]私たちの本国とは天にある。 |
・2013年5月 627号 内容・もくじ
新緑のなかから | 神への愛と詩篇 | 万物を新しくする |
憲法を変えることからくる 危険性―原発との関連 | ことば | 新しい「祈りの友」について |
周囲は初々しい若葉で満ちている季節となった。その無数の命にみちた若葉たちは、耳をすませると命の恵みを語り続け、その背後にある神の力がそこからあふれ出ている。
これは、天地創造のときに闇のなかに光あれ、とのみ言葉により光を創造されたが、こうした新緑の季節には、無数の草木の一つ一つの葉が、命あれ!と声なき声で賛美している。
さまざまの苦難にある人たち、そして現代の日本社会の暗雲にもかかわらず、神はこうしてご自身の持つ力と命を植物という目に見える存在に託して人間に語りかけておられるのである。
詩篇19篇には、天体や大空に示された神の栄光と神の業が歌われている。
その詩編の言葉はそのまま、こうした新緑の世界にもいえる。
… 草木は神の栄光を物語り
その新緑の姿は御手のわざを示す
話すことも語ることもなく
声はきこえなくとも
その響きは全地に及ぶ
この世には、絶えず神の言葉をかき消そうとするような動きがみられる。しかし、万能の神、すべてをその御計画に従ってすすめられている神を信じる者は、こうした静かな声なき声に常に耳を傾け、神からのメッセージと力を汲み取っていきたいと思う。
一般的な詩歌は、どこの国であっても、神への愛というのは歌われていない。唯一の神を知らなかったのであるから当然のことである。
日本の万葉集、古今集など、自然の美しさを歌う詩も多いが、人間同士、男女の歌とくに相聞歌という男女の恋愛歌が非常に多い。
中国の古代の重要な詩歌集である文選(もんぜん)(*)には、夫婦が離別したその悲しみと夫や妻への愛の歌、そしてこの世のはかなさ、憂いや死や離別の悲しみなどが多い。 自然を歌ったものもいろいろあるが、それらはしかし全体としてたいていある種の哀愁を帯びている。
別離やかなえられない愛のさびしさ、死、この世の動乱、栄華のはかなさ、哀しみ、憂い、不安といった表現が実に多い。
その文選の古詩として19篇があるがその冒頭に置かれたものを例として引用しておく。
(*)文選は、紀元500年代に、それまでの千年ほどの詩歌を集めて中国で編纂された詩文集。この最初の部分に古詩19歌がある。それらは紀元前200年~紀元200年ころまでの漢の時代の作品でその冒頭には次の詩が置かれている。この詩で表現されているような哀愁を帯びた内容は全体を流れている。
行き行きて重ねて行き行く
君と生き別れして
相去ること万余里
各々天の一涯にあり
道は険しくしてかつ長し
会面 いずくんぞ知るべけん…
相い去ること日々に遠く…
君を思えば、人をして老いしむ
歳月はたちまちにしてすでに暮れぬ…
(君―妻―と生き別れをして、旅を重ね、互いに万里のかなたに離れている。そこに通じる道は遠く険しい。再会はいつかも知ることはできない。君を思うことでいっそう私は老いていく。)
ギリシャ最大の叙事詩といわれるホメロスの詩篇も、一種の戦争文学であり、その戦いや人間の感情が表されており、翼をもった言葉と言われるような表現が散りばめられている。しかし、それもまた人間同士の感情であり、神々といっても、人間の感情と同じような妬みや恋愛、怒りが表されている。
こうした古代の詩集と比べて、詩篇は根本的に異なる内容となっている。それはひと言で言えば、神への愛が全編を貫いている。
その詩篇の最初から、人間の本当の幸いとは、「主の教えを愛し、その教え(*)を昼も夜もくちずさむ人」(詩篇1の2)とある。
(*)「教え」 とは原語でトーラーであり、旧約聖書の最初の5書を意味することが多いが、この箇所のように、一般的に神の言葉、神の教えを指すこともある。現在もトーラーという原語のままで用いられることも多く、聖書では、多くは「律法」と訳される語である。
また、「主の教えを愛し」の箇所で、愛すると訳された原語は、「喜ぶ」が本来の意味なので、ほとんどすべての英訳は delight 。主の教えを喜ぶ心は、神を愛する心から生まれるゆえに、新共同訳では、主の教えを愛すると訳されている。
また、くちずさむと訳されているが、ほとんどの英訳は、meditate (深く思う、瞑想、黙想する)と訳している。
主の教え、神の言葉を愛し、喜ぶ心は、神を愛するがゆえである。
神への愛こそは、詩篇全体の巻頭言となっている。
そして、あまり心して読まれないことが多い、詩篇の第二篇、それはこの世のあらゆる権力者、悪の支配者のたくらみを、神はすべて見通され、必ず時至ればそうした行動を裁き、滅ぼされること、そこには、神の正義と万能とその永遠の計画への深い信頼と愛がある。
その信頼と愛ゆえに、現代の私たちにまさに必要な永遠の真理が啓示されたのである。
そしてそれに続く第3篇、それは神への愛と信頼がはっきりと示された内容となっている。
周囲に多くの敵対してくる者たちがいる。さまざまの人間が自分を苦しめる。そして作者の神への信仰をあざける状況にあって、作者は全身を込めて神に心を注ぎだす。そのような心こそ、神への愛である。愛していないものにはそのようなことはありえない。 そしてその神への愛ゆえの切実な祈り―祈りも相手への愛そのものである―によって神は応えてくださる。その体験が明確に記されている。
そして魂の平安を与えられ、その神からの力によって「いかに多くの人々に囲まれても決して恐れない」と言えるほどに強くされた。
武力や権力によらず、ただ神の力によって悪の力が滅ぼされるようにという願いは、救いや勝利は神のもとにのみあるという確信と、その神の祝福がすべての人々の上にあるようにという祈りと共にこの詩は終わっている。
神への愛、それは自分の直面している苦しみと悲しみをいやしてくださるゆえに、神へ心を注ぎだし、さらにそこから力与えられ、国や民全体への神の救いと守りを祈る心へと導かれていく。
主イエスは、最も大切なことは、「神を愛し、人を愛すること」だと教えられた。その神への愛が最も直接的に表現されているのが、こうした旧約聖書の詩篇であり、そこから自然に人を愛することへと導かれていく姿もまた詩篇に見ることができる。
… 瞳のように私を守り
あなたの翼のかげに隠してください。(詩篇17の8)
瞳こそは人間のからだの内で最も敏感に危険に反応するものである。神の愛はこのように敏感に自分を守り導いてくださっているのだという確信がこの祈りの背後にある。
また、親鳥がひなを危険から守るとき、そのつばさのかげにかくまう姿は、誰の目にもこまやかな愛を実感させるものである。私自身、小学校低学年のときから多くの親鳥が雛をそのようにして寒さや外敵から守ろうとし、かつ安らかな眠りをつばさのなかで与えているのを目にしてきたが、それらの愛深き姿は今もはっきりと思いだす。
このように神の愛を実感し、そこから神へのいっそうの愛をもって祈り、心を注ぐのである。
… 私は山に向って目をあげる
わが助けはどこから来るか
それは天地を創造された神から来る。(詩篇121より)
山を見てもそこに神の愛による救いと助けを思う。山に限らず、日本のような豊かな自然に恵まれたところでは、青い空を見ても雲を見ても、また風のそよぎにふれても、それらを創造し美しく飾っている万能の神から私たちへの愛を感じる。
