急に寒くなって
暖房をつけようかと思う朝
百合の花が開いた。
冷たい雨に打たれて
真っ白い花が二輪。
「なぜこんな寒さの中で?」
「どうしてわたしたちだけ?」
そんなこと、つぶやきも疑いもせず
凛と咲いている白百合。
雨あがり、露にぬれ
冬の光を受けた白百合は
「御子イエスはこのように生まれられた」と、
「キリストはこのように復活された」と、
「主は再びこのように来られる」と、
告げているかのようだった。
主はすぐ近くにおられます。
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いとをささげ、
求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとを
キリスト・イエスによって守るでしょう。
(フィリピの信徒への手紙4章5~7節)
「主はすぐ近くにおられます。」
これが福音、これがクリスマス。
どうにもならないと、打ち沈むとき、
すぐ近くに主がおられる。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」
思い煩いは暗闇で探し物をするようなもの、
引っかき回すだけで、ますます訳が分からなくなる。
「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いとをささげ、
求めているものを神に打ち明けなさい。」
思い煩いは闇を増す人の業。
祈りは私たちを光へと導く神の業。
為すすべもなく、望み尽きたときも、
祈りの窓はいつも、いつでも開かれている。
キリストが命をかけて開いてくださった祈りの窓。
さあ、心を神に向けて、
求めているものを神に打ち明けてみよう。
祈りの窓を全開にして。
「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとを
キリスト・イエスによって守るでしょう。」
祈れる幸い、ゆだねる恵み。
罪の身そのまま、苦しみそのまま、
すべてを神にゆだねるとき、
「わたしの平和を与える」と、
主イエスの御声の確かさに、
喜びの声をあげるのです。
祝福の泉
右を向くにも左を向くにも、指一本動かすのも人任せ。呼吸は呼吸器で栄養は胃に直接流し込み、ただ瞬きと頬に当てたパソコンのセンサーでの意思表示。そのパソコンを使って、「看護士やヘルパーの意地悪が辛い、手抜きばかりする」との、彼女の訴えに、さあ、どうしたものかと考えた。祈りに祈って、私も負けずに訴えた。「あなたは神様に愛されている、特別に愛されている。あなたがそのことを知らなくても、私にはあなたが特別に選ばれた人だということを疑うことはできないから、特別に愛されいるあなたが、みんなの祝福の泉になればいい。あなたの側に来ただけで、何かうれしくなるような、心が明るくなるような、祝福の泉になればいい。」「その秘訣はただ一つ、あなたの側にきた人のために『この人に平安がありますように』と心から祈ること。意地悪な人でも、知らんふりして訴えを無視する人でも、ともかくその一人一人のために祈ること。汝の敵を愛するつもりで祈り続けるなら、あなたは祝福の泉となる。」
本当に、自分にも出来ないことを、人に「してみたら」なんて、無責任極まりないと言われても仕方がないけれど、今の彼女に、他にどんな希望の道があるだろう。「私もあなたのこと祈っているから」と言った約束だけは違えまいと、主にすがった。
「有難う、咲子さんの言うこと良く分かります。」とお礼のメールが届いたが、そこには、私の思いもよらなかった彼女の辛さが書かれていた。彼女は右頬にパソコンのセンサー、左頬にナースコールをセットしているのだが、「笑ったら鳴るから、あかん!」と何度も言われて、笑顔も笑いたいときも押し殺すようになったとのこと。「辛いです」との一言に、私の一生分の辛さ以上のものが込められているのを実感した。この頃不満ばかりで笑顔の絶えた彼女も、みんなの祝福の泉になれば、きっと、あのとびきりの笑顔が帰ってくると思っていた自分の愚かさが悲しい。彼女は、自分にできるただ一つの直接的コミニュケーション、「ありがとう」の笑顔も禁止されて、無表情で祝福の泉になるしかないのだ。
それでも希望は神にある。その人の苦難の大きさは、その人への神様の愛の大きさ、そのことは何よりもキリストの十字架が証している。私がどんなに愚かでも、私の信じるキリストは彼女のすべてを知っておられる。彼女をみんなの祝福の泉にすることがおできになる。
彼女だけではない、この暗い世で、信じる一人一人の人が神の子となり、祝福の泉となるためにこそ、キリストはこの世に来てくださった。十字架を負い、私たちを罪と死から解き放ち、永遠の命を与えてくださった。キリストを信じ、キリストに結ばれて生きるとき、私たち一人一人はどんなに小さくても、どんなにみすぼらしくても祝福の泉。
新しい年も、貧しき者、病む者、悲しむ者の友となってくださるキリストを、私たちの主と信じ、祈り合い、御言葉によって互いに励まし合うことができますように。
私は孤独である、しかし孤独ではない、私にも私の友がある。まことに私は孤独であればこそ、このように多くの友をもつのである。孤独とはなんであるか、孤独とは心を友とすることである。そして心を友とする者は天下宇内(ウタ゛イ)すべて心を友とする者を友とする者である。世の交際場の中で友を求めるものは会場にはいれるだけの人を友とするにすぎない。しかし心に友に探る者はこれを広い宇宙に探る者である。すべて私と共に悲しむ者、私と理想を共にする者、わが神を拝する者、私の救い主に救われた者、これは皆、私の友である。未来の交友は心霊的でなくてはならない。「今から後私は肉によって人を知ることはない」とパウロは言った。まのあたりに談じたり語ったりしなければ友でないように思うのは、未だキリストにおける友がなんであるかを知らないからである。
「喜びの花」「極めて良かった」
「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」ネヘミヤ記8:10
喜びは何といっても私たちの人生に咲く花。その花が、主を喜ぶという香り高きものであるなら、それこそ最高の人生。
長期入院で、誰も訪ねる人のないお年寄りに、「一緒に歩きましょうか」と声をかける。手を差しだすと「ありがとう」と立ち上がる。二人の心に小さな花が咲く時。つかの間の喜びなんてつまらない、などと言ってはいけない。つかの間の喜びがあれば人は生きていける。そのつかの間の喜びさえ、お互いに与え合うことのできない忙しい世の中。まず、主を喜ぶ喜びに満たされて、今日も、だれかの心に小さな花を。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」
創世記1:31
狭いわが家にも、「お泊まり」に来てくれる里子の姉妹がいる。夜にはトランプをしたり、寝る前には一緒に歌を歌う。「何がいい?」と尋ねると「フムフム」と言う。「フムフム」とは「3つの約束」という短い歌で、
1 お祈りはね 、フムフム 毎日するんだぜ OK
いつもイエスさま きいててくれるから
2 みことばはね フムフム 暗唱するんだぜ OK
どんなときでも みむねがわかるから
と、続く。曲の感じが楽しいから、この歌が好きなのだと思うが、キリスト信仰とは限りなく深いものであると共に、限りなく単純なものでもあるのだ。お祈りをするのは、聞いていてくださるお方がいるからで、幼い日に、いつも耳を澄ませて私たちの叫びを聞いていてくださるお方がいると知ることは、何にもまさる財産だろう。2番の歌詞「御言葉はね 暗唱するんだぜ どんなときでも 御旨がわかるから」というのは、子供たちにと言うより、私たち大人の日々の勤めだ。御言葉がどんなに大きな力となり、喜びとなり、希望となるか、主日礼拝で聖句を暗唱するという小さなプログラムを始めてから、いよいよ実感している。
