悪をもって悪に報いてはならない。祝福を祈りなさい。

祝福を受け継ぐためにあなた方は(この世から)呼び出されたのである。

(Ⅰペテロ3の9より)



いのちの水  2015年     10 月 号  656号
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 祈りの世界は到る所に存在する。開かれた耳と目を与えられるときには、自分も含め、人間と相対するときには、その人間はみな、祈りの対象となる。

 人間だけでなく、自然のさまざまの姿に接したときも、祈りを呼び覚まされる。

 じっさい、現在(10月)、夜明け前には、東の空に、明けの明星がすばらしい光を放っている。それを見て、2000年ほども昔のキリスト者たちは、そこにキリストの光を示された。そして、「主よ、来てください!」 (マラナ・タ)との切実な祈りが生み出されることにつながった。(黙示録22の16)

 よきことを見たりきいたりしたときには、そのよきことが、さらによくなりますようにとの祈りが生じる。

 また、逆に悪の力による恐るべき罪やその悪の力によって数々の人たちが苦しんでいるのを見聞きするなら、そこにも祈りが芽生える。

 この世の深い悪の存在、その力に直面するとき、私たちは無力感を感じる。どうしてそんな悪を放置されるのか、と。

 しかし、そこからも祈りの道は、はるか遠くへと通じている。

 聖書には、繰り返し、いかなる悪の力も、権力も国家の強大な力も、必ず時至って神が滅ぼされて、神の愛の力が支配するような新しい天と地が訪れるということが約束されている。

 昔から、至るところに暗闇と混沌があった。戦争による殺傷による痛みや悲しみ、身分差別、権力者の横暴、病気の苦しみ、医者も薬もないなかでの苦痛、飢饉…等々。

 しかし、そこに神が光あれ!と言われたときに、どのような闇にあっても、たちまち光が生じ、数知れない人たちがそうした闇の力にうち勝って生き抜いてきた。

  光あれ!―この短いひと言は、祈りと深く結びついている。私たちも自分の心や周囲の闇と混沌、空しさ、荒涼とした状況に日々接している。そしてそのような状況に接していてもそこからも祈りは始まる。

 どうか〇〇さんの心のなかに、光が生じますように、そしてまた、さまざまの地域での事件や、紛争、戦乱を見ても、そこに主の光が注がれるようにとの祈りとなる。

 すでに触れた黙示録の最後の箇所に記された祈り、 マラナ・タも同様である。迫害のときのような困難にあるとき、それを一挙に解決してくださる神の力に待ち望む心はいっそう切実なものとなったであろう。

「主よ来たりたまえ」という祈りが、たちのぼる水蒸気のように、自然にわき起こってきたのである。

 聖書こそは、もっとも深い祈りが込められた書である。神の言葉とは、神の愛から出た言葉であり、愛は祈りと直接的に結びついている。

 み言葉は、私たちをつねに祈りへと向かわしめる神の国からの霊の風なのである。 

 

 

この世の荒れ野で

 

 この世に生きること、それは荒れ野で生きることである。水のない砂漠のような所に生きることである。

  砂漠では、水も食物も乏しいゆえに死の危険が身近にある。

 そして、この世においても、さまざまの荒廃のゆえに、魂にうるおいをもたらすものが見つからず、そのまま渇きで―霊的な渇きのゆえに死んでしまうこともある。

 荒れ野の状況がひどくなるほど、そこに助けを与えようとして近づく人はますます少なくなり、人生の荒れ野で苦しむ人は、ますます孤独となっていき、重荷がさらに重くなってくることが多い。

 そのようなとき、誰が愛ゆえに近づいて来るだろうか。

 それこそ、聖書で記されている神であり、その神と一つになっておられたキリストである。

 そしてそのキリストの愛は、キリストの時代よりはるか昔に書かれた文書にすでに記されている。

 

…主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地(*)でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた。(申命記32の10)

 

 *)「不毛の地」と訳された原語は、トーフーであり、これは 、荒涼とした、荒廃した などと訳される。

この言葉と、ボーフーという2語が合わせて用いられていて、トーフー 、ボーフー であるが、これを新共同訳では、「混沌」と訳されている。

 

