うことなく「ヨハネ福音書20章1節から18節です」と答えようと思った。何よりも、素読するだけでその場面を見ているようだった。くり返し読みながら、「ああ、聖書は特別な人のために書かれたものではなく、ごく普通の人に分かるように書かれているんだ」と胸が熱くなった。
私たちの礼拝では、その日の聖書箇所を輪読した後、その場にいてくださる主に解き明かしていただくために、まず15分間各自黙読する。ただ「御言葉に聴く」静かな時間がこんなにも祝福されるとは思っても見なかった。
「朝早く、まだ暗いうちに」、このマリアの心を思って、今朝3時半ごろベランダに出てみた。雨模様の日が続いているのに、なんと美しい星空。この大阪でこんなにも星が見える不思議を思いながら、オリオンの三ツ星を、冬のダイヤモンドといわれる6つの星をたどっていると、ひときわ輝くシリウスの青い光。その強い光は、まだ暗いうちに墓に行ったマリアの心を放っているようだった。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と主イエスは言われた。かつて「私たちはこんなにも主を愛したことがあるでしょうか」いう問いかけを聞いたことがある。なぜか心に残る言葉であったが、空になった墓を離れることのできないマリアの心に、この主の求められる愛を思う。マグダラのマリアがこんなにも深くイエスを愛したのは、苦しみのどん底でイエスに救っていただいたから。私たちも自分ではどうすることもできない罪の力から主イエスによって救われた時にだけ、このマリアのように、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛するようになるだろう。
☆主イエスは言われた。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」ルカ7:47
マリアの愛を思っていると、雅歌の詩が思われた。
愛は死のように強く
熱情は陰府のように酷い。
火花を散らして燃える炎。
大水も愛を消すことはできない
洪水もそれを押し流すことはできない。
愛を支配しようと
財宝などを差し出す人があれば
その人は必ずさげすまれる。(雅歌8:6〜7)
大水も消すことができず、洪水も押し流すことのできないキリストの十字架の愛、その愛に愛をもって応えるマグダラのマリアの心は、今もシリウスの光となって、世界中の人にキリストの愛を告げている。
わたしを刻みつけてください
あなたの心に、印章として
あなたの腕に、印章として。
☆ 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。(詩篇91:14〜15)
福音 bQ45 2008年10月
小題:祝福を祈り合う
祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。(1ヘ°テロ3:9)
「あの人が変りますように、この人も変わりますように、と祈っていたら、変らなければならないのは、私自身だと気づきました。10・3」と手帳の隅に書いてあります。これはよくある話です。しかし、秋風が吹き始め、小さな庭に彼岸花が咲き、金木犀の香りに包まれるまで、十数日の間に起こった一連の出来事は、確かにイエス様のみ声でした。
それは里子たちが「パコと魔法の絵本」の映画を見たいと言ったことから始まりました。そんな映画に付き合うのはしんどいなあ、と思いながら、「小さい時から我家は、遊びに行くのも親の好みで決めていた」と恨めしげに言った末っ子の言葉を思い出して、せめてこの子たちにはそんな思いをさせたくないと、結局夫も折れて、4人で「パコと魔法の絵本」を見ました。前半は「ああ、やっぱりこんな映画、この子たちに見せるべきじゃなかった」と反省することしきり、ところが、「パコ」という小さな女の子が登場して(その子は事故に遭って一日しか記憶が持たないのですが)、そのパコの純真な汚れなき心が周りの人を次々と変えていく、そして、それまではどうしようもなかった人たちが、ついにパコのために心を合わせてお芝居をするのです。こんな映画を見て、「これだ!」と感動する自分の単純さにもあきれますが、「これだ!あの人を変えよう、この人を変えようとしなくても、私がパコになればいい!だいたい、クリスチャンとは、世の罪、悩み苦しみが渦巻く中で、一人一人がパコになるために召されたに違いない。イエス様も言われたではないか、『あなたがたは世の光である』」と、一大決心。
ところが頭の中では分かっても、それから数日後、「パコ」どころか、パコを殴った「くそじじい」よりひどい愛のない言葉と行為によって、病苦ゆえに様々な悩みを抱えた友をさらに苦しめてしまった私。この人のために「できる限りのことを」と願いながら、現実には愛も真実も、決して尽くすことなどできない自分を知り、「そうだ、それぞれ人には与えられたタラントと言うものがあるんだ、パコのようになりたいなどと高望みをしてはいけない、歪んだ私は私のままで、ともかくイエス様に最後までついていこう。」と半分納得、半分あきらめの気分でした。
そんな思いをかかえて10月8日、京都・大山崎での祈祷会に出席。午前はいつものように御言葉に聴き入り祈りを合わせ、午後はロサンゼルスから来られた牧師のメッセージを聞く特別集会。そこで語られた一言が、上からの光のように、パコになる秘訣を教えてくれたのです。それは「祝福を祈りなさい」ということでした。
「呪いというと何か空恐ろしいことのように感じますが、呪うとは悪口を言うことです。」と言われ、「ええっ、そうかなあ」と家に帰って調べてみると、なるほど口語訳で「のろう者を祝福し」というルカ6章28節の御言葉は、新共同訳では「悪口を言う者に祝福を祈り」となっています。人の過ちや欠点を見つけて話すことが呪うことだとしたら、いや、口に出して言わなくても、誰かの悪い面をくり返し思うことがその人を呪っているのだとしたら大変です。
反対に「祝福するとはほめることです。」と言われ、それも帰って調べてみると、「祝福する」と「ほめる、よく言う」の原語は同じだと分かりました。人を激しく批判するより、その人の良きことを(たとえ可能性であっても)いつも思い、何よりもその人の存在を喜ぶことができるなら。でも、パコのように昨日の記憶がなく、今日という日が日々新しいのなら良いけれど、現実の私たちは何らかの形で過去を引きずって生きています。偽善的にではなく自然な気持ちで、誰のことも良きことだけを見てほめたり、祝福を祈ったりすることはとてもできないと、本気でやってみてすぐに分かりました。
「私たちが呪いの言葉を発しそうになったとき、人に向けて発してはいけない。そのためにこそキリストの十字架はあるのです。」キリストの十字架だけが、日々私たちの内からわいてくる呪いを引き受け、それを祝福に変えてくださるのだ。確かに、主イエスが私たちの所へ来てくださったのは、十字架によって呪いの連鎖を断ち切り、復活の命によって私たちを祝福で満たすため。私たちが自分の決意や熱心だけで真に善良な人になれるならイエス・キリストはいりません。でも、誰だって本気でやってみれば分かるはずです。自分の力で呪いの世界から祝福の世界へと移るなど、決してできないってこと。自分自身が豊かに祝福されることなしに、人を心から祝福するなんて、決してできないんだってこと。
私たちが「呪いではなく祝福を」周りの人に届けるための秘訣、それはまず、自分自身が主イエスにある祝福をシャワーのように浴びること。十字架のキリストを一心に見上げて、こんな呪いの言葉しか発することのできない私を赦し、神の子としてくださった恵みを、心の底から喜ぶこと。そして、その祝福を伝えるために、祝福の連鎖を起こすために、出会う一人一人のために、何よりも「祝福を祈る」こと。
