いのちの水新しい年の祝福を祈ります。


主よ、あなたは私のともしびを輝かし
神よ、あなたは私の闇を照らしてくださる。


(詩篇1829


20121 611号 内容・もくじ

リストボタン賛美と祝福のこだま

リストボタン朽ちる種からではなく

リストボタン「壊」と「創」

リストボタン絶望から光へ―詩篇22篇

リストボタン「鎮魂」ということ

リストボタン原発事故が最悪の状態になっていたら

リストボタン詩の世界からリストボタン八木重吉の詩から

リストボタン編集だより

 リストボタンことば

リストボタン休憩室

リストボタン報告とお知らせ



リストボタン賛美と祝福のこだま

私たちが生きていくためには、何らかの応答が不可欠である。 人間は、生まれ落ちたときから、死に至るまで、絶えず何らかの応答を求めている。
そして神などいないと思っている人には、人間の応答こそ日常的にきわめて重要なものとなっている。親子、夫婦、職場の同僚、仕事で出会う人々との応答がなかったら生活は成り立たない。
しかし、神を信じる人たちは、そうした人間同士の応答のほかに神との応答の世界を与えられている。
私たちが心から神への賛美をささげるとき、神もまた私たちを祝福して下さる。よきものを神にささげるとき、神もまたよきものを下さる。
これは霊的世界の法則である。
主イエスも、求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる。探せよ、そうすれば見いだすと約束された。
こうした生きた応答こそ、キリスト者の最も必要としているものであり、それによって私たちは生かされる。
そのことの一端が、旧約聖書の詩のなかに記されている。

…主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。
夜ごと、主の家にとどまる人々よ
聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。
天地を造られた主が
シオンからあなたを祝福してくださるように。
(詩篇134篇)

ここでは、「たたえる」という語と、「祝福してくださる」という語は、原語では、同じヘブル語(*)が使われている。

*)バーラクという語である。それゆえ、多くの英訳では bless (「祝福する」が原意 )がこの詩では使われている。しかし、英語の bless も、このヘブル語と同様に、賛美する、という意味にも用いられる語である。

それゆえ、原文あるいは英訳で見るなら、この短い詩のなかに同一の語が繰り返し3度も現れているのに気づくのである。
人間の側で、神へのよきこと―ここでは賛美(バーラク)―をささげるときには、神もまたよきもの―祝福(バーラク)をもって応えてくださるというのである。
それはいわば、賛美と祝福が、こだまのように行き交う世界である。
ひるがえってこの世を見るときには、よきものを投げかけても、帰って来ないということは数しれずある。好意をもって、相手への愛をもってしても、誤解や無関心あるいは無視されることはいくらでもあるし、逆に欺いたり、侮辱や敵意をもって対してくるということすらある。
主イエスも、「ぶどう園の主人が、農夫に、よいぶどう園をまかせた。収穫の時がきて、僕を繰り返し送ったが、その管理人たちは、その僕らを、みな袋だたきにしてしまったり、殺すことまでした」というたとえを話されたことがある。(ルカ2010
このようなことは、まさにキリストに起こったことであり、それをこうしたたとえで言われたのであった。
しかし、一度、目を神に向けるときには、まったく異なる世界が開かれる。
神への真実な感謝、賛美というものは―時にはとても遅いと感じられることがあっても―必ず神からの祝福が帰ってくるというのが、この詩のメッセージなのである。わずか数行というこの詩は、詩篇150篇のなかで、最も短い詩であり、一見しただけでは、何のためにこのような短い詩があるのか、それは私たちに何の意味があるのかと思ってしまい、おそらくほとんどの人に読み過ごされていくであろう。
しかし、実はこの短い詩には、はじめに述べたような、霊的な深い祝福の世界が内蔵されているのである。
このような霊的な、こだまの世界を私たちは知らされている。
これは、賛美にとどまらない。主への感謝、喜び、また真実や平和への思いを主にささげるときには、主からの愛や真実、そして平安がまた私たちにこだまのように帰ってくる。
このような状況を、ヨハネ福音書では、その第一章の最後にしるしている。

…もっと偉大なことをあなた方は見ることになる。
まことにまことに(*)、あなた方に言う。天が開け、神の使いが、人の子の上に昇り降りするのを、あなた方は見ることになる。
(ヨハネ福音書1の51

*)新共同訳では、「はっきり」と訳されているが、原文は、アーメン、アーメンであり、ヘブル語のアーメーンは、この語のもとにある語が、「堅固なこと、真実」という意味をもっているから、本来の意味は「まことに、真実に」となる。「はっきり」というのは、例えば、口をきちんと開けずに言えば、もっとはっきり言いなさいというように、単に明瞭性をさすだけの言葉として多く使われる。しかし、アーメンとは、真実性を言う言葉であるから、文語訳、新改訳もこのように訳している。英訳のほとんども同様である。例えば、I tell you the truth (NIV)
Truly, truly, I say to you (RSV)
など。

人の子とは、キリストを指す。そしてキリストを信じて、一つになる者―キリスト者もまたそれゆえに、このような偉大なことが起こるという約束である。天使が私たちの賛美や祈りを天に持ち運び、そこから神の祝福を携えて私たちのところに降ってくるという賛美や祝福のこだまを象徴的に指し示している言葉なのである。
悪しきこだまが反響するこの世界において、このような、天からのこだまが響く世界へと私たちは招かれているのである。

 


リストボタン朽ちる種からではなく、朽ちない種から

人間を本当に変える力をもつもの、それは人間の言葉や学問、経験、あるいはネットや本などの知識でもない。それは神の言葉である。 神は、目には見えないけれどもじっさいに生きて働いておられるお方、その神の永遠性といのちをそのまま内蔵しているのが神の言葉であり、それゆえに人間を根底から変える力を持っている。言いかえれば、新たに生まれさせるほどの力を持っているのである。

…あなた方は、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。(Ⅰペテロ1の23詩篇91011より)
You have been born anew, not of perishable seed but of imperishable, through the living and abiding word of God.