 この世の荒野であって、誰一人顧みてくれない状況にあってもなお、探してくださり、その孤独と病の苦しみに御手を置いていやしてくださるお方―それがキリストである。

 獣の吠える不毛の地―このような地は現代の日本では考えにくいが、アジア、アフリカその他にはたくさんある。そのような中でも見いだそうとして、探し、見いだしてくれるお方がいる。

 獣が吠える―これはアフリカやインドなどの奥地では実際にそんなことは現在でもあるだろう。しかし、大多数の人たちにとってはそれは縁遠いことでしかない。

 しかし、それを比喩的な表現として受けとるとき、たちまち私たちの日常的な経験となる。

 それは悪の霊―悪の力が私たちに迫ってきているということである。その悪の力が私たちを呑み込もうとしてたえずうかがっているということである。

 そんなことはない、という人も多いかと思われるが、さまざまの犯罪や悪しき行動、性的乱れ、それと深く関わっている児童虐待、各地での戦乱、戦い―等々、みなそうしたこの世の荒野で吠えたける獣―闇の力にのみこまれた姿である。

 私たち一人一人もそうした「獣」が心の奥深く入り込んでくることがある。

 使徒ペテロは12弟子たちのうちでも代表格の弟子であったが、主イエスが十字架にて処刑される少し前に、イエスが自分はまもなく捕らえられ、殺される―と言った。しかし、ペテロはイエスを脇に引き寄せて叱ったのであった。こともあろうに、ペテロはイエスを子供扱いにしたような態度で叱責した。「そんなことがあってはならない!」と。

 主イエスは、ただちに、「サタンよ、退け!」と一喝された。

 ペテロは、漁師であった。その仕事中に思いがけず、イエスからの呼びかけを受けて、家庭も職業も平和な暮らしを捨て、イエスに従ったほどであった。

 そのようなペテロであったにもかかわらず、人間的な考えや感情をイエスの言葉―神の言葉よりも重んじたのであった。

 こうしたことも、「獣の吠える」地にあって、ペテロすら一時的であったにせよ、その「獣」に呑まれてしまったということになる。

 これに似たような経験はだれしも覚えがあるであろう。聖書にもこのような現実を直視したゆえに、次のように記されている。

 

…身を慎んで目を覚ましていなさい。

あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っている。(Ⅰペテロ5の8)

 

*)「身を慎む」 、ここで慎むと訳されている原語は、ネーフォー、これは、「酒に酔っていない、正気である、理性的、冷静な、目覚めている―といった意味を持っている。英訳では、sober と訳するものが多いが、be self-controlled ,Be watchful などとも訳されている。

 

 「目をあげて山を仰ぐ、わが助けはどこから来るのか」(詩篇121)―山を見ても、空を見ても、また身近な草木に接しても私たちは我が助けはどこから来るのか、を思い起こす。天地万物を創造された神からのみ、救いは来る。 主イエスも、絶えずこのことを念頭におくためにも、たえず目を覚ましているようにと言われた。

 荒野にあっても、苦しむ者を探し、慈しんでくださる神、それはそのまま、迷える羊をも探し求めてくださる主イエスの愛と重なるものがある。そのような愛の神を信じて、私たちのほうでもまた、目を覚まし求め続けていくことが求められている。

 


リストボタン神の愛と人の愛

 

 私は、キリストの世界、聖書の世界を知るまでは、この両者の本当の意味を知らなかった。人への愛はわかったつもりでいた。自分が誰かから愛されていることは直感的にわかるし―嫌われていることもわかるのと同様―誰かを愛しているということもわかっているのは当たり前のことだからである。

 しかし、そうした子供でもわかるような愛とは全く異なるのが聖書に記されている愛であった。

 それは、自分を憎む人、差別する人、見下すような人に対して、その人が本当によくなるようにと祈り願う心のことだった。敵を愛し、迫害するもののために祈れ、と主イエスが言われたのは、そうした本当の愛の本質を言われたのだった。