それともう一つ。主イエス様の祝福を届ける人となるために、パコのように周りの人の善良な心を引き出す人となるために、何が必要なのか、庭の配水管工事がきっかけで、抜くことになった一本の柿の木が教えてくれました。
数年前、庭に柿の種が落ちたらしく、だんだん大きくなって、でもこの小さな庭に柿の木は無理だからこの機会に抜こうと、掘り起こしてみて、その根の深さ強さにびっくりしました。未だに根は抜けていません。そうか、この木が実を結ぶまでには幹や葉だけでなく、見えない根っこがどんなにか深く強くされねばならないことか。私たちは、心に神の種が落ち、イエス・キリストを信じた時に救われる。信じるだけで罪赦され、神の子とされることは確かなこと。ハレルヤ!でも、その種が成長し祝福の実を結ぶためには、見えないところでこんなにも深く根を張らねばならないってこと、そのためにこそ、苦労の多いこの人生が与えられているのだと、掘り起こしても、引っ張っても抜けない柿の根が教えてくれました。
主よ、日々の過ちや失敗、自分の無力さゆえに、ますますあなたを求め、、十字架の上から今も溢れる祝福をシャワーのように浴びて、人々のために祝福を祈る者としてください。祝福を祈りあうことによって、この世を覆う呪いの連鎖を絶ち、祝福の連鎖に喜びに声をあげさせてください。ただ、あなたの御名のため、あなたの栄光のために。
福音 bQ44 2008年9月
小題:確かな希望・笑顔を守って
☆ 確かな希望
涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。(詩編42:2)
詩篇を読むと、どんなに多くの人が、どんなに昔から、神様を慕い求め、神様に叫び、神様に希望をおいて生きてきたかが分かる。その人たちは、人となって私たちの所に来てくださったイエス・キリストを、まだ見てはいなかったのに、ひたすら信じ、ひたすら求め、ひたすら待ち望んだ。「神よ、わたしの叫びを聞き、わたしの祈りに耳を傾けてください。」「神よ、わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」「貧しい人、乏しい人が、御名を讃美することができますように。」これらの叫び、訴え、望はみな、私たちの主、イエス・キリストによって成就した。今、私たちは、キリストの生涯に、この詩人たちの叫びへの確かな答えを見ることができる。福音書の中に「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」「あなたの罪は赦される」「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。」と、キリストの御声を聞くことができる。日々の生活で、どんなに罪の力に打ちひしがれても、十字架と復活の主を仰ぎ見て、こんなままで救われているんだと喜びがあふれてくる。だから私たちは、確かな希望をもって、「しかり、わたしはすぐに来る」と言われる再臨のキリストを、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と約束された新しい天と新しい地を、待ち望むのである。
☆ 「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろ うか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あ なたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。 まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福音書11:11〜13)
もしあなたが、神様に祈ることを知っていれば、
もしあなたが、神様に委ねることを知っていれば、
あなたの悔しさも、やり場のない怒りも、きっと和らぐだろうに。
もしあなたが、命をかけて愛してくださるイエス様を信じるなら、
一人っきりの寂しさや辛さも、きっと温かく包まれるだろうに。
もしあなたが、助け主なる聖霊を求めるなら、
「希望がほしい」と嘆くあなたに、真の希望とは何かを教えてくださるだろうに。
もう3年半もあなたを見舞いながら、キリストの愛も真実も伝えることのできない自分の未熟さと罪深さに涙するより他ないのだけれど、それでもどうか、あなたが意思表示できる内に、共に祈ることができますように、共に神様を讃美できますようにと、今朝も小さな祈りを捧げました。
☆イエスは言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マルコ福音書2:17
車椅子での生活。部屋の入り口に段差があるから、食事で1階に降ろしてもらう時以外は一人っきり。ベランダのスズメが友達というIさんから、月に2回届く葉書。「ベランダの花、美しいです。♪この花のように 美しい心を 神様ください 小さなわたしにも♪神様にお祈りしています。」と、いつもいつも書かれている。70才近くになって祈ることを覚えたIさん。自分から手を取って祈ってくれるIさん。いつの間にか人を悪く言わなくなって、イエス様の力ってすごい!
☆「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。」(ヨハネ福音書14:1〜2)
「ここに来ようと駐車場まで歩いていくとき、ふと見上げると白く薄い雲が広がっていて、雲の切れ間に青い空が見えて。その輝く青さに天の御国が思われて、『私には帰るところがある』とたまらなく嬉しくなってね。」 そう話すと、kさんは「いいな、いいな、帰るところがあるってほんとうにいいね。」と幼子のように一緒に喜んでくれた。 与えられた今日という日を、一日一日精いっぱい生きて、『さあ、そこまで』と言われたら、喜んで神様のもとに帰っていく。イエス様が『わたしの父の家には住むところがたくさんある。』と言ってくださるから、安心して帰っていく。
「それがいい、それがいい」と声を合わせて喜んだ。
さて、天に召されるまでに聖書を全部読みきることができるかどうか、それがkさんの唯一の心配ごとである。
☆隣に住んでいた母が米寿を迎えて、一人暮らしが難しくなり、ロングステイをしながらデイサービスのお世話になっている。隔週の日曜日には礼拝もあるキリスト教の「シャローム」という施設だが、いつ行っても母は笑顔満面、「みんなが親切だから」とうれしそうに言う。今日も訪ねると、母の部屋にデイサービスからの感謝状があった。
あなたが笑うとシャロームの空気がとても優しくなります。
あなたの笑顔が、いつも私たちに元気を与えてくれます。
あなたの笑顔は、私たちの大切な宝物です。
声をあげて読んでいて「あなたの笑顔は、私たちの大切な宝物です。」と言うところで、思わず涙がでて、声がつまってしまった。これが言葉だけでないことは、スタッフのみなさんの優しさから、常々感じている。年老いて、歩くのも、何をするのも難しく、面倒をかけるばかりと思っているのに、この母に「あなたの笑顔は、私たちの宝物です。」といってくださる方々がいる。ああ、これこそ礼拝だと思った。年老いて家庭で暮らすことも難しくなった人の笑顔を、「私たちの宝物です」と言い、その宝物を守り抜こうとしていてくださる。
「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
礼拝とは、自分自身を献げること。こんな礼拝の仕方もあるのだと、これを忘れてはならないと、必死で胸に刻みつけている。
福音 bQ34 2008年8月
永遠の命 この日は主のもの
