福 音 著者:大阪狭山聖書集会代表者(月刊誌) 2002年度最新版より 福音TOPへのリンク 福音2003年度(最新版) 福音2001年度最新版へのリンク |
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アケボノソウ |
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月 | 号数 | 内容・もくじ |
12 | 175 | 「聖霊」「クリスマス」「聖霊の働き」 |
11 | 174 |
御国への道」「今は救いの日」「もしわたしが洗わないなら」
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10 | 173 | 「あなたにも神様の愛を」と「世界食糧デーに」 |
9 | 172 | 「詩編49編」、「祝福の言葉」、「目的は神様」 |
8 | 171 | あなたが呼べば イエスの愛 希望 |
7 | 170 | 貧しい人の幸い 羊が命を受けるため 生きよ |
6 | 169 | サレナム(避けどころ) |
5 | 168 | 「平和」 |
4 | 167 | 「祈り」「求めなさい、そうすれば与えられる。 |
3 | 166 | 「わたしを見た者は、父を見たのだ」「死後の希望」 |
2 | 165 | ハガイ書・詩編27・ヨハネ8章から |
1 | 164 | 罪の赦し・赦される喜び・みことばに照らされて |
=聖霊について= 12月はクリスマスの月。人類の救い主、イエス・キリスト様が人となってこの世に来てくださったことを記念する月。 二〇〇〇年近く前、この世に神の子が生まれ、この地上を歩かれた。そのことを思っていると、ふと、月に行ったアポロ飛行士が月に降りたって歩いている姿を思い出した。あの美しく輝く月の表面を人間が歩く日が来るなんて、誰が思ったことだろう。神がこの地球に来られた日、人間が月に行った日。だが、神様のなさることと人間のすることの違いがそこにもはっきりと現れている。人間が月に行っても、みんなが大騒ぎしただけで、世界も、人の心も、何も変わりはしなかった。だが、神が人となってこの地上に来てくださった日、世界は変わった。紀元前が紀元になり、死は滅ぼされ、私たちに月も宇宙も超えて天国にいく道が開かれた。 ところが、人間のすることは誰にでも分かるのに、そして素晴らしい素晴らしいと誉め讃えるのに、神様のなさることは人間にはベールがかかっていて、なかなかわからない。 「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです」(1コリント2:14)とあるように、人類にとって最重要な出来事、イエス・キリストの誕生さえ、生まれながらの人間には受け入れられない。まだ結婚もしていないマリアから子供が産まれたなんてバカげたことだ、とあざ笑う。だが、聖書に書かれていることを、そんなに簡単に否定してしまってはいけない。聖書を開けて注意深くイエスキリストの誕生の記事を読んでみると、そこに「聖霊」というキーワードを見つけるだろう。 「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」マタイ1:20 「聖霊があなた(マリア)に降り、いと高き方の力があなたを包む。」ルカ1:35 私には愛がない。でも、聖霊は私に神の愛を与えることがおできになる。聖霊によって、自己中心の固まりのような私の心に愛が生まれる。私には喜びがない。でも聖霊は私に天の喜びを与えることがおできになる。聖霊によって無気力な私の心に天的な喜びが生まれる。聖霊は真に良きものを私たちの内に宿らせてくださる。 聖霊はマリアの内に人類への賜物、最も良きもの、最大の喜び、イエス・キリストを宿らせてくださった。聖霊がいますこと、その御力を知った者には何の不思議もない。 新約聖書を注意深く読んでみると、イエス誕生の記事の他にも、聖霊の働きはいろいろなところに記されている。イエス様が十字架につけられる前夜、弟子たちに最後に話されたのも「聖霊を与える」という御約束だった。 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者(聖霊)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。(ヨハネ14:16〜17) イエス様はご自分がこの世を去っていくことによって、信じる者に聖霊を与えると約束された。、聖霊は真理の霊であるから、私たちにすべてのことを教え、弁護者であるから、どんな時にも側にいて、私たちを慰め励ましてくださる。洗礼者ヨハネはイエス様のことを「聖霊によってバプテスマをさずけるお方」である言ったが、それは、聖霊が私たちを新しく造りかえてくださるということである。 イエス様が捕らえられ、十字架にかけられるときには怖くて逃げてしまった弟子たちが、死をも恐れずイエスの復活をのべ伝えるようになったのは、確かに聖霊を受けてからだった。 石で打たれて死んでいくステパノは、聖霊に満たされて「この罪を彼らに負わせないでください」と叫んだ。反対に聖霊を欺いたアナニアとサッピラは、即座に息絶えて葬られた。イエス様が天に帰られてから、この世界にキリストを伝えたのは、信じる一人一人の中に住まわれる聖霊だった。人間の力では、ただの一人にもキリストを伝えることは出来ない。誰でも聖霊によらなければ「イエスは主である」とは言えないのだから。(1コリント12:3) かの内村鑑三の「ただ一つ」の祈りも聖霊を求める祈りだった。 神様、私は今はあなたの御恵みによりまして、何も他には欲しくありません。金も欲しくありません。名誉も欲しくありません。人望も欲しくありません。学問も技芸、才能も欲しくありません。 私は今、ただあなたの聖霊が欲しいのです。これをいただいてあなたの深きこころがわかり、人生の意味がわかり、死がこわくなくなり、来世が明白になり、善が自然と私の心より湧きいでて、美が自然と私の身より輝くようになりたいのです。私の欲しいものはただそれだけです。すなわち、あなたの聖霊であります。 (はこ舟417号より) イエス様は「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)と約束してくださったから、日々、神様に祈り求めていこう。 「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」エペソ書4:26〜30とあるように、聖霊が悲しみつつ去って行かれることのないように、できるだけ清らかな毎日を送ろう。 聖霊はへりくだったお方だから、高ぶる者の心は居心地が悪いに違いない。できるだけいつも低い心でいよう。聖霊は特に迫害の時に豊かに与えられると書いてある。安易な生活を楽しむより、少しでも苦しむ人に近づこう。 マリアが聖霊によってイエス・キリストを宿したように、私たち一人一人の心にも、イエス・キリストは来てくださる。クリスマスは、神の愛を待ち望む一人一人の心にイエス・キリストが生まれてくださる喜びの日。私たちが罪から救われ、いついかなる時も神様と共に歩むようにと。 ♪あなたの心に いえすさまが この夜お生まれなさったらすばらしい すばらしい クリスマス。 クリスマスおめでとう。 ハレルヤ ♪ (こどもさんびか) 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 内容・もくじへ戻る。 「御国への道」「今は救いの日」「もしわたしが洗わないなら」 御国への道 歩むとき 主は共にいまし 御言葉により導き給う 日々主 共にいます 新聖歌329 「誰でも、どこででも口ずさめる讃美です」と紹介されたけれど、この歌詞が心に強く響いてきたのは、一人、心沈むときだった。私の人生は御国への旅路なのだと喜びいっぱいの時には分からなかった深い意味が、少しわかったような気がした。 御国への道、それは決して安らぎや喜びだけではない。共にいてくださる主の有り難さが心底分かるのは、悲しみの時、孤独の時、御言葉だけが頼みの時。 御国への道 歩むとき 主は道を照らし 光の内に導き給う 暗きも恐れなし 御国への道に、闇がないなら光はいらない。明るく楽しいだけの人生なら、道を照らしてくださる主を求めることもないだろう。抜け道のないトンネルの中で「暗きも恐れなし」と歌えるのは、今、この時も御国への道と信じればこそ。