 そして、それは御国がきますように―という主が示された祈りに含まれるのもわかった。

 そしてこのような愛は、学問や経験、知識、年齢、民族などまったく関係なく与えられるものであることもわかってきた。言い換えると、いくら学問があり、人生経験が長くとも、また生まれつきがよくとも、このような愛が伴うとは限らない。

 それは神からの賜物だからである。神ご自身を私たちのうちに来ていただいて住んでいただかないかぎり、いかなる学問を積み重ねても、経験豊かとなってもこのような愛は生まれない。

 そして、聖書がいう人への愛とはこのようなものであることが示されてきたが、それは神が私を真理や神に背を向けていたのに、それにもかかわらず、とりだして下さってその御手のうちにおいてくださった―という実感がもとにある。

 神がまず愛してくださった―自分の弱いところ、足りないところ、さまざまの過失や愛のないまた正しくない心の動きや言動―そうした罪をも知りつつ赦して下さるという愛を知らされた。

 ここに愛がある―とヨハネの手紙では強調されている。(4章10節)

 多くの人たちが、本当の愛に出会えなかったゆえに、心の病となり、また間違った愛の影に誘惑され、捕らわれて生涯を破滅させてしまう人たちも多い。

 児童虐待が最近16年間で、年間1万人から8万人へと急激に増大しつつあると報道されていた。こうした統計に現れるのは氷山の一角であろう。子供を虐待することで周囲に知られるようになって統計にのるというのは現実に子供をいじめ、苦しめている実態からすると、その一部であろうからである。

 児童虐待の背後には、両親が結婚や性ということの重大性を知らず、本能的な欲望から結びつき、結婚、離婚、再婚となり、そこで生まれる子供が邪魔者となるということも大きな原因と考えられる。

 キリストのこと、聖書のことを知らなかったら どこに愛があるのか分からないままに一生を終えてしまうだろう。

 世の人がここに愛がある―と称するものは、そこに入ってみるとそこでは本当の愛はなく、ただ人間的な感情、一時的な心や本能的に惹きつけられる情、ほかの人をおいてでも、その容姿や性格などで特定の心惹かれる人間に心を注ぐというものであって、そこには相手からの反応やお返しというものによって動かされる不安定なものがある。それは根本的に、人間の感情に結びつくものである。

 そして、人間的な愛情は、相手の容姿や健康状態、能力などと深く関わり、能力の乏しいもの、容姿にすぐれないものや病弱なもの、貧しい状態にある人などは、こうした人間的な愛を受けることは概して少ない。

 それに対して、神の愛は、そうしたいっさいの外見や貧富、また能力などに関わりなく、注がれるという意味で、このような愛こそ、人間が本来だれしも望んでいるものである。人はどんなに一時的に健康であっても病気になり、また人望を集めている人も突然の事故や災害、また罪を犯してしまい、闇に沈むこともある。

 いかなるときにも、否、かえって弱きとき苦しみのとき、人から見捨てられるようなときにこそ、注がれるような愛、それこそ本当の愛であり、このような愛が存在するなど、到底以前は思いもよらなかったことである。

 そしてまた、人間の愛は直感的にすぐにわかるが、神の愛は、長い年月を経てようやくわかるということもしばしばである。長い苦しみや悲しみにさいなまれ、運命をのろったような状況から長い年月が去ってようやくその苦しみもまた、神の愛から来ていたのだと知らされることもある。どんなに解決の道を求めても与えられなかったが、10年、20年の後に、思いがけないことから道が開かれることがあり、そのときに深い神の愛を知らされることもある。

 神の愛、キリストの愛は、深く、高く、そして広い。

…また、あなたがたが、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し…(エフェソ3の18)

 

 ヨハネの手紙には、「ここに愛がある(一書4の10)―と記されている。どこに真実な、しかも永遠的な愛があるのかと求め、さまよって愛の影にすぎないものに引き込まれている私たち人間に対して、ヨハネが受けた啓示がこのひと言に凝縮されている。

 そして、ヨハネ福音書においても、ここに愛があるからこそ、その愛のうちにとどまれ! と深い愛のまなざしをもって私たちに語りかけておられる。            (ヨハネ15の10)