私自身が根底から変えられたのは、小学校から大学にいたる学校教育ではなく、友人や周囲のひとたちの経験や言葉でもなかった。それはたしかに、新約聖書に記された短い神の言葉であった。
人間のさまざまの意見、思想、学問などですら、それは「朽ちる種」でしかない。学問が人間の魂を本当に生まれ変わらせる力を持っているのなら、戦前とくらべて現在では、大学・短大の数は、一千を越えるほどに多くなっているのだから、はるかに昔より、生まれ変わっていく人が多くなっているはずである。しかし、じっさいには全くそうでない。
さまざまの学問は、現代の人間の生活を支えている。物理や化学、医学、農学といった自然科学、あるいは法学、経済学、語学、芸術学等々によって私たちの周りのものが成立している。
しかし、いかにそのような学問が不可欠なものであるとしても、それは人間の魂を根本から変える力は持っていない。 すでに二千年昔に主イエスが言われたように、人間の思索や経験的知識、あるいは学問ではなく、聖なる霊によって新しく生まれ変わらねば、人間を本当の意味で変革する力、神の国のことは分からないのである。
(ヨハネ3の3~8)
福島原発の大事故もまた、科学技術を学問的に学んだ人たちが偽りの絶対安全論を語り、政治や法律、経済などを学んだ人たちがその偽りの議論を用いて、日本の人々をあざむいてきた結果として生じたのではなかったか。
聖書に記されているように、私たちの知識は部分的なものであり、完全なもの(キリスト)が来たときには、部分的なものは廃れる。(Ⅰコリント13910
パウロ自身、当時のとくに高度な教育を受けて育ったのであったが、なお生まれ変わることはできず、キリストの真理を迫害していく状態にしかならなかったのである。
人間が本当に新たに生まれるには、人間の言葉でなく、「朽ちない種」、すなわち神の言葉が不可欠である。そのような力を持っているゆえに、神の言葉こそ、年をとっていく間にあっても、その魂を新しく生まれさせていくことができる。
「外なる人は衰えても、私たちの内なる人は、日々新たにされていく。」(Ⅱコリント416)と言われているとおりである。
年老いていく人間にあっても、たえず新たなものへと変えられていくことが可能なのである。 しかし、記憶力も、判断力も鈍ってくるのにどうしてそのようなことが言えようかと、思う人もいるだろう。
神の言葉によって日々新しくされていくというしるしは、聖書にある、「いつも、いろいろなことについて感謝せよ、絶えず祈れ」という状態により近づいているかどうかでわかる。
私たちが、かつては気にも留めていなかったような、ささやかなこと―手足が動かせること、日々呼吸ができること、見えること、衣食住など、日常の一つ一つに神の愛からのものとして受け取り、苦しいことであってもそこに必ず神がその苦難を用いてよきへと導かれようとしていると信じることができるなら、そのような魂は新しく造られているあかしとなる。
新しい年を迎えて、私たちも朽ちることのない種である、生ける神の言葉を日々受けて、日々新しくされて一年を歩ませていただきたいと思う。
(「今日のみ言葉」一月二日より。これは、私が毎月一度、インターネットメールで、希望者にみ言葉と私の撮影した植物写真とその説明を付けて送付しているもの)

 


リストボタン「壊」と「創」

 2011年、それは日本だけでなく、世界に強烈な印象を与えた年であった。一言で言えばそれは、「壊」である。地震による破壊、津波による破壊、そして原子力発電所の破壊という三重の重大な破壊が生じた。
原子力発電所が一度大事故を起こすなら、壊れた原子炉から燃料を取り出すだけでも、40年ほどもかかると予測されている。
ほかのどのような機械も、このようなことはあり得ない。
しかも、取り出したとしても、それを持っていくところがない。そのために、取り出せないでそこに半永久的に置いておくしかないのではないかとも考えられる。
このように、原子力発電所がほかのいかなる工場や機械類と異なるのは、その途方もない回復への道筋である。核廃棄物は100万年も管理が必要だという。半減期が長大なものが多く含まれているからである。
ウランのような大きい原子核は、人工的に中性子を照射することによって壊れる。しかし、単に壊れて破片になるということではすまない。
普通の例えばガラスや機械を壊しても、そこには単なる瓦礫が生じるだけで埋め立てたり、燃やしてしまうことで無害なものになる。しかし、原子核は、壊すとそこから永久的とも言えるような有害物質が生じてしまう。(*

*) ウラン238に中性子をあててウラン239となる。それがβ崩壊してネプツニウム239になり、更にそれがβ崩壊してプルトニウム239ができる(原子炉内では他のプルトニウム同位体も多数
できる)。ウラン238は天然に存在するのでネプツニウム239とプルトニウム239は極微量ながら天然にも存在する。また半減期が約8000万年とプルトニウム同位体の中では最も長いプルトニウム244もある。

 
自然界にあるウラン238に中性子を照射するという方法で、ウラン238の原子核を別のものに変えてしまい、本来なら存在しないプルトニウムというものを作ってしまうともうそれを元に戻すことができなくなる。
壊れたものを回復できないばかりか、それが限りなく有害なものを放出し続ける、それが原子力の問題が、ほかの事故などと全く異なる本質を持つことになっている。

一度壊れてしまったら修復ができない、ということに関連して、人間と神の関係はどうだろうか。
人間は、真実なもの、正しいものに対してどうしても背いてしまうという致命的な問題を持っている。それはどんなに努力、修養しても修復することができない。アダムとエバが神の言葉に意図的に背いたと記されているが、これは人間が創造された最初からこのような背信を犯し、そこから回復できないという本質を持っていることを示している。
このように人間は真実そのもののお方に従えないこと、すなわち人間と神様との関係が壊れてしまっているのをいかにして修復できるのか、それは聖書においてはずっと一貫して最大の問題として扱われている。
その修復は、自分の力で変えようとしてもできないが、人間の側から悔い改める、神への方向転換をするという単純なことによってなされる。
そのことを旧約聖書に現れる預言者たちは一貫して説き続けた。ときにはエレミヤのように命がけで国王やその重臣、あるいは祭司など指導的人物たちに説き続けた。しかしなお、彼らは立ち返ることなく、まちがった方向へと突き進んでいくばかりであった。
そのために、ついに人間の立ち返ることを教えてもできないということになり、イザヤ書の後半ではその人間の重い罪をになって身代わりに死ぬお方が現れるということが預言された。それは神からの明確な啓示であった。
そしてその預言に従って、その預言から500年ほど経ってから、実際にイエスが生まれた。それゆえに、イエスの誕生の最大の目的は、人間をその罪から救うことであった。
それとともに、救われた人間が新たに力を得て生きることを可能にすることである。
そのために、神の力、神そのものとも言える目に見えないもの、聖なる霊が与えられることになった。
キリストは、人間全体が壊れているので、そこに建て直すために来られたのである。壊れて死んだ状態になったことについて、使徒パウロは次のように書いている。

…私は、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、私を救ってくれるだろうか。(ローマ 7の24)

自然のものは、壊れてもまた再生する。樹木は、切っても傷つけてもすぐに再生し、新芽が出てくる。しかし、人間は、剣や弾丸の一つで壊れてしまい、再生できない。 動脈が切られたらそれだけで死んでしまう。
人間は高度に発達しているが、他方、きわめてもろい。生まれた赤ちゃんは丁寧に保護しなければ死んでしまう。
しかし、自然世界の動物、例えば山羊やキリンなどの草食動物は生まれるとすぐに自分で立ち上がれる。
さらに昆虫類では、放置されていて自然に成虫となる。植物においては、種になると、乾燥していても地中にはいってもなお生きている。20年もしてからでも発芽してくるのもある。
人間は高度に発達しているといっても、同時にもろさを一番に持っている。人間以外の動物はやはりもろさもあるが、衣服や冷暖房とかガス、電気がなくとも生きていける。
発達しているものほど、いろいろなものが必要となり、もろくなる。
さらに、人間には、動物にはない壊れやすさがある。それが心のもろさである。また、動物にはない正しいこと、あるべき姿というのがあるが、それに従えないという罪の問題がある。
 真実や愛、正義ということは、変わらない。正義などない、という人がいるが、例えば、うそをついたり、他人のものを盗むとか、弱いものをいじめたり、人を理由なく殺したりすることは正義に反することはだれもが知っている。このようなことは、1000年経っても変ることがない。それだけ考えても、変ることのない正義があることはすぐにわかる。
しかし、そのようにわかっているにもかかわらず、人間はその正義を行うことができない。それは、きびしい標準で見れば、人間の精神はもともと壊れているからである。どうしても自分中心に考えたり行動したりしてしまう。車を運転していてまっすぐ進まないということは、ハンドルとか車輪の部分などが壊れているからである。同様に人間が真っ直ぐ進めないのは、正しく歩ませる部分が壊れているからである。動物にはない精神という人間たらしめるものが壊れているからである。
人間のあらゆる問題はその壊れているというところから生じている。
こうした致命的な故障というべきものを、本当の意味で修復するため、それは造りなおすということになる。
それゆえ、次にあげた聖書の言葉のように、新しい創造ということが必要になってくるのであり、そのことのためにキリストは来られたのである。
… キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Ⅱコリント 517
キリストは、壊れたものを建て直すために来られた。
いろいろな知識、経験や映像、新聞雑誌、テレビやインターネットに洪水のように見られる知識も生まれ変わらせる力は全くない。私たちが最も必要としているのは、生まれ変わることである。それをキリストは、聖なる霊によって新しく生まれると言われた。
この世に至る所に見られる「壊」に対して、「創」ということもまた身近に置かれている。破壊は最大の力でなく、創造こそが、神の力ゆえに、最終的な勝利へとつながっているし、太陽のようにだれにでもその力は注がれている。ただ神を信じるだけで「壊」の世界から、「創」の世界へと移ることができる。