自然科学的にだけ考えるとそのようなものは、偶然的に存在しているという結論しか出てこない。
しかし、風は、何の目的もなく偶然的に吹いているのでなく、花も無目的で偶然そこに咲いているのでもない。ひとたび私たちが、神の愛と万能を信じる心をもって見るとき、到る所で、神の私たちへの愛を感じ、汲み取ることができるようになっている。
天の星、地上の花も人間に注がれている神の愛を表しているのである。
そうした自然の風物だけでなく、人間世界に生じるさまざまの出来事もまた、私たちは苦しみを通って神の国へと導かれるのであるから、神の国へと導こうとされる神の愛をそこから汲み取ることができる。
こうしたことは花や星の美しさから神の愛を感じ取ることにもまして、より理性的な意志的なはたらきを必要とする。人間的感情からは到底神の愛などとは感じられないどころか、神などいない、あるいは神は自分を見捨てたのだという感情すらわき起こってくる。
それにもかかわらず、そうした苦難も御国への一歩一歩であり、神は自分にはこの苦しみや悲しみという道を通って行くようにと御計画されたのだ、そこにも神の特別な愛があるのだ、と汲み取っていこうとすることは、理性的な判断が必要である。 そして私たちがしっかりと神に結びついているときには、苦しみの中にあっても、そのような判断をするようにと聖霊が導いてくださる。
こうした私たちの理性的な判断が育つには、日頃からの神の言葉への愛と信頼がその土壌となる。
そしてそのような御言葉への愛と信頼を最も詳しく深く多方面からあふれるごとくに記したのが詩篇119篇である。あまりにそのみ言葉への愛が深いゆえに、あふれ出た神の言葉への賛歌をアルファベット順に記していったのであり、私たちはこの119篇を心して学ぶときに、神の言葉の持つ深い味わいを数千年前の作者とともに与えられる。
詩篇119では、神の言葉を、律法、教え、仰せ、命令、掟、戒め、み言葉、定め…等々さまざまに言い換えられている。これは単なる詩的な言い換えにすぎないのであって、私たちはこうした言葉をみな 神の言葉、み言葉と置き換えて読むことによっていっそう身近な内容となってくる。そのようにして一部の詩を以下に記す。
…あなたのみ言葉を喜びとしていなかったら
この苦しみに私は滅びていただろう。
私はあなたのみ言葉を永遠に忘れない。
それによって命を得させて下さったのだから。(92節)
…私はあなたのみ言葉を
どれほど愛していることか
私は絶え間なく み言葉に心を砕く。(97節)
…あなたのみ言葉は、私の道の光
私の歩みを照らすともしび。(105節)
…あなたは私の隠れ家、私の盾
み言葉を私は待ち望む。
あなたのみ言葉によりすがらせ
命を得させてください。
いつもあなたのみ言葉に目を注いでいます。(114節)
…私は金にまさり、純金にまさって
あなたのみ言葉を愛する。(127節)
…私が小羊のように失われ、迷うとき
どうかあなたの僕を探してください。
あなたのみ言葉を私は決して忘れない。(176節)
この119篇の最後の箇所は、主イエスが言われた広く知られた言葉のもとになっている。
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。そのー匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなったー匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言う。(ルカ15章より)
このように、主イエスのお心にも、この詩篇119の最後の節があったのがうかがえる。 失われた一匹の羊を探し求めて下さる神、その愛は神のご意志そのものであり、それゆえに、詩篇は人間の言葉でありながら神の言葉なのである。
詩篇には旧約聖書であり、現代の私たちの心にそぐわない表現もみられ、また日本語訳で読むと何かよく分からないという表現もあり、必ずしも多くの人に愛読されていない。
読まれることがあっても詩篇23などごく一部の詩にとどまっていることが多いようである。
しかし、詩篇こそは神への愛のゆたかな表現であり、その詩を心して読むことにより、神の愛が注がれ、それゆえに詩篇を源流として無数の讃美歌が世界に流れだしていったのである。
人間は誰でも、何か新しいものを求めている。何かよいもの、何か美しいもの、何か愛すべきもの…等々を求めるのと同じように。
しかし、この世のものはすべて古くなっていく。車や家など、ノートやパソコンその他もみな古くなっていくし、私たち人間も老年になると共に、歩くのも次第に難しくなり、体のあちこちに異常ができてくる。顔の表面もしわがいっぱいとなって、皮膚もつやがなくなる。
生きている樹木なども同様に古くなっていくが、切り倒した樹木も次第に腐敗し、苔むして、ついには土に帰る。
こうした古びていくことは自然そのものである。
しかし、その自然はまた、春になったら死んだような樹木から新たな芽を生じていくし、野草も新たな芽を出す。そして初々しい姿となり、花も咲かせる。
とはいえ、全体として何十年~数百年もすればだんだんと老化し、枯れていく。
このような全体の老化は、地球や太陽にすら見られる。太陽は 数十億年後には膨張しはじめ、現在の数百倍~800倍にもなり、水星、火星も呑み込まれる。さらにら今から100億年以上も経つと、光を失っていくという。
このような科学的な結論は私たちに希望を与えるものではない。これは、身近な草木や動物、人間なども含め、この地球や太陽でさえ、老化を防ぐことはできないということを示している。
万物がこのように古くなっていくが動物たちはその流れに呑み込まれていくだけである。
しかし、人間だけは、その全体的な流れに抗するように、つねに新しいものを求めていく。人間の根本的な衝動は、生きる、新しいことを知る、そして仲間を作るというものだと言われるとおりである。
子供から活動的な成人、そして老年になった者や、その点ではみな共通している。
あえて古いものを求める人もいると言うかも知れない。例えば、古き家、古い友人、古い書物等々、しかしそれもその古き家に思い出のつまっているものがあり、さらにその家の柱や屋根が丈夫で十分使用に耐えることが必要であり、雨漏りがしたり、風が吹き抜けるような雨戸の壊れた状態になった古い家とか、壊れかかった古い車を好むという人はまずいないだろう。
古い書物も同様で、古いものがよい、というときには、自分が長い間使った聖書、それはそこに書き込みあり、そのことで心に残されていた大切なことが思い起こされる。自分の心の歴史の一端があるからかけがえのないものとなる。それは古くて新たな心を呼び覚ますゆえに、価値を持つ。
しかし、単に古くなって汚れたものはごみとなる。
このように、古いといっても新しいものを内在している古きよきものがあるが、他方、新しいといっても、二種類の新しさがある。 時間的に新しいものと、質的に新しいものである。(*)
(*)新約聖書のギリシャ語においても、この二種類の新しさは、大体において別々の言葉で表される。時間的に新しいというのは、ネオス neos であり(この語は、英語の new という語となって広く知られている言葉になった。ネオスは、時間的な新しさということで、「若い」 という意味にも使われる。Ⅰペテロ5の5など)、質的に新しいのは、カイノス kainos というギリシャ語である。「新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13の34)