 どこに真の人間があるのか―それも聖書に記されているキリストにある。

 どこに本当の言葉があるのか―それも聖書に記されている神の言葉、キリストの言葉にある。

 どこに永続的な魂の平安があるのか―主イエスは、私のうちにとどまれ、そうすれば私もあなた方のうちにとどまる。それがこの平安であると語りかけておられる。 

 


リストボタン空しさとの戦い

 

 今回の安保法制の強引な採決を見て、今さらながら、権力を持つものがなす横暴を目の当たりに見る思いがした。

 何を採決しているのか、まったく聞こえない、委員長の顔も何をしているのかも分からない。そんな怒号やつかみ合うような実力行使のただ中での採決だった。戦後70年の方向を根本的に変えてしまうような重大なことがらをあのような状況で採決してしまい、そのようなやり方にも何ら問題を感じていない首相や自民党など与党の代議士の面々。

 表面的には、平和に見える日本において、その政治の精神の貧困を痛いほどに感じたことだった。

 これには、脚本家・劇作家として知られている人(*)が、このことに関しての空しさを書いている。その一部を引用する。(毎日新聞10月7日)

 

…憲法学者も元最高裁判事も、全ての権威が無視されたのが空しい。

 雨にぬれながら懸命に叫ぶ人々の声が無視されたのが空しい。

 対立する意見に真剣に、耳を傾けようとしない政治家が空しい。

 政党に属せば個人の意志はなくなり、政党の意志に変貌してしまう、そういう政界のシステムが空しい。…等々。

 

*)倉本聰…1959年から始め、現在に至るまで、NHK大河ドラマ「勝海舟」他多数のテレビや映画の脚本を担当。両親はキリスト者であった。芸術選奨文部大臣賞他。紫綬褒章 、第21回向田邦子賞,旭日小綬章などの多くの賞歴がある。(ウィキペディアより)

 

 数十年ぶりといえる多数の人たちによる抗議のデモ、国会議事堂を囲んで忍耐強く安保法制反対を訴え続けた一般の学者、憲法学者、一般の人たちのその声、それらを一蹴した与党の政治家たち。遠くから列車に乗って東京まできて反対を訴えた多数の人たち―それらはみんな無視された。

 おそらく,最初からそのような算段であったのではないか。国会で審議する以前から、首相は、アメリカにて安保法制を通すと発言していたのだから。

 人間の世界には、昔からどんなにその不条理を訴えても、またそれを阻止しようとしても、悪の力がはたらき、不正なこと、圧迫や迫害が続くこともしばしばである。

 ローマ帝国の時代に、キリスト者に対する厳しい迫害はその圧迫の程度の差はあれ、およそ300年ほども続いた。その間、キリスト者たちは、そのような迫害がなくなるようにと、どれほど祈り待ち望んだことであろう。しかし、祈っても祈ってもなくならなかった。

 私たちは、自分の病気や家族の問題、その他で、一つのことを10年もさらにそれを超えて祈り続ける―ということはあるだろう。しかし、世代を超え、時代も超えて数百年も祈り続けるなどということは考えられないことである。

 それでも彼らは祈りを続けた。聖書の最後に記されている、「主よ、来てください! 」との短い言葉にそうした心を感じ取ることができる。

 このような、長大な期間にわたっての持続的な祈り、悪への抵抗の意志はなぜ続いたのだろうか。それは、信徒たちの内にいます神(キリスト)が語りかけ、うながし続けたのである。

 主が私たちの内にいてくださるなら、言い換えると聖霊がつねに私たちを励まし語りかけるならば、いかに目に見える結果が得られなくとも、願ったことと逆のことが次々と生じてきても、なおかつそれが本当に正しいこと、良きことならば、そのことの成るのを希望を持って信じ続けることができる。

 「信仰、希望、愛はいつまでも続く」と言われているとおりである。(Ⅰコリント13の13)

 空しさ―それは、そうした信・望・愛がなきところには必ず生じる。そしてそのような空しさは、立ち上がり、前進する力を失わせてしまう。

 すでに今から3000年ほども昔に、そのような空しさとは無縁の世界が詩に歌われている。

 