 


リストボタン絶望から光へ―詩篇22篇

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わたしの神よ
昼は、呼び求めても答えてくださらない。
夜も、黙ることをお許しにならない。(詩篇22の2~3)

この詩は、単なる詩ではない。主イエスが、十字架で釘付けにされ、息も絶えようとするときに叫んだのが、この詩の最初の言葉であった。そのことは何を意味するのだろうか。
イエスの一番苦しいときの叫び声が、詩篇の叫び声と同じだった。それは、イエスは人間の代表的な人であったが、完全な神の力を受けた人でも最も苦しい思いをしなければならないということの預言となっているのである。
詩篇は単に個人の感情や思いを言うものではない。聖書は信仰を持てば、悩みや苦しみはなくなるというようなことは言っておらず、信仰を持っていてもこの地上においては、非常な苦しみが降りかかってくることがあることを、はるか昔から言っている。
このように旧約聖書の時代から神を強く信じていながら、最も苦しい状況に追い込まれた人がその自分の経験を言葉で表した。それは本人には預言となるということはわからなかったであろう。しかし、この詩は、神によって、未来に起きることの預言とされた。
この苦しみの中にあっても、作者は神など存在しないとは言っていない。私たちの神に対する考えや見方、信仰というのは、苦しいことがあったら、神様などいないと思うのと、もう一つはこの世に神様はおられる。けれども見捨てられたんだという思いのどちらかになる。
神様など存在しないと思うようになった人の中には、信仰を捨てる人もいる。また神様はおられると信じていても、見捨てられたと思ってしまったら絶望してしまう。
これは旧約聖書に出てくるヨブもそうであった。神が意図的に自分を捨てたんだったら、もうどうすることもできないという気持ちになる。このようなことは私たちにも生じうる。
信仰を持っていて、信仰にしたがって生きてきた、神のみ言葉に聞いて生きてきた。それなのに、普通の人にすら起こらないような大変な苦難がふりかかってくる。そのようなときの苦しみが、この詩によく表されている。長い信仰生活にあって、たしかに神は助けてくださった。ともに歩んでくださったという確信があった。しかし、そうした愛の神がなぜ、現在ふりかかっている耐えがたい困難をそのままにして助けてくださらないのか、愛と真実の神ならば、どうしてこの叫びを聞いてくださらないのか…と神への叫びが湧きでてくる。

…昼は、呼び求めても答えてくださらない。
夜も、黙ることをお許しにならない。

この詩の作者は、夜も昼も絶え間なく、その苦しみのゆえに神に叫び祈り続けているのがわかる。黙ろうとしてもそうしておられないほどに苦しみが押し寄せてくるからであった。
しかし、そのような状況にあってもなお、この作者は神はどんなお方であるのか、ということは心にしっかりととどまっていた。そのことを次の言葉は示している。

…だがあなたは、聖所にいましイスラエルの賛美を受ける方。(*
わたしたちの先祖はあなたに依り頼んで、救われて来た。
助けを求めてあなたに叫び、救い出されあなたに依り頼んで、裏切られたことはない。(46節)

*)原文は、「アッター(あなたは)、カードーシュ(聖である)。」という二語であって、新改訳の「あなたは聖であられ…」という訳がそれを表す。英訳でも、you are holy となる。
また、「インマヌエルの賛美を受けるお方」と新共同訳では訳されているが、原文には、「(賛美を)受ける」という語はなく、直訳すれば、「彼は住んでいる、賛美、イスラエルの」となっているから、「イスラエルの賛美を住まいとしている」と訳せる。(新改訳)
英訳でも、You are holy, who make your home in the praises of Israel,NJB)というように訳されている。


自分の現状がいかに闇であり、絶望的であってもなお、神は決して裏切ることはない、長い歴史のなかで、神により頼む民はずっと救われてきたという事実に立ち返っているのである。
神とは、イスラエル―すなわち神を信じる人たちの賛美のなかに住んでおられる。それは言いかえると、民の賛美をつねに受けてこられた。無数の人たちが、神のなされた救いのわざやその導きに喜び、感謝し、そこから神への賛美をささげてきたのである。
あなたこそは、聖である、というこの作者の信仰的実感こそは、この人の原点にあった。「聖」とは、「分けられている」(separate, apart)というのが原意であって(*)、人間のあらゆる混乱や汚れ、また時間や空間的な束縛からも、分けられた別個の存在であるという意味を含んでいる。

*BDB Hebrew Dictionary による。

自分がいかに神に祈り、叫んでも聞いてもらえない、という現実がある。しかし、だからといってこの作者は、神などいないというようには思わなかった。なぜ、自分にこのような苦難がふりかかり、それがいかにしても除かれない苦しみが続くのか、ということはまったくわからなかった。自分にはわからなくとも、神は、あくまでそうした自分の苦しみやこの世の汚れなどとは無関係に、完全な存在としておられるという確信は揺るがなかったのである。
聖書は、こうした深い信仰の世界を私たちに提示している。自分に利益が与えられなかったら信じない、というのでなく利益どころかいわれなき苦難が続いてもなお、神の愛や真実は存在しつづけているのだと信じる姿勢なのである。
自分を打ち倒そうとする力に対して、あくまで神を信じつつ、叫ぶことを止めないという作者の心の世界がここにある。
だが、現状は、人間ではないと思われるほどに苦しみで生きていくのが困難な状況となってしまった。

…わたしは虫けら、とても人とはいえない。…(7
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い唇を突き出し、頭を振る。
「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。」
79節)

7節からは周りの人間から見捨てられたことが書かれている。そしてそれも神様が見捨てた証拠だということである。人間の屑のようにされ、嘲笑われたり見下された。人々から「お前は神様を信じているのなら、その神に救ってもらえ」という嘲りを投げつけられた。このことは新約聖書でもイエスによって実現した。

…そこを通りかかった人々は、イエスをののしって言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。(マタイ福音書273944