私自身、初めてキリスト教の集会に参加したときに感じた印象が強かったのは、老齢の数人のご婦人たちであった。その年齢や白髪にもかかわらず、それまで会ったことのない新しさを持っているのを実感した。
何もしなくとも、ただ存在しているだけで、そのように他者に 何か新しいもの something new を感じさせるのである。
このように、古きものがよい、というときその古きものに何らかの永続的なものが付随しているときである。その典型は古典、そのなかで抜きんでてよいものが聖書である。数千年も昔に書かれたものであるにもかかわらず、現在のあらゆる政治や社会状況の変化、や科学技術の発達による生活の激変にもかかわらず、依然としてその力と人間の魂を救う力は全く衰えてはいない。
衰えるどころかますますこれからのかつてない混乱と闇の時代にあってその光を輝かせていくであろう。
聖書は、その巻頭から、本当の新しさをもたらすことを一貫して述べている書物である。
古さ、それは命がないことである。また美しいものがない、真実なものがない状態である。新聞や、テレビニュースなど新しいものを常に求めて発信している。しかしそこには本当の命はなく、真実や美しさはあまりにも少ない。それは単に時間的に新しいことであり、そこにはたいていこの世の混乱した政治や社会状況、事件や災害といったことが中心にあるからである。
聖書はそのような古いもののただなかに真の新しさ―すなわち永遠の力や清いもの、真実といったものを生み出すことをテーマとしている。
聖書の最初にある闇と混沌、それはまさにあらゆる時代の人間の心の状態であり、その人間が集まった社会の状況をひと言で言い表している。命なく闇に沈んだ状況がそこにある。
そこに神の風(霊)が吹いていた。(*)
それはその状況を根本的に変革すべく吹いていたのである。
(*)従来は神の霊 と訳されてきたが、原語のルーァハは、風、霊、息を意味する語。じっさい、ここでは霊と訳されているが、同じ創世記の3章8節では「風」と訳されている。「その日、風の吹く頃…」
関根正雄訳では、「神の霊風」が吹いていたと訳され、英訳聖書でもカトリックとプロテスタントの代表的な訳の一つとされている New Jerusalem Bible や New Revised Standard Version が、次のように神の風、神からの風 と訳している。
・a divine wind sweeping over the waters. (Gen 1:2 NJB)
・a wind from God swept over the face of the waters. (Gen 1:2 NRS) この訳の以前の版(Revised Standard Version-RSV)は、 the Spirit of God was moving over the face of the waters. (Gen 1:2 RSV)であったが、改訂版(NRSV)ではこのように、wind from God(神からの風)と訳が変えられているのは、霊が動いていたというより、神の聖なる風が吹いていたという意味がより本来の意味に近いとされたからであろう。じっさい私たちにも、霊が動いていた―と言われてもどのような状態なのか、はっきりとしたイメージを浮かべることは困難であるが、神の聖なる風(divine wind)が吹いていた―という表現のほうがより明確な意味が伝わってくる。
この箇所については、すでに古くから神の風が吹いていたと訳することは原語からも考えられていて、ユーゴーの大作、「レ・ミゼラブル」のなかで現れるミリエル司教もこの箇所について次のように書き残していた。「…アラビア語の訳には、神の風が吹いていた、とあり、ヨセフスの書には、非常に高い所(神のおられる所)から風が吹いていた、であり、カルデア語の説明によれば、神からの風が水の面に吹いていた 」(「レ・ミゼラブル」第1部1篇ー5)
風は新しいものに変えるということは、一般的にもなじみ深い。部屋のよどんだ空気も窓を開けるとたちまち新しい空気に入れ代わる。主イエスも12人の弟子たちを選んだときに、まずその使命として言われたこと、与えた力は、悪の霊(汚れた霊)を追い出すことであった。
そして、ヨハネ福音書で強調されているように、イエスを信じる者には、聖なる霊を与えることであった。それは言い換えれば、神の風、聖なる風、あるいは神の息というべきものをその魂に吹き入れることに他ならない。それこそが根本的に新しいものとされる道であった。
人が本当に新しくされるためには、人間の生まれつきの才能や努力、また一般の学問、研究なども役に立たない。もしそうであったら大学・短大含めて現在では、1000校にも及ぶのであり(*)そこで教える学者(大学教員)たちも20万人にも及ぶ。
(*)大学は約780校、短大約370校
大学とは学問研究の場であり、それほどまでにこの150年ほどで学問を学んだ人、教える学者が増えたということになる。 江戸時代の末期という時点では、現在のような大学もなく、ゼロ同然から出発して現在では、おびただしい数に上っている。
しかし、聖書が言う意味で、新しい人間に生まれ変わった人というのは、現在でも1%にも及ばないのであって、そのようなめざましい学問の普及とはまったく関係がない。むしろ日本においてキリスト教が急速に広まったのは、1549年にザビエルがキリスト教を日本に伝えて以降のキリシタン時代であって、わずか50年ほどで70万人ほどにまで増大したという。当時の人口は、2500万人程度であったと推定されているから、これは驚くべき増大である。しかも彼等は、文字も知らないような一般の民衆が主体であった。
現在の日本は人口は1億3千万ちかいが、キリスト者の数は、100万人あまりと言われている。こうした状況はまさに、この世の学問や研究、科学技術の発達は、キリストを信じて新しく霊的に生まれるということのためには、学問や科学技術の発達は何の役にも立っていないということを示している。
さらにさかのぼってみれば、今から2000年も昔のローマ帝国による迫害の時代、キリスト信仰を持ったのは、奴隷など社会的に低い立場の者が多かった。彼等はもちろん学問などなかった。しかし、神の霊によって新しく生まれたのである。そして現代の学問的なことを学んできた人たち以上にその信仰は真実であり、命がけで守ろうとしたほどに真剣であった。
このようなことをすべて見抜いたうえで、その真理を一言で表した主イエスの次の言葉がある。
…命を与えるものは霊である。肉は何の役にも立たない。(ヨハネ6の63)
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(同3の6)
霊から生まれる―それは言い換えると、神からの風を受けてその人の魂が、根本的に新しくされることである。
このことを、主イエスは、「あなた方は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」と言われた。
このように、聖霊によって新たに生まれる、それこそが、人間にとっての本当の新しさを与えられるのだと言われている。聖霊というのは分かりにくい。イメージがまるで浮んでこないという人が大多数ではないか。