御国への道歩むとき 主は平安与え祈るわれらを導き給う 主はわが全てなり 御国への道は祈りの道。祈りによって平安を得、主こそわが全てと歌う道。 主は共に主は共に 主は共にいまし 御国への道 歩むとき 主は導き給う 主イエスの歩まれた御国への道、それは十字架の道だった。私の罪を背負って黙々と歩き続けてくださった道だった。 見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。(Uコリント6:2) 私はこの頃ずっと歯医者に通っています。奥歯が一つ、歯茎が腫れて膿がたまるようになっていたのに、いつまでも放っておいたので、歯を完璧に治療しても十分に噛めなくなってしまいました。今も仮歯と言うのを入れていますが、リンゴを噛みしめても痛くて、うんざりです。リンゴを噛み、その痛みを味わいながら、考えました。これは、歯茎が悪くなっているのが分かっていたのに、すぐに治療を受けなかったからだ。いや、私は一応歯医者さんに行ったのに、のんきな歯医者さんが「これくらいなら大丈夫でしょう」と、表面に薬を付けてお終いだったのです。私もその方が楽なので、その言葉を簡単に信じ、そのうちいつか良くなるだろうと思っている内に、ついに痛くて噛めなくなってしまったというわけです。 これは重要な戒めを含んでいると気づきました。自分の罪に少しでも心が痛んだとき、これはいけないと気づいたとき、すぐに神様に何もかも告白して悔い改めなければならないのです。放っておくと、心の痛みもいつしか麻痺してしまって、表面は事も無げに時が過ぎていって、ついには魂が滅んでしまいます。「こんなことしてしまって」と人に告白しても、「それくらい誰でもあるんだからいいんじゃない」と安易に答えられ、自分もその方が楽だから、ついついそのままで済ませてしまう。罪を罪と感じる心を失ってしまってはお終いです。たとえ罪を感じなくなったからと言って罪が無くなったわけではありません。「罪の支払う報酬は死である」ことに違いはありません。 心が痛むとき、人生このままではいけないんじゃないかと、何故が責められる思いがするとき、それは神様が心の扉をノックしてくださっている時です。周りの人がどう言おうと、「神様、赦してください」とひれ伏して、全ての人に開かれたキリストの十字架による罪の赦しをいただこうではありませんか。 「友への手紙2」=もしわたしがあなたを洗わないなら= 先日、礼拝でヨハネによる福音書、13章1〜11節を学びました。キリスト教ってこれだ!と心に深く響くものがありましたので、書いておきますね。この記事に込められたイエス様の愛を知れば、その愛は人の愛ではなく、神の愛だと分かるはずです。イエスは神ではないからイエスを礼拝してはいけない、などと言う教えがいかに間違ったものであるか、あなたにも本物のキリスト教を知ってほしいのです。 この箇所は「弟子の足を洗う」というタイトルが付いているように、イエス様が十字架に付けられる前日、食事の席で弟子たちの足を洗われた記事です。「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り」とあるように、イエス様はこの時、もうすぐご自分が死ぬことをご存じでした。人は死に臨んで、いったい何を為そうとするでしょう。死によっても無にならないこととは何でしょう。イエス様がされたのは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれ」、その愛の印として弟子たちの足を洗うということでした。「愛は決して滅びない」からです。 足を洗うという言葉をそのまま読むと、イエス様の低さは伝わってくるけれど、その意味の重さは分かりません。今回はそのことを特に学びました。 イエス・キリストが私の罪のために十字架についてくださったと信じる時、私たちは赦されます。でも、誰でも経験するように、一度信じて赦されたら、それ以来ずーっと天使のように清い心というわけには行きません。この世に生きている限り、神様に背く良くない思いは日々生じるのです。イエス様が足を洗ってくださるとは、そのような私たちの日々の汚れを洗い清めてくださるということです。だから「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったペテロに、イエス様は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられたのです。 私はイエス様のこの言葉に色鉛筆で印をつけました。日ごとの罪の赦しなくして、キリスト信仰を続けることはできないからです。 心がもやもやして、生きているのもしんどいなあ・・・と思うとき、一心にイエス様の御名を呼びます。私の軽率さのゆえに為してしまった、取り返しのつかないことも、きっと善きに変えてくださると信じて祈ります。どんな時にも足を洗ってくださるイエス様が共にいてくださる。そして、いつの日か、顔と顔を合わせてお会いできるとは、何とすばらしい希望でしょう。死を越えて私たちに希望を与え、今を生かしてくださるイエス様。もったいなくて、有り難くて、この喜びをあなたと共に喜びたいのです。この限りのない愛をあなたと共に分かち合いたいのです。 内容・もくじへ戻る。 「あなたにも神様の愛を」と「世界食糧デーに」2002年10月 「体の具合が悪いと不安になるけんねえ」と、あなたはこの頃よく電話で言います。数日前、今度は「友だちが40°も熱があるのに仕事しとるんよ、死んでしまったらどうしよう」と言ってきました。「人はそんな簡単に死なないよ」とつれなく答えると「でも私、仲の良かった友だち、41歳でガンで亡くしたんよ」と不安げな声に、あなたは友だちをとても大切に思う人なんだなあって、ちょっと嬉しくなりました。「何か、人生論書いてあるような本送って」と言われていたのに、そのままになっていてごめんなさい。これから本は選ぶとして、先にこの手紙を送ります。 私も、もし神様を知らなかったら、自分や家族の健康のこと、老後のこと、子供の将来のことなど、不安でいっぱいだったかもしれません。でも幸い、愛の神様を知ったから、 すべて神様が良いようにしてくださると思えるようになって、心は平安です。そりゃあ、たまには夢も希望もないような暗い気持ちになることもあるけれど、それは神様のことを忘れている時で、静かに目を閉じて神様を思い起こせば、だいたいすぐに心は明るくなります。 神様を信じるってことは、神様がおられるって分かることで、今この窓から見えるススキも、葉っぱの水滴がきらきら光っているのも、静かな雨の音も、みーんな神様を奏でてるようで、ああ私も神様の御手の中に生かされてるんだなあって分かります。この私の実感している神様と、聖書の神様が同じお方なんだから、感動でしょ!聖書を学べば学ぶほど、聖書の神様が、こうして私と共にいてくださるんだって、深〜い喜びをおぼえます。ほら、この雨の中チュンチュンって、雀がセイタカアワダチソウに留まってるよ。 私の友だちに「神様の愛なんて分からない」って言う人がいてね。でもその人、夜空の月や星が好きで友だちのように思っていて、その人が三日月の美しさを話しているのを聞くと、ああ、この人は月の光に神様を感じてるんだなって思います。そうそう、銀木犀の一枝を手折って、その真っ白い花の香りに、「私にとってイエス様って、この花のようだ」って言った人もいました。 春のあさ、露ににおう 花よりうつくし 秋のよる 空に澄む 月よりさやけし 夏の夕 青葉わたる 風よりかぐわし 冬の日に 降りつもる 雪よりきよけし って、イエス様のことを歌った讃美歌があるけれど、ともかく、神様、イエス様って何よりも誰よりも、この世のどんなものより美しくて清らかで、心を満たしてくださるお方です。 神様を知らないで毎日を過ごすなんて、そりゃあ不安でしょう、虚しいでしょう、つまらないでしょう。イエス様に出会わなかったら、せっかく生まれてきて一番大切な方に出会わなかったってことだから、セミの抜け殻のような人生です。 お互い50代になって、不思議な導きで出会えたんだもの。だから、不安だ不安だって言ってるあなたに、いつも共にいてくださる神様を、そして、あなたの心を雪のように洗い清めて、天国までつれていってくださるイエス様をどうしても知ってほしいんです。 あなたの今日までのご苦労に、神様は必ず報いてくださると信じています。 以前から一度行ってみたいと思っていた日本国際飢餓対策機構の「世界食料デー大会」に娘を誘って参加した。