「永遠の命とはイエス・キリストだ」と聞いて、ではそのイエス・キリストとはどのようなお方か、新たに出会ってみようと、マルコによる福音書を通して読んでみた。(30歳の頃)洗礼者ヨハネから洗礼を受け、「時は満ち、神の国は近づいた。」と伝道を開始されてからの3年間。イエス様は御言葉を語り、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、多くの悪霊を追い出し、朝早くまだ暗いうちから祈り、罪人の友となり、あの村、この町と回られた。悪霊につかれて墓場に住み、誰も寄り付くことさえできない凶暴な人を見い出すために異邦の地にも行かれた。ご自身は食事をする暇もないほど働かれ、疲れながら、それでも押し寄せてくる群衆を憐れみ、満腹するまでパンを与えられた。いつまでたっても「偉くなりたい」と願う弟子たちを忍耐強く教え諭し、最後にはその弟子たちさえ逃げてしまって、群衆からは「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ばれて、ゴルゴダの丘で十字架につかれたイエス・キリスト。このお方が永遠の命なら、このお方に従うことこそ、私たちもまた永遠の命に生きること。しかし、これは何と狭い門だろう、何と細い道だろう。誰が自分から選び取ってこんな門をくぐり、こんな道を歩めるだろう。「この道を一緒に行きませんか」などと、誰を誘えるだろう。
こう書きながら、いくら自分にそう言い聞かせてみても、それでも私はこの道を歩みたいと思う。このイエス・キリストに従いたいと思う。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われるイエス様に、どうにかしてついていきたいと思う。誰かに強制されたのではない。従わないと滅びるからでもない。空虚さを抱えて飢え渇いていた私に、このイエス様が生きる力を与えてくださったから。神様を知らず、何の喜びも希望もなかった私の目を開き、耳を開き、神様がおられる!と、喜びの声をあげさせてくださったから。清い心でいようといくら決心しても、気がつくと人の悪しきを思い、傲慢にも人を裁いている私を、決して見捨てないで、今日まで導き続けてくださったから。思いがけないことが起こり、たとえ一人っきりになっても、このイエス様だけは私と共にいてくださると信じることができるから。人の目には狭い門、細い道も、このイエス様が共にいてくださる限り、溢れる喜びの道である。
近畿集会で同室になった人から「この日は主イエスが造られた」という手話讃美を教えてもらった。何度も何度も教えてもらって、家に帰ってからも忘れないように、一人「この日は 主イエスが造られた 造られた」とくり返し手話で歌っていると、そうか、この日は主イエスが造られたのだと、不思議な喜びが込み上げてきた。「この日を喜ぼう!主と共に 主と共に」と続く。そうか、主イエスが造られた日なら喜べないはずはない。自分にとってどんな日であれ、主イエスが無くてならない日として今日を造られたのなら、今日の日を手放しで喜んでいいのだとうれしくなる。「この日は主のものだから 共にこの日を喜ぼう この日は 主イエスが造られた」で、一番の歌詞は終わるが、「この日は主のものだから」と歌う度に、私の思いはひっくり返る。そうか、この日は私のものだと勘違いしていたけれど、この日は主のものなんだ。主の日の中に、この私も、世界中の数限りない人たちも、動物も植物も青い空も夜空の星もみんなみんな生かされている。主の深い深い御心によって生かされている。
キリスト信仰に生きるとは、このひっくり返った世界に生きることだと分かるようになった。かつては自分が中心で、自分の思い通りになることが幸せだと思っていたけれど、それでは結局自分の浅はかな考えに振り回されるに過ぎず、自分であれ、他の人であれ、移ろいやすい人間を中心にした人生に平安などありはしないと分かってきた。本当の喜びとは、何かを手に入れることではなく、どんなに間違っても決して見捨てないで、いつだって「帰っておいで」と待っていてくださる主イエスがおられること。自分の悪い思いに「ごめんなさい」と心痛む時、「それでもあなたはわたしのものだ」と引き寄せてくださる主イエスのもとに帰ること。そして、この主イエスを信じ、この主イエスと共に生きることこそ、永遠の命に生きることなのだと分かってきた。
今年の近畿集会のテーマは「永遠の命」だった。昨年、イザヤ書53章を中心に、キリストの十字架による罪の赦しについて学んだ私たちは、そこから流れでる「永遠の命」に今年は思いを集中したい、と願ってのことだった。
集会を終えて一週間が過ぎ、そこで語られた聖書講話や証、歌われた讃美歌、夕拝での話し合いや自己紹介での話など一つ一つ思い起こし、今「永遠の命」とは、キリスト信仰そのものだと思っている。永遠の命とは、神を、キリストを信じることであり、信じて罪赦されることであり、赦された喜びをもってキリストの愛の戒めを、日々生きるようになることである。
「主よ憐れんでください」と、誰もがすがれるイエス・キリストこそ私たちにとって、まことの福音(良き知らせ)であるように、その福音の中心である永遠の命もまた、誰にでも豊かに与えられるものなのだ。
人が信じようと信じまいとイエス・キリストはおられる。ところが、信じる者だけがイエスは今も生きておられと分かるように、信じる者だけがその永遠の命を生きることができるようになる。信じるとは何と深遠な、何と尊いことか。これが人の業であろうはずがない。ならば、イエス・キリストも、永遠の命も、そして、それを信じる信仰も、すべてすべて、神様がお与えくださるものなのだ。
神の愛とは計り知ることのできないものだと、改めて思う。
わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。
神にのみ、わたしは希望をおいている。
と歌った詩人の心が、ひたひたと伝わってくる。いったい神をおいて他、どこに希望があるだろう。だが、希望が神にあるなら、私たちはどこまでも待ち望むことができる。「一人も滅びないで、永遠の命を得る」というあまりにも広く、高く、深い神様のご計画を、
ただ信じて待ち望むことができるのだと、味わい知らされた二日間だった。
福音 bQ42 2008年7月
主題:希望は神に:洗足の愛
今夜は心底感動している。こんなことってあるだろうか。これは確かに人間業じゃない。神様が背後にあって導いておられる。そうとしか言いようがない。
ある人の人生を許可もなく、私が勝手に書くわけにはいかないから、ほんの輪郭だけになるけれど、人の思いが変えられていく過程を、点と点をつなぐように見ていて、山が動くって本当にあるんだと驚嘆している。
思い返せばもう30年にもなるだろうか、どうして文通をするようになったのか、どんなふうに知り合ったのかも思い出せないが、ともかく「神様を信じる」という一点でつながってきた。ところがある時から・・・心を閉ざしたというか、心が動かなくなったというか、その闇の深さはとうてい人の力の及ばぬものとなってしまった。それがこの頃になって、まったく思いがけない出来事が重なって、動かないはずの山が動きはじめたのだと言う。完全に絶たれたと思っていた人とのつながりが復活し、絶対に消えないはずの恨みも憎しみもなくなったと言う。どうしようもなく後ろ向きだと思っていた人が、今夜は前を向いていた。
電話でその話を聞きながら、あの放蕩息子の帰りを待ち続けた父の愛、「愛は忍耐強い」という言葉が胸に迫ってきて、私は聖書をよく読んでいるような顔をしながら、実は神様の愛も忍耐もほんの表面しか知らないんじゃないかと思えてきた。
私たちは聖書を通して神の愛と真実を学ぶ。天地は滅びてもわたしの言葉は滅びないといわれたキリストの言葉を学ぶ。それは、おそらく人生でいちばん大切なことに違いない。だが、それだけで終わってはならない。聖書の中だけでなく、私たちの現実の生活を通して神の愛と真実を学ばねばならない。それは人の思いをはるかに超えた長く苦しい行程であるかも知れないが、背後で導いておられるのは聖書の神である。前者が「聖書研究」であり、後者は「証」となる。どちらを欠いても、神の真理からそれてしまう恐れがあるのを思う。