私自身、信仰を与えられたとき、神とキリストと聖霊が一つだと言われるが、神とキリストのことはある程度イメージが湧いてきても、聖霊というのはまるではっきりとしなかった。
また、社会的にも、神とかキリストという言葉はだれでもよく聞いたことがあり、見ることもある。しかし、聖霊という言葉は、新聞、雑誌、教育の場においても全くいってよいほど現れてこない。
だが、すでに述べたように、聖霊を聖なる神からの風 という言葉に置き換えると、身近に感じられるものとなる。普通の風であってもそれが木蔭を吹きわたるさわやかなものであれば、私たちの気分を一新してくれる。夏の暑いときなど、一陣の涼風は心身ともに生き返る思いにさせてくれる。
そうした誰でも経験したこと―それを根本的に深めたもの、生涯続くような魂への涼風であり、力を与える風であり、慰めや励ましを与え、さらに困難な道をも歩む力を与えるもの、それが聖なる風(聖霊)である。
風は思いのままに吹く、どこから来て、どこへ行くか分からない。同様に、聖なる風によって新たに生まれるものも誰も予想しないところで生まれ、またその働きも歩みも誰も予測できない。
暗闇と混沌のただ中を、神の風―聖なる風が吹いているという聖書巻頭の言葉は、主イエスの言葉―聖なる風(霊)によって新しく生まれる、それによって神の国を見ることができる、という言葉とともに、現代の私たちにも大きな励ましとなっている。
新しく生まれることによって、自分自身にかかわる日常的な出来事も、周囲の何の特別なこともない出来事も、新たな意味をもって迫ってくる。青い空やそこに浮かぶ白い雲、そのような日々目にするものであっても、私たちの魂に神からの風を受けるときには、それらが新たなことを語りかけてくる。
主イエスが、聖霊があなた方にすべてのことを教える、と言われた。それはこのようなそれまで何の意味も持たなかったものが新たな語りかけをしてくることも含んでいる。いろいろの出来事も、周りの雲や空、樹木や野草、風の動き、山々の姿、またいろいろな昆虫たちも、そうしたことはかつては沈黙して何も語りかけなかったけれども聖なる風が魂に吹きつけることによって私たちは新たな感覚を与えられる。新しく生まれ変わる。
かつては存在しなかった神が生きて私たちに語りかける。そしてかつてはただの古い本であった聖書のさまざまの言葉がいのちをもって私たちの魂に入ってくる。
聖霊は、このように、神の風、聖なる風(Divine Wind)と言い換えることができるが、また他方、水であり、火でもある。
水であるというのは、主イエスが次のように言われたことを思いだせば十分である。
…「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
そしてこの主の言葉のあとに、この水とは、イエスを信じる人々が受ける聖なる霊について言われたのだと、説明が付けられている。(ヨハネ7の37~39)
私たちは戸外を吹きわたる風を感じてそこに聖霊のはたらき、聖なる風のことを思い起こし、また常に必要としている水を飲むたびに、聖なる水、いのちの水を思い起こすようでありたい。
さらに聖書では、聖霊は火のように燃えるという側面も記している。キリストが来られるとき、そのさきがけとなってイエスのことを人々に紹介した洗礼者ヨハネは、次のように言った。
…「私は水であなた方に洗礼をさずけているが、私の後から来るお方は、聖霊と火であなた方に洗礼をさずける。」(マタイ3の11)と言った。その火という意味は、悪しきものを焼き尽くす、言い換えると、悪の力を滅ぼし、清める神の力を表している。
このような意味とは別に、聖なる霊は、人の魂の中で燃え続ける神への愛を生み出し、また私たちのうちにあって絶えず燃えるように働いてくださるゆえに、「(聖なる)霊の火を消してはいけない。」(Ⅰテサロニケ 5の19)とも言われている。
愛、それは到る所で歌われたり、口に出されたりするが、それはほとんど人間同士、とくに男女や親子、あるいは友人同士の愛である。そうした人間同士の愛も何らかの点で新しくする力を持っている。親から愛されなかったとき、その子供にはどこか陰が残ることが多い。そしてだれかの愛を受けるときには、その人の心は程度の差はあっても、新しくされ、心が生き生きとしてくる。
しかし、そうした愛も必ず衰えるし、変質していく。場合によっては憎しみや妬みに転じてしまうこともある。そのように人間の愛はだれもが求め、そして歌などで至るところで歌われているが、突然消えてしまったり、時間とともに変質していく。長く続くような愛があったとしても、相手が遠くに去っていくことや、死ぬことでその愛は時間と共に確実にうすれていく。「去るもの日々に疎(うと)し」と言われているとおりである。
このように一般的に愛だと思われているものは皆、その永続性がないゆえに、本当の愛の「影」だとわかる。それなら永続的な、本当の愛は何か、それは神ご自身である。神と同質の聖霊から生まれるゆえに、真の愛は聖霊の実であると言われている。(ガラテヤ書5の22)
言い換えると、真の愛とは神の愛であり、これこそは、すべてを新しくする力を持っている。
その愛のゆえに、神はキリストをこの世界に送り、人間の根本問題である罪の赦しを与えるために十字架にかかることまでされた。そしてただ信じるだけで私たちを神の子供として導き、永遠の命を与えてくださるようになった。
ここに本当の新しさがある。
キリストによる罪の赦しを信じてじっさいに赦しを与えられることが、人間にとって最大の恵みであること、そこから求める者に聖霊がさらに与えられ、困難にもつぶされないで生きていく力も与えられる。
聖なる風(霊)は、古きもの、汚れたものを一掃して新しくする。そればかりか、繰り返し使っても古くならないで新しさを持続するという力を持っている。
5千人のパンの奇跡というのがある。普通は使ったら古びていく。しかし、イエスが祝福して与えた二匹の魚と5つのパンは、数限りない人たちを満たし、その残りも12のかごを満たしたと記されている。12という数は象徴的で、神の御心にかなった、完全なものといったニュアンスを持っている。それゆえ、使った残りもなお、完全な力を持っていた、祝福の力をまったく失っておらず、本当の新しさを持ち続けていたということなのである。
その新しさは神に由来する新しさであったため、この世の力によっては朽ちることがない。それゆえ、キリスト以後2000年を経てもなお、その真理は新しさをまったく失ってはいない。私たちも日々その新しい祝福を求めるときには与えられている。
新しい風を吹き込むのがキリストのはたらきである。そのことは、キリストが十字架で処刑され、弟子たちは絶望的になり、自分たちも捕らわれるのではないかと恐れて部屋に集り、鍵をかけてこもっていた。
その部屋に復活したイエスは入って来られた。それが、復活したイエスの弟子たちへの最初の行動であった。そして繰り返し言われたことが、「平安があなた方にあるように」であった。
どんなに鍵のかかったところであっても、不思議な方法でキリストは入って来てくださる。そして新しくしてくださる。そこに本当の平安がある。シャーローム!(Shalom)(*) と言う言葉の重要な意味をこめて復活のキリストは弟子たちに告げられた。
(*)この言葉の動詞形の元の意味は、「完成する」。そこから神の恵みと祝福によって完全にされた賜物、魂の平安、霊的な平和などを意味するのであって、戦争がない状態といった否定的ニュアンスの言葉ではない。