かつてテープで聞いた、エチオピアの飢えた人たちの中にイエス様を見たという神田さんの話が心に残っていたからだった。今回の神田さんの講演は、ある映画の話で、「お返しは他の3人に」という心温まる内容だったが、期待したものとは少し違っていた。 こう書きながら、でも、と思う。期待通りの感動的な話を聞いたとしても、それで私の日々の生活が変わらないなら、結局聞かなかったのと同じこと。ほんの小さなことを聞いても、それを真剣に受け止めて、明日への生き方が変わるなら、それこそ聞いたってことなんだ。キリストも「どう聞くべきかに注意しなさい。」(ルカ8:18)と言われた。 それはともかく、大雨の中、会場では子供たちや、大人の讃美コーラスがあり、次は、来年1月よりウズベキスタンへ派遣されるスタッフの紹介だった。司会者は言った。「私たちの働きで一番大切なことは、続けるってことなんです。飢えに苦しむ人たちが自立できるまで支え続けるってことなんです。途中で止めてしまっては何にもならないんです。」本当にそうだ。続けるか、途中で止めるか。それが神の業となるか、人間の業で終わるかの違いなのだ。人間の思いつきで始めたことは、ちょっとした人間の都合で止めてしまう。でも、神様が「せよ」と命ぜられることは、万難を排して続けなくてはならないのだ。 次に「共に生きる」という映画があり、その後が、上原玲子さんのゴスペルコンサートだった。実の父母を知らずに、愛に飢え渇き、満たされぬ思いに対する答を「イエス・キリストの愛」の中に見出し、自作のゴスペルソングを歌い続けておられる上原さんの歌声は伝道テープ「アシュレー」で聞いたことがあったが、コンサートははじめてだった。 歌う上原さんの横で、手話讃美の何と美しかったこと。手と表情でこんなにも美しく歌い上げることができるのかと感動した。それと共に、上原さんの話されたことが心に残った。 「私は渡り鳥を見て、この鳥たちがはるか遠くまで飛べるのは、神を見てるからだと思ったのです。でもある時、「神の許しがなければ雀一羽地に落ちない」というキリストの言葉に、そうだ、鳥が神を見ていると言うより、神が鳥を見ておられるのだと気づきました。鳥たちさえ見つめて支えていてくださる神様は、私たち一人一人を、どの人をも平等に、見つめ、愛していてくださると信じます。」 言葉や表現は少し違うかも知れないが、このような内容だった。この話を聞いていて「鳥が神を見つめていると言うより、神が鳥を見つめておられる」という言葉が、すっと心に入ってきた。私が神様を信じていると思っていたけれど、神様がこんな私を信じていてくださるのだと気づいて、有り難くて、もったいなくて、胸がいっぱいになった。 神が見つめておられるという上原さんのメッセージは、世界中で飢えに苦しむ人たち一人一人に注がれている神様のまなざしを思い起こさせてくれた。飢えて幼くして死んでいく数え切れない子供たちにも、神様の愛のまなざしだけは必ず、必ず注がれていると信じて、これからもこの運動に協力していきたい。 内容・もくじへ戻る。 福音9月号( 2002年9月) *詩編49編から* 人は永遠に生きようか。 墓穴を見ずにすむであろうか。 人が見ることは 知恵ある者も死に 無知な者、愚かな者と共に滅び 財宝を他人に遺さねばならないということ。 (詩編49:10〜11) 聖書には本当のことが書いてある。心して読むなら、日常の生活では覆われている大切なことが見えてくる。日々の生活の中で、死や生について思うことがあっても、自分の頭で思い考えるだけなら、すぐに行き詰まってしまう。それこそ、土の表面を数センチ掘るようなもので、とても水脈には至らない。しかし、聖書の中には真理そのものが脈々と流れており、その語りかけにじっと耳を傾けるなら、心の中にまで真理が流れ込んでくる。見えなかったことが見えてくる。人間とは、罪とは、滅びとは。そして、それらをはるかに高く越える神の義とは、神の愛とは。人知を超える神の知恵が啓示されているのが分かってくる。 人間は栄華のうちにとどまることはできない。 屠られる獣に等しい。 これが自分の力に頼る者の道 自分の口の言葉に満足する者の行く末。 (詩編49:13〜15) どんなに楽しく華やかに暮らそうとも、どんな名誉を得ようとも、自分の力に頼る者は所詮、屠られる獣に等しい。それが人間の現実そのものであるのに、このように言われなければ悟れなかった。自分の本当の姿が見えてこなかった。 しかし、神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる。(詩編49:16) (陰府・死んだ人の行くところ) この詩人は神様というお方を知っていた。だがら、滅びるほかない人間を神様ご自身が贖ってくださると信じていた。神様を信じる信仰と、信仰によって与えられる希望は決して空しく終わらない。この詩人の神様への深い信仰と希望は、数百年の後、神様の愛の結晶であるイエス・キリストによって、成就した。 聖書を正しく学ぶことは、私たちの一生の仕事。聖書を読むと、自分がどこでどう間違っているのかが分かってくる。どうしてうまくいかないのだろうと焦るとき、急がば回れで、心を静めて聖書を読む。お客様の接待も忘れて、イエス様の御言葉に聴き入ったマリアのように、一心に読む。この世の仕事がいろいろと思い出されても後回しにして、「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」というイエス様の言葉を信じて聖書に聴き入る。聖書には、私たちのすべての必要が詰まっている。 *祝福の言葉* 「息子よ。これからのあなたの人生に何が起ころうと、また、あなたが人生で成功しようとしまいと、また有名になろうとなるまいと、健康であろうと健康を失おうと、あなたの父と母が、どんなにあなたを愛しているかを、いつも思い起こしてほしい」 ある本の中でこの言葉に出会ったとき、胸が熱くなり、私の内にある頑なさが溶けていくのを覚えた。すべての人が成人式の日に、両親から、また家族や友人から、このような祝福を受けることができるなら、この世はもっともっと美しくなるであろうに。 どうしてこの世は、このような喜びからかけ離れて、成功することにだけ価値がある、無名なよりも有名になることが素晴らしい、健康を失ったらお終いだという悪魔のささやきに翻弄されてしまったのか。悪魔が私たちに与えてくれるのは、絶えざる不安、競争心、焦り、無気力、そして行き着くところ絶望と滅びだけなのに。 今こそ私たちは、この両親の愛の源流である神様の愛に、まっすぐに心を向けねばと思う。この世の暗い出来事を通して語りかける悪魔の言葉にではなく、わたしたちを祝福の世界に導き入れてくださるキリストの言葉に、じっと耳を傾けていなければと思う。 「神は愛なり」という祝福の言葉を聞くか、「神などいない」という呪いの言葉を聞くか、それこそ人生の分かれ道なのだから。 キリストは言われる「信じる者には永遠の命がある。」悪魔は言う。「死んでしまえばそれでおしまいさ。この世がすべて。人生なんてつまらないものさ」 キリストは言われる。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のようにかき集められ焼かれてしまう」悪魔は言う「そんな馬鹿な、裁きなんてあるもんか。天国地獄なんて、おとぎ話じゃないか。」 いつもいつも悪魔はキリストの言葉をあざ笑う。そして、不思議なことに悪魔の言葉の方がもっともらしく、賢く聞こえる。でも、悪魔の言葉だと分かるのは、その言葉をいくら聞いても心が清められないこと。美しくならないこと。愛が増さないこと。平和にならないこと。 反対に、キリストの言葉に聴き入っていると、静かなる祝福が流れてくる。 「わたしにつながっていなさい」 「わたしの愛にとどまりなさい」 どんな時にも、心の耳を澄まして、イエス様の御言葉に聴き入っていたい。 *目的地は神様、この世は旅路。地図は聖書* 旅をしている途中、突然光を受けて目的地を知らされる人もいる。道を間違えて間違えて、四苦八苦した末に目的地を見出す人もいる。この世で満たされず、ああ私は真の目的地を探しているんだと地図を学び始める人もいれば、この世で十分と思っているのに、この世が思い通り行かなくて、地図を求めざるを得なくなる人もいる。幼き日より地図に従い、目的地に向かってひたすら旅を続ける人もいれば、この世を去る直前に、目的地を見出す人もいる。 