それはともかく、神様がおられ、その神様が愛であるなら、自分のことだけでなく誰のことも「もうダメだ、絶望だ」などと思う必要はどこにもない。今夜、神様の驚くべき御業を目の当たりにした私は、心の限りに叫びたい。「先が見えない、もう絶対に善くならない」なんて、それは目の前しか見えない人間が思うこと。希望は私たちの側にあるのではなく、神様の側にこそある。そのこをを信じて待つのが信仰であり、共に忍耐し続けるのが愛である、と。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。イザヤ55:8〜9
前回と前々回の日曜礼拝でヨハネ福音書13章を学んだ。イエスが捕らえられ十字架につけられる前に、弟子たちとされた最後の食事のようすを描いた箇所であるが、その食事の場でイエスが弟子たちの足を洗われたことは、ヨハネ福音書にだけ記されている。この洗足と最後の晩餐の深い意味を知りたくて、内村鑑三全集を取り出して読んで、グウッーと胸に迫って来るものがあった。
さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
と記されている愛。
「愛はイエスの特性であった、そして彼れ今世を去らんとして彼は最大の愛を現し給うたのである。そして彼の愛は己を愛する者に対して現れた、また己に敵する者に対して現れた。愛餐たりしこの最後の晩餐において、イエスの愛は最も著しく現れた。そして何人に対してよりも、最も著しく、今やご自分を敵に売らんとしつつありし所のイスカリオテのユダに対して現れたのである。」「イエスは最後の晩餐においてユダを救わんと努力し給いて、彼が神の子たるの栄光を現し給へりと信ずる」
目から鱗の思いで、ヨハネ福音書13章を読み直してみると、確かにイエスがどんなにか深い愛でユダを見つめ、ユダに呼びかけているかが分かってくる。
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
のである。そのユダの足を真実をもって洗われるイエスのお姿を想像してみる。偽善に慣れきっている人間になら、なんなくできるかも知れない。しかし、イエスがユダの足を洗われたのである。これ以上高い愛も、深い愛もあろうはずはない。イエスは最悪の時さえご自身の愛を現す最善の機会となさったのであった。
3年もの長い間一緒に旅をし、共に生活した12弟子。なのに、誰一人としてユダの心に気づかなかった。イエスが「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と言われたとき、「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。」とある。この箇所から私は、人が人を見抜くことのできない鈍さよりも、それほどまでにユダを守られたイエスの愛を見る思いがする。弟子たちの目はいつも先生に向けられていた。もし、ほんの少しでもイエスがユダに対して嫌な顔をし、不審なまなざしを向けていたら、弟子たちもイエスの姿を通してユダに悪意を持つようになったであろう。でも、イエスの心はユダの心が離れれば離れるほど深くなった。ユダの心が冷たくなればなるほど、イエスのユダに対する愛は熱くなった。だから誰にも分からなかった。神の愛とは、キリストの思いとは、何というものだろう。この愛さえ届かないほど頑なになったユダの心に「サタンが入った」とある。
しかし、イエスの愛は留まることを知らず、サタンによってもたらされた十字架という最悪の時を、罪の贖いという神の愛を実現する最善の時とされたのであった。主の御名はほむべきかな。
福音 bQ41 2008年6月
マルコ2章「中風の人をいやす」
福音とは「イエス様がおられる」ということなんだ。4つの福音書がなぜ「福音書」か、というと、福音書のどこを読んでも、そこにイエス様がおられて、イエス様の言葉が聞けて、イエス様のなさることが見えて、それが人間には思いもつかないようなことばかりなのに、ものすごくリアルで、あっと驚きながらもそれが真実だとわかってくる。
昨日もマルコ福音書の2章「中風の人をいやす」という記事を友人と二人で読んでいて、(本当は三人で読むはずだったけれど、一人は心の病で睡眠薬の飲みすぎかぐうぐう眠って起きないから、しかたなく二人で)何度も何度も読んで、友人は「こんなにイエス様のされることを見ても『心の中であれこれ考え』ぶつぶつ言ってる人がいる、自分みたい」と言った。私も「本当だね、屋根をはがしてでもこの人をイエス様のところに連れて行こうという、愛と信仰があれば、事は起こるのに、あれこれ言ってるばかりだから、私たちの回りには何も起きないねえ」と相づちをうった。せっかく福音書を読んでも、こんなふうにあきらめてしまったのではいけません。では、始めから。
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。
そうか、そこにイエス様がおられるなら人は集まってくるのだ。今ここにイエス様がおられるかおられないか、それが問題だ。いくらキリスト教を語っても、生けるイエス様がおられないなら、何の力にもなりはしない。しかし、主イエスはおられる。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と、今も確かに呼んでいてくださる。ほら、イエス様の力を信じる人たちが、中風の人を運んできた。
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
ほう、この熱意!「屋根をはがして穴をあけ」とはすごい。信じる時、ゆだねる平安と共に、愛の行動を起こす力も与えられるのだ。信仰とは静かに御言葉に聴き入ることであり、また驚くべき勇気を受けて立ち上がることでもある。この4人の人ように。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
「子よ、あなたの罪は赦される」、これほど美しい、慕わしい言葉があるだろうか。このたった一つの言葉を聞くために、人は生きているのかも知れない。この世で何を得なくても、何を失っても、罪赦されて神の子とされるなら、それこそ最高の人生。
ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
いくら愛の業を見ても、命の言葉を聞いても、自分の正しさで凝り固まった心には、その真実は届かない。
神を信じる者が
神の子であるキリストを
「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と、
叫んでしまう、この不思議。
「私は神を信じている、
だから私は正しい」と
自分を正当化し、主張するなら、
人はいつしか、神の心を見失う。
神を信じるとは
神の心を追い求めること
神の心であるキリストを
ひたすら求めて生きること。
不安の中で、痛みの中で
どうしてよいか分からない暗闇の中で、
「助けてください」と叫び、すがる心こそ
まことに神を信じるということ。
イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
病気を癒すとき、愛と憐れみの力が働いている。でも、罪は「愛」だけは赦せない。神の愛は義の愛、「義」のために罪は罰せられねばならない。その罰を引き受ける覚悟なくして、神の子イエスといえども罪の赦しを与えることはおできにならないのである。「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」(ヘブル9:22)のである。さて、「どちらが易しいか」