なお、ヨハネによる福音書はギリシャ語で書かれてあるが、本来のユダヤ人の原語はヘブル語であり、ここで「平安、平和」と訳された語のもとにある言葉は、シャーローム である。(1940年イギリスでユダヤ人伝道のためにヘブル語に訳された新約聖書、また1877年出版のドイツの聖書学者デリッチによるヘブル語新約聖書などによる)
鍵がかかったところに来て、弟子たちの真ん中に立ち、シャーローム! と繰り返し言われたことがとくに記されている。(ヨハネ19、21、26節)
どんな場所でも鍵をかけたままにしておくと、そこは古びてくる。人間の心も周囲からの新しいものを取り入れずに鍵をかけた状態にしておくときには、古くなり、固まってしまう。
しかし、キリストはそのような閉じたところにも入ってきてくださり、平安あれ、シャーローム! と言われる。それによって、古びた死にそうになっている者は、本当の意味で新しくされる。
魂に鍵がかかっているというような状態になっているとき、周りの人は、どうすることもできないし、その人自身もいよいよ固まってしまうこともある。だが、神―復活のキリストはそのところにも入っていけるのである。
キリスト教世界の最大の使徒パウロは、キリストに対しては固く心を閉ざしていて、キリスト教徒を迫害し、殺すことに加担さえした。(使徒22の4)
しかし、復活したキリストはそのような閉ざされたパウロの心にも入って根本から変え、新しい魂とした。彼は、主イエスが言われたように、生きたキリスト(聖霊)によって新しく生まれ変わったのである。
死の世界、そこは開けることのできない永遠の鍵がかかっている。しかし、そこにもイエスは入っていく。そしてそこにも新しいいのちの風を吹き込まれる。
すでにこのことは、旧約聖書の預言書(エゼキエル書37章)にも記されている。
新約聖書のエペソ書には、「あなた方はみな、罪のゆえに死んでいた」(エペソ書2の1)とある。そのように
私たちの魂も同様である。古びて死にかかっている魂とは、いわば鍵がかかっているので、入っていけない状態であっても神はどこからともなく入っていかれる。。
江戸時代には、国そのものが鍵を厳重にかけたのである。それにもかかわらず、復活のキリストは入っていかれた。そして国家の総力をあげてキリスト教徒を迫害し、撲滅したはずであったが、それにもかかわらず、聖なる霊となったキリストは鍵のかかった日本に入り込み、かなりのキリストを信じる者たちの魂を支え、困難ななかでその信仰を継続させるというはたらきをされた。
現在の私たちにおいても、最も必要なのとは、聖書の意味における シャーローム 、すなわち、神の国にあるよきもので満たされた状態である。人間の考えや目標、また成功などはそのうち変わってしまう。
絶えず、成功を続けるということはできないし、いつも自分や他人の考えで満足していることもできない。
言ってはいけないと思っていても、ついよくないことを言ってしまう。あるいはしてしまう。
そうしたときには、私たちは心の奥になにかよどんだものが残ってしまう。
そのようなときに、そのような中にも入ってきてくださるのが、キリストである。
キリスト、ときに聖なる風となって私たちの生活のなかに吹き込んで下さるし、一人一人の魂の中にも新たなものを吹き入れてくださる。
私もその聖なる風を、キリスト教に固く鍵をしめて閉ざしていた心のなかに吹き込んいただいたのであった。
新しくする、それにはいろいろな方法がある。家でも商業ビルでも、公園でもリニューアルはよく行なわれる。
人間も服装、化粧などで何らかのリニューアルを絶えず試みている。
そうしたあらゆるリニューアルのうち最も根本的なものは、死んだものを再生させることである。聖書の世界では、そのことを最も重要なテーマとして取り上げている。
聖書の巻頭の言葉、闇と混沌のなかに、神の風、そして神の光が注がれることはそれをも含んだ広く深い言葉である。
そして、新約聖書の時代には、それまでは明確でなかった死者を新しい命を持ったものにする―復活ということが最も重要なこととして記されている。肉体的に死んだものだけでなく、精神的に死んだものということも含むとすべての人間が含まれる。
エペソ書では、「あなた方は自分の罪のために死んでいた」(2の1)と言われていて、神という永遠の命であり、完全な愛のお方を知らないならそれは死んでいたも同然だという見方が示されている。
ここには、罪というものがどんなに人間に深く染み通っているかを知った人の心が感じられる。
罪が克服されないかぎり、人間は死んだものだ、という言葉は、ほとんどの日本人には受けいれられない言葉であろう。
生き生きと生きている人はいくらでもいる、学問、芸術、スポーツ、企業、福祉等々あらゆるところで活発に生きている人たちがいくらでもいる―それなのになぜ、こんな極端と思えるような言葉が聖書にあるのだろうか。
それほどまでに、神とキリストのいのちが絶大なものであり、その清いこと、力あること、また美しいこと、そして何よりも無限の愛に満ちたお方であること…そうしたものを豊かに知れば知るほど、人間の力や真実、美、活力等々は取るに足らぬもの、それらがあってもみな不純なもの―罪が深く宿っているということを知っていたゆえである。
みな死んでいた―それは言い換えれば、この世には誰も新しいものを持っていない。みんな古びている、死んだ状態なのであるから。そのような万人が命を持っていない状況にあって、その万人をすべて聖なる風を吹きつけることによって新しい生きたものにするためにキリストは来られたのである。
このことは、エペソ書だけでなく、ヨハネによる福音書においてもキリストの言葉として、とくに「真実に言う」(*)が繰り返し言われ、強調されている。
…私は真実を言う。私の言葉を聞いて信じるものは、永遠の命を得、死から命へと移っている。
私は真実を言う。死んだ者が神の子の声を聞くときが来る。
今やそのときである。
その声をきいた者は生きる。(ヨハネ5の24-25)
(*)「真実に」―原文は「アーメン、アーメン」であり、英訳なら、 I tell you the truth, (NIV)のように訳されている。
神の子―キリストの声を聞く者は、生きる。キリストの力は私たちのあらゆる想像を超えたものである。いまもキリストは、万物を生かそうとして語りかけておられる。
祭の最後の日、イエスは立って大声で言った。
…渇いている者は誰でも私のところに来て飲め。
私を信じる者は、その人のうちから生きた水が川となって流れ出る(ヨハネ7の37~38)
この大声での叫びとも言える言葉は、霊的な強いメッセージとして時間を越え、空間を越えて現在も変ることなく世界に響いている。
生きた水、いのちの水が流れ、それを飲む者は、清くされ、命を与えられ、その本質が新しくされる。
キリスト教信仰の中心にある、復活と十字架による罪の赦しはいずれも、人間を根本的に新しくするという力を持っている。
言い換えると、この二つの信仰を持とうとしないときには、どのように学問、芸術、スポーツなどあるいはおびただしい書物を読破してもなお、新たには生まれることはできない、と聖書(キリスト)は言っているのである。
年老いても、絶えず祈り、絶えず感謝でき、絶えずまわりのものの背後に愛の神の御手を感じることができる心こそはこうしたキリストの十字架と復活によって新たに生まれた心である。