どんな方法だって、いつだってかまわない。すべての人が目的地を見出し、「私はこのことのために生かされてきたのだ」と、喜びの声をあげることができますように。 内容・もくじへ戻る。 あなたが呼べば イエスの愛 希望 あなたが呼べば主は答え あなたが叫べば 「わたしはここにいる」と言われる。(イザヤ58:9) 間違ったことばかりしてしまって、言わなくていいことばかり言ってしまって、その度に後悔して、ダメだなあって思って、それでもどうにか自分を正当化したくて、一生懸命自己弁護するけれど、でも心はますます複雑に暗く嫌な思いになって、最後に「ごめんなさい」ってイエス様に言うんです。 「ごめんなさい」って言いながら涙がにじんで来ると、不思議に心が明るくなって、もっともっと「ごめんなさい」と言いたくなって、こんな私を赦してくださるイエス様がおられる!と喜びでいっぱいになるんです。 *もしあなたが、物を求めてではなく、誰かを求めて叫ぶとき、助け主は必ず来てくださいます。もともと祈りは、物を求めることではなく、誰かを呼び求めることです。人格的存在を呼び求めることなのです。 「主イエスよ、このような惨めな私を救ってください。さもなければ私は死んでしまいます。」 自分の貧しさを受け入れ、その貧しさのどん底から叫び声をあげるとき、初めてあなたは真に助け主に出会うことができるでしょう。 イエスは必ず答えてくださいます。 なぜならイエスは、叫びに対する答そのものであるからです。 「小さき者からの光」ジャン・バニエ著 p148 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。(ヨハネ15:12) 隣人を自分のように愛しなさい。(マルコ12:31) 互いに愛し合う、イエス様の言われるこのたった一つのことができるなら、生きることはどんな大きな喜びになることでしょう。 イエス様は「愛するとはこういうことだよ」と聖書の中でくり返し語りかけてくださっています。自分の思いを少しの間脇に置いて、イエス様の語りかけに耳を傾けるなら、その愛の深遠さに驚くばかりです。 「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。(ペトロの手紙1、2:23) イエス様の愛を知れば知るほど、このような愛は私の内にひとかけらもないことが分かります。私の内にある愛に似たものはイエス様の言われる愛ではなく、自分という暗い欲望の入り混じった、すぐにでも憎しみに変わってしまうようなものでしかありません。どんなに頑張っても、たった一人の人さえ愛し得ない自分を知るばかりです。 イエス様、どうかあなたが私の内に生きてください。そして、あなたの愛で隣人を愛することができるようにしてください。 *愛するとはどういうことでしょうか。愛するとは、何かをしてあげることではありません。なぜなら、一心に何かをしてあげても相手を踏みつけることがありますし、こちらの行為を見せつけることによって、あなたには価値がなく、役に立たない人間だと感じさせてしまうことがあるからです。 愛するとは、その人の存在を喜ぶことです。その人の隠れた価値や美しさを、気づかせてあげることです。その人に向かって、「あなたが生きていることは素晴らしい。私はあなたが生きていて幸せです。あなたの存在をとても喜んでいます。あなたは大切な、価値ある人です」ということを伝えることです。 p30 *絶望した人の真の友となり、惨めなセルフイメージを抱いている人を支え、自己嫌悪や自己不信に陥っている人の心を本当にとらえるためには、何よりもまず、助け手自身が誰かに支えられ、愛される必要があります。そうでないなら、たとえ社会福祉の分野で働こうと思っている人でも、燃え尽きてしまうでしょう。それは、遠からず、愛することのできない自分に直面してしまうからです。 私たちは、自分自身が愛され、支えられない限り、他者にかかわりもち続けることはできません。これは不思議なことですが、人間の現実なのです。p57 聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た 万軍の主の都、わたしたちの神の都で。(詩編48:9) 色鮮やかなヤナギランの群生に誘われて霧ヶ峰高原への道を登り始めると、8月半ばとはとうてい思えない冷たい風が吹いていました。その風を受けて、一面のマツムシソウが波のように揺れるいます。その中に所々、しなやかに優しく揺れているのはオミナエシ。 赤とんぼと一緒に揺れいているのはワレモコウ。 信州の高原には薄紫のマツムシソウが一面に咲くと聞いていたけれど、見たのははじめてでした。どこまでも青い空と緑の山々に包まれて、数日前に読んだ詩編48編の聖句を思いました。「聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た」 いつかすべてのことにそう言える日が必ず来ると思うと、喜びは泉のようにわきあがります。 「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録21:3〜4)このように聞いていたことを、そのまま見る日が来る。水晶のように輝く命の水の流れる川(22:19)を見る日が来る。どんな暗い世にあっても、キリストを信じる者に与えられている希望は、今日を生きる新しい力を与えてくれるのです。 後の代に語り伝えよ。この神は世々限りなくわたしたちの神 死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。 詩編48:15 内容・もくじへ戻る。 貧しい人の幸い 羊が命を受けるため 生きよ 貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20) 貧しさを恐れなくて良いと知ったとき、すべてのものから自由になれる。貧しさを厭うことはないと分かったとき、ありのままを感謝できる。 より快適な、より効率の良い、より豊かな生活を求めるとき、貧しさの中を歩まれたイエスをいつしか遠ざける。もっとりっぱに、もっと見栄え良く、もっと大きくあらねばならないと思うとき、イエスの心を見失ってしまう。 貧しい者に御目を留めてくださるイエス。貧しい者と共に歩んでくださるイエス。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(わたし)には枕する所もない」と言われたイエス。 私たちが自分の安住のためにあくせくしている限り、イエスは遠い。だが、枕する所も無くなったとき、イエスだけは必ず側にいてくださる。この世にわたしの住みかは無いと気づいたとき、イエスがわたしの住まいとなってくださる。 いかに幸いなことでしょう。 あなたの家に住むことができるなら、 まして、あなたを讃美することができるなら。 詩編84:5 わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。ヨハネによる福音書10ー10 インターフェロンの後遺症で、心が暗く鬱的になって「死にたい」と言っていた人が、お医者さんから薬をもらって飲むと、あっという間に明るくなって笑顔で話すようになったらしい。それを見ていたその人の息子さんが「薬であんなに元気になれるなら信仰なんていらないな」と感心したという。 その話を聞きながら、「でも、薬で天国には行けないよ」と答えたものの、信仰について改めて考えさせられた。 以前、「礼拝に出ると心が洗われるようで、きれいな心になれるから好き」と言った人に、「あなたにとって礼拝とはクリーニング屋のようなものですか?」と問うた、と言う話を聞いたことがあるけれど、キリストを信じるとはいったいどういうことなのだろう。 キリストは確かに私たちの心を明るくしてくださるし、生きる力も与えてくださる。人間を造られるお方だから、癒すことだって必要とあればしてくださる。でも、それだけならキリスト信仰でなくても、やりがいのある仕事や、気の合う仲間や、良い医療だってある程度は取って代わることができるだろう。 キリストにしかできないこと、キリストだけがしてくださること。それは私たちの過ちを責めないで、私たちの怒りや憎しみ、惨めささえも身に負うて、黙って耐えてくださること。天の神にとりなして、赦しを与えてくださること。いただく値打ちのない者に、命を与えてくださること。 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。