主イエスが十字架につけられたときに起こったこの出来事は、それに不思議なほど似たことが、それより何百年も昔の人が、体験したことであった。まさに、この詩の作者が書き綴ったその体験は、キリストの苦しみという重く重要な出来事の預言ともなったのである。
旧約聖書の詩とは、単なる一時的な人間の感情を記したものではない。それは深い地下を流れる水のように、500年をも越えるような歳月をも越えて、実現していくことをも含んでいる。
預言書だけが、未来のことを予言したり、現状をするどく神の目をもって見抜くのではない。旧約聖書の詩の作者も、しばしばそうした預言者なのである。
…わたしを母の胎から取り出し
その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
母がわたしをみごもったときから
わたしはあなたにすがってきました。
母の胎にあるときから、
あなたはわたしの神。
わたしを遠く離れないでください
苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。(1012節)

そして10節から、自分が生まれ出たのも、その背後には神がそのようになされたのであり、母親の乳房を吸って生きようとした本能的な行動も神がそのように導かれたのだと述べている。
ここには、自分の存在が、母親とか周囲のいろいろな人間の世話によることはもちろんであるが、そうした人間のはたらきの背後の神によってなされていると実感している人の姿がある。
この詩の作者は、「母親が私をみごもったときから、ずっと神にすがってきた」と、私たちが考えもしない表現で言っている。母の胎内にいるときから、その胎児が神にすがってきたとは何を言おうとしているのだろうか。
それは、自分の魂の根源には、神に結びつく本能のようなものがある。この世界に生を受けたときから、その本能的なものが働いて無意識的に神への結びつきを求めるようになったと言える。
これこそ切っても切れない関係である。あるときから神との関係が生まれたのではなくて、本当はずっと前から神のほうから見つめていてくださったんだということに気がつく。
神は時間を越えたお方なので、自分の存在というのも誕生日からでなく、そのずっと前から何か神との結びつきがあったんだと感じられてくる。 それくらい神と自分との魂の結びつきは根源的なものであるということである。
このように改めて神との結びつきを思い起こして、現在の厳しい状況の中で神にあくまですがり続けようとすることが書かれている。

…雄牛が群がってわたしを囲み、猛牛がわたしに迫る。(13節)
ライオンのようにうなり、牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
わたしは水となって注ぎ出され
骨はことごとくはずれ、
心は胸の中で蝋のように溶ける。(15
あなたは、わたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。(19
主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。
わたしの力の神よ、
今すぐにわたしを助けて下さい。(22

 13節からは再び現実の状態が書かれている。ここに記された雄牛、ライオンとかは私たちの生活とはかけ離れたようなことなので、この詩は私たちとは関係のないことのように思いがちである。
牛というのは力のシンボルで、またいつの時代でも力ある動物としてやはりライオンを挙げている。
昔の迫害の時には、ここにあるように国家権力がキリスト者たちを捕らえ、しばしばひどい拷問をしたうえで処刑していったのであるから、この詩の作者が記していることは誇張ではなく、歴史的にこのようなことは、世界の各地で―日本でも―数多く見られた。
「私は水となって…骨がはずれ、心は蝋のように…」このような表現は特別なたとえである。水や蝋になるということは、立つことができず、氷が溶けて形がなくなるように、自分というものが全く分からなくなって消えてしまうというぐらいに霊的に攻撃されたという気持ちを表現している。
骨がはずれるというのは象徴的な表現で、生理学的な骨とは違い、心身をささえるものを指して言っている。だから自分の考えや思いは全部壊れてしまったということを表す。そして最後は死の世界に捨てられたとある。これはこの詩の冒頭にあった、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」という箇所とつながっている。
神様は自分を見捨ててしまった、土と死の中に捨ててしまったのだということである。
「私の着物を分け、衣を取ろうとして くじを引く」(19節)もまた、実際にイエスにおいて実現した。

…彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。(マタイ2735

このようなことまで、何百年も昔の詩で書かれていたこと、じっさいに詩の作者が体験したことが、キリストにおいて実現していくのは驚くべきことである。
詩篇は、人間の書いたものであり、詩であるから作者の苦しみや悲しみ、祈り、賛美、喜びなどであるにもかかわらず、なぜ神の言葉として聖書におさめられているのか、その理由の一つはこのようなところにある。詩篇に記されたその内容は、たんにその作者個人の苦しみや悲しみ、喜びにとどまらず、それは万人にあてはまる内容を持っていて、その背後に神の御手があり、作者のさまざまの体験や心に生じたさまざまの感情をとおしてはたらく神のみわざが全体として記されているからである。
さらには、この詩のように、未来に生じることの予言となっているものもある。それは、神の御計画を表したものであるゆえに、神の言葉ということができる。

…私の力の神よ、今すぐに私を助けてください。
わたしの魂を剣から救いだし、
ライオンの口、雄牛の角から私を救い、
私に答えてください。(2022節)

これらの言葉に見られるように、ライオンや雄牛の力にたとえられるような、強い敵の力によって苦しめられている作者は、その状況から神に全力をあげて祈るすがたがここにある。神はもう見捨てたのかと思うくらい苦しいけれども、すでに、46節に挿入されてあったように、またここでも、苦難のただなかで神を見つめるまなざしがある。
どうか助けてください、救ってください、答えてくださいと祈り続け、決してあきらめなかった。神を知らなかったらあきらめてしまう。
ローマ書にあるように、人間というものは不真実で正しいことも言えず、できず、愛のあることができない。だから全面的に信頼できる人は一人もいない。だからこそこの詩の作者は、神様に信頼し続けた。いかに極限状態に置かれて、神からの応えがなくても、それでもなお神を見つめて祈り願い続けたのである。 

このように、この詩の前半は、死に直面している絶望的状況が記されている。
しかし、それに続く内容は、驚くべき変化が見られる。

…わたしは兄弟たちに御名を語り伝え
集会の中であなたを賛美します。
主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。
主は貧しい人の苦しみを決して侮らない。
御顔を隠すことなく助けを求める叫びを聞いてくださる。

それゆえ、わたしは大いなる集会であなたに賛美をささげる。
貧しい人は食べて満ち足り
主を尋ね求める人は主を賛美します。
いつまでも健やかな命が与えられますように。(2327節)

それまでの限りない苦しみがいやされ、その最大の経験を他者に知らせたいという切実な願いが生まれてくる。神の力によって救いだされたというほかのいかなることにも代えがたい経験から、おのずから生まれるのが、この大きな真理を伝えたいという願いである。

…地の果てまですべての人が主を認め、
御もとに立ち帰り
国々の民が御前にひれ伏しますように。…
来るべき代に語り伝え
成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。(2832節より)

このような、神の恵みを伝えたいという願いは、限りなく広がっていく。単に自分の周囲の人たちだけでなく、世界のあらゆる人々がこの神の大いなる救いの力を知るようにとの願いと祈りへと導かれていく。
そして、さらに、自分の世代だけでなく、後の世代にまでこの真理は伝わっていくという確信をこの作者は啓示によって知らされたのである。
このような深く広い洞察、国や民族を越え、時間をも越えて、神の愛と真実は伝わっていくという確信、それは人間の思想や意見、伝統といったものではない。あらゆる人間の最も奥深い世界を示された者だけが、こうした限りのない洞察を与えられる。
そうした意味で、まさにこの詩は神の言葉なのである。