…主はわが牧者。

主は私を導いて緑の牧場に伏させ

憩いのみぎわに伴ってくださる。

たとえ死の陰の谷を歩むとも恐れない。…

 敵を前にしても、わが杯をあふれさせてくださる。

(詩篇23より)

 

 愛と真実の神が私を導いて下さるなら、欠けるものはないという。

 さまざまの苦難―死の谷を歩むというほどの苦しみ、あるいは絶望であり、生きていけないほどの空しさでもある。しかし、そこにあっても神はよきもので満たし、あふれさせてくださる―というのである。

  私たちが現実の状況にいかなる欠けたことがあろうとも、そのことを見つめて、あくまで、神の国と神の義を求め続けていく力を与えられるためには、そのような生ける神―生けるキリストに導かれるという道が与えられている。 

 


リストボタン信なくば立たず

 

 これは中国の古代思想家孔子の言葉である。弟子から政治とは何かを問われて、孔子は、食と、兵と信の三つをあげた。言い換えると、経済、軍備、人間同士の信実(そのなかに政治家への信頼も含む)である。弟子がそのうちの一つをどうしても捨てねばならないならどれをまず捨てるかと問われ、孔子は、兵(軍備)を捨てると言った。

 さらに、弟子がその次にどうしても捨てねばならないときには残りの二つのいずれを捨てるかと尋ねた。孔子の答えは、意外なことに、食を捨てる、と言った。

 人間は皆、昔から死ぬものだ。しかし、信(*)なくば、民は立つことができない、と。(「論語・顔淵 第十二の7」岩波文庫では160161P

 

*) 信という漢字は人偏と言から成る。「信」とは、「人の言葉が心と一致すること」と説明されている。(「漢和中辞典」貝塚茂樹他編) それゆえ、現在は人間の性質としていうとき「真実」と表記するのが一般的であるが、本来は、「信実」という表記であった。

 

 今から2500年ほども昔から、このように、食が第一、軍備も不可欠ということが当たり前―現代でも―であった時代に、すでに「信」の重要性がこのように言われていることに驚かされる。

 ことに現在の教育やさまざまの大学の研究、科学技術、インターネットの膨大な知識などがはんらんする中で、こんなに古くから言われている「信」のことが念頭にないのが、現在の日本や多くの国々の実態である。

 信なくば立たず―このよく知られた言葉でいう「信」とは何か。

 それは、語源の説明からもわかるが、嘘偽りのないこと―信実なことである。孔子は、その「信」こそ、人間が立ち行くために何よりも重要なことだと見抜いていた。

 いくら食があっても、また軍備を整えても、信なくば、人間は本当に立つことができない。人間同士に不信実がある―嘘があれば到底その関係は立ち行かず、崩れてしまう。一人の人間の魂も同様である。

 現在の日本の政治においても、まったく「信」―信実さがない。安保法制の決議にしても、あまりにも一方的、少数者の存在や意見をふみにじるものであった。

 そして、まず軍備が重要だとして集団的自衛権が行使できるようにしてしまった。そして「食」(経済)の重要性については、株価の報道などにみられるように、毎日毎日休むことなく言われている。

 そうした状況において、「信」が重要だ、何にもまして重要だ、といった意見はマスコミなどでも見た覚えがない。

 人間は、残念なことに、いくら科学技術や、教育、学問が発達しても、「信」ということに関しては、まったく進歩がないのがわかる。

 この「信」の重要性をさらに徹底して述べているのが、聖書である。聖書こそは、最初から最後まで、食糧や軍備などより比較にならない重要性を「信」においている書である。

 孔子が教えたよりはるかに深く、広い意味において「信」の重要性が一貫して語られている。

 しかも、孔子は、人間同士の信であったが、聖書はその人間を創造し、万物をも創造した神への信を第一としている。神への信なくば、神の持つ信実や愛、清いこと、正義への信もない。それらがないということは、不正や汚れたことを認め受け入れることにつながる。