(使徒3:15) これが希望なんだ、これが神様の奥の手で、これを知ることが聖書を読むってことなんだ。セキレイの細く美しい声と、対照的な椋鳥の声との2重奏を聞きながら、神様のなさることは、おおよそ人間の思いをはるかに越えているとあっけにとられていた。 人間はある時は人を殺し、ある時は自分を殺す。たとえ包丁やピストルは使わなくても、心で殺す。あの人なんかいなければいい、こんな私なんて死んでしまえばいい。目に見える殺人が起これば、人々は大騒ぎするけれど、日ごとの小さな心の動きには目も留めない。 自分でさえ、それと気づかない。しかし、確かに私たちはいとも簡単に人も自分も殺してしまう。 そんな私たちに「あなたがたは殺してしまいましたが、神は復活させてくださいました。」という神の愛の勝利宣言。人間がどんなに殺そうと、生きる意味も生きる価値もないと叫ぼうと、私たちに「生きよ」と言われる神様のご意志は変わらない。「死は終わりではない」と告げてくださる復活のイエス様は変わらない。 聖書ってすごい!朝毎に聖書を読むことは、朝毎に畑の中に埋められている宝を見つけるようなもの。私たちに「生きよ」と呼びかけてくださる主に出会うこと。 聖書の言葉にあっけにとられていると、後ろから「台風が沖縄まで来てますよ」とウオーキングの方が声をかけてくださった。台風の近い朝はことのほか雲の流れが美しい。見上げれば何層にも重なった雲の向こうに抜けるような青い空。神様は大空からも「生きよ」と呼びかけていてくださる。 彼が刺し貫かれたのは、 わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは、 わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって、 わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 (イザヤ53:5) 私たちは貧しさを厭う。でも、イエスは貧しさのただ中に来られた。 私たちは苦しむ人を見ないで通り過ぎたい。でも、イエスは苦しむ人に近づいて行かれる。 私たちはできるだけ安楽な生活を求める。でも、イエスが与えようとされるのは、 安楽な日々ではなく、命である。 私たちに命を与えるために黙って耐えてくださったイエス。私たちの弱さの中にこそ働いてくださるイエス。 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17) と言ってくださるイエスの道を共に歩むことができるなら。悩みの中にある人に、この平安の道を少しでも伝えることができるなら。 内容・もくじへ戻る。 サレナム(避けどころ)
21世紀の讃美歌として新しく編集された「讃美歌21」には、いろいろな国の曲が取り入れられているが、508番もその一つ。曲:パキスタン民謡と記されている。この音楽に合わせてパキスタンの人たちが円く輪になって、手を打ち鳴らしつつ踊っている姿を思い浮かべると、思わず私もその輪に入って踊ってみたくなる。パキスタン語はさっぱり分からないけれど「サレナム サレナム サレナム」のところだけは、私も大声で歌う。「サレナム サレナム」と歌い続け、踊り疲れて、みんなで汗を拭きながら、大きな木の下に座る。木の下でも、やっぱりパキスタン語は何も話せないから、「ハレルヤ、アーメン」とだけ、ニコニコ笑いながらくり返す。何たって「ハレルヤ、アーメン」だけは世界共通語、「この二つを知っていれば世界中どこでも行けます」と杣友さんが教えて下さった。パキスタンの人たちも、他に言葉はいらないとばかり「ハレルヤ、アーメン」とニコニコ笑いながら答えてくださる。空はどこまでも青く澄み、木陰がうれしい昼下がり・・・・・。こんな情景を思い浮かべていると、本当にそんな日が来るような気がする。いや、きっと来る。パキスタンの人も、モンゴルの人も、ポーランドの人も、タンザニアの人も、・・・私は未だ、どなたともお目にかかったことはないけれど、いつか必ず手を取り合って踊り回る日が来る。 キリストを信じるとは何と素晴らしいことだろう。外国など、どこにも行ったこともなく、普通なら夢も希望も薄れていくはずのおばさんが、世界の人と輪になって喜び踊る日が来ると信じることができるなんて! この508番は不思議な曲だ。最初に歌ったのは確か日曜学校の夏季集会。子供たちみんなのお気に入りになり、驚いたのは知的障害のため話せない子が「サレナム、サレナム」のフレーズを覚えてしまい、歌い出したこと。それから84才のおばあさんが、一回歌っただけで「これなら私にも歌える」と喜んだこと。女、子供だけではない、40代の男性も、50代の男性も、「これはいい」と確かにうれしそうだった。 曲も良いけれど、歌詞がまた素晴らしい。キリストを信じることの喜びが体中に広がってくる。 たとえ敵に囲まれても、地の果てで弱るときも、 あなたは応えてくださる、サレナム サレナム サレナム。 「サレナム」(sarennam)は「避けどころ」、「避けどころに隠れる」の意味。 敵に囲まれ、逃げることさえできなくておののく時、誰もいない、誰も来ない地の果てで、もう一歩も歩けないとくずおれる時、私たちは尚も叫ぶことができる。虚しい叫びではない、確かに応えてくださるお方、イエス・キリストに向かって。その時、すぐ側にいてくださるイエス様に「あなたこそ私のサレナムです」と告白するに違いない。 主は幕屋に招き入れて、み翼の陰に隠し いつも私を照らされる、サレナム サレナム サレナム。 注意深くこの歌詞を読んでみると、イエス様の愛が3重に歌われているのに気づく。行き場のない者を、ご自身の住まいである幕屋に招き入れ、震えおののく者をご自身のみ翼の陰に隠し守ってくださる。そして、心の闇を照らし、正しい道に導いてくださる。 われらの主イエス・キリストは、きのうも今日もあしたも、 永遠に変わらない方。サレナム サレナム サレナム。 この3番の歌詞で、私の歌声はいつも絶好調になる。(絶好調と言っても、美しい声になるわけはなく、単に大声になるだけのことですが) 嬉しくて嬉しくてたまらなくなる。今共にいて、支え導いてくださるイエス様は永遠に変わらない方。元気なときも、病気になっても、家族と一緒の時も、一人になっても、年を取っても、死ぬ間際にも、変わることなく「わが愛に居れ」とささやいてくださるお方。 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。 (ヘブル13-8) 神よ、わたしの叫びを聞き わたしの祈りに耳を傾けてください。 心の挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます。 高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください。 あなたは常にわたしの避けどころ 敵に対する力強い塔となってくださいます。 あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り あなたの翼を避けどころとして隠れます。(詩編61:2〜5) 年を取るとはどういうことか、まだ私の深い実感にはならないけれど、それでもいろいろな人との出会いを通して、人生の厳しさを思い知らされる。人が必ず弱っていく体を与えられているのは、神様がその弱さを通して、「人はサレナム(避けどころ)なしには生きられない」と教えるために違いない。誰だって弱った時には、そっと身を寄せる避けどころがほしくなるだろう。弱り果てたとき、そんな身を休める所さえないとしたら、それほど悲しいことはない。そんな、人の悲しみを誰よりも深く知り、私たちの避けどころとなるために来てくださったイエスさま。 「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい」と、今も呼び続けていてくださるイエス様の御声が、サレナム サレナムの歌声にのって世界中に広がりますように。 内容・もくじへ戻る。 平和 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネ20:19) 先日聖書を読んでいて、この箇所が特に心に残りました。どうしてこの箇所が心に残ったかというと、「鍵をかけていた」という言葉のせいです。 実は3月から、ある友人に頼まれて、その人が困っているというので、新聞の集金を始めました。