キリストが十字架にかかってくださったことにより、人類はその魂が新しくされる道を与えられた。そして復活ということによって、いかに古くなり、死んだもの、枯れてしまったものであっても、復活してキリストのような栄光のからだが与えられる―完全に新しくされることが確実となった。
そして、さらに、この世界全体、この宇宙そのものが新しくされるという壮大な啓示がすでに旧約聖書のイザヤ書で暗示されている。
…見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。(イザヤ書 65の17)
そしてこの預言がさらに完全な預言として聖書の最後の書、黙示録に記されている。
…見よ、私は万物を新しくする。(黙示録21の1~5)
これこそ、私たちにとって大いなる福音である。それは、あらゆるこの世の悲しみも苦しみや困難もすべて永久的にぬぐい去られる時があるということを意味しているからである。
神ご自身が、「このことは真実である」と言われたと右の言葉に続いて記されている。それを黙示録の著者ヨハネは確かに聞き取ったのである。
この世のさまざまのものを見るかぎり、私たちのまわりのすべては古びていく。滅んでいく。しかし、これらの箇所では、そのまさに正反対が約束されているのである。
いかに悪の力が強大に見えようとも、またどんなにこの世の科学的結論が破壊的であっても、また核戦争のようなものが起ころうとも、そうした一切にもかかわらず、万物は新しくされるのだと。
そして、そこには地上の生活にははるかな昔から、悲しみ、涙があったが、それは今や完全にぬぐい去られる。
…私は新しい天と地を見た。…
神は人とともに住み、彼等の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、悲しみも嘆きもない。(黙示録21の4)
どんな絶望的な悲しみや嘆きも、必ずこのように永遠にぬぐい去られるときが来る。
これは、現在解決しようのない困難な問題―病気や老年ゆえの孤独、あるいはみずから犯した罪ゆえの深い悲しみ…人間との関わりのなかにおけるこうしたいっさいの悲哀と苦しみ―ことに親密なはずの家族の対立や周囲の人間関係の苦しみにあえぐ人たちにとって、また、世界の混乱と悲劇を日々身に受けて苦しむ人たちすべてにとっての究極的な福音―喜びのおとずれである。
(この文は、2013年4月23日の、三重県愛農高校におけるイースター特別礼拝で「本当の新しさを求めて」と題する講話のために書いたものです。)
現在の自民党と政府は、憲法9条を変えるために、まず衆参両院の三分の二以上の議員の賛成で改正を発議するという条件を過半数で発議できるように変えようとしている。
これでは普通の法律と同様にいとも簡単に憲法を変えて、権力者の好むままに国家の最高の規定をあやつることができるようになる。
太平洋戦争のとき、わずか15年ほどで、数千万人にも及ぶ膨大な人々を殺傷し、自国の人間も三百万人もの犠牲を生じた歴史上で未曽有の悲劇を生み出したゆえにこそ、平和主義という世界にほとんど類のない憲法を受けいれ、それが一時の気分や単なる時代の風潮によって簡単に変えられないようにこの三分の二以上という改正条項が作られた。
はるかな古代から権力者は武力を増強させ、それによって人民を圧迫し、搾取し、苦しめてきた。憲法は、権力者がそのような自分たちの利益のために勝手に人民を支配し、搾取することのないようにという目的がある。それを根本から変えて、自分たちの思うように人々を支配できるものにしようと考えているのが現在の自民党、政府そしてそれに同調する一部の野党である。
国民主権、国民のための政治が、根底から変えられ、一部の権力者、政治家の欲望や意志のままにされようとしている。
憲法を変えるということの中味の議論よりも優先して、その「憲法の改正条項だけを変えようとする改正」という世界的にも例がないという特異なやり方で、何がなんでも憲法9条を変えることを目的としているのである。
軍を持つ国となって自国を守ると称する。しかし、軍備を持つことで、当然のことながら、世界の各地での紛争が生じたとき、アメリカが参戦すると日本も当然参戦することになる。そうなると日本はそうした国々から新たなテロの対象となってしまう。
そうなると、日本ほど危険な国はない。
なぜか、それは多数の原発がきわめて狭いところに数千万という人口を持っている首都圏や、京阪神、そして名古屋、北九州といった大都市圏のすぐ近くにあるからだ。
チェルノブイリの大事故のときには、1250キロ以上離れたドイツやオーストリアでも高い放射能を検出し、さらに2000キロにも及ぶヨーロッパの各地にも強い放射能が降り注いだ。それは8000キロの彼方にある日本にも相当な影響が出たことからも、ひとたび大事故が生じて、風と雨といった気象条件によっては、100キロ、200キロなどの地域はもちろんはるかに遠くまでその重大な影響が及ぶことはすでに歴史的な事実として知られている。
このような原発の大事故や破壊のことを考えると、日本がいかに危険な状況にあるかは一目瞭然である。
北海道の泊原発から札幌(人口190万)までは、70キロ未満、東北の女川(おながわ)原発から仙台市(人口100 万人)まで55キロ、福島原発からは90キロあまり、そして、東京は世界最大の原発である柏崎刈羽原発からも、また福島原発からも、いずれも220キロほどであり、静岡の浜岡原発からも190キロほどしかない。
名古屋(230万人)は、浜岡原発から130キロ、そして福井の敦賀原発からわずか100キロほどしかない。京都市は福井の大飯原発から60キロ、大阪市は福井の高浜や大飯原発から90キロあまりしかない。(京都、大阪、神戸の各市の合計は600万人近い)
福岡市(150万人弱)は、佐賀県の玄海原発からわずか50数キロである。
このように、100万人を越える大都市は、みな原発から50キロからせいぜい200キロ程度しか離れていない状況にある。こうした過密な人口稠密地帯にこれだけ数多くの原発がひしめいているのは世界のどこにもない。
福島原発は大事故ではあったが、風がまだ春先であり太平洋への風が大部分であったからあれだけの被害でとどまった。それでも北西方向や南西方向に一部風が吹いたから飯舘村の方向の地域はひどい汚染となり、関東の一部もかなりの放射能汚染となった。多量の放射能が降り注いだ飯舘村などは農山村であり人口が少ないからまだしも被災者の数は少なかったのである。そのため、原発推進をしようとする政治家や経済界、電力会社の人たちは、原発の被害の深刻さを過小評価している。
しかし、東京を中心とした関東地域は3500万という膨大な人々が住んでいる。そこに東京からわずか200キロほどの柏崎刈羽原発や福島原発が攻撃を受けたら一体どうなるのか。そこからの大量の放射能によって、関東地域が飯舘村のような状況となり、人は住めなくなり、壊滅的状況となるのは確実である。
さらに、日本は広く知られているように地震の世界的な多発地帯である。このようなことを考えると、原発を廃止して憲法9条の平和主義をまず守るという方向でいかなければ、ひとたびテロや自然災害による原発の破壊、大事故が起これば、日本は壊滅的状況となるだろう。
軍備を増強するとき、原発の大量の存在ゆえに、国全体の危険は確実に増大する。