先週の聖書箇所はローマの信徒への手紙14章。私はその中から「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」という聖句を暗唱した。「わたしたちは主のものです」と口にする度に、ジワーっと喜びが込み上げてくる。もう少し前から言うと「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」パウロをはじめ、キリスト信仰に生きた数限りない人たちの証言であり、今も世界中に「わたしたちは主のものです」と告白する数限りない人たちがいる。今ここに集まって共に礼拝を捧げているのは、ほんの7名だけれど、「わたしたちは主のものです」と告白する世界中の人は皆、私たちの兄弟姉妹。天に国籍をもつ神の家族。何万人も集まるという大きな教会に集っていても、病床で一人礼拝を捧げていても、「わたしたちは主のものです」と告白できる喜びに違いはない。
話がそれたが、子供たちに「次は何を歌う?」というと、いつも決まって「パパとママと赤ちゃん」と言う。これもリズミカルな曲だけれど、私も一緒に特別な思いを込めて歌う。
赤ちゃんの泣く声に かけてゆく 若いママ
ママの呼ぶ声で かけてゆく パパ
ママの耳は赤ちゃんのそば パパの耳はママのそば
どんな遠いよび声でも 愛の耳はききわける
神さまを愛してると 神さまの声がきこえ
かけていけるでしょう パパとママと赤ちゃん
いつだったか子供たちに、「なにになりたい」というごく一般的な質問をしたら、「赤ちゃん。どこかの家の赤ちゃんになりたい」と答えたのにはビックリしたが、そうか、この子は赤ちゃんからやり直したいんだと、胸が熱くなった。でも、この子たちがいつか、「私は私でよかった、他の誰でもなく、私であることがうれしい」という日がきっとくる。必ず来る。そう信じさせてくれたのは、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」という創世記の言葉だった。
聖書を読み始めた頃、友人が話してくれたことがある。「建設現場で働いていたとき、日雇い労働者で、現場で何が起こっても、どんな理不尽なことを言われても、そこを指さし『神は見て、良しとされた』と小声で言って、黙々と働き続ける人がいた。何の文句も言わず、いつも嬉しそうなその人は、腹巻きの中に手垢の付いた小さな聖書を入れていた。」 私が聖書を読んでいるのを知って、思い出したように話してくれたのだが、その時から「神は見て、良しとされた」という言葉は私の愛唱聖句になった。
そして先日も、その御言葉を確かめたくて、創世記1章を読んでいて、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」という御言葉が光を放っているのを見たのである。そうか、神様にとって一人一人の人間は、極めて良いものなのだ。ところが、その人間が、神に背き、罪に溺れ、自分たちだけでなく造られた全てのものを巻き添えにして、滅びに向かってまっしぐらというこの現実。ああ、しかし、全宇宙と、その中の地球という美しい星に住まわせた人間が、罪ゆえに滅び行く姿を、神様は決して見過ごしにはなさらなかった。極めて良いものとして創造の御業を始められた神様は、はるかに高く美しい完全な御国へと私たちを導くために、救い主、イエス・キリストを送ってくださったのだ。イエス様は十字架の上で息絶えるとき「成し遂げられた」と言われた。(ヨハネ福音書19:30) 救いの御業は十字架の上に成就した。造られた全ての人に、神様は今も呼びかけておられる。「わたしは極めて良いものとしてあなたを造った。そしてあなたを救うためにイエスを与えた。わたしはあなたのためにできる限りのことをした。わたしの愛を信じてほしい」と。
「あなたは神さまの大切な子ども」、この言葉が子供たちの心に花咲く日、私の心にも大きな花が咲くだろう。ありがとう、やんちゃなあなたたち。
「子どもの心を抱きしめて」という小さな本を抱きしめて、今パソコンに向かっています。
「イエス様がいちばん大切な戒めとして教えてくださった「愛しなさい」という戒め(マルコ福音書12章29~31)は、実は命令形ではなく未来形で書かれている。『わたしが人間をかくも愛したから、あなた方も愛するであろう』という未来形の意味が含まれているということに、私は非常に深い意味と慰めを感じるのです。」
無教会全国集会2007、第一日目になされた白井徳満さんの聖書講義を聞いただけでは、鈍い私には十分分からなかったことが、二日目の分科会の話し合いで、「そうか、そうだったのか」と納得し、大阪に帰ってから求めた「子どもの心を抱きしめて」という白井さんの著書を今読み終えて、なるほど、人は神様に深く愛されるとこんなふうに愛するようになるんだと、胸がいっぱいです。
「聖書講義について」の分科会を始めるにあたって、司会者のお祈りがありました。
(昨日の聖書講義では、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という律法学者の問いを土台に据えて)
「神様が私たちを愛し、
愛し続けてくださるからこそ、
だから、それを信じる人は、
その傷だらけの良心が、十字架を通って、
十字架により救われたことを通って、
「あなたがたは神を愛するに違いない、
愛するだろう。」
そして、隣人を、
「すべての隣人を、自分のように、
自分自身のこととして愛するに違いない。」
この二つを一つにしてくださるのが
イエス・キリストの福音だ。
これが最も重要なおきてだ、と
教えてくださいました。
キリストにある、キリスト者の良心の根拠は、
救われているという喜びであるということを
教えていただきました。
神様のなさることは、奥行きが深いなあと、今しみじみ思います。白井さんの「子どもの心を抱きしめて」という本は、かつて書店で手にしたことがあるのです。でも、なぜかその時は求めないで、全国集会でまず、お話を聞くように導かれ、それだけでは十分でなかった私に、聖書講義の分科会の書記という役目のゆえに録音を何度も聞き返す機会を与えてくださり、そこで語られた「わたしが人間をかくも愛したから、あなたがたも愛するであろう」という神様のおことばを確かめるために、その著書を求めに書店に向かわせ、その本を読み終えて今、「愛しなさい」ではなく「愛するようになる、愛するに違いない、愛するだろう」というイエス様のお心がひたひたと流れてくるのを覚えるのです。
「子どもの心を抱きしめて」という小さな本には、心身に病気を持つ子どもの施設で暮らす18人の子どもたちが登場します。その一人一人が今私の心の中に、なんとも愛すべき存在としてキラキラと輝いているのです。ほとんど家族からも顧みられなくなった、弱く小さな、ある時には痛ましいほどの存在。その子たちを輝かせているのは、筆者の子供たち一人一人への愛に満ちたまなざし。筆者だけでなく、「多く愛された子は、多く愛する力を持つようになる。」「豊に愛された時に初めて、その子に自分を大切にする心が生まれ、友人を愛する姿勢が育つ」と信じて、子どもたちとかかわり続けた職員一人一人の子どもたちへの愛のまなざし。どんな子どもだって、どんな人間だって、こんなふうに愛されたらいつかきっと輝き始める。いつかきっと愛するようになる。そんな希望と慰めを与えてくれる本なのです。
でも、自然の人間の内に、そのような愛の力が宿っていないことも確かなことです。人が人を自然に大切に思えるなら、自分を愛するように隣人を愛することができるなら、毎日毎日、新聞やテレビで報じられるような、酷く痛ましい事件など起こるはずもないのです。平和憲法などなくても、戦争など起こるはずもないのです。人は誰だって、憎み合うよりは愛し合いたい、傷つけ合うよりは助け合いたいと願っているはずなのに、それでも、優しく親切な心は長続きせず、わがままで自分勝手な心はチラチラといつでも顔を出す。自分のことは棚に上げて、人のちょっとした欠点にも忍耐できず、不平不満を口にする。先日の水曜集会で「エフェソの信徒への手紙」4章を学んだとき、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」とあって、そんな良き言葉を語ることのできない自分が、たまらなく恥ずかしくなりました。
「なぜ、なぜ、私には愛する力がないのですか」と、祈りつつ問うたとき、神様は答えてくださいました。
「あなたはわたしの子どもではないか。わたしの豊かな、限りのない愛をもっともっと受けるがよい。多く愛された子どもは多く愛するようになる。あなたが愛したいと願うなら、まずわたしの愛を満ち足りるまでに受けるがよい。わたしの愛は世界中に満ちているから、受け取りたいと願うなら、今、その場で、そのままのあなたに惜しみなく与えよう。わたしの愛とは、ほら、わたしの独り子イエスの血潮とイエスの心、罪の赦しと永遠の命。このよきものを満ち足りるまでに与えよう。あなたはわたしの子どもだから、わたしがあなたを愛するのは、わたしの喜びなのだ。」