 そこからあらゆる悪事や混乱が生じる。

 人をも万物をも愛をもって創造した神を信じるとき、人をもいかに悪い人であっても、その人がよくなるようにと祈る道が指し示されている。

 神は、その御心にかなった時には、悪人の心をもただちに変えることができるのだと、信じて対することが可能となる。

 人から裏切られ、人間不信に陥ってもなお、そのような人間をも変えることのできる神を信じる道が与えられている。

 そのような信を互いに持つとき、人間が罪深いので罪を犯してもなお、人と人の間にいてくださる神―キリストによって私たちは倒れ、滅びないですむ。神とキリストへの信実、そしてその神に対する信実によって私たちは、立ち上がることができる。

 この原理は、数千年前から、一部の民族には知られていたが、その後の歴史においてその真理の力を証しするように世界に広がった。

 今後も、まず神の信実を信じ、そこから希望も、神への愛、神からの愛が与えられていくことは変ることがない。そしてそのような新たな「信」の世界は求めるときに一方的に与えられるのだということ、これもまた、聖書が一貫して語りかけていることである。 

 


リストボタン真理、学び、啓示

 

 真理は学ぶべきもの、絶えず本を読んだり、他者からの教えをきいたり、いろいろな経験によって学ぶ。

  そうした学びということは、大切なことであることは言うまでもない。

 学ぶとは自分が知らなかった新たな知識、技術、考え方などを身につけていくことである。

  このように日常よく用いることばとなっている。

 それゆえに、その学ぶということは最もよいことだと思われていることが多い。

 しかし、聖書では、一般的に用いられている学ぶということを超えたことがあるのが示されている。その根本にあるのは、神の言葉を聞くということであり、また啓示を受けることである。

 この世でもっとも大切なこと―愛と真実の神、正義の神であり、かつ全能の神がおられ、その愛ゆえに私たちをつねに見守り、愛し導いて下さる、死の力にもうち勝って復活させてくださるなどということは、小学校から大学までの長い学びの期間があるからといって、分ると言うものではない。

 私たちが神からの啓示を受けてはじめて本当の学びがはじまる。周囲の身近な自然についても、神を知るまでは単に偶然的に生じたものとしか考えられない。それを科学的にいろいろと研究することで驚くべきことがつぎつぎと明らかにされてきた。

 しかし、それでもなお、それはいわば平面的であって、どんなにそうした研究を積み重ねても、自然を創造した神とその愛に導かれるとは限らない。むしろ、神の愛に根本的に反することにつながることすらある。

 大量に人の命を奪い、傷つけ、その人の生涯を破壊する武器、弾薬を造り、さらには核兵器を作り出してしまったことからもわかる。

 自然のものに込められた神の愛を知るのは、一種の啓示である。自然科学をまったく知らずとも、その啓示はゆたかに受けることができる。一つの野草のすがたやその花、あるいは樹木の姿や空のたたずまい、その青い広がりや白い形をたえず変えていく雲の姿―等々もその背後の神の愛を知らされたときには、それらが愛をもってかたりかけるものとなる。

 キリストの最大の弟子となったパウロにしても、特別な教師からユダヤ教を学び、家柄もよく、実行力もあった人間であった。しかし、それでも神の本当の愛やご意志のことはわからず、したがってその神が人類への愛ゆえに地上に送った独り子なるキリストのこともまったくわからず、モーセ律法を破壊するものだとしてキリスト者を迫害し、国外にまででかけて追跡し捕らえて獄に入れ、さらに殺すことまでしたと記されている。

…わたしはこの道―キリスト教を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえした。(使徒22の4 )

 ここにも本当の神を知ることは学問によって知ることができないかがはっきりと示されている。さらにパウロは次のようにも記している。

 

…神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれた。(Ⅰコリント1の27)

 

 このように本当の真理、神を知ることは、学んで知ったのでないということは、キリストやパウロよりはるか昔から聖書では記されている。

 信仰の父と言われ、ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教にいまもなお重要な影響を与え続けているという点で、世界に絶大な影響をもたらすことになったアブラハムが、唯一の生きて働く神のことを知らされたのは、誰かから学んだのではなかった。それは直接的に神からの啓示を受けたことによってである。

 それが神の大いなる導きやその力を学んでいく出発点となった。学んでわかったのでなく、神からの啓示を受けて神のことがわかり、従っていき、そこから神に関するさまざまのこと―その愛や信実、正義、万能の力等々を学んでいったのである。