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
はい、イエス様。あなたが「起き上がれ」と言われるから起き上がります。今まで寝ていた「床を担げ」と言われるから、床を担ぎます。「家に帰りなさい。」と言われるから家に帰ります。私には起き上がるどころか、上を向く力もないけれど、主イエス様、あなたの御言葉は真実です。力があります。だから、ただ、あなたの御言葉信じて従います。
クリスチャンとは確かに、あなたの御言葉によって目覚め、その魂が起き上がった人たち、今まで自分が拠り所としていた床、現実の困難を軽々と担いで、神の家に帰った人たち。無力と弱さと絶望の中で、なおも主イエスを仰ぎ、御言葉を待ち望む人たち。
その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
神様を讃美する声が聞こえる。喜びどよめく声が聞こえる。どこを見ても暗いニュース、悲惨と恐怖におおわれているような現実の中にあって、それでも「福音書」の語りかけに耳を傾けるとき、喜びの声が聞こえてくる。「主は生きておられる」「私たちは赦された」と、歓喜の声が聞こえてくる。
福音 bQ40 2008年5月
「無教会全国集会2008に参加して」
徳島での「無教会全国集会2008」から帰って、私の心は快晴だ。集会に出かける朝、雨の中、高速道路を3時間半かかって大阪から徳島へ。まる2日間、精一杯のおもてなしをいただいて、讃美も祈りも御言葉も兄弟姉妹の交わりも、もうこれ以上食べられないというほどお腹いっぱいいただいて、帰りは晴れわったった大空のもと、夕暮れ時の渋滞予想はみごとにはずれ、2時間半で帰ってきた。同乗していた体の弱い友人を、遅くなって疲れないかと心配していたら、もっともっと心配し手配してくださるお方がいた。神様の祝福とはこんなものかと涙がにじむ。
今年の全国集会に参加するにあたって、私には一つの課題があった。昨年まで7回続いた京都での「近畿地区無教会キリスト教集会」を今年も開催すべきかどうか、するとしたらどういう目的で、どのような方針で・・・と、何もかも曖昧で、かといって「今年は止めます」というほどハッキリした示しもなく、この全国集会に参加してから決めようと思っていたのだ。正直に書けば、多くの讃美、心打たれる証、明快な聖書講話を聞きながら、至れり尽くせりのプログラムが進むにつれて、このような集会に参加させていただくのは非常に有り難いけれど、さあ私も、という思いには至らなかった。というより、このような集会を主催するのは特別な人にだけできることで、私はとてもその任ではない。私は私に備えられた道を行こう、あの病める人、痛める友を訪ね、少しでもキリストの愛をもって交わり、心を尽くしていけばよい。ところがそう決めても、なぜかスッキリせず、「主よ、主よ」と御名を呼びながら眠り、迎えた朝。
早朝祈祷会は讃美歌354番「かいぬしわが主よ、迷うわれらを、若草の野辺に、導きたまえ、・・・」となつかしい讃美で始まった。
「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」(ヨハネ10:3〜4)
パレスチナの羊飼いは、どの羊の顔も良く知っていて、一匹一匹の羊に名前をつけて、名をもって呼ぶのだという。羊飼いの愛の細やかさ、深さを、司会者から聞きながら、私もイエス様のさやかな御声を聞きたいと思った。イエス様の御声が聞こえたら、何だって従おう、「主よ、あなたの御声を聞かせてください。」と一心に祈った。
主日礼拝の美しい讃美、力強い証、聖書講話と、心にぐんぐん届くのに、何の決心もつかないまま迎えた日曜午後の「伝道、祈りと讃美」の分科会。まとまりのない司会で本当に申し訳なかったけれど、でも、「家族にキリストを証したい」「苦しむ友人に御言葉を伝えたい」「心弱っている妹に」「生徒に」「集会に新しく来た人に」「中国に」と一人一人の熱い声に耳を傾けながら、伝道とはこうでなければならない、こうでなければ伝わらないというものではなく、ある人は祈り、ある人は出かけていき、ある人は配り、ある人は集会に誘い、ある人は家庭に招き、ある人は御言葉を掲げ、ある人は喜びをもって・・・。「みんなちがって、みんないい」んだとうれしくなった。それでも、私の祈りに答はなく、閉会集会も終わってエレベーターの前、「今年の近畿集会の案内、送ってくださいね。」と声をかけられても、「ぜひ、どうぞ」と返すことはできなかった。
あまりにも晴れわったった美しい眉山を後にして、帰りの淡路島の高速道路。日も傾きはじめた大空に、放射状の白い雲がこれぞ神の御手の業と言わんばかりに輝いて、海には歩けそうな一筋の光の道、雨に洗われた緑が天と地とを分けていた。
そしてその時、やっと、それこそやっと、見上げた大空が「できる限りのことを」と、主の御声を伝えてくれた。「できる限りのことを」、主よ、分かりました。ああ、私は何とつまらない、何と愚かなことを考えていたことか。これはすべきで、これはすべきでない、これは向いていて、これは不向きだ、などと決めて、いったいその一つでも自分の力でできるなどと思っていたのだろうか。「できる限りのことを」。そうだった、数人で集会を続けることも、一人では歩けない人と散歩をすることも、難病の人を手助けすることも、里子たちと遊ぶことも、年老いた親たちに心を配ることも、こうして拙い「福音」を書き続けることも、そして夏には京都で集会をすることも、何も自分で「これとこれ」などと選ぶ必要などありはしない。
「できる限りのことを」主よ、何て、何て素晴らしい言葉でしょう。ただあなたを思って、できる限りのことをすればいい。私の心は見上げる空のように広やかに自由になった。
明石大橋が見えるパーキングに立ち寄れば、頭のすぐ上を3羽のトビが旋回し、「鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」と、響きわたる神の御声。空も、海も、山も木々も、鳥たちも、「みんなちがって、みんないい」
無教会っていいな、って思う。何がいいって、何よりも自由がいい。こうでなければ無教会じゃないという決まりがないのがいい。古い讃美歌を歌い続けるのもいい、新しい讃美歌をギターで歌うのもいい。聖書研究に熱心な集会もいいし、先生のメッセージが語られる集会も、ただ御言葉に聴き入る集会もいい。若い人や障害をもった人の集まる集会もいいし、シルバーシートなんて皮肉を言われる集会だっていい。多くの人が集まる集会もいいし、2,3人の集会もいい。そう、その一つ一つの集会が、それぞれの集会に祝福を祈り合えば、お互いの集会を喜び合えば、感謝し合えば、それがいい。だって、主イエス様に祈り求めている集会だもの、優しくアドバイスし合うことはあっても、相手をやっつけたり、批判したりする必要などありはしない。心から喜び合えば、お互を大切に思い、愛し合えば、きっとそこに新しい命が生まれると、「できる限りのことを」と教えてくれた主が言われる。「みんなちがって、みんないい」そんな思いでお互いを祝福し合えば、この無教会の主にある自由と喜びは、地の果てまでも広がっていくにちがいない。
わたしが両手をひろげても、 お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように、たくさんのうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。
金子みすず
福音 239 2008年4月
「このお方が」
ヨハネ福音書8章から
「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシア(キリスト)かもしれません。」