リストボタン「鎮魂」ということ


大震災でなくなった方々に関する新聞記事やニュース報道などで、しばしば見かける言葉が、「鎮魂」 ということである。「亡くなった人たちへの鎮魂の思いを詩に綴った」とか、「鎮魂の旅」、あるいは「鎮魂のための音楽会」などと繰り返しつかわれている。
しかし、たいていは、この言葉の本当の意味を知らずして用いられていると思われる。
以前、いのちのことば社から出された、ある高齢の有名なキリスト者の書いた文章に、この「鎮魂のために…」という言葉があったので、それはキリスト者として使うべきでないことを指摘したことがあった。出版社は、検討してみると言って1週間ほどのちに、やはりその通りであったと言って、今後の版では鎮魂という言葉を削除すると、電話があったことがある。
それほど、この言葉は、その意味を考えないで使われていることが多い。
「鎮」という漢字は、金属の重しというのが原意で、重みをかけて抑えるという意味を持つ。そこから、荒ぶるものをしずめる ということを意味する。それゆえ、鎮圧とは反乱や暴動を武力を使ってしずめることであるし、鎮火というのは、燃える激しい火の力をしずめることであり、鎮痛とは、人間を苦しめる痛みをしずめることである。また、鎮守という言葉のもとの意味は、軍がとどまって乱をしずめることである。(「仏教辞典」岩波書店などによる)
このように見てくれば、鎮魂とは、魂が乱れ、荒ぶるものになるのを重しをかけて鎮める、ということになる。魂がおとなしいよいものなら、鎮魂などということは必要がない。死後の魂が、荒ぶるもの、しずまらずに生きた人間に反抗的あるいはたたりをもたらすものとなるということがこの言葉の背後にある。だからこそ、そのような生きた人間に害を及ぼすことがないように、鎮めることが必要となり、それが鎮魂ということである。
すでに引用した岩波書店の仏教辞典には、鎮魂とは、「死者の霊をなだめ、鎮めること」とあり、「古くから死後の魂は、生き残った魂に危害を加えると信じられ、それを慰め供養する儀礼が行われた。」と説明されている。
このように、供養されてはじめて、死後の魂は生きている人たちに危害を加えることがないようになって、祖霊と一体となっていくと信じられた。
このように、死者の霊あるいは魂がどのようになっているのか全く分からないのに、勝手に、その魂を押さえつけたり、なだめたりしないと、生きている人間に危害を加える(たたってくる)などと信じるのは、死者全体をそのようなものとみなすことであり、死者に対してもよい思いどころか、とても有害なものとみなしていることになる。
聖書においては、死者のための祈りということは記されていない。
キリストの言葉にも、使徒パウロやほかの新約聖書のどの書物にも、死者がたたってくる、危害を加えてくるからなだめ、鎮めるなどということは全く記されていない。
ドイツの著名なキリスト教指導者であったブルームハルト(*)は、「死者のための祈り」という小文において、次のように書いている。

「…先祖のための祈りは止めなさい。というのは、それが正しいと言っている聖書の箇所はどこにもないからである。 死者がどんな状態であるかは、あなたは全く知らないのです。…まず自分の罪のことを考えなさい。罪は息絶えることを望んでいないのです。
ですから、生きている人のために祈らねばなりません。 死者は主の御手のうちにあります。
主の御名は、憐れみ深く、恵み深く、忍耐深く、大いなる恵みと真実に満ちている(出エジプト記346)ということで満足できるのです。」

*)「悩める魂への慰め」64頁。ブルームハルト(1805年~1880年)著。新教出版社刊。ブルームハルトは、牧師として魂の救いのために働いたが、他方では特別ないやしの賜物を与えられていて、リューマチ、カリエス、肺結核、そして精神の病なども祈りによっていやした。スイスのカール・ヒルティもブルームハルトについてしばしば言及し、最もよく理解した人々として、キリスト、ヨハネ、ダンテ、トマス・ア・ケンピスなどと共に、彼の同時代の人々としては、カーライル、ブルームハルト、ブース夫人、トルストイなどをあげている。なお、このブルームハルトの息子、クリストフ・F・ブルームハルトも牧師であったが、彼の信仰は、神学者として有名な、バルトやブルンナーなどにも深い影響を与えたと言われている。

死者は、次の聖句にあるように、神の御前に置かれ、生前の心のあり方、言動、特に悔い改めがあったかどうかによって適切な裁きを受けるということである。

…言っておくが、人は、裁きの日には、責任を問われる。あなたは自分の言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされる。(マタイ1236
… イエスは数多くの奇蹟の行われた町々が悔い改めなかったので、叱りはじめた。…お前は天にまで上げられるとでも思っているのか、陰府にまで落とされるのだ。…(同112024

それは神の無限の英知と正義、そして愛に基づいてなされることであり、人間には分からない。私たちはただ神が死者を最善にしてくださると信じればよいことなのである。
表面的に神を信じないといっていても、死の近づく苦しみのとき、十字架でイエスと共に処刑された重罪人のように、その人は悔い改めて神を求めたかも知れず、また口では信仰的なことを話していても、心では真実に反する思いを抱き、神に立ち返ることもない場合(*)には、それらもすべて見通しておられる神が、いっさいを見た上で、裁きをされ、最善のことをなされるということなのである。

*)私に向って主よ、主よ、という者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入る。(マタイ721)私たちは、御心に添えなかったと感じたとき、すぐに主に立ち返り、赦しを受けることによって御心を行う者とみなしていただける。

聖書で繰り返し言われているのは、祈りは死者に対するものでなく、生きている人に対することなのである。
隣人を愛せよ、ということは、身近に接する人は誰でも真実な思いと祈りをもって接するようにということであり、たとえ敵対してくるものであっても、彼らがよくなるように祈りをもってせよ、ということであり、いつも祈れ、という言葉もみな、生きている人のために、彼らの魂が本当の幸いを得ることができるようにとの願いなのである。
このように、キリスト教は、万能かつ愛なる神を信じるゆえに、死者の魂の状態という、私たち人間には知ることのできないことに対しては神の愛にゆだねて信じるのであるから、死者については、祈ることを求められていないのである。
しかし、カトリックでは、死者の安らぎを祈る歌があり、それが、レクイエム(*)である。

*)これはラテン語で、requiem と書くが、この語は 「安息、安らぎ」という意味の語 requies(レクイエース) の対格(英語の目的格に相当)である。re quies(クィエース)から成る語であり、クイエースとは、安息、休憩という意味を持っている。
これが、英語にも入ってきて quiet(静かな)という語になっている。re は 再びというニュアンスをもった接頭語であるが、requies という言葉は quies(安息、静養)という語の強調形として使われている。
この語はもともと、ミサ曲の次の文に出てくる言葉である。
Requiem Aeternam Dona Eis Domine.
(レクイエム アエテルナム ドーナ エイース ドミネ)直訳すると、「安らぎを、永遠の、与えて下さい、彼らに、主よ」 、となる。「主よ、彼ら(死者)に永遠の安らぎを与えて下さい」という意味。この最初の語をとって、レクイエムというようになった。