 アブラハムは、それまでは、無学なただの人、羊飼いのような仕事をしている多くの人と同じように生きていた人であったが、突然に受けた神からの語りかけを聞き取ったときから、アブラハムに魂に、そしてその生涯に根本的な変化が生じたのである。

 モーセにおいても同様であった。彼が成長していったのはエジプトの王子として王宮においてであった。しかし、ユダヤ人であることがわかり、殺されるという状況になって、命がけで遠い地まで逃れていった。

 そこで結婚し、子供も生まれ、羊飼いとして生涯を終えると予想される状況であった。

 しかし、そのような平和な生活は突然変えられることになった。シナイ山の麓で羊たちを導いていたとき、そこで初めて彼は神からの直接の語りかけを受けた。 それがモーセにとって決定的な転機となった。

 また、エレミヤにおいても、若き日に突然神から呼び出されたことが、かれのその後の生涯を決めた。命がけで神の言葉を語り続ける者となったのは、彼がなにかを誰かから学んだからではなかった。

 またアモスという預言書も、いまから2700年ほども昔の、ごく普通の羊飼いにすぎなかったが、やはり神からの語りかけを聞いて当時の支配者や人々に対して神からの警告、そして神の約束をのべ続ける者となった。

 旧約聖書の時代から新約の時代となり、キリストが現れ、十字架にて処刑されたがその後復活された。その以降において、世界に福音を伝える出発点となったペテロの宣教においても、「無学なただの人」というのがとくに記されている。

 

…議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。(使徒4の13)

 

 聖書とは啓示の書物である。啓示とは、原語では  アポカリュプシス(apokalypsis)であり、それはカリュプトー(覆う)という言葉と、アポ(apo)(*)という接頭語からなる。

 それは 覆いをはずすということである。この世には霊的な覆いがかかっていて、真理が見えない。それを神がその覆いを取り去って本当に存在することを見させる、聞かせることである。

 

*)日本語の啓示という言葉は、もとは中国語であり、この語も啓(ひらく)と示すから成り、やはり隠れているものを開いて見えるようにすることを意味している。

 日本語訳聖書で、黙示録と訳されている書のタイトルも、このアポカリュプシスであり、「黙して示す」のでなく、神が「啓(ひら)いて示す」ということであるから、本来は、啓示録と訳すべきものである。英語訳もみな、revelation であり、re-は接頭語で、「離れて,去って,反対」などの意味があり、ベールを離れさせる、取り去る、ベールをかけるのとは反対のこと―取り去ること…などの意味となる。なお、手許にある4種ほどの中国語訳聖書、そして2種の韓国語聖書を見てもすべて、黙示録ではなく、「啓示録」 という書名となっている。

 

 神の言葉とは、あらゆる人間の研究や議論、学問を超えて語りかけられるものであって、それが現代の日本ではまさに大きく欠落している状態にある。自由な意見の陳述はある、議論もある、いろいろな聖書研究や過去の有名人物の研究等々もある、知識は洪水のようにある、さまざまの映像もあふれるごとくある。

 しかし、神の言葉を直接的に聞き取るひとがきわめて少ない状態にある。

 はるか2700年ほども昔の預言者―前述のアモスという羊飼いが聞いた神の言葉には、神の言葉の飢饉がくるというのがある。

 

…見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。

わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、

水に渇くことでもなく、

主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。(アモス書8の11

 

 私たちが、日曜日ごとに集まるのも、また祈るのも、神に求め、神からの力と啓示を受けるためである。み言葉を受けるとは人間の言葉や意見のただなかに神の言葉が開かれて示されること―小さいながらも啓示を受けることである。

 礼拝とは議論や研究、あるいは意見を述べ合うのが目的ではない。そこにいます神、キリストと出会うためである。キリストの啓示を受けることである。

 祈りも同様である。私たちの心に神(キリスト)が現れ、私たちに語りかけ、また私たちも現れた神に語りかけることである。

 求めよ、さらば与えられん と主イエスは約束された。いかなる法律や人間、権威によっても曇らされることのないのが神の真理である。それは夜空の星のごとくに不滅であり、永遠である。