(ヨハネによる福音書 4章29節)
本当なんです。生きるなんて惰性でしかない・・・、そう思っていた私が、生きるってこんなにも感動なのだと、ワクワクドキドキしているんです。このお方を知ると、毎日が新しい日になるのです。
本当なんです。自分のことしか考えなかったエゴイストの私が、さあ、今日はこの人を見舞おう、あの人の用事をしようと、一日の計画を立てているのです。「人の役に立ちたい」などと意気込んでいるのではない。ただ、このお方を思っていると、自然とそんな思いにされるのです。
本当なんです。祈ったらすぐに聞かれるというわけではないけれど、でも、分かるんです。今日聞かれない祈りは、今日は聞かれない方がいいんだってこと。このお方に信頼していれば、いつも必ず最善にしてくださる。だから、どんなことでも安心して、思いつく限り何だって祈れるんです。
本当なんです。このお方が、私たちに復活の命を与えてくださるってこと。ある時、氷のように固く冷たくなって、死んだような心を何週間もどうすることも出来なくて・・・、ところが、このお方の「わたしは復活であり、命である」という言葉を信じたとき、本当に、数分の内にその氷が溶けて、春の光に花いっぱいの心がよみがえったのです。だから、信じないわけにはいかないのです。このお方こそ、私たちを復活させてくださる、よみがえりの主であることを。
本当なんです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」ってこと。どうしようもない罪の苦しみの中で、ただ「イエスさま、イエスさま」と呼び続けた。イエスの名を呼ぶことしかできなかった。でもそのことを通して「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」ってことを、イエスはキリスト(救い主)であり、本当に罪から救ってくださるお方であると、味わい知ることができました。
本当なんです。一人一人の人は皆、神様の愛によって造られ、神様によって生かされているんだってこと。そして、その神様の愛を身をもって示すために、イエス・キリストは来られたんだってこと。どの人も、どんな人でも神様にとっては大切な、かけがえのない一人一人。だから、見捨てられていい人なんか、一人もいないんだってこと。
☆ 今週の日曜礼拝では、ヨハネ福音書8章1〜11節「姦通の女」の記事に聴き入りました。15分間、静かに読んでいるうちに、自分もこの場にいる民衆の一人になって、ことの成り行きを見ているようでした。
神殿の境内でイエス様のお話を聴いていると、突然、一人の女の人を引きずりながら律法学者たちがやって来ました。何事かと思うと、その人たちは女を真ん中に立たせて、イエス様に「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」と詰め寄ったのです。でも、その人たちが、みんなに囲まれて震えている女のことなど問題にしていないのはすぐに分かります。こんな女のことなどどうだっていいんです。ただ、安息日を破ったり、神を自分の父などと呼んで平気で罪人の友となっているイエスが許せないのです。ここでイエスが「女を石で打て」と言うなら罪人の友ではない、しかし姦通の女を赦すことはあきらかな律法違反である、さあどうする、とせっぱ詰まった喧噪の中、イエス様のお姿はあまりにも静かでした。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」とあります。そして、なおもしつこく問い続ける人たちに一言。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この言葉をまともに聞いて身震いしない人はいないでしょう。ここまで民衆の一人だった私も、このイエス様の一言に、赦されなければ生きられないのは、他でもない自分自身だと気づきました。そして「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と、この女の人に向けて語られた言葉によって、罪人の友となりその罪を御自身が負うてくださるという驚くべき十字架の恵みによってだけ、人は本当の意味で生きることができるのだと知らされたのです。
☆「わたしの」名によって集まるところ」
誰かと話していて「クリスチャンです」と言うと、だいたい「どこの教会ですか」と聞かれます。「家で、何人か集まって礼拝をしています」と答えると、「牧師さんは」と聞かれます。「牧師はキリスト」と答えるわけにもいかないので、「ええ、まあ、みんなで聖書を読んで、讃美歌も歌います、お祈りもします」と、なるべくおかしな印象を与えないように、うまく答えます。本人はうまく答えたつもりでも、相手がどう思うかは分かりません。ただ、声を大にして言えることは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」という、主イエス・キリストの言葉は真実であるということです。牧師がいてもいなくても、キリストを慕って、聖書の真理を求めて二人三人集まれば、そこにキリストがいてくださる。日曜集会毎に、文字通り二人三人の集まりである水曜集会毎に、キリストが共にいてくださる喜びを満喫します。生けるキリストがおられ、そのキリストを証する聖書があり、そのキリストを求める数人の人がいる、他に何がいるでしょう。これにまさる幸いはありません。「小さな群よ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」と、主は言われます。
恐れることなく、二人でも三人でも、聖書を読む集まりを始めようではありませんか。小学校、中学校・・・と、長年学校に行って、字を覚えて勉強をして、それで「聖書」を読まなかったら、あまりにももったいない。確かに、読めばすぐに分かるというわけにはいかないけれど、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」と言われる、主イエスの言葉は本当です。
福音 bQ38 2008年3月
ヨブ記から
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ福音書17:3)
「人生の目的は神を知ることにあり」。
「ヨブ記」を読み終えて今、単純な私は、そうだ、人生の目的はまことの神を知ることにあると、すべてが分かったような気になっている。聖書とは本当に不思議な本で、読んでも心に響かないときがあるが、「ワアーッ」と声をあげたいほど、よく分かるときがある。「ヨブ記」も5年ほど前、数人の人と共に学び、くり返しくり返し読んだはずなのに、その時は「うんうん、なるほど」と納得はしたけれど、これが自分のために書かれた書物だというほどには迫ってこなかった。今は、よくぞこの書が聖書の中に納められていたものだ、この「ヨブ記」の中にはすべてがあるではないか、人が究極的に求めるのは「わたしを弁護してくださる方」「わたしのために執り成す方、わたしの友」「わたしを贖う方」。「ヨブ記」はイエス・キリストの預言書ではないか!と、全身感動の渦の中である。
そこでまず、一つ提案。どんなに難しいなあ、分からないなあと思っても、聖書を読むことだけは止めないでほしい。先日、はじめて礼拝に参加した人が、「みんなが聖書の言葉について話しているのを聞いていると、自分にはポルトガル語かなにか、全く知らない外国語のように聞こえた。」と言っていたが、それだけでも素晴らしい。自分の全く知らない世界があるのだと知ることが、未知の世界への第一歩となるかもしれない。