また、軍備を増強させることで、戦争を抑止するなどと政治家が言うが、現代までの多くの国内外の戦争は、果たしてそうであったか。
日本においても、古代では、いろいろな豪族たちが武力をたくわえていったからこそ、戦争が起きた。戦国時代においてもやはりそれぞれの大名が多くの武士をもって軍や兵器を増強していった結果として戦争が生じたのである。
また、日清、日露、中国への侵略戦争なども同様で、日本が着々と軍備を増強させていったゆえにその結果として戦争となったのである。
局地的に、またある限定された歳月の間は、軍事を増強しても戦争が起こらなくとも、軍備を増強していくとその多くは戦争が関係してくる。
日本ももしもっとはやい段階で、自民党が主張するように、憲法9条を改悪して、軍としていたらベトナム戦争にも加わり多数の死者、傷者を出して悲劇を生み出したであろうし、イラク戦争やアフガンでの戦争もそのようにアメリカとともに戦争に加わったことであろう。
しかし、憲法9条のおかげで、それが抑止された。
憲法9条を廃止して、軍とすれば戦争に加わっていく道を必然的に歩むことになる。
それはまた、日本の原発にテロ攻撃を受けるという、破滅的な危険性を確実に増大させることになる。
標準的な原発では、広島原爆の 1000発分の ウランを1年間で使うのであり、原爆で放出される放射能よりも原発の有する放射能が桁違いに多い。しかも原爆の場合は、ウランの約10%が核分裂を起こし、残りの90%は火球と共に成層圏(地上から11キロ~50キロ上空)へ上昇し、残りのウランやプルトニウムのほとんどは大気圏に広く拡散したと考えられている。原発よりはるかに原爆が恐ろしいという感覚を持っているが、実は内在する放射能、事故のときに拡散される放射能は、原爆が落とされたときの放射能よりも桁違いに多いのであり、その影響は何十年どころか数百年を経てもその核燃料はきわめて高い放射能を持ち続けている。高レベル放射能の廃棄物は少なくとも10万年以上は管理を要する危険なものが永続してしまう。
このように、軍備を増強し、憲法9条を変えて他国の戦争に加わることになっていくと、原発との関連を考えるとき、日本が今後永久的に破滅的な害悪を受けることにつながるのであり、こうした面からも今回の憲法改悪を目指す動きは、日本の将来のために大きな災いを生むことにつながる。私たちはそうしたことを熟慮するようにと迫られている。
(347)残念なことだが、宗教(キリスト教)を教えるということは、事実上何の効果もない。本来全く知りがたいもの(神)に対する信頼とこの道の先達(キリスト)への愛とに基礎を置くところのもの、これは全く教えることのできないものである。
(ヒルティ著 「幸福論」第一部171頁)
・パウロも旧約聖書の宗教を特別に教えられてきたが、キリストへの愛やその真理をまったく理解できず、キリスト教徒を迫害する指導者となっていった。また弟子たちも会堂などで学んだからキリストを受けいれたのではなかった。
パウロは復活のキリストから、弟子たちは直接にキリストからの呼び出しを受けて信じ、受けいれたのであった。私たちにおいてもこのことは変わらない。だれかが活けるキリストからの呼びかけを受けるよう、祈り、さまたげを少しでも除こうとし、だれかと関わるなかでの語りかけや本、み言葉などを用いて、神とキリストの愛を指し示すことしかできない。
ヒルティは、右の箇所に続いて、さらにキリスト教の真理を受けいれようとしないかたくなさを助長するのは、宗教を一つの教理としたり、講義されたり、学習されたるできる一種の科学(学問)とみなす考え方であると述べているが、こうした考え方は知的に恵まれている人たちが陥りやすい。
(348)神の家は、すばらしい大きな建物を指すのではない。
み言葉のあるところにこそ、神は確実にお住まいになる。(「マルティン・ルターによる一日一章」より)
・ルターはこの説明の言葉を、「ここは何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。天の門だ。」(創世記28の17)に付けている。
これは、主イエスが言われた言葉「二人、三人が私の名によって集まるところに私はいる」を思いだす。イエスの名によって集まる、それは言い換えると、イエスあるいは神ご自身のお心からでた神の言葉を中心に集まるときにはイエスご自身もそこにおられる。それゆえにこそ、畏れ多い場所となる。
祈りの友 四国グループ代表 吉村孝雄
「午後三時祈の友会」が、約80年の歴史を終えて4月で終了することになりました。今まで、12年ほどそのために御愛労くださった稲垣謙次郎主幹、そして主幹を助けられた奥様に深く感謝しますとともに、近年の主幹としてご奉仕くださり、今は天におられる稲場満、中山貞雄両氏たちのことも感謝をもって思い起こします。
これまでの「祈の友」のはたらき―教派を超えた祈り、地域や教会、教派のわくを超えて祈り合うことができるということは、大きな恵みでした。そのことは「祈りの友」の方々はそれぞれに経験してこられたことです。
日本の現状は、内外ともに新な多くの問題に直面していますが、そのような状況にあって、すでに信仰を与えられている人たちが、病気や障がい、職場やその他の人間関係、あるいは老齢化による苦しみや孤独の中にあっても、互いに祈りあって歩むことは、高齢化が急速に進む現代日本にあって、いっそう必要な時代となっています。
さらに、そしてそのような他者への祈りが、周囲にも流れ出て、未信仰の方々にも福音の大いなる恵みが伝わっていきますようにと願っています。そのため、つぎのようなかたちで、希望される方々と新たな「祈りの友」を新しい形で継続していきたいと思います。
下記のような内容の新しい「祈りの友」に加わることを希望される方は、末尾に書いた宛て先に必要事項を記入して、郵便(封書)で申込をしてください。
1、目的…主イエス・キリストとその父なる神を信じて、病気や生活上でのさまざまの苦しみから救われ、さらに、そうした苦しみや悲しみの根源である罪から救われるように、そして、御国がきますようにと、共に祈り合うことを目的とする。
2、入会資格…神とキリストを信じ、共に祈られ、祈るという願いを持っている人なら誰でも入会できる。
3、祈りの時間…各自の生活や仕事の状況に適当な時間を決める。
従来の「祈の友」は、午後三時という時間を決めていたが、すでにそれにとらわれず自由に祈ることになっていた。
しかし、午後三時という時間に祈ることのできる人たちは、その時刻を覚えて祈り合うことを続ける。
その理由は、主イエスが私たちの罪のあがないのために十字架で死なれたその時刻が午後三時であり、そのことを覚えて、主が受けられた苦しみ、痛みを覚え、主に感謝を新たにするためであり、さらに「祈りの友」が1934年以来の80年近い歳月の間、数多くの祈りが午後3時に捧げられてきた過去の歩みをも記念するためである。
4、会の名称…「祈りの友」とする。(従来の名称は、「午後三時祈の友会」、一般的には、「いのり」は、祈り と表記するので「り」を入れる)
5、「祈りの友」誌…祈りを導くみ言葉の学びと、会員の相互の交流のために年に1~2回発行する。今年発行(期日は未定)のものから第1号とする。編集責任者は本会の代表者が担当するが、実際の編集には有志の会員も加わるものとする。
6、会費…上記の「祈りの友」誌の発行費や、会員相互の連絡その他に要する費用は、有志の献金による。