レクイエムは、日本語では、「鎮魂歌」とか「鎮魂曲」のように訳されているが、この訳語では、すでに述べたことからわかるように、実はまちがった意味になってしまう。
本来のレクイエムには、死せる人々が生きている人に危害を加えるから、それをなだめるとかいう考えはまったくない。この言葉にあるのは、生きている人々と同様に、死者にも、最も大切なものである「主の平和(平安)」を与えて下さいという願いなのである。
主の平安は、主イエスがこの世を去るときに、信じる人に与えると約束されたものであり、神の持っている平安であり、最もよきものであるゆえに、生者、死者にたいしてもそのことを願うという気持ちから、カトリックではレクイエムという歌がある。
以上のように、キリスト教では鎮魂ということはあり得ないゆえに、レクイエムを鎮魂曲などと訳すのは本来は間違ったことなのである。
鎮魂とは、言い換えると、怨霊(おんりょう)を鎮めることにほかならない。
怨霊とは、自分が受けた苦しみや事故、災害などの運命を恨み、たたりをする死霊または生霊のことであり、生きている人に災いを与えるとして恐れられた。それを鎮めることを重要な任務とするために、さまざまの仏教、神道の複合した行事が行われることになった。
京都の祇園祭は、現在では観光で有名だが、そのもともとの起源は、京都に多くの病気―天然痘、マラリア、赤痢、インフルエンザなどが大流行した。その原因として、無実の罪を受けて苦しみつつ死んだ人の怨霊のたたりだとされ、その怨霊を鎮めるために始まったものである。このようなことが鎮魂ということの実態なのであるから、キリスト教とは全く関係のないことなのである。
それにもかかわらず、キリスト教音楽のミサ曲のなかのレクイエムを 鎮魂ミサなどと訳するのは、こうした歴史と実態を知らないゆえのことである。
このようなこととは別に、死んだ人の魂が恨んだり、うめいたり、悲しんでいるなどと勝ってに想像して、それを鎮めるために何かの音楽を聞かせるとか行事をする、ということは、死者に対してもその親族や友人に対しても適切な態度であろうか。
突然の死ではあっても、そのことを神が愛の御手によっていまは、最善になされている、と信じることこそ、望ましいことである。そのように、信じないなら、何十年経ってもやはり死者が悲しんで、恨んでいるなどと思うことになる。それでは、死者も生き残ったものにも、何一つよいことはないからである。
鎮魂という言葉とともによく使われてる「慰霊」という言葉も、やはり死後の魂は、悲しんだり、苦しんだり、憎んだりしているから、そのような霊を慰める、という考え方があるが、これも死後の魂を勝手に一律にそのような状態にいるとみなすことである。病気や高齢化で死ぬにしても、事故やその他の出来事で死ぬにしても、その魂は、生きていたときのあり方で神が適切になされる。真実なもの、神を見つめて生きたものは、事故や病気などどのような死に方であっても、その魂は地上のさまざまの苦しみや悲しみを終えて、神のもとで永遠の安らぎを与えられているであろうし、逆に悪しきことを意図的にしつづけたような魂は裁かれるであろう。一律にみな死後の魂が悲しんだり、苦しみや、憎しみを持っているから慰めるなどということは意味のないことである。
私たちにとって大切なことは、死者をそのように恨んでいるとか、憎しみを持っているなどと考えてその魂(怨霊)を鎮めようなどと考えることでなく、生きている間に神を信じ、神に立ち返り、死後はすべて神が最善にしてくださると、信じて生きることである。そのような魂には、生きているうちから慰めと力を与えて下さる。
そのことは、ヨハネ福音書で繰り返し強調されていることである。死後も、キリストと同じような栄光の姿になるのであるから、かえって地上の私たちを励ます存在としてあり続けることを信じることができるのである。

 


リストボタン原発事故が最悪の状態になっていたら

原発の大事故以来、原発を止めて自然エネルギー、再生エネルギーへと強力に移行すべきだという意見が出されてきたが、それと逆に、従来通り、原発を何とか継続していこうとする人たちがいろいろと画策している。
これは一つには、国民も喉元すぎれば熱さを忘れるということで、とくに直接に被害を受けていない地域は、原発をそのまま何となく継続していくという考えに依存する傾向が強くなっていきつつある。
しかし、原子力発電ということがいかに危険な事態となりうるか、今回の事故よりはるかに深刻な状況になる可能性が高かったということが、最近報道されている。
 
…3月25日に、菅首相の指示で、近藤駿介氏(内閣府原子力委員会の委員長)が、事故の最悪の場合にはどのような事態が起こるかを、報告していた。
 それによれば、1~3号炉でさらなる水素爆発や核燃料プールの燃料溶融が起きた場合、原発から、半径170キロ圏内が旧ソ連チェルノブイリ原発事故の強制移住地域の汚染レベルになるとされていた。
 これはA4で20頁ほどになる詳しいもの。第一原発は、3月11日の地震や津波によって、すべての電源を失い、1、3、4号機で水素爆発が生じ、2号機も炉心溶融で大量の放射性物質が放出されていた。冷却作業は外部の消防ポンプ車など外部からの注水にたよっていて不安定な状態であった。
 とくに懸念されていたのは、1535本の燃料を保管する4号機の使用済み核燃料プールだった。
 最悪の場合は、1~3号機のいずれかでさらなる水素爆発が起きて、原発内の放射線量が上昇。余震も続いて、冷却作業が長期間できなくなり、4号機プールの核燃料がすべて溶解したと仮定した。
 その場合には、宇都宮市、茨城県つくば市など原発から半径170キロ圏内で、土壌中のセシウムが1平方メートルあたり、148万ベクレル以上という、チェルノブイリ事故の強制移住基準に達する。
 東京都、埼玉県のほぼ全域、横浜市まで含めた250キロの範囲が避難が必要なほどに汚染されると推定した。
(毎日新聞12月25日)
4号炉に、原発3基分に相当する核燃料があり、それが溶融して崩れ落ちた場合、一挙に、三つの原子炉のメルトダウンが合わさったような状態になる。その場合には、それらの燃料は圧力容器や格納容器に入っていないのであるから、高濃度の放射能が垂れ流し、空気中へも拡散され続ける状態となり、手がつけられなくなってしまう。
それだけではない。そのような強力な放射能がある状態となると、隣接している1~3号炉にも近づけなくなり、それらもさらに燃料が高温となり、水素爆発、あるいは水蒸気爆発が起こる可能性がたかまる。もしそうした爆発が起これば そこからの莫大な放射能が関東全域を覆うことになって、3500万の膨大な人間が避難するということになれば、それは日本全体の大混乱となってしまうだろう。
そのような恐るべき可能性をはらんでいた4号炉は、電源がなくなって、核燃料を入れてあったプールの水が沸騰し、空だきとなる直前に、4号機内で起きた水素爆発の衝撃で、核燃料プールの横の別のプールの水が流れ込み、そのために、空だきを防ぐことができたという。
これは全くの偶然的出来事のゆえであった。これがなかったら、日本の運命が大きく変わっていたとも言える重大なことなのである。
こうした危険性を内蔵しているのが、原子力発電なのである。ほかのいかなる産業や事故においても、このような膨大な規模での破壊や、数千万人の住む地域が住めなくなるなどということはあり得ない。
このような、恐るべき事態をはらむ原発を止めることなく、さらに巨額の費用を投入して安全にすればいいのだ、などという人がいる。いかに人間が安全に考えようとも、定期的な点検と補修のときに、じっさいに高い放射線を浴びつつ作業を行うのは、下請け工事を請け負っている会社の作業員である。
人間が完全に物事をすることなどあり得ない。交通事故一つ考えてもわかる。だれも、交通事故を起こして怪我しようとは思わないが、それでも人間の弱さゆえに、どうしても運転ミスが生じて事故は起こる。
どんな状況でもそれは変わらない。今までにも繰り返しあったように、じっさいは何らかの異常や事故があっても、それを軽微なものとしたり、隠したりすることが当然考えられる。巨額の費用をつぎ込むほど、何らかの事故になるとまたその修復に恐ろしく費用がかかる。そして、当事者たちは、重い責任を取らされる。
このように、重大な事故が起こると、大変な問題になることゆえに、できるだけなかったことにしようとする。そのために、不正が行われ、職員が真実を話さなくなる。こうしたことが重なっていくと、次第に積み重なり、事故があっても正しく報告もせず、推進の意見ばかりをいうようになる。
やらせメール事件を見てもわかるが、人間はどんなに机上でよいプランを作っても、金や権力に弱く、名誉心の強い人間であるから、自分たちの欲望をとげるためには、どのような裏道をも考えだしてしまうものであり、決して予想通りには行動しないのである。
これがまた新たな事故の温床となる。
福井県の高速増殖炉「もんじゅ」は、莫大な経費をかけて造ったが、もう15年ほども故障で運転できない。しかもその間、毎日なんと、5500万円ほども巨額の費用が、維持するだけに費やされてきた。そうしたなか、ようやく運転を再開したが、まもなく2010年8月に、炉内中継装置という33トンもの機器を落下させた。そのため、10ヶ月ほどもかけて、ようやく落とした機器を引き上げたが、そ引き上げ作業のためだけに、何と17億5000万円という巨額の費用がかかっている。 このようなことのために、引き上げ工事のさなかに、担当の要職にある人間が、自らの命を断ってしまったということがあった。
このように、本質的に危険なものを、巨額を投入して安全なものにしようとしても、当然のことながら次々と難問が生じてくるのである。 このようなことから考えても、これほど危険なものをより安全になどという学者や電力会社、あるいは政治家の言い分を信じることはできない。そうした主張こそが、現在の計り知れない悲劇を生み出したのである。
多くの被災で苦しむ人たちを救うためにも、さらにこれからの日本の前途を考えるなら、直ちに、こうした原発の推進を中止すべきなのである。