それから、聖書はやはり学ぶものなのだと思う。今回こんなにも「ヨブ記」が響いてきたのは、以前、毎月一章ずつ、友人たちと学び続けたことが肥やしとなり、気がつくと「ヨブ記」という大樹が青々と繁っていたのだ。聖書を少しずつ読んで、何度も読んで、分からない所は調べたり、解説を読んだり、そんな地味なささやかな歩みが、いつか豊かな実を結ぶ。それは年老いて、死んで終わりという虚しい実りではなく、神を知り、神がお遣わしくださったイエス・キリストを知るという、永遠の命に至る実りとなる。
肝心な内容の話が後になったが、「ヨブ記」とは、神を畏れ、豊かに恵まれた生活をしていたヨブという人が、サタンに試され、非常な苦難に合うところから始まる。突然の災難で全財産を失い、わが子を失い、それでもヨブは
わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。 主の御名はほめたたえられよ。
と言って、神を非難することをしなかった。ついにサタンはヨブの体を打ち、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病になったヨブは、素焼きのかけらで体中かきむしった、とある。それでもヨブは「もう、死ぬ方がましでしょう」という妻に、
「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
と諭し、唇をもって罪を犯すことをしなかった。
しかし、病気の苦しみが長引けば、その苦痛は日数に比例するだけでなく、2乗にも3乗にもなると聞いたことがある。
そこに遠くから見舞いに訪れた三人の友人。はじめは、ヨブのあまりに酷い姿に、話しかけることさえできなかったが、ヨブが苦しみのあまり、ついにわが身を呪い、世の不条理を訴え、神に「生きていたくない」と叫びはじめると、友人たちは「その苦しみの原因はあなたの罪に違いない、悔い改めよ」と説きはじめる。ヨブはあくまで身の潔白を主張し、友人たちは因果応報説をもってヨブを責める。慰めに来たはずの友人がいつの間にか、ヨブをよけいに苦しめている。この箇所を読みながら、ああ、私もこのようなことを度々しているのではないかと、胸が痛くなった。苦しみを共感し、執り成しの祈りをするのではなく、「あなたの苦しみは自業自得、悔い改めなければね」と、言葉にこそしなくても心のどこかで思っていはしないか。苦しむ人を前にして、その苦しみはあなたの罪の故だと非難することが、どんなに非情なしうちとなるか、三人の友人の言葉がいやと言うほど教えてくれる。
それでもともかく、ヨブは神に向かって叫ぶことを止めなかった。そして、ヨブはその苦難のただ中で「わたしを弁護してくださる方、わたしの友」、「わたしを贖う方は生きておられる」と、キリストの存在を啓示されたのであった。
「もしもわたしが苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。」という水野源三さんの詩の一節を思う。私たちは神様を知ろうとして聖書を読む。しかし、自分の内に何らかの苦労がなければ、いくら聖書を読んでも、キリストと出会うことはないのかも知れない。「重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。」とキリストは言われた。人生の重荷こそが、苦労こそが、私たちをキリストへ追いやってくれるのだと思うと、苦労して生きている一人一人の人生が、限りなく貴重なものに思えてくる。
さて、ヨブは、「神に逆らう者が繁栄し、神に従う者に災いが多いのはなぜなのか」、また「ある人は、死に至るまで不自由なく、安泰、平穏の一生を送り、また、ある人は死に至るまで悩み嘆き、幸せを味わうこともないのはなぜなのか」と、いつの世にもある不条理を問い、「わたしの歩みが道を外れたことは、決してない。」と自分の潔白の訴え続けて、ついにその叫び、思いを語り尽くした時、エリフという友人が登場する。
私はこのエリフの言葉から、「人は行いによらず信仰によって義とされる」という、新約聖書の真髄を教えられたように思った。
ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」とくり返し書かれているように、ヨブはあくまでも正しく生きていた。でも、その行いの正しさによって、ヨブが義(正しい)とされることはなかったのである。
天を仰ぎ、よく見よ。 頭上高く行く雲を眺めよ。
あなたが過ちをおかしたとしても 神にとってどれほどのことだろうか。
繰り返し背いたとしても 神にとってそれが何であろう。
あなたが正しくあっても それで神に何かを与えることになり
神があなたの手から 何かを受け取ることになるだろうか。
あなたが逆らっても それはあなたと同じ人間に
あなたが正しくても それは人の子にかかわるだけなのだ。
と、奇しくもエリフが言っているように、人の行いは人にかかわるだけであって、人の行いによって神を益することなどできはしない。ヨブはどこまでも神に向かって叫び続けた。そして、ヨブは善行によってではなく、神に叫ばざるを得ない苦難を通して、「あなたのことを、耳にはしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎみます」と告白するに至ったのであった。
福音 bQ37 2008年2月
祈り つながること
天のお父様
あなたに祈り求めないで
私はいったい何を呟いているのでしょう。
「どうしようもない」
「どうにもならない」と、
まるでそれらの問題が
あなたの御手の外にでもあるかのように、
何と愚かな言葉を口にしているのでしょう。
あなたがおられるのに、
すべてはあなたの御手の内-にあり、
「願いなさい。そうすれば与えられ
あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:24)と
主イエスが言われるのに。
あなたはいつも待っていてくださる。
「主よ、助けてください」と、
あなたに向かって叫ぶのを。
どんな小さなことでも、あなたを仰いで、
幼子のようにすがるのを。
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に
すべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」ロマ8:32
あなたの御思いはあまりにも深く、
計り知ることはできないけれど、
この御言葉を抱きしめて、祈らせてください。
私たちすべてのものの、希望なる主よ。
************************************
「わたしにつながっていなさい。」そして「互いに愛し合いなさい。」
久しぶりにHさんを見舞った。血圧や脈拍、血液中の酸素濃度などの測定値が一目で分かる器具をつないで、異常音をたてると看護師が駆けつけるというような状態が続いていた。このようになってからでもどれほどの月日が経つだろう。蜘膜下出血で倒れて、かれこれ20年、入院した時から言葉は聞き取れないし、自分では立つことも座ることも寝返ることもできなかったが、そのころは車椅子に乗せてもらってリハビリにも行っていた。老人病院の中で40代前半という若さだったから、みんなに可愛がられて、私も病院に行く度にHさんを見舞い、耳元で賛美歌を歌ったりしていた。Hさんも回らぬ舌で、声をあげて一緒に歌ってくれた。それがいつ頃からだろう、24時間寝たきりになって、ほとんど表情もなくなり、Hさんの部屋を訪ねる回数も減っていった。話をしたり一緒に散歩をしたり、私が行くのを待っていてくれる人を見舞うのが先になり、反応のない人は後になる、それはしようのないことだと思っていた。