7、従来の会員、加祷者の区別は廃止し、すべて会員とする。
以上は暫定的な規則で、会員となる方々が決まったのちに、内容の一部が変更されることがあります。
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補足説明
1、「会員」と「加祷者」の区別の廃止について。
上記の区別は廃止して、入会申込者はすべて「会員」とする。
従来は、病者、障がい者は会員、健康者で祈りをもって助ける人を加祷者とした。
しかし、医学的に病人と健康者という明確な区別は付けられない。障がい者にしても、どのような状態から障がい者だといえるのか明確ではない。
また、病者、病人とは病気を持つ人のことであるが、例えば高血圧にしても、血圧がいくらになったら病気と言えるのか、個人差も大きく決められるものではない。
入会のときに健康であってもすぐ病気になったりする場合もある。
また、祈りは、病気など、苦しいことを経験することで深くなる場合が多いが、しかし、必ずしもそうではない。
健康であっても深い祈りの人となりうるのは、主イエスや使徒パウロ、マザー・テレサなどを思い起こせば十分である。主ご自身、あのように活動的に歩いて伝道されたのであって病人ではなかった。 しかし、その祈りは徹夜でもなされ、最も深く広い祈りであった。
パウロは、その身に一つのとげがあった(Ⅱコリント12の7)と書いているが、使徒言行録にみられる行動―荒野を歩き、難破することも経験、激しい迫害にも耐えて生きた姿はまったく健康そのものであり、通常の病人とは言えないのは明らかである。
そして、どんな人でも祈られる必要のない人などいない。だれもが罪深く、霊的な病人であるからである。
使徒パウロのような最も深く啓示を受けて、聖霊を受けていた人であっても、繰り返し「私のためにも祈ってください」と信徒たちに願っている。(例えば、エペソ書6の19~20、Ⅰテサロニケ 5の25、 コロサイ 4の3、 ローマ 15の30、Ⅰテサロニケ 5の25など。) 以上のような理由から、会員、加祷者の区別は廃止する。
2、名称について…従来は、「午後三時 祈の友会」という名称であったが、「祈りの友」だけにする。午後三時 というのは、入院中の結核患者からはじまったゆえに、この午後の時間に祈ることが可能であったのであり、この時間は職業のある人たちには時間をとって祈ることができないのであり、最初の名称に現れているこの時間指定は、職業を持っている人を前提としていなかったからであった。
その後、午後三時ということにこだわりないということになったが、この名称では、午後三時など祈れない、仕事の最中だ、と思ってはじめから加わらない気持ちを起こさせることが考えられる。
新しい「祈りの友」は、病気の人だけでなく、一般の人たち、職業持っている人たちもともに加わる「祈りの友」なのでこの「午後三時」を省くことにした。
3、運営費用…従来の「祈の友」の残金などは受け継がず、新たな会として始める。
4、「祈りの友」誌の発行について。
私は、現在の状況では主日礼拝や各地の家庭集会など、また定期的な印刷物の発行などもあり、「祈りの友」関係に十分な時間がとれない状況にある。
そのため、年に1~2度の新たな「祈りの友」誌の編集も、現在のような多くの頁にいろいろなものを盛り込むことはできないので、簡略化して発行する予定。
① 内容…聖書に基づく内容であり、会員の近況報告、そして互いの祈りや信仰を助け励ますことにつながるもの。
②「祈りの友」誌発行の目的…誌上の交流を通し、会員の信仰と祈りを深める。さらにキリストを知らない人に伝えることにも用いられる冊子であること。
以上のような新しい「祈りの友」に加入を希望される方は、次の申込書に必要事項を記入して、封書で下記宛てに送付してください。
なお、会のための献金などは、下記の口座を用いてください。
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1、やまいの床に 疲れ果て
思いみだれて うなだるる
心にひびく 十字架の
主のみ叫びや 午後三時
2、同じ病気に 泣く友の
一人残らず 救われて
永遠の命 賜われと
日毎に祈る 午後三時
4、神に装われ 人知れず
野に咲く百合と香りつつ
愛と真実に結ばれて
祈られ祈る 午後三時
(*)内田正規は、「午後三時祈の友会」を1934年に起こした人。(1910年~1944)
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祈りの本質 内田正規(まさのり)
病苦を背負わされ、貧苦に閉じ込められ、人に見捨てられ、自分にもまた絶望する―こうした涙とうめきの中にあるとき、私の身代わりに死にたもうたというキリスト、私が永遠の祝福を受け継ぎ得る証拠によみがえりたもうたというキリストの福音は実に驚くべき歓喜のおとずれであった。
主は私のためにいのちを捨てて下さった、この私のために。
私は初めて真実の愛を知った。露ほども報いを求めない愛というものを。
私は、かくて生まれ変わった。自分のことばかり考えていては申し訳ない。 神の子としての清き生きがいある人生を送らねばと知った。 …
かつての私と同じように、今なお病床に身もだえする200万の同病者のうめきが聞こえて、私がこの病苦によって神の福音に接しることができたように、彼等ひとりひとりが神の子の生涯に新生させられるようにと祈らずにおれない。
「祈の友」はこの祈りを使命とするものと考える。
もとより、生来の身には、神の愛を実行する力はなく、それは全く不可能なことである。しかし、心の向け方を神に向けることだけはできる、せねばならぬ。
人が人であって動物でないかぎり、自分の力で実行はできなくとも、心だけは、気持ちだけは、祈りだけは、清き高き神の子の生涯を目標とすべきである。
主の御心を心とすべく祈れ。まず神の国と神の義とを求めよ。そうすれば、神は聖霊を与えて、神の子にふさわしき実を結ばせるであろう。
また、この世においても無くてならぬものだけは必ず与えて下さるであろう。
祈りに生きる者にとっては、困苦と艱難は糧である。
死に至るまで忠実ならば、神はいのちの冠を与えてくださる。
病苦、貧苦、涙、うめき、死―真の祈りに生きるものにとって、これらは 墓を打ち破られた主から与えられる、復活、栄光の前駆である。 (1940年3月 「祈の友」)
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「祈りの友」加入 申込書 申込日 ( 2013年 月 日)
・名前 (ふりがなも)
・住所
・生年月日(西暦)
・年齢(4月1日現在)
・からだの状態 いずれかに○をつけて下さい。
①健康 ②何らかの病気や障がいがある。
(病名、病歴・障がいの内容)
・所属教会、集会名
・メールアドレス パソコン…
携帯…
・電話番号
・従来の「午後三時 祈の友会」に加入していたかどうか。○を付けてください。
①加入していた ② 加入していなかった
・祈って欲しいこと
・共に祈りたいこと
・この「祈りの友」に入会はしたいが、「祈りの友」誌は送られても読めない、あるいは何らかの不都合な事情があるので、送付は希望しない方もあるかと思います。
「祈りの友」誌の送付について ①希望する ②希望しない
・入会にあたっての希望事項