 


リストボタン詩の世界から
八木重吉の詩から


いつになったら
いつになったら
すこしも 人をにくめなくなるかしら
わたしと
ひとびととのあいだが
うつくしくなりきるかしら

・人間同士の関係が清いものになりきる、それはどんなにそうなろうとしても、難しい。キリスト教世界の最大の使徒パウロですら、自分はどんなによい意志をもっても行うことができない嘆きを語っている。
ただ、聖なる霊が私たちのうちに住んでくださって、私たちの内にある汚れたものを洗い流して下さり、よくない霊を吹き清めてくださるとき。
美しくなりきる関係は、人間同士では難しいが、神の創造された自然とは、可能となる。人のいない静かな谷川で流れ落ちる水が岩かどにあたって生じる純白のしぶきやその流れと音に耳をすませるとき、そこには何らの汚れがない。

ねがい
人と人とのあいだを
美しくみよう
わたしと人のあいだをうつくしくみよう
疲れてはならない
・人と人との愛にうつくしいものを見る、それは、主イエスが言われたこと、敵を愛し、迫害するもののために祈れ といわれたことを思いだす。このような心が与えられたとき、私たちに悪意をもってくる人たちにさえ、祈りという美しい心が働く。
醜くて、弱い私たちであるが、神の無限に清い霊を受けるときには、このようなところまで変えられていくのだ。

きりすと
きりすとを おもいたい
いっぽんの木のようにおもいたい
ながれのようにおもいたい

(「貧しき信徒」新教出版社刊 6465 74頁)

・主イエスへの信仰がこのように、木や水の流れを用いて言われたことに新鮮さを感じる。いっぽんの木、それは、とくに大木の側に一人立つときには、いかなる嵐や風雪にも耐えて、歳月の流れにも動じることなく黙して立っているさまは、私たちの心を引き締める。それは確かに祈りを感じさせるからである。その樹木の沈黙が、同時に雄弁に語りかけてくる。
そして、途絶えることなく清い水となって流れ続けるそのさまは、絶えずキリストに向って流れ続ける心の流れを暗示する。
私たちの祈りの流れは時としてとどまり、逆流し、あるいは汚れたものが入り込むこともある。そのようなとき、こうしたいっぽんの木や清流に接するとき、ふたたび私たちもいっぽんの木のような力と、その流れのようなものが心に入ってくる。



リストボタンことば

350)被造物のただ一つでも、敬虔で、感謝する心の豊かな人にとっては、摂理を感じさせるのに十分なのである。
そして私は大きなことでなく、次のようなこと、草から牛乳が生じ、さらにチーズが、そして羊の皮膚から羊毛が生じる―こういうことを考えだした者は誰なのだろうか。「誰でもない」と人は言う。おお、何という無感覚、何という恥知らずなのだろう。…
我々は、人と一緒の場合にも、一人の場合にも、神を賛美したり、その恵みを数えあげるべきではないだろうか。
掘っているときも、働いているときも、食べているときも、神の讃美歌を歌うべきではないだろうか。
(エピクテトスの談話集より (*)岩波文庫版「人生談義」上6971頁より)

*)エピクテトス(紀元55135年)は、古代ギリシアのストア派の哲学者。キリストの使徒たちが福音を伝えていた時代と重なるほぼ同時代の人である。奴隷であったが後に解放され、貧しい生活のなかから人間のあり方、本当の幸いとは何かに関して深い思索を残し、それがここに引用した談話集などとして現代も読むことができる。
スイスのキリスト教思想家、カール・ヒルティは、その著書「幸福論」第一部にエピクテトスの語録を引用し、その内容は、キリスト教の倫理的内容に最も近い古代の著書であると書いている。

 


リストボタン休憩室

○宵の明星と木星
去年の12月下旬から、夕方の西空には、宵の明星と言われる金星がその心惹かれる輝きを見せているし、ふりかえって南東の空を見ると木星が、ほぼ同じような強い澄んだ光で輝いていて、互いに輝きを交わしあっているようです。
12
月末ころには、その間に、三日月が見られ、冬の澄みきった夕空に、得難い光景が見られました。
夕闇のなか、冷たい風の吹くなか、ただこの三つの天体が輝いているという単純きわまりない光景ですが、その単純さのなかに深い神からの語りかけを感じることができます。
11
月の中旬には、金星は西の地平近く、木星は、東の空低くに見られ、次第にこの二つは近づいてきましたが、これからも、さらに木星と金星の距離が近づき、3月の中旬になれば、この二つは間近の位置となって見えるようになります。
この金星が、夜明けに見えるときは明けの明星と言われ、それは聖書の最後の章に、キリストを象徴するものとして現れます。この世にあるほかのどんなものも、闇に強い輝きをもって私たちを見つめるこの星ほど、キリストを指し示すものはないと、古代ローマの厳しい迫害を受けていた人たちは実感していたのがうかがえます。
私たちが最も必要としているのは、私たちを取り巻くさまざまの闇にありつつも、そこに永遠の光を見いだすことゆえ、これらの星はその最も重要なことへと私たちの思いを引き寄せてくれるのです。