私の住んでいるマンションだけですが、2種類の新聞で100軒余り回ります。それで気がついたことは、日中であってもどの家もほとんど鍵をかけているということです。鍵だけでなく、ご丁寧に鎖までかけている家も何軒かあります。 それはともかく、ここで弟子たちが鍵をかけていたのは、ユダヤ人を恐れていたからでした。自分たちの先生であるイエス様が十字架につけられて殺されてしまったのだから、その被害は弟子たちにも及ぶ可能性があるわけで、この場合は鍵をかける根拠は十分にありました。でも、ここにわざわざ「鍵をかけていた」と書かれているのをみると、普段、昼間から鍵をかけるというような習慣はユダヤにもなかったのだろうと思います。 鍵をかけるというのは、当然何らかの心配、不安、恐れがある証拠ですが、ここで特に印象的なのは、その心配や恐れのただ中にイエス様は来てくださったということです。そして「平和があるように」と言われ、真の平和を与えてくださいました。私たちは、不安や心配や、恐れの原因を一つ一つ取り除いていって、それらがなくなった状態を平和と言うけれど、イエス様の与えてくださる平和とは、何もない平穏無事な状態ではなく、たとえどんな困難な状況の中にあってもなくならない、喜びと力に満ちた平和なのです。 イエス様は弟子たちを伝道に送り出すとき、「その家に入ったら『平和があるように』と挨拶しなさい」と言われました。確かに、家庭に何よりも必要なのは平和です。家庭の不和は心を暗くします。そしてその暗さは子供たちの笑顔まで消してしまうかも知れません。鍵をかけるのも、外部から誰かが侵入してきて、家庭の平和を乱されないようにという配慮に違いありません。でも、毎日きちんと鍵をかけたところで、家庭の平和が守れるかというと、それは別です。 ドアの前に立ち、「ピンポーン」とインターホンを押し「新聞の集金です」と声をかけ、誰かが出てくるのを待つあいだ、外目には幸せな家庭のように見えても、もしかするとこの家庭にも大きな苦しみがあるかも知れないとふと思ったりします。どこの家庭にも、心を暗くする問題の一つや二つはあるものです。今はなくても、ある日突然、どうしようもないほどの困難が起こらないとも限りません。その時、この家庭には苦難をも乗り越えさせるだけの平和があるだろうか。かつては、幸せを絵に描いたような家庭だったのに、その家のご主人が突然倒れ、年月を重ねるほどに子供達の心も離ればなれになってしまった家庭を知っています。そんなことを思うと、「1万円でお釣りありますか」と家の人が出てこられるまでのつかの間にでも、「この家に平和がありますように」と祈らねばと思うのです。お釣りの計算を間違えて、平和を祈るどころでない場合も多いのですが。 ところが、イエス様は「平和があるように」と言いなさいと言われた反面、不思議な言葉ですが「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」とも言われました。 ちょっとしたことで壊れてしまう、人間の知恵と力関係だけで支えられているような平和、そんな見せかけの平和をイエス様は良しとされない。むしろそのような神を無視した自分さえよ良ければ良いと言うような偽りの平和は破壊されなければならない。 これは大変辛いことですが、主の平和に至るために、人間的な平和が一度壊されなければならないことは確かです。ここがキリスト信仰のポイントだと思っています。人間関係にしても、それが本当にキリスト(真実)によってつながっているのか、単に人間的な感情(欲望)によってつながっているのか、神様に問われるときがあります。そんな時こそ、私たちのために命さえ与えてくださったイエス様をじっと見上げ、「主よ、自分の思いにではなく、あなたに従わせてください」と祈らなければなりません。主に従うときにのみ、主の平和は臨むですから。 一つの家庭の平和が鍵では守れないように、一つの国家の平和も軍備では守れない。家庭であれ、国家であれ、その中心に主イエス様をお迎えすることこそ、平和への道であると。そのことを新聞の集金をしながらつくづくと思うこの頃です。 最近、平和について感動的な詩を見つけましたので、紹介します。 これ以上平和を求めないように そして、自分が居る場所で自分を与え尽くしていきなさい。 自分を見ることをやめ、あなたを必要としている兄弟姉妹を見なさい。 今日、神があなたに与えられた人々の近くに居るように。 そして、むしろ今日あなたの兄弟姉妹をどのようにしたらよく愛せるか 自分自身に聞いてみることです。 そうすれば平和を見出すでしょう。 あなたが求める憩い、外面と内面の調和、祈りと活動のバランス、 自分のための時間と人々の時間との均衡を見出すでしょう。 すべては愛において解放されるのです。 完全な共同体を求めて走りまわり時間をむだにしてはいけません。 今日ある共同体を十分に生きなさい。 共同体が「幸いにも」もっている欠点に目を向けるのをやめ むしろ自分自身の欠点を見 他人にゆるされ 他人をゆるし 今日新たに、愛において改心していくべきことを思いだしなさい。 ジャン・バニエ 内容・もくじへ戻る。 i祈り・求めなさい、そうすれば与えられる。 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。 『父よ、 御名が崇められますように。 御国が来ますように。 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 わたしたちの罪を赦してください、 わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから。 わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 (ルカ11:1) なるほど、そうだったのか。昔も今も、世界中の人が祈り続けている「主の祈り」も、一人の人の「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」という小さな求めから始まったのだ。ここには「弟子の一人」とだけ書いてあるけれど、一人の人の一つの求めが、こんなに大きな実を結ぶこともあるのだと思うと「求めることの大切さ」に驚く。イエス様は「祈りを教えて下さい」というたった一言の求めに答えて、惜しげもなく全人類に最高の祈りを与えてくださった。 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。(ルカ11:5〜8) 2000年近く前、場所はユダヤ。時代も場所も遠く離れた私たちでも、この時の状況は容易に想像できる。この頃のユダヤの貧しい家はドアを開けばワンルームだったらしい。子供たちも家畜までも一緒に眠っているのを知っていて、しつように頼み続けるのは随分勇気がいったことだろう。しかし、この人の決意と忍耐はついに旅人のためのパンを得た。 寝ているのに起きあがるのは面倒だ、家族の問題もある、パンだってそう多くあるわけじゃないと、限界だらけの人間でさえ、しつこく頼めば聞いてくれる。 まして、無限の愛、無限の力に満ちておられる神様が私たちの求めに答えてくださらないはずがない。 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(ルカ11:9〜10) 確かに私もそうだった。惰性で生きているような日々に耐えられなくなり、たとえどんなに小さな歩みでもいい、真実な歩みがしたいとの願いが起きたとき、私を励ましてくれえたのは「求めなさい、そうすれば、与えられる」という言葉だった。この言葉がキリストの言葉だとさえ知らなかったが、「求めるなら必ず与えられる」という確信が、キリスト信仰に踏み出す勇気を与えてくれた。 「信仰は求め、希望は探し、愛はたたく」という。この三つは私たちの祈りの姿であり、キリストは「どのような方法であれ祈りなさい」と命じておられる。これが、かつて学校で教えられたように「何事も自分の力でがんばりなさい。努力しなさい。」と言われたのなら、とても無理だと感じる人は多いだろう。でも求めること、探すこと、たたくことなら小さな子供であってもいつもしている。神様に向かって求め、探し、たたき続けることは誰にだってできる。キリストの開いてくださった道は、特別な人にだけ歩める道ではなく、すべての人に開かれた道。 