こんなふうに神様に愛されて、満ち足りるまでに愛されて、小さく弱く、傷ついた一人一人のこどもたちを、様々な苦難に打ちのめされた人たちを、どこまでも、いつまでも愛するようになるのだと、教えられた全国集会でした。
イエスは言われた。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの主である神を愛しなさい。」
「隣人を自分のように愛しなさい」 (マタイ福音書22:37.39)
子供たちも大きくなって、それぞれの所で自分の人生を生きている。今は夫と二人の静かな日々だけれど、この詩のような心をもって、終の日まで「明日」を迎えたいと願う。病気になって入院生活になっても、年老いてどこかのホームにお世話になっても、神を愛し、人を愛し、こんな心持ちで喜んで「明日」を迎えられたらと、心華やぐ詩を今月はお届けします。
明日 八木重吉
まず明日も眼を醒まそう
誰がさきにめをさましても
ほかの者を皆起こすのだ
眼がハッキリさめて気持ちもたしかになったら
いままで寝ていたところはとり乱しているから
この三畳の間へ親子四人であつまろう
富子お前は陽二を抱いてそこにおすわり
桃ちゃんは私のお膝へおててをついて
いつものようにお顔をつっぶすがいいよ
そこで私は聖書をとり
マタイ伝六章の主の祈りをよみますから
みんないっしょに祈る心になろう
この朝のつとめを
どうぞしてたのしい真剣なつとめとして続かせたい
さあお前は朝飯のしたくにおとりかかり
私は二人を子守しているから
お互いに心をうち込んでその務めを果たそう
もう出来たのか
では皆ご飯にしよう
桃子はアブちゃんをかけてそこへおすわり
陽ちゃんは母ちゃんのそばへすわって
皆おいちいおいちいって食べようね
七時半ごろになると
私は勤めに出かけねばならない
まだ本当にしっくり心にあった仕事とは思わないが
とにかく自分にできるしごとであり
妻と子を養う糧も得られる
大勢の子供を相手の仕事で
あながちに悪い仕事とも思われない
心を尽くせば
少しはよい事もできるかもしれぬ
そして何より意義のあると思うことは
生徒たちはつまり「隣人」である
それゆえに私の心は
生徒たちに向かっているとき
大きな修練を経ているのだ
何よりも一人一人の少年を
キリストその人の化身とおもわねばならぬ
そればかりではない
同僚も皆彼の化身とおもわねばならぬ
(自分の妻子もそうである)
そのきもちで勤めの時間をすごすのだ
その心がけが何より根本だ
絶えずあらゆるものに額ずいていよう
このおもいから
存外いやなおもいもはれていくだろう
進んでは自分も更に更に美しくなり得る望みが湧こう
そうして日々をくらしていったら
つまらないと思ったこの職も
他の仕事に比べて劣っているとはおもわれなくも
なるであろう
こんな望みで進むのだ、
休みの時間はキリストのことをおもいすごそう、
夕方になれば
妻や子の顔を心にうかべながら家路をたどる
美しいつつましい慰めの時だ、
よく晴れた日なら
身体いっぱいに夕日をあび
小学生の昔にかえったつもりで口笛でも吹きながら
雨ふりならば
傘におちる雨の音にききいりながら
砂利の白いつぶをたのしんであるいていこう
もし暴風の日があるなら
一心にキリストを念じてつきぬけて来よう、
そしていつの日もいつの日も
門口には六つの瞳がよろこびむかえてくれる、
私はその日勤め先での出来事をかたり
妻は留守中のできごとをかたる
何でもない事でもお互いにたのしい
そして、お互いに今日一日
神についての考えに誤りはなかったかを
かんがえ合わせてみよう
またそれについて話し合ってみよう、
しばらくは親子四人他愛のない休息の時である、
私も何もかもほったらかして子供の相手だ、
やがて揃って夕飯をたべる、
ささやかな生活でも
子供二人をかかえてお互い夕ぐれ時はかなり忙しい、
さあ寝るまでは又子供等の一騒ぎだ、
そのうち奴さん達は
倒れた兵隊さんの様に一人二人と寝入ってしまう
私等は二人で
子供の枕元で静かな祈りをしよう、
桃子たちも眼をあいていたらいっしょにするのだ、
ほんとうに
自分の心に
いつも大きな花をもっていたいものだ
その花は他人を憎まなければ蝕まれはしない
他人を憎めば自ずとそこだけ腐れてゆく
この花を抱いて皆ねむりにつこう、
八木重吉はこの詩を書いて翌年肺結核を発病、家族から離れての入院生活、29才の若さで天に召された。このような「明日」は地上では決して長く続かなかったけれど、悲しみの深さは喜びの深さ、自分の心にいつも大きな花を持ち、「わが詩いよいよ拙くあれ キリストの栄え 日毎に大きくあれ」と、キリストへの一筋の道を歩みぬいた。
これが同じ日本の空だろうか。いくら見上げても数えるほどしか星のない大阪の空に慣れてしまった私は、岐阜奥飛騨の地で見る満天の星に、首がもとに戻らないほど立ち尽くしていた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」と、神様はアブラハムに言われた。そうか、星とは数えることのできないものなのだ。これが神様の創られたほんとうの夜空なのだ。だとすると私が毎晩見ているものは何だろう。薄黒い幕で覆われていて、非常に強い光だけが、その幕を通してかろうじて見えるような夜空。幕が取り除かれると、夜空とはこんなにも星の光に満ちて、宇宙の広さと美しさをたたえているのだ。
何が星を見えなくしたのか。科学的な根拠はいくつもあるだろうが、何よりも星を見たいと願わない私たちの心、星なんか見えなくても生きていけるという私たちの傲慢。それは自らを、星のない、光のない、希望のない、永遠のない世界に閉じ込めてしまうことなのに、これが当たり前だと思って生きている。自分の罪に泣きたくなる。
主の手が短くて救えないのではない。
主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て
お前たちの罪が神の御顔を隠させ
お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。(イサ゛ヤ59-1,2)
そんな書き出しで始まるイザヤ書59章には、神の救いを妨げる人の罪がつぶさに記されている。いつもはスッと読んでしまう箇所が、星の見えない世に住んでいる自分に気づくと、この言葉は私に向けて語られているのだと分かってくる。
御前に、わたしたちの背きの罪は重く
わたしたち自身の罪が不利な証言をする。
背きの罪はわたしたちを共にあり
わたしたちは自分の咎を知っている。
主に対して偽り背き
わたしたちの神から離れ去り
虐げと裏切りを謀り
偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。(イサ゛ヤ59-12.13)
心に薄黒い幕がかかって神様の真実が見えないとき、罪の中にあることに慣れてしまって、虐げを虐げと気づかない、裏切りを裏切りと思わない、偽りを偽りだとは知らない。
エミー・カーマイケルの「カルバリの愛を知っていますか」に記されていた短文を思い出す。
もし誰かの欠点や過ちを
軽はずみな思いで話題にしたりするならば、
それがたとえ子ども失敗であろうとも、
おもしろがってそのことを人に語るならば、
その時わたしは
カルバリの愛をまったく知らない。
友との関係において
疑わしい点は善意に解釈するということを
もししないならば、
語られたことば、なされた行為から
最善のものを引き出そうとする努力を
もし怠るならば
その時わたしは
カルバリの愛をまったく知らない。
突然思いがけないことにぶつかって、
ついいら立ち、
荒いことばを思わず口から出したりすることが
もしあるならば、
その時わたしは
カルバリの愛をまったく知らない。
(縁まで甘い水に満たされた杯は、どれほど激しい衝撃を与えられようと、苦い水を溢 れさせることはあり得ない。)
もし単調さを苦しいことと考え
日常のこまごました仕事を
耐えられないことと思うならば、
もし動きの鈍い人たちが
わたしをいらいらさせ、
ちょっとした波風が
わたしの神経をいら立たせるならば
もし人生のささいなことを
すぐ大げさに騒ぎ立てようとするならば、
その時わたしは
カルバリの愛をまったく知らない。
十字架の光を受けて語られたこれらの言葉は、わたしの罪をあらわにする。罪を罪とも気づかずに、薄黒い幕の中で当たり前のように生活している自分の姿が見えてくる。そんな哀れな「唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく」罪人のもとに、主はご自身が救いとなって来てくださった。
「(十字架の上で)イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」マルコ15:37・38 とある。人の力では決して取り除くことのできない黒い幕を主はすでに真っ二つに裂いてくださった。望むなら、誰でも神の国に入れるように、見上げるなら、すべての人に永遠の光が見えるようにと。
主は激しい流れのように臨み
主の霊がその上を吹く。
主は贖う者として、シオンに来られる。
ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると、主は言われる。(イザヤ59:19~20)
二千年前、イエス・キリストによって成就したこの御言葉は、今も生きて働いている。「罪を悔いる者のもとに来る」という主の御言葉は、薄黒い幕を通しても届く金星の光のように、今もわたしたちを照らし続ける。
悔い改めることのできる幸い、どうしようもない罪を赦していただける幸い、神様に祈れる幸い、すべてを委ねて必ず良くなると信じる幸い、悲しみの日にも痛みの日にも主が共にいてくださるという幸い、・・・数え切れない幸いの星が光っている天を仰いでいると、その中心にひときわ輝く十字架の星。「罪を悔いる者のもとに来る」といわれる主よ、来てください。「アーメン、主イエスよ、来てください。」
旧約聖書に「ヨナ書」というのがある。ヨナは神様から「悪のはびこる都ニネベに行って、滅びを告げよ。」と命じられるが、ニネベには行かず逃げようとして、結局、海に投げ込まれてしまう。海の中で巨大な魚に飲み込まれ、3日3晩、魚の腹の中にいたヨナは、その深い闇の中で悔い改め、海岸に打ち上げられたヨナは心を入れ替えて、神様に命じられるまま、ニネベに向かった。ところが「ニネベの都は滅びる。」というヨナの預言を聞いて、ニネベの人たちは自分たちの罪を悔い改めて断食し、ひたすら祈ったのである。神様はそれを御覧になって、災いをくだすのをやめられた。ここまでだと、なるほど、それは良かった!と、感謝と讃美で終わるのだが、ヨナ書には続きがある。ニネベの人たちが悔い改めたので滅ぼすのを止められた神様が、ヨナには不満だった。それでは、「ニネベは滅びる」と告げた自分は嘘つきになってしまう。そんな自分一人のことしか考えないヨナに、神様は「とうごまの木」をもって教えられた。
ニネベを出て、焼け付くような日射しに苦しんでいるヨナに、神様は一本のとうごまの木を生えさせ、陰でおおってやった。「ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ」とある。ところが次の日、その木が枯れてしまうと、またもや「生きているよりも、死ぬ方がましです。」と怒るヨナに、神様は言われたのであった。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
今回、長々とヨナの話を書いたのは、この神様の言葉を書きたかったのである。この一月ほどこの言葉が身にしみたことはない。神様がニネベの住民や家畜を「どうして惜しまずにいられるだろう」と言われた、そのお心が迫ってきて、神様がどんな思いで、右も左もわきまえない私たち人間を愛しておられるか、骨身にしみたのであった。
それは、部屋の中にアリが進入しないようにと、ベランダの窓際に殺虫剤を噴射したときに始まった。殺虫剤の臭いに自分が息苦しくなって、これはまずいと思ったとき、目の前の金木犀の木から2羽のヒヨドリがけたたましく飛び立った。えっ!っと驚いて木を見ると、何と巣を作っていたのである。手を伸ばせば届きそうな所に、それも春に刈り込んだから、ほんのこぢんまりとした木に。この殺虫剤の臭いに、もう巣作りは止めてしまうのではないかと思ったが、やがて、あの甲高い「ピーピー」という声を響かせながら帰ってきた。記録していないから記憶はあいまいなのだが、それから数日して声がしなくなった。やはり殺虫剤のせいでどこかに行ってしまったのかと、部屋の中から双眼鏡で見ていると、巣の中でじっとしている。巣作りの時はあんなに騒がしかったのに、卵を抱くと鳴き声もたてないのだ。誰にも悟られたくないのだろうと、ベランダに洗濯物を干すときも、目を合わせないようにと気づかった。ところが、庭に埋められている雨水管を調べるために庭を掘らせて欲しいと管理組合が言った来たのには困ってしまった。鳥が巣をしていますからと言っても鼻であしらわれて、仕方がないから、いろんな理由をつけてともかく延期してもらった。ホッとしたのもつかの間、雨が降り続いていたのが、ついに台風接近とのこと。降り続く雨の中、じっと卵を抱き続ける姿に、もうどうしても巣立ちまで守ってやりたいと思っても、木に傘をさすわけにも行かず、台風ともなればますますどうしようない。それこそ祈るような思いで眠って翌朝、台風一過、晴れ上がった空の下、巣は大丈夫だった。それが、ふと耳を澄ますと、「ヒヨヒヨ、ヒヨヒヨ」と小さな声。何と親鳥は虫をくわえて帰ってくる。卵がかえって雛になったんだと驚くやらうれしいやら。わが子の子育ての時より、夢中になっている自分がおかしかったが、こんなに身近に鳥と過ごせるなんて本当にうれしかった。ところがある朝、5時前頃から、ピーピーを通り越して、キーキーとすごい声で、それこそけたたましく鳴いている。と言っても、ヒヨドリは多いから、その鳴いているのがうちの子だとも思わず、ひどい声だなあ・・くらいに思っていたが、あまりに鳴き止まないので見に行くと、なんと木のすぐ横にある塀の上に大きな猫が! 私の顔を見て猫は去っていったが、2羽の親鳥は鳴き止まない。数分後、また猫が現れて、私がじっと見張っているのを知って、ついにどこかへ行ったしまった。しかし、時すでに遅し、その後、親鳥は餌をくわえてきても、木の回りを飛び回るだけで、巣に入ろうとはしない。どうなったのやら、私にはさっぱり分からない。あんなに鳴いていたのに、どうしてもっとはやく気付いてやらなかったのかと残念でならないが、一度猫にねらわれたら、私だって夜通し庭で猫の見張りをするわけには行かないのだから、それはそれでしようがなかったのだが。親鳥は命がけで卵を抱き、命がけで雛を育てようとしていた。その姿は私に、命は命をもって守べきものなのだと教えてくれた。
私はスズメからアオサギまで、鳥は大小を問わず大好きなのだが、ヒヨドリだけは姿形も、その鳴き声も、厚かましすぎる感じがして、あまり好きではなかった。それが、毎日顔を合わし、「おはよう」と声をかけ、降り続く雨の中じっと卵を抱いている姿を見て、こんなにも愛おしく思うようになった。それこそ、巣作りに気付いてからのほんの短い間に、庭のヒヨドリは私にとって特別な存在になっていた。その時、ふと、ヨナに言われた神様の言葉を思い出したのである。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、ほんのつかの間、心を配っただけのヒヨドリさえそんなに惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、わたしの手で造り、わたしが守り育てた世界中の人間を、惜しまずにいられるだろうか。その人間の命を救うために、わたしの命さえ与えずにおられるだろうか。」
一人一人の人間を滅びから救うために、命さえ惜しまず捨ててくださったキリストの愛!ヒヨドリも、降り続く雨も、木々も草も大空も、すべてはキリストの愛を証しているのだと知らされた日々だった。
その後、草いっぱいの庭をふと見ると、ほんの小さな鳥が、低く飛んでいる。塀にあたっては方向転換をしながらも、隣の庭に飛んでいった。殺虫剤、庭の堀りおこし、台風、猫、様々な受難にもまけず、生きていたのか!と、息をのむ思いだったが、それがあのヒヨドリの雛であったかどうか定かではない。
信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
永遠の命を求めて、共に聖書を読んでみませんか。
この家で聖書集会を始めてからずっと、小さなB5の紙に御言葉と集会案内を書いて、玄関のドアの横に掲げてある。ある時は一人でも多くの人に御言葉を読んでもらおうと毎週御言葉を替えたり、押し花入りの紙に書いたり、色々工夫をしたこともあったけれど、この頃は何ヶ月もそのままで、見るからに色あせた感じだ。今日は久しぶりに筆ペンをとって「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」と書き、その横に小さな字で「永遠の命を求めて、共に聖書を読んでみませんか。どなたでもお越しください。」と書き添えた。この案内を読んで「こんにちは、私も聖書を読みたいのですが」なんて人が現れたらどんなにうれしいことかとちょっと想像してみるが、そう巧くいった試しはない。 何といっても、私のしたいこと№1はやはりイエス様を伝えること。だって私自身、今日までの人生でイエス様を知ったこと以上の喜びはどこにもないし、誰だって、どんな人だってイエス様を本当に知ったら、人生で最高の喜びになるのは間違いないのだから。
そのことに気付かせてくれたのは「何を求めているのか」という、イエス様の御言葉だった。
イエスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、「何を求めているのか」と言われた。
ヨハネ福音書1-38
「何を求めているのか」と問われて、ふと我にかえる。私はいったい何を求めて生きているのだろう。何を求めているのか、その求める内容がはっきりしている時ほど日々の生活に充実感があり、がんばれる。その求めがボンヤリしてくるとダラダラと時を過ごしてしまう。祈りとは、自分がいったい何を求めているのか、本当に求めるべきものは何なのか、心を静めて神様に聴き入るときでもある。
自分が何を求めているのか、耳を傾けて聴かなければ分からないなんておかしな話だと思うけれど、でも本当に大切なことは聴かなければ分からない。ほんの表面の私と、もう少し深く大切な私がいて、表面の私が求めているもの、何が欲しいか、どこに行きたいか、誰と会いたいかなどは聞く必要もない。でも、そんな個々のことが私の本当に求めているものであるはずもなく、もう少し奥深く、私の魂が求めているもの、それは静かに聴き入らなければ分からない。
イエス様に「何を求めているのか」と問われて、じっと聴き入っていると、そうだった、私の求めているのは、そう問うてくださるイエス様御自身だと分かってくる。「イエス様、あなたを」と答えると、「では、わたしに従いなさい」と言われる。そうだった、私にはイエス様に従うという大切な大切な務めがある。そのことに気付くと、今為すべきことがことがはっきりと見えてくる。そんな大層なことではない。この私に与えられた務めはほんの小さなこと。でも、イエス様の望まれることなら、どんな小さなことでもうれしい。喜んで、せいいっぱい、小さな務めに励もうと、新しい力が湧いてくる。
十字架にかかり死んで復活し、今も共にいてくださる主イエス様。
その喜びの御言葉を二つ。
*「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」マタイ14:27
夜の湖、逆風に波は高く、弟子たちの舟は一晩中漕ぎ悩んでいた。やっと夜が明けはじめた頃、湖上を歩いて近づいてくる人影に、幽霊かと恐怖のあまり叫び声をあげる弟子たち。その時「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とイエス様が言われる。この記事をくり返し読んでいると、この出来事の中心は「わたしだ」と言われるイエス様だと分かってくる。思いがけないことが起き、どうして良いか分からず途方に暮れる時、「安心しなさい」と言ってくださるお方がいる。すぐ側に来て「わたしだ。恐れることはない」と言ってくださるイエス様がおられる。
これが今私たちの生かされている福音の世界なのだ。どんなに闇が深くても、一寸先が見えなくても、「わたしだ」と言ってくださる主がおられる。
*「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」ルカ23:43
このイエス様の言葉ほど、私たちに希望を与え、最後まで祈り続ける勇気を与えてくれるものはない。イエス様の開かれた楽園(パラダイス)への一番乗りは、自分の犯した罪ゆえに死刑にされたこの人だった。どうしてこの人が楽園に行ったのか。聖書の記事を読めばよく分かる。
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。・・・・・十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:32~43)
この人は、十字架刑という苦しみも自分のやったことの報いだと認め、その苦しみを逃れようとはせず、ただイエス様に「わたしを思い出してください」と願った。この世での救い(十字架から降ろしてもらうこと)でなく、魂の救い(永遠の命)を願った。死の苦しみの中にありながら、自分の罪の姿を見て嘆いたり、そんな自分に囚われ続けることなく、罪もないのに罪を負い、共に苦しんでいてくださるイエス様を見つめた。
「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」と主は言われる。
どうか、すべての人が罪なる自分に留まることなく、「わたしのもとに来なさい」と、今も呼んでいてくださる主を見上げることができますように。
「一人も滅びないで」とのテーマで、高知で開催された今年の四国集会は第34回となっていた。30数年、学んできた内容は忘れても、四国集会で生けるイエス様に出会ったという印象は決して薄れない。まだ幼かった子供たちを連れて参加した香川での四国集会、会場でじっとしていられない子供たちを連れて散歩に出て、池の辺にすわると目の前に一輪のあざやかな花が、「わたしはいる。生きている。」と語ってくれた。今年も早朝少しの時間、散歩に出て高知城に続く草の繁みに腰を下ろし目を閉じると、「わたしがもてなす」と。「わたしを慕って集まった人たちを、わたし自らがもてなそう」と。キリスト集会とはイエス様が真の主催者であり、参加する一人一人を自らもてなしてくださるのだと知らされて、喜びにあふれた。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
「一人も滅びないで」とは神様のご意志であり、イエス様の祈りである。一人も滅びないようにと、神様はすべての人の救い主として、イエス・キリストを与えてくださった。イエス様は一人も滅びないようにと祈りつつ、十字架についてすべての人に救いの道を開いてくださった。
人を滅ぼすもの、「死」と「罪」と、その根源は一つである。人はみな、知ってか知らずか、罪と死の力にがんじがらめになって苦しみ悶えている。どんなに科学が進歩し、政治経済、文化の発展に努めても、人は自分たちを滅びに至らせる「死」と「罪」から逃れることはできないからである。罪とは神様に背くこと、神様の義と愛を踏みにじる私たちの不従順。イエス・キリストはそのすべての罪を担い十字架につき、死んで復活し、滅びに至らせる「罪」と「死」から私たちを解放してくださった。「一人も滅びないで永遠の命を得るため」に。
神様がイエス様を与えてくださった。
イエス様が私たちの罪を担い
死んで、復活し
私たちを滅びから救ってくださった。
みんなみんな、みんな
神様がしてくださったこと。
イエス様がしてくださったこと。
私たちは受けるだけ、
喜んで、ただひれ伏して、涙して、
「ありがとうございます」と
ただ受けるだけ。
太陽の光を受けるように、
降り注ぐ雨を受けるように、
神様の愛を受けて、
永遠の命を喜び歌う私たちに、
イエス様はいわれる。
「この喜びのおとづれは、
ただで受けたのだからただで与えよ」。
イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」マルコ30~32
昨年12月、宅急便で、黄色い筒状の花が付いたからしの枝と共にからし種が送られてきた。花は日本で育てたものだが、種はイスラエルから持ち帰ったものだと聞けば、どうにかして育てたいと、祈るような思いで小さな鉢に種を蒔いた。イエス様が「どんな種よりも小さい」と言われたように、本当に小さく、一つ二つと出始めた芽は、ルーペで見たいほど小さい双葉だった。芽は次々と出るのだが、2,3ミリになると消えてしまって双葉以上にはなかなか育たない。そんな中で葉の枚数も増えやっと1㎝くらいまで成長したものが二つ、春を迎えた。この温かさならもう大丈夫だろうと、大きな鉢に植え替えて外に出し、日に当てたり、日陰に置いたり、水をやったり、やりすぎたと反省したり、ともかく一日に何度も見ていたのに、ある朝、無惨にもナメクジに食べられて瀕死の状態になっていた。ダメかも知れないと思いながら、それでもナメクジを退治して見守っていると、新しい葉が出て、その葉は見る見る大きく4㎝ほどにもなり枚数も増え、今は元気いっぱいだ。
この5ヶ月間、からし種を育てながら、イエス様の種まきのたとえ話がどんなに身近になったことか。種は命である。種がなければ何も始まらない。神様の命の種(御言葉)が蒔かれると、それは私たちの内で「信仰」という芽を出し成長する。種に気付かなければ落ちても芽を出さない。芽を出しても大切に思わなければ根付かない。心の中に茨がある時には根付いても成長しない。神様を求める心、従う心があるなら、信仰の芽はぐんぐん成長し必ず豊かな実を結ぶ。
もう一つのたとえ話がある。
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」マルコ4
ここでも大切なのは種が蒔かれること。「水の上にパンを投げよ」「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」とあるように、御言葉の種まきによって神の国は前進するのだ。わが家で成長中のからしの苗も、その種を送ってくださる方がなかったら、決して芽生えることはなかった。私たちの命の種となってくださったイエス様。その種を成長させ、実りを与えてくださるのは神様であることを決して忘れずに、何よりも祈りをもって、この荒れ果てた日本の地に、すべてのクリスチャンが種まきを続けることができますように。「一人も滅びないために」
「わたしが愛したように」 「逃れの道」
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネ福音書13章34節)
「わたしがあなたがたを愛したように」とイエス様は言われる。「イエス様が私を愛してくださったように」とつぶやいてみる。イエス様はこの私を、ただの一度も意地悪な冷たい眼で見られたことがない。「あなたが悪い」「あなたが間違っている」「あなたのせいだ」「あなたの不注意、あなたの軽率さ、あなたの傲慢、あなたの甘え・・・」どんなに責められても当然なのに、イエス様はただの一度もそう言って、私を責められたことがない。悪いことを思ったりしたりしていると、悲しそうに見ておられ、「帰っておいで」と呼んでくださる。それに気づいて「ごめんなさい」と口にしても、すぐには返事をなさらない。罪の深さが心底分かり、涙となってあふれるまで、黙って待っていてくださる。
「愛し合いなさい」というのは、どこにでもある教えかもしれない。でも「わたしがあなたがたを愛したように」とイエス様が言われる時、それは世界中にたった一つの教えとなる。限りなく美しい、命に満ちた教えとなる。
愛は忍耐強い。 (コリントの信徒への手紙1 13章4節)
この言葉ほど自分が愛と無縁な存在であることを実感させてくれる言葉はない。最近も「ここで静かに祈って待てば」と分かりながら、どうしても待てないでひどい言葉を口にしてしまった。そのことに辛い思いをかかえて、ずっと以前にいただいたCDを聞いているとハッとする歌詞に出会った。
微笑んでよかった
黙っていてよかった
悪口を言わないでよかった
がまんしてよかった
怒らないでよかった
優しく言ってよかった
お祈りしてよかった
よかった
よかった
よかっただけを
そうか、「よかった」というのはすべて忍耐から生まれるのだ。相手を気遣ってほほ笑むことも、しゃべりたい時に黙ることも、言いたい悪口を言わないことも、がまんすることも、怒らないことも、優しく言うことも、静かに祈ることも、みんなみんな愛するがゆえの忍耐から生まれるのだ。私がいつも反省ばかりしているのは、黙っておれなくてしゃべってしまい、悪口を言ってしまい、がまんできなくて、怒ってしまい、お祈りはいつも後回し・・・、これでは「よかった」でなく「ああ、わるかった」の連続なのも無理はない。「ごまんで、ぶっきらぼうで、利己的になるのは、いともたやすいことです。」(マザーテレサの言葉)ありのままの私は、この「いともたやすい」道を突っ走ろうとするけれど、ふっと気づくとそんな私を「微笑んで、黙って、悪く言わないで、がまんして、怒らないで、優しく祈って」待っていてくださるお方がいる。「帰っておいで」と静かに呼んでいてくださるお方がいる。
主イエス様、忍耐のかけらもない私ですが、いつも忍耐していてくださるあなたに「よかった」と言っていただけるように、喜んであなたの許に帰ります。それが私にできるすべてですから、あなたに向かって一目散に走ります。
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(コリント信徒への手紙1 10章13節)
この聖句は御言葉入りハガキなどにもよく用いられ、試練の中にある人にはピッタリだと思う反面、私の中でどうしても納得のいかないものがあった。それは「耐えられない試練に遭わせることはなさらず」という箇所で、じゃあ、なぜ人は自殺したり、自分の辛い事を呪い続けたりするのだろう、それはその人にとっては、与えられた試練が耐えられない試練だったからではないかと、いつも心のどこかで引っかかっていたのだ。
今回水曜の学びでこの箇所を学んでいて、自分の大きな過ちに気がついた。この聖句は「神は真実な方です」の次に「その神を信じるならば」という言葉が省かれているのだ。省かれているというより、「神は真実な方です。」という告白の中に、その神への深い信頼が込められており、神の真実を信じるとき、耐えられないような試練はなく、たとえステパノのように石の嵐に打たれて死ぬ時も、良く耐えて天を見上げて死んでいけるということなのだ。
また、「逃れる道」とはイエス様のことだと聞いたことがあったが、それも良く分かった。すなわち、試練に耐えられるように、イエス様がいつも共にいてくださる。そのイエス様が苦しみ、痛み、悲しみの時にも、逃れ場となってくださるということなのだ。試練といえるほどの試練に遭ったことのない私でも、イエス様という逃れ場に逃れて助けられたことは数え切れない。試練の時「イエス様」と呼ぶだけで、「助けてください」と叫ぶことのできるお方がいるというだけで、人知を超えた平安に包まれる。
春は旅立ちの時、多くの若者が学びを終えて社会の荒波の中に船出していく。風の日もあろう、嵐の日もあろう、困難が待ち受けているであろう一人一人に、このみ言葉を送りたい。
ルカによる福音書16章に「金持ちとラザロ」という記事があるが、一度読んだら忘れられない記事である。
毎日着飾ってぜいたくに遊び暮らす金持ちと、その門前に横たわっていつもお腹を空かせているできものだらけの貧しいラザロ。その二人が死後の世界では立場が逆転し、ラザロはアブラハムと共に天の宴席についており、金持ちのほうは炎の中でもだえ苦しんでいる。苦しみのあまり「ラザロをよこして、指先に水を浸し、わたしの舌を冷やさせてください。」と言う金持ちに、アブラハムは答えるのである。
『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
人間、死んでしまえばお終いだなどと聖書は決して言っていない。この世でいかに生きるか、その生き方が来世におよぶのだとこの記事は明言している。神は愛である。だからご自分の似姿である人間も、助け合って、共に生きるようにと造られた。他人の苦しみに無関心で、自分さえ楽しければよいという生き方が裁かれないはずはない。
ここに、私たちはこの世でいかに生きるべきかと言う問題が出てくる。神も、裁きも、来世も何もないなら、好きなように生きて好きなように死んでいけばそれで良いかも知れない。しかし聖書は決してそうは言わない。この記事を人ごととして読んでいるうちは良かったが、いったい自分は「金持ち」の側なんだろうか、「ラザロ」の側なんだろうかと考え始めると、恐ろしくなってくる。世界中には食事も満足に食べられなくて、飢えで死んでいく人は大勢いる。住む家もなく、子供たちが学校にも行けない難民の姿をテレビで見ていると、今の日本にいるだけで「お前は生きている間に良いものをもらっていた」と言われそうな気がする。
人は裁きの日のためにいかに備えるべきか、この世にあっていかに生きるべきか、「ラザロと金持ち」の記事は後半、次のように続く。
「金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
「なるほど」っと思う。「来世があることが証明されたら人は生き方を変えるだろう。来世から来たラザロの言葉になら、兄弟たちも耳を傾けるだろう。」と、人は思うかも知れない。しかし、人間とはそう簡単な存在ではない。「こうすればこうなる」と分かったくらいで、生き方を変えることなどできはしない。戦争をすればどれだけ多くの人が死に、お互いにどれほど苦しまなければならないか、60年前にいやと言うほど味わい知ったはずである。なのに、平和憲法を変えて再び戦争に備えようとする。毎日多量のお酒を飲んでいればアル中になってしまう。そんなこと分かっているよと言いながら、お酒を、ギャンブルを、・・・悪口を、いじめを、偽善を、自分でも嫌になる傲慢な言葉や行いを止めることができない。「神様を見たい、神様を見て、神様の声をはっきりとこの耳で聞いたら従います。」と人は言う。だが、2000年前、神が人となってこの世に来て下さって、神の愛と真実を現されたとき、人は従うどころか、こんな神などいらないと十字架につけて殺してしまったのだ。
この記事は、人が悔い改めるために来世からの使者などはいらない、「モーセと預言者」に耳を傾けるがよいと告げている。「モーセと預言者」とは今の私たちにはとっては「聖書」である。悔い改めて救われるためには、特別な奇跡も不思議な出来事もいらない。聖書の中にはすべてが啓示されている。この聖書を開けて読めばよい、聖書の言葉に耳を傾ければよい、と言うのである。
本当に、本当に驚くべきことだが、聖書には神様の言葉がそのまま記され、読みながら耳を澄ませば聞こえてくる。「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う、恐れるな、わたしはあなたを助ける。」と。
私たちの救い主、イエス・キリストの言葉がそのまま記され、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」と、語っておられるのが聞こえてくる。
聖書に聞かずして、私たちは何をもって神様を、イエス・キリストを知ることができるだろう。何をもって十字架による罪の赦しと永遠の命を、やがて来る新しい天と地を信じることができるだろう。
最近、心の病のため何も信じられなくなった人と話をした。何も、誰も信じられない、すべてが疑心暗鬼、不安と恐怖、そこには生きる力や希望は決して生まれてこない。人間が生きるために、「信じる」ということがどんなに大切であるかを実感する。それでも時として、人が信じられなくなることがある。他人を見て失望し、自分を見て絶望する。そんな時ほどイエス様を知っていてよかったと思うことはない。何と幸いなことだろう。いついかなる時にも信じることのできる、一点の虚偽もない、真実なお方を神様は私たちに与えてくださった。イエス様を知った日から今日まで、このお方がいるから生きていけると、何度、何度胸ふるわせてきたことか。
聖書を読み続けるとき、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」(ロマ11:36)という時空を超えた驚くべき大きな流れの中に、世界も宇宙も私たち一人一人も包み込まれて、神の栄光に向かって進んでいるのを知るのである。
うれしいなあ、今日も神様を信じて生きる
聖書を読んで、お祈りをして。
いい日だなあ、今日もイエス様についていく
「教えてください」「助けてください」「赦してください」
いろんなことを言いながら。
「イエスさま」「イエスさま」と呼ぶたびに
なぜか心が明るくなって
このイエス様と共にいる喜びは
永遠に続くのだとわかってくる。
さあ、今月も「福音」を書こうと考えていると、「祈の友 近畿通信・562号」が届いた。今年1月からから毎月、この近畿通信をコピーして大阪A・B・C地区35名にお送りする仕事が与えられたので、もう届く頃かなあと心待ちにしていたところだった。今月は兵庫B地区の方15名の通信が載っているが、読んでいて心が「ふわっと明るく」なってきた。
「恵みを数え感謝して春の来るのを待ちます。やっとこの字が書けるようになりました。」「乳ガンで半年しかもたないと言われましたが、生かされ今はCSの教師をしています。」「お祈りありがとうございます。102才の父も守られています。私は主人のリハビリに励んでいます。」「引っ越して新生活になじみつつ、お隣の栄光園でボランティアをさせて頂こうと待機しています。」「御言葉にふれては、我を思いだす日々です。」「今年も家族の救いを祈り続けます。」「83才、一日一日精一杯生きるつもりです。」「作業所のボランティアとして頑張ります。」「命ある限り主の御心のままに生かされたいと祈っている81才です。」「恵みに満たされ喜びと平安の中、穏やかに過ごしています。皆々様の上に、祈り上げます。」「リウマチ発症30年、多くの試練を通し、主の助けと支えを感謝!全てを主に委ね貴重な一日一日を大切に前向きに歩みたいと願っています。」
一昨年になるだろうか、「祈の友近畿地区の集い」に出席して一度お会いしただけだけれど、お顔が思い浮かぶ方もいる。そしてその時、何より驚いたのは、参加者の平均年齢が80才を越えているのではないだろうか、と思ったこと。でも、そのことが妙に嬉しかった。若い人が元気なのは当たり前。こうして世では老人といわれる人々が、輝く笑顔でボランティアや教会の奉仕に励んでおられる。病苦に耐え、祈りと感謝を捧げておられる。昼食の後、死について、葬儀などについても真剣に、それでいてユーモラスに話し合い、午後3時の祈りの後、まるくなって手を繋いで声の限りに歌った讃美歌もなつかしい。
そうだ、キリスト信仰って、何もそんなに難しいものじゃない。信仰は考えたり語ったりするものではなく、こうして生きるものなのだ。神は愛なりと信じ、イエス様が成し遂げてくださった十字架による救いを信じ、日々御言葉に従って生きること。
「絶えず祈りなさい」とあるから、事ある毎にひざまずいて「神様」と呼び、御声に耳を傾けて、「愛し合いなさい」とあるから、困っている人、助けの必要な人はいないかなあ、私にも出来ることはないかなあと、いつもアンテナを張って回りを見回す。「悔い改めなさい」とあるから、間違ったことをしてしまった時、悪い思いを持った時、心が神様から離れていると気付いた時には、「ごめんなさい」と立ち帰る。この頃、特に思わされるのは「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ロマ書12:21)という御言葉だが、こうして年老いるまでキリスト信仰を続けてこられた方は、この御言葉を身をもって生きてこられたに違いない。悪に負けるとは、何よりもまず信仰を失うことであり、善とは何よりもまず神様を信じることなのだから。
まだまだ実感にならないことを安易に言ってはならないが、年老いるとは、やはり大変なことに違いない。でも、そんな中で、そんな中でこそ命の限りに守り抜くべきものがあるとは、何と幸いなことだろう。神様を信じ続け、キリストにすがり続け、悪に負けないで善を求め続ける、そこにこのような「ふわっとした明るさ」が生まれるのだと、この「通信」は教えてくれた。
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
この世に悪の多いことを嘆くより、善をもって悪に勝つすべを学びたいと思うに至った。社会悪に立ち向かうような、大きなことはできなくても、私にもできる小さなことから始めよう。そびえ立つ樹木も、はじめは小さな苗木だった。小さなことも、そこに命が通うなら、きっと豊に広がっていく。
そうは言っても、「悪に悪を返さず・・・」というのは、何と、何と難しいことだろう。私の心は相手の心を映す鏡のようで、「ありがとう」と言われれば「ありがとう」と返したくなり、「あなたはダメだ」と言われれば「あなたこそダメだ」と返したくなる。そんな私が、それでも悪に悪を返すのではなく、どんな時にも善をもって返したいと願うようになったのは、少しは人生というものが分かってきたからだろうか。良い人生とは、どんな悪意にも負けないで善意を持ち続けた人生にちがいない。この世を去るときに「良かった」と思える人生とは、どの人の悪口も言わず、善きことだけを願い続けた人生に違いない。そんな夢のようなことを考えながら、聖書を読んでいるとアッと驚く聖句に出会った。
「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、
多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」創世記50:20
有名なヨセフ物語の終わりの言葉だけれど、弟ヨセフを亡き者にしようとした兄たちの悪意を、確かに神様は善に変えてくださった。ヨセフがエジプトに売られ、ポテパルの妻の悪意で牢獄に入れられ、苦しみを重ね、その後、ファラオの夢を解いてエジプトの大臣となる。そしてそこに兄たちや父もやって来て、このアッと驚く御言葉が成就することとなった。なるほど、これが神様の勝利のされ方なのだ。人々のどんな悪意にも負けず、置かれた場で善意を持ち続けたヨセフ。その時神様は、悪を善に変えてくださった。もし、ヨセフが人々の悪意に恨みや憎しみを募らせていたなら、悪が善に変えられることはなかっただろう。
われらが主、イエス・キリストを思う。このお方こそ人々のどんな悪にも、死に至るまで善をもって応えられたお方。その故に、神様は「復活」という最大の善をお与えくださった。そして今も、私たち一人一人のどうしようもない悪を善に変えていてくださる。
主イエス様、私にも、どんな悪意にもつぶされない、変わらぬ善意を与えてください。どんな悪事にもこわされない、たゆまぬ善事に励ませてください。そして、そのことによって、少しでもこの世の悪を善に変えることができますように。たとえ、内なる悪や外なる悪に負けることがあっても、日々、この祈りに立ち帰ることを得させてください。
イエスは言われた。
「子供たちを来させなさい。
わたしのところに来るのを妨げてはならない。
天の国はこのような者たちのものである。」
(マタイ19:14)
今年のクリスチャンホームカレンダーの絵を見たとき、あれっと思った。でも、このカレンダーが残ったので、結局玄関と、私の机の横と、夫の机の前と、わが家には3枚、この絵がはられている。絵の説明を読んでみると、フリッツ・フォン・ウーデ「子供らをわがもとに来さしめよ」1884年 後期印象派時代 と書かれているが、一目見てイエス様と思われる人のもとに、小さな子供たちを連れてきて祝福を受けている絵だ。なぜ「あれっ」と思ったかというと、イエス様はイエス様なのに、ここに描かれている部屋にはガラス窓があり、子供たちは編み上げの靴など履いている。どう見てもイエス様が地上を歩まれた時代ではなく、この絵が描かれた19世紀にイエス様が座っておられるのだ。おかしな絵だなあと思いながら、特に心に留めることもなかったのだが。
先日、昨年から始めた短期里親の研修で児童養護施設に行った。家庭に子供を預かるだけでなく、施設で暮らしている子供たちの姿を知るためだが、昼間子供たちは学校に行っているので施設に残っているのは2才から5,6才のほんの小さな子供たちだけ。座っていると膝の上に2人、背中に3人と乗ってきて、その柔らかいこと、可愛らしいこと。この施設にいる子の7割が虐待を受けてここに来たと聞いて驚いたが、そんなことはみじんも感じさせない明るい良い子たちだ。研修の2日目、この学園に入ってから、一度の面会もないという4才の男の子の世話をまかされた。この子にとって「自分だけのおばちゃん」は始めてのようで、遊ぶときも、食事の時も、トイレに行く時も私の手を離さない。「S君のおばちゃんよ」と先生に言われたときから、他の子がすり寄ってくるのも許さない。この子は、いや、この子だけでない、みんな自分だけのお母さん、自分だけのお父さんがほしいのだ。お母さんやお父さんでなくてもいい、「僕のおじいちゃん」「私のおばあちゃん」と子供たちが口にする時のうれしそうなこと。おじいちゃんやおばあちゃんでなくても他人の私でもいい「S君だけのおばちゃん」が、こんなにもうれしいのかと目頭が熱くなる。でも、お昼寝から目覚めたらおばちゃんはいない。僕だけの、私だけのという、この子たちの渇きを満たしてあげることはできないのだ。
そんな辛い思いをもって帰って来て、ふとウーデの絵を見た。ここでイエス様に手を取られている子は満ち足りている、私だけのイエス様じゃないのに、みんなのイエス様なのに、イエス様をじっと見るだけで、イエス様に見つめられるだけで、この子の全身は満ち足りている。これが祝福というものなのだ。この子は、イエス様はみんなのイエス様だけれど、私だけのイエス様であることを知っている。イエス様からいただいた祝福は、遊んでいるときも、お昼寝から目覚めたときも決して消えないことを知っている。
この地上に一度だけ来てくださって、33年の生涯を歩まれ、天に帰られたイエス様。そのイエス様が十字架にかけられる前「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」と言われた。ウーデの絵を見ながら、いつの時代にもイエス様は私たちの暮らしのただ中におられるのだと実感する。みんなのイエス様でありながら、私だけのイエス様。私だけのイエス様でありながら、みんなを祝福で満ち足らせてくださるイエス様。これが神様の愛の姿なのだと思う。
いつの時代にも、どこの国にも、寂しい子供、孤独な人は大勢いる。満たされない思いを抱えてじっと我慢している人は数え切れないだろう。その一人一人が、どうかイエス様に出会ってほしい。イエス様だけが、一人一人を祝福という愛で満ち足らせ、生きる喜びを与え、どんな時にも共にいてくださるお方なのだから。
新しい年を迎えて
1900年代が終わり2000年代になることに、ちょっとだけ興奮して、その頃山で撮った美しい雲の写真に「ミレニアムの空」と名付けたりしたのが、昨日のように思いだされるが、それから早7年もたってしまった。7年、この7年間私はいったい何をしていたのだろうと思っていると、じわっと涙がにじむ。
神様が与えてくださったこの命を生きたと言えるほどに生きてこなかった。動く足が与えられているのに、愛のためにどれだけ歩いただろう。手で字が書けるのに、慰めや励ましをどれだけ書いただろう。苦しみ痛む人と出会いながら、どれだけ祈っただろう。日本の宝である平和憲法が変えられるというのに、どれだけ真剣に考えただろう。いや、それよりも、何よりも、私を虚無の淵から命へと救い出してくださったイエス・キリストをいったい何人の人に証ししただろう。
新約聖書の中に特に心惹かれる記事と御言葉がある。
イエス様が十字架につけられる一週間ほど前、ライ病人シモンの家で食事をしておられたとき、純粋で非常に高価なナルドの香油をイエス様に注ぎかけた一人の女性がいた。「なぜこんなに香油を無駄遣いしたのか。」と憤慨する人たち。しかしイエス様は言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」
この女の人には、もうすぐイエス様が死なれることが分かっていたのだろうか。だから、この時とばかり香油を注いだのだろうか。それとも、ただ持てるすべてをイエス様に捧げたいと溢れる愛の現れだったのか。どちらにしても、愛は計算しない。なのに愛はいつも最善のことを知っている。
私もまた、イエス様から「この人はできるかぎりのことをした。」と言っていただけるように生きたい。それが死から命へと移し入れてくださったイエス様に対する私の務めだと思っている。なのに、ふと気がつくと何かが空回りをして、気落ちしている自分がいる。そうなのだ、その時、私の内にはナルドの香油がなくなっているのだ。イエス様に捧げるナルドの香油は、まずイエス様から豊かに注がれなければならない。
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53)
新しい年、まずこのイエス様を見上げて、こんなにも愛されているのだという喜びから始めよう。