 


リストボタン編集だより

来信より
○「原子力発電と平和」の本をありがとうございました。事実、真実がわかりました。内容が大変深いです。このような本を発行してくださり、感謝です。たくさんの方々に読んでいただきたいですね。一般の人にもとてもよくわかる内容だと思います。(近畿の方)

○「原子力発電と平和」については、多くのことを教えられました。私自身、東海村原発をはじめ福島原発、女川原発の建設当初から見学し、勉強をしておりました。とくに女川原発は10回を超す回数で訪れました。まだ原発の危険性を見抜けなかったのです。 チェルノブイリやスリーマイル島の事故後、脱原発が日本の進むべき道だと考えるようになりました。
そして今回の福島原発事故で、いかに恐ろしい人災であったかを肝に命じました。わたしの仕事場で原発の危険性を説いていく決意をしております。また、この本に書かれている「平和(シャーローム)」に共感しました。この本を友人たちに回覧をはじめております。(東北地方の方)

○…確かに、聖書の言葉と同様に、讃美歌のもつ力と恵みも大なるものがあります。集会のたびに歌われる讃美歌も、一時的な感激に終わらせず、繰り返し歌うことで同じ恵みを味わえるのではないかと思います。聖句の暗唱とともに、讃美歌の暗唱もしましょう。
聖書のある箇所に、「持てる者はますます持ち、持たない者は、もっているものまで取り上げられる」とありますが、本当にそうだと思います。宝はすぐ近くにあるのです。(九州の方)

・一般の歌は、何となく歌うのが楽しいから歌うという人も多いと思います。歌はいろいろな動機から歌われると思います。しかし、キリスト者の賛美は、祈り、感謝、神への思いが根底にあります。それゆえに、礼拝のときだけでなく、喜ばしいときも、また悲しみのとき、さらに最も苦しいことに直面するときでも…つねに賛美を歌うことができます。主イエスも、弟子たちとの最後の夕食を終えて、その夜には捕らえられるということを知っていたとき、そんな状況の時であっても、賛美を歌ったと記されています。「一同は、賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」

○ 私たちは、11月、12月と2回、岩手県の仮設住宅を訪問するボランティアに参加しました。
被災された方々の苦しみは、とても察することはできないと思いました。
その中で、被災者の方々の魂の渇きを痛感しました。
ボランティアグループの中での活動でしたので伝道はできませんでしたが、本当に被災者の求めていることは、私たちの罪を贖うために十字架にお架かりになった、救い主イエス・キリストをお迎えすることだと思いました。「今日のみ言葉」などの文を読み、そのことを確信いたしました。
まことの命を与えてくださる主の福音の光が、被災者の方々の注がれることを切に祈っています。(関西の方)

○この度は福島から避難の方々への献金として送金を頂き、ありがとうございました。
災害の多い2011年でしたが、こちら(三重県の)伊賀市に原発から避難してこられた方々のことは、常に覚えて、少しでも寄り添わせて頂きながら歩みたく思っております。
先日も避難してこられたAさんは「お正月気分にはなれそうにもなくて…」と言われました。全くそのとおりです。
クリスマスには、皆様からのご献金で、3月にこちらへ避難してこられた16人の子どもたちにミカン、野菜、絵本などをプレゼントさせていただきました。
福島、山梨へ移転された方々からも「子どもたちが喜んでいます」との電話やお手紙をいただき感謝でした。(聖霊社事務局 Hさんから)

 


リストボタン報告とお知らせ

○去年の12月のクリスマス特別集会は、大阪府や兵庫県、淡路島、高松市などからの参加者もあり、幼児、小学生、中学生などの参加もあり、またホームページを見て、初めて参加したという方もありました。また、いのちのさと作業所の職員、利用者さんたちも参加されて、キリストがそうしたいろいろの方々を招かれて、ともにキリストの誕生を記念し、賛美や聖書の言葉に学ぶことができたことを感謝です。(参加者約80名)

○今年のキリスト教四国集会(無教会)は、松山市で開催予定です。現在までに決まっていることが連絡されてきましたので、次に書いておきます。詳しいことは後日連絡されるとのことです。
・主題…「キリストの十字架」
・日時…5月12日(土)~13日(日)
・場所…松山市 スカイホテル

○徳島聖書キリスト集会 1月発行の「野の花」文集
追加を希望の方は、メール、ハガキ、電話などで奥付にある連絡先(吉村)まで申込してください。1冊300円。送料は何冊でも100円とします。

○次の本、CD、印刷物は申込によってお送りすることができます。
①「原子力発電と平和」(吉村孝雄著) 138 500円。送料100円。10冊セット 3000円。送料500円。
②聖書講話CD( 聖書講話者 吉村孝雄 MP3型式)価格は、送料込です。
・ヨハネ福音書 全5巻 2000円
・創世記 全3巻 2000円
・ルカ福音書 全8巻 2500円
・詩篇 全12巻 3500円
・これらを聞くための、MP3対応のCDラジカセ 8000円。(送料込)
・このCDラジカセがなくとも、パソコンでも聞くことができます。

・普通のCDラジカセで聞くことのできるように変換することもできますが、CDの分量は、10倍ほどになります。例えば、ヨハネ福音書なら53枚のCD、創世記は、30枚となります。価格は1万円です。
ただし、ヨハネ福音書などの希望する箇所を含んでいるCDだけを個別にお送りすることもできます。この場合の価格は、1枚につき、送料込みで300円とします。

③主日礼拝と夕拝の録音CD(MP3型式)
私たちの徳島聖書キリスト集会の日曜日の主日礼拝の全部の内容の録音です。現在は、ローマの信徒への手紙を学んでいます。
夕拝とは、火曜日の夜の集会で、現在は、イザヤ書を学んでいます。第五火曜日以外は、1年を通して継続しています。
これらのCDには、はじめの祈り、賛美、聖書講話、集会員の感話などが収められています。
一か月間に主日礼拝4~5回、夕拝は4回あるので、あわせると8~9回分の集会の録音が含まれており、時間は1213時間ほどが収録されています。
この集会CDの価格は、一か月分500円(送料共)で、毎月の第一週に、前月の集会の内容のCDが送付されています。
この集会CDや、聖書講話CDを用いて、個人の学びだけでなく、日曜日などの礼拝、聖書集会に用いておられる方々もあります。

○1月のスカイプを併用した集会は、次のとおりです。初めて参加希望の方は、吉村まで連絡ください。
・主日礼拝
・1月10日(火)海陽集会。午前10時~。
・1月16日と23日の北島集会。いずれも月曜日で午後1時~
11日(水)北島夕拝 午後7時半~
13日(金)天宝堂集会。午後8時~。
・5日、19日(木)いのちのさと集会。
22日(日)午後 つゆ草集会。
31日(火) スカイプ集会。