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」 (ルカ11:11-13) なるほど、それはそうだ。他人には冷淡で容赦のない人でも、わが子には出来るだけのことをしてやりたいと思っている。それをエゴだ、動物にでもある本能だと非難するのではなく、イエス様はそんな人間の自己中心的な心を用いて、神様の愛のお心を教えてくださった。「まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」と。このイエス様の御言葉から、聖霊こそ神様が私たちに与えようとしておられる最高の賜物だということが分かる。確かにそうだ。ガラテヤ書に聖霊の結ぶ実は「愛、喜び、平和、親切、善意、誠実、柔和、節制」だと書いてある。 愛と喜び、平和に満ちた心が与えられたら、人生すべて感謝!に違いない。 夢のような話だが、キリストの言葉だから、そのまま信じよう。求める者には必ず聖霊を与えてくださると信じて、どこまでも求め続けよう。 聖霊によらなければ、良きことは何も語れない。 聖霊によらなければ、心は清められず、明るくならず、濁ったまま。 そんな心で話す言葉は、他の人の心まで暗くしてしまう。 聖霊を与えてください。悩める友にあなたのことを告げるため。 聖霊を与えてください。この世で、あなたの者として働くために 内容・もくじへ戻る。 「聖書の神」「復活」 「そうなんや、そこなんやなあ。最後には神を抜きにしては考えられへんようになる。『いかに生きるか』とか、『生きる目的』とか突き詰めていくと、どうしても永遠でなかったら成り立たへん。 「それにしても、神様はどうして人間なんか造ったんやろう。こんな、戦争して殺し合うような人間、何で造ったんやろう。神様やったら何もかも分かってたはずやのに。」 「確かに、物や金では生物としては生きれても、人間としては生きられへん。人間として生きるために別の何かが必要やっていうことは分かる。人間としての自分を満たすものが何なのか、それを探してるんや。」 夫が単身赴任で、次男と二人だけの生活になり、夕食の後などよく話すようになった。「へえ、そんなこと考えてるの」と驚くことも多く、ふだん寡黙な次男だけに、いつからそんなことを思い考えるようになったのか不思議な気もする。 わたしが植え、アポロは水を注いだ、しかし成長させてくださるのは神である。(コリント)水も肥料も不足気味で子供達に謝りたいことも多いのに、それでも、それぞれに神様が育てていてくださるのだと思えば、感謝の他はない。 ともあれ、いろいろと話す内に、相手の疑問や迷いに「それはこうなのよ」と安易に答えてはいけないと気づくようになった。「戦争をして殺し合うような人間を何故造ったのか」と言われれば、「人間を造られたのは、神様が愛だから。殺し合うような人間を救うために、救い主イエス様を送ってくださったんよ」と答えたくなる。でも、たとえ聖書的に正しく答えても、それで必ずしも相手を納得させることなどできはしないのだという当たり前のことが、やっと実感になってきた。 こと信仰に関しては、議論はあまり役に立たないようだ。議論で説き伏せても、それで相手が信じるようになると言うわけにはいかない。議論をしているといつの間にか自分の方が正しいと主張してしまっている。ちっとも正しくない私が「私の方が正しい」と主張するのだから、そんなこと信じられないのは当たり前だ。 「神様は信じるよ。神様がいるってことは分かるけれど、イスラムの人だって神を信じているし・・・」 「そうそう、そこよ。聖書に『わたしを見た者は父を見たのだ』と書かれているように、イエス様こそ真の神様で、イエス様の言われたことやなさったことを読めば、本当の神様が分かるんよ」と答えそうになって、思いとどまった。これ以上話せば議論になると言うところで、話すのは止めて黙して祈る。「主ご自身が教えて下さい。真理を悟らせてください。」と心の中で祈りつつ、相手の言うことに黙って耳を傾ける。まだまだ自分の思いを主張することが先行して、黙して祈りつつ聞くという態度は身に付かないけれど、でも、それが最善の対話の方法だということは分かるようになった。 「イエス様こそ真の神様で、イエス様の言われたことやなさったことを読めば、本当の神様が分かるんよ」と軽々しく言う前に、まず自分がイエス様の言われたことやなさったことを読んで、「わが主、わが神!」と感嘆の声をあげなければ。これが神様からの私へのメッセージだと信じて、ドキドキしながら1ページ1ページめくり、ポロポロ涙を流しながらイエス様の愛にふるえる。その時こそ「福音書を読めば、イエス様が神様だって分かるわよ」と掛け値なしに相手に告げることができるに違いない。 3月31日は復活祭、キリストの復活を記念する日である。クリスチャンにとって最も大きな喜びの日でもある。 神は、主を復活させ、 また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。(1コリント6:14) あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、 上にあるものを求めなさい。(コロサイ3:1) キリストを信じる者には復活という確かな希望があり、その復活の命をすでにいただいているのだと聖書は告げる。 あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は天に積みなさい。(マタイ6:19〜20)と言うイエス様の教えも、 体を殺しても、その後、それ以上に何もできない者どもを恐れてはならない。(ルカ12:4)との力強い励ましも、私たちの人生はこの世だけでなく、天の国のあること、そしてたとえ殺されても、死なない命のあることをはっきりと告げていてくださる。 先日、ヒルティー「幸福論U」の読書会で「超越的希望」(死後の希望)を学んだ。 「死後につづく生活は、普通われわれが想像するよりも、もっと現世の生活に似ているであろう。したがって、死はわれわれが考えるよりもずっとささいな出来事であり、また、その正しい意味を理解すれば、ずっとどうでもよい事柄だと言えよう。」幸福論U234p 死が私たちの人生にとって、一つの通過点に過ぎないとしたら、だからこそ今与えられる日々を、逃げないで、投げなさないで、精一杯真実に生きて行かねばと思う。 「死それ自体は、なんら恐ろしいものではない。願わしからぬものでさえない。なおも死をひどく恐れる者は、必ずやいまだ人生の正しい道を歩いていない人である。恐ろしいのは、ただ老年になって過去をかえりみて、自分の生涯がまったく誤った無益なものだったことを見るとき、もしくは、赦されることのない大きな罪が山積みするのを知った場合だけである。」239p この絶望のただ中に、尚も救いのみ手は差し伸べられている。十字架の上から主イエスが「わたしを仰げ」と呼んでくださる。「あなたの罪はわたしが負った、恵みを受けよ」と呼んでくださる。 ほむべきかな、主の十字架。 大いなるかな、主の御救い。 内容・もくじへ戻る。 祝福・希望・出会い
この御言葉に何度励まされたことだろう。今日も冷たい風に吹かれて道を歩いていると、白く光」る雲の向こうから聞こえてくるようだった。「ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブはまだ実を結んでいない。しかし、今日から、わたしは祝福を与える」。 紀元前五百七十八年、神に背き補囚としてバビロンに移されたユダの人々が、半世紀をを経て再び故国に帰り神殿を再建し始めた。その神殿再建を励ました預言者ハガイの語った神の言葉である。補囚から帰った貧しい人々が様々な困難に直面し、何度も中断しながらやっと神殿の基を据えた日、現実は何一つ変わらないように見えるのに、神様は「今日この日から、わたしは祝福を与える」と約束されたのだった。 旧約時代、神殿とは文字通り神様を礼拝するための建物であった。が、イエス・キリストが来られて新しい時代となり、ご自分の体こそまことの神殿である(ヨハネ2:21)と言われ、また、わたしたち一人一人の体が聖霊の宿られる神殿なのだと教えてくださった。(1コリント3:16、6:19) 神殿の基が置かれたこの日から、すなわち、主イエスを信じ聖霊をお迎えした「今日この日から、わたしは祝福を与える」と言ってくださる。「いちじく、ざくろ、オリーブはまだ実を結んでいない」けれど、見えるとことは何一つ変わってはいないけれど、すでに祝福は溢れるばかりに注がれている。 