 星の光は、無意味に輝く冷たい光ではない。その光の背後から、神の愛が輝いており、その清い美と力がその背後から私たち人類に送られてきつつある。

 私たちは、それを受けとるために、ただ幼な子のような心もて、祈り、求めるだけでよいのである。

 神の言葉の飢饉という現代の問題においても、 求めよ、そうすれば与えられる―この主イエスの約束を信じて祈り求め続ける道が私たちの前途にはつねに続いている。

 


リストボタン各地の集会を訪ねて―東北から中部地方へ(3)

 今月号では、山形市での夜の集会を終えた次の日のことから、個人訪問、そしていくつかの集会での聖書講話に関し、そこで語られたみ言葉に関しての参加者の感想を記したい。

 

 7月25日夜の、山形市での集会を終えて翌朝は、その会場から北へ約20キロほどにある、小関 充・道子ご夫妻宅を訪ねた。小関氏は、山形でホームセンターを始めて、系列店も次々と増やされていったなかで、キリスト教信仰を堅く持ち続け、矢内原忠雄(*)を迎えて、そのホームセンターの社員たちとともに講演会を開かれたこともあった。そのようなことは、当時は異例のことであったであろうが、現在でもそのようなことはほとんど耳にしないことである。今は高齢となられて、去年は入院中で病いの苦しみのただなかにおられた。しかし、主の恵みによってそのような状況から改善され、退院することができ、自宅で奥様の手厚い介護のもとで生活されていた。

 ベッドで賛美と祈りもされ、主の守りと支えを祈ったことであった。

 大分以前に、私が初めて山形の集会を訪れたとき、いまは天に召された黄木定さんが、山形の信仰の先達のところへと次々と案内してくださった。小関さんのところもそのとき初めてお訪ねできた。そして、奥様は、私が大学4年で初めてキリスト教を知り、さらに京都の無教会の集会である北白川集会に導かれたときの、聖書講話の担当者であった塩谷饒(ゆたか)氏(当時は京大文学部助教授、ドイツ文学)の妹だと聞かされて、この意外な出会いは主の導きと思われたことであった。当時は、富田和久氏(理学部教授)と塩谷氏が交代で聖書講義を担当されていた。また、同じころ加わった京大聖書研究会もこの二人が担当、指導されていた。

 

*)矢内原忠雄 18931961。経済学者。東京帝国大学経済学部教授、1937年の中央公論に書いた論文「国家の理想」や、通信誌にて中国の南京事件の誤りを指摘したことから批判攻撃の矢面となり、辞任を余儀なくされた。戦後復帰し、東京大学総長をつとめた。

 なお、筆者(吉村)は、大学4年の5月末に、矢内原の一冊の小さな本のある頁を古書店で立ち読みし、そのときにキリスト者となったことから、私には忘れることのできない人物である。

 

〇仙台での集会、日曜日の主日礼拝をそれぞれの人たちが別の場所でもったあとの集会なので、暑い中、日曜日に二回も、しかも場所を移動して参加することは体力的にも困難な方々も多い。それでも、毎回参加の方々、教会員の方、あるいは初めての方も参加しておられた。

 安保法制のことで、平和憲法のことに強い関心のあることであり、そもそも聖書においては「平和」ということはどういう内容を持っているのか、そして主の平和と深く関わっている「祝福」とはどのような意味をもっているのかについて、聖書の箇所をもとにしつつ語らせていただいた。

 

聖書講話の感想から

・「祝福」という言葉は本来の日本語でなく、中国の言葉だと。平和も平安も。中国の人をともすればばかにする人もいるが、 歴史の流れがあって はっとさせられた。祝福という言葉もわかったようなわからないようなことだった。また、「聖別」や、山上の教えでも いろいろなことが再発見できた。

 何より、神の言葉に聞くことが 揺るぎない祝福が与えられること、 また 主の平和とは、神の私たちに関する御計画が完成することにほかならないこと―等々いろいろなことが構造的に理解できたことがよかった。(MT)

・神様の声を聞かなかったら傲慢になる。いまの安保法制。 6月13日、息子に用事で埼玉に行ったとき、妻と二人で安保