病院が移転して、定期的に見舞っている人とHさんの病棟が別になってから、Hさんを見舞うことはますます少なくなった。十年前には時折見かけた家族も、もうほとんど来ないようだ。膜がはったような濁った目、開いた口に干からびた舌、痰がからんだ苦しい呼吸、見るのも辛いような状態が続き、今度来た時には、もうHさんの名札はないかも知れないと思いながら帰って行く。そんなことを何度かくり返し、それでもHさんは生きている。いや生かされ続けている。
「主よ、何のために。いつまでこの苦しみは続くのでしょうか。」Hさんの枕元で、主を仰ぎ問うたとき、「あなたはわたしを見捨てた。それでも、わたしはあなたを愛し、あなたのために苦しみ続ける」と、主の御声。この苦しむHさんの中にこそ主がおられるのを知った。そして、一緒に賛美歌を歌ったり、聖句を暗誦したり、「祈って」と言うと不明瞭な声をあげて祈ってくれたHさんとの、十数年前の日々が思い出され、神様が与えてくださったHさんとのつながりを大切にせず、会話ができる人、私が行って具体的に役に立つ人の方に足が向き、いつしかHさんのために祈ることもしなくなっていた自分に気づき唖然とした。Hさんはずっと、こんなにも苦しみ、こんなにも耐えていたのに。このHさんを見捨てたことは、主を見捨てたこと。「主よ、主よ」と口では言いながら、主の真実から遠く離れ、そのことに気づきさえしなかった。でも、Hさんの私への真実は変わることなく、その苦しみをもって私の不真実を教えてくれた。
主イエスは「わたしにつながっていなさい」と言われた。主イエスにつながることは、主が与えてくださった一人一人の人にもつながること。人を見捨てておいて、自分だけは主イエスにつながっていることなどできるはずがない。いろいろな事情で、たとえ直接つながることはできなくなっても、与えられた一人一人を思い起こし祈ることで、主にあってつながり続けることはできる。神と私の縦のつながり、その縦木に支えられた兄弟姉妹の横のつながり、その二つのつながりを完成してくださるものこそ、キリストの十字架に違いないのだから。
Hさんは不真実な私を見捨てないで、命をもって教えてくれた。
見えないことを先に、見えることは後回し、
しんどいことを先に、楽しいことは後回し、
苦しむことは主の十字架につながること、
復活の朝を待つ、真の希望に生きること。
福音 bQ36 2008年1月
キリストを仰いで すぐ近くに
「生かされて」
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
(フィリピの信徒への手紙2章6〜8節)
「そんなに何にでも腹が立つのは、自分を偉いと思っとるからじゃ」。わがままで文句ばかり言っている孫に、おじいさんはそう言ったそうだ。そのおじいさんはとても柔和な人で、キリストを信じて生きるとはどういうことか、この私にも身をもって教えてくれた人だった。その柔和なおじいさんが、孫に「自分を偉いと思うとるからじゃ」と教え諭したと聞いて、なるほどその通りだと感心していたが、ある時、その言葉が私に向かって言われたように思えて、高慢な自分の心を見透かされたような思いがして、恥ずかしくてたまらなくなった。
「悔改めは羞恥に始まるものである。」と、内村鑑三は書いている。(余の信仰の真髄)「私は愛してもいない人が、私を愛していると聞いて、自分が恥ずかしくなり、愛の無い自分の罪を悔いて、その人に赦しを乞うようになる。人に対してそうであるように、神に対しても同じである。私は罪を重ねてキリストを十字架に釘付けにしていたのに、神はそのキリストの、その十字架によって私を赦してくださったと聞いて、自分が恥ずかしくて耐えられなくなるのである。」ここに悔い改めが始まる、「罪は鉄槌をもってこれを砕くことは出来ない、しかし愛をもってこれを溶くことが出来る」と。
おじいさんは私に「あなたは自分を偉いと思うとる」と、直接注意はしなかったけれど、その代わりにいつも教えてくれたのは「へりくだった心をもって、人を自分よりすぐれた者としなさい。」(ピリピ2:3)という言葉だった。人と向き合うとき、この人よりは自分の方が上だと、ほんの少しでも驕りがあれば、真実な人間関係は生じない。まして、キリストを伝えたいと願いながら、自分を相手の上に置いていたのでは、「神の身分でありながら、僕の身分になり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順に歩まれた」キリストの心が伝わるはずがない。キリストを伝えたいと願うなら、何よりも自分自身が神の前にへりくだって、相手を心底「自分よりすぐれた者」と思わなければならない。おじいさんは、こんな私のことを、心底「すぐれた者」と思ってくれた。だから、そのおじいさんの心を思うと、自分が恥ずかしくてたまらなくなるのである。
新しい年、何をおいても「自分を偉いと思うとる」愚かな心をささっと捨てて、「神の身分でありながら、僕の身分になり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられた」主を仰ぎみつつ、一日、一日を、一生のように大切に歩みたいと思う。
それから、イエスは付近の村々を巡り歩いてお教えになった。
(マルコによる福音書6章6節)
聖書を読んでいると、ふっと、イエス様をとても近くに感じることがある。先日も3人集まってマルコ福音書6章を読んでいて、「イエスは村々を巡り歩いて」という言葉に、3人が集まっている家のすぐ横の道も、イエス様は歩いておられるんだと、ふっと気づいた。黙って通り過ぎてしまわれないように、「イエス様、ここにお入りください」と心の中で祈ったが、確かにイエス様は私たちの家の前の道を、横の細い道を、裏道を、巡り歩いておられる。私たちは自分のことにあまりに忙しく囚われていて、すぐそばを歩いておられるイエス様に気づかないだけなのだ。家の回りを巡り歩いておられるだけではない。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3章20節)と言われる。何と慰め深い、何と愛に富んだお言葉だろう。イエス様の方はいつも私たちの内に入ろうと待っていてくださる。そのイエス様を閉め出しているのは私たちの方なのだ。愛と赦しと慰めと励ましに満ちたイエス様を閉め出しておいて、溜息ばかりついている自分がいる。先日の新聞に「この温暖化はみんなの溜息のせいではないか」というふうな川柳がのっていたが、私も「あ〜あ」「まあまあ」と溜息ばかりついて、これ以上温暖化に協力しないように、「あ〜あ」と言いたくなったら「イエス様、どうぞお入りください」と心の扉を開き、すがすがしいイエス様の命に満たされたいものである。
主こそ「わたしの避けどころ、砦、私の神、依り頼む方」(詩編91編2節)
1994年、100日で100万人が殺されたというルワンダでの大量虐殺の中で、イマキュレー・イリバギザの体験したイマキュレー自身の物語、神と共にあっていかに苦難に耐え、いかに憎しみを赦しに変えたかを綴った「生かされて」という本を読んだ。読み進めるに連れて、
キリストの十字架だけが世界を救う、
キリストの十字架だけが私を救う、
あの人も、あの人も、あの人も・・・
キリストの十字架によってだけ救われる。
という思いが、どんどん深くなっていった。それは、憎しみは人を殺す、そして憎しみは憎しみを生む、憎しみは自分も相手もすべてを滅ぼす、その憎しみの連鎖を絶ちきるのは、キリストの十字架しかないことを確信したからである。
「生かされて」を読んでから、気がつけば「主よあなたは わが隠れ場」と歌っており、正確に歌おうとリビングプレイズ34番を開くと、曲の横に「主はわが隠れ場」と題して、ドイツの強制収容所でのテンブーム一家のことが書かれていた。そして、そのテンブーム一家を支えたという詩編91編を改めて読み返し、その一つ一つの御言葉が真に迫ってきて、私の信じている神様とは、このようなお方であったかとビックリ仰天した次第です。