強い風に吹かれながら、水色の空に白く輝く雲を見ていると、降り注ぐ祝福に歓声をあげずにはおられなかった。 ただ、主イエスを信じるがゆえに注がれる祝福、 何の実りもない貧しさの中に溢れる祝福。 祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。1ペテロ3:9 今朝、一人の姉妹が詩編二十七編を朗読してくださった。目を閉じて聞きながら、詩人の告白は私の告白となり、詩人の叫びは私の叫びとなった。まだ味わったことのない境地さえ、主イエスを通してその真実を疑うことはできなかった。 主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。 主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう。 光がある、大空に太陽のある如く、わたしの心を照らす一つの光がある。この光がなければ全てが色あせ、暗く沈んでいく。しかし、ひとたびこの光を受けるとき、闇にさえ希望の虹が見えはじめる。 彼らがわたしに対して陣をしいても わたしの心は恐れない。 わたしに向かって戦いを挑んで来ても わたしには確信がある。 確信は、主が与えてくださるもの。現実は日々刻々変わっていくけれど、その中に動かない一点がある。わたしが確信を持つのではない。わたしのような不安定な者に基を置いたならすぐにも揺れて崩れてしまう。確信は、昨日も今日も、永遠まで変わらない主が与えてくださる。だから黙して主を待ち望む。 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。 命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。 これほどの願いがどこにあろう。これほど大きな求めがどこにあろう。しかし主は神、大いなるお方に大いなる求めこそふさわしい。これ以下のことは求めまい。 「出会い」 ヨハネ福音書第8章1節から11節までを読んで、改めて驚いた。ああ、こんなイエス様との出会い方もあったのだと。イエス様との出会い。人生にとって決定的な最善の時が、この女の人にとっては人前で恥をさらされるという最悪の時に与えられた。 多くの人は、苦しみ悩みの時、自分から「主よ、助けてください」「憐れんでください」とイエス様に近づいていく。また、友人の好意によってイエス様の所に連れて行かれた人もいた。イエス様の方から近づかれ声をかけられた人もいる。だが、この女の人は自分の罪のゆえに、人々の悪意によってイエス様の所に連れて行かれた。そして悪意のただ中で、人を生かす真の愛、イエス様ご自身に出会ったのだった。 人の悪意、策略、身を滅ぼすほどの罪の中にあってさえ、イエス様は私たちを見捨てられない。今、その場から私たちを新しい道へと導いてくださる。 欲と惰性と不真実の渦巻く中、そのただ中に主イエスが居られる。罪も汚れもない完全な正義と愛のお方、そのお方が「わたしもあなたを罪に定めない。」と言ってくださる。わたしはあなたの過去によってあなたを断罪するより、未来に目を注ごう。「行きなさい」あなたのために新しい道を開いたから。「これからはもう罪を犯してはならない」わたしはあなたを助け、あなたを清い喜びへと導こう、と言ってくださる。 まず、私が喜ばなければ、どうして人に喜びを伝えることなどできるだろう。 まず、私がキリストの愛で満たされなければ、どうして人を愛せるだろう。 まず、私が復活の希望に生きなければ、どうして人に希望を語れるだろう。 まず、私が。 まず、あなたが。 家庭が、職場が、社会が祝福で満たされるために、 まず、私が。 まず、あなたが。 キリストにつながって。 キリストにつながって。 内容・もくじへ戻る。 罪の赦し・赦される喜び・みことばに照らされて 新しい年を迎えて、今、神様の憐れみの深さに感謝でいっぱいです。顔を真っ直ぐに上げて主を仰ぎます。
人生で最大の喜びは、赦される喜びに違いありません。 1月中に、一ヶ月分の暗唱聖句(聖書の言葉、31句)を選ぶ必要があって、昨夜、今宵こそはと取り組み、まず祈りました。「神様、導いてください。どうか、あなたが御言葉を与えてください。」と。
第一日目にふさわしい御言葉を見つけましたが、後が続きません。祈っていると自分の心の汚れが見えてきて、こんな心に御言葉が与えられるはずもない、まず心が清められなければ。その時、「二心の者よ、心を清くせよ」という聖句を思い起こしヤコブ書を探すと、新共同訳では「心の定まらない者たち、心を清めなさい。」となっていました。ところが、その続きを読んでギョッとしました。 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁 いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くな ら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。律法を定め、裁きを行う方はおひとりだ けです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。(ヤコブ書4:11〜12) 人の悪口を言うことは、レビ記19:18にある「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」という律法に違反し、その律法を知りながらそれを破るのは、自分の意志を律法よりまさったものとしているというのです。「隣人の悪口をいうことは、それほどひどい罪ではないといえるかも知れない。しかし、聖書は、これをあらゆる罪の中でも最悪なものの一つに数えるであろう。なぜなら、それは尊い律法の違反であり、神の権利の侵害であるからである。」(ウイリアム・バークレー聖書注解より) 私がこれくらいと見過ごしていた罪を、こんなにはっきりと言い当てられるなんて神様はすべてをお見通しでした。
ここまであからさまに罪を指摘されては、ひれ伏して赦しを請うよりほかなく、「主よ、赦してください」と具体的に告白し、悔いくずおれたとき、憂いの雲は吹き払われ、心はどこまでも澄んだ青空のように晴れ渡たったのでした。心を暗くしている心の汚れを主は御言葉をもって指し示し、立ち帰らせてくださいました。そして神の愛の本質は「赦し」であることを実感させてくださったのです。
人の欠点や過ちはよく見えるので(すべてをお見通しの神様の前には、私の目など節穴同然なのですが、それでも普段はよく見えると思っているので)「ここがいけない、あそこが間違っている。」と、簡単に人を批判するけれど、ただ一つ確かなことは自分がゆるされた喜びでいっぱいの時は、そんな裁き心など吹っ飛んで、すべての人に感謝したくなるということです。そして人はどんな批判の言葉よりも、「あなたがいてくれて嬉しい。あなたの存在をありがとう」という暖かな言葉によってこそ励まされ、生きる力を得ることができるようです。イエス様は私たちを友と呼んでくださいました。 夜空の星は想像を絶するほど遠くにあるのにはっきりと見えます。でも、隣の部屋の蛍光灯は星と同じように光っているのに、そしてほんの数メートルしか離れていないのに見えません。壁があるからです。星のように遠く、近づくことはできないと思われていた神様が人となって私たちのすぐ側に来てくださった。人となられた神、イエス・キリストは言われました。「わたしは世の光である」と。でも、私たちの心に罪という壁がある限り、その光は見えません。どんなに近づいてくださっても、すぐ側に来てくださっても分からないのです。 主よ、どうか私たちの壁を取り除いてください。 そして、あなたの光が清かに見えるようにしてください。 心の壁にさえぎられて光が届かない時、平和をつくりだすどころか自分がいさかいの種となってしまう時、そんな時こそ主の御名を呼びます。
主は何度でも私たちを赦し、ご自身のもとに立ち帰らせてくださいます。そしてその時、私たちと神様の間の壁はすでに取り除かれていたことを知るのです。私たちはすでに十字架の光のなかに生かされているのだと言うことを。 神を愛し人を愛し、誠実に、感謝いっぱいに生きるために。神様の御心をいつも聞いているために。「聖書を読むこと」「祈ること」、信仰生活の原点に立ち帰って、この新しい年もどうか共に御国に向かっての旅路を続けることができますように。 内容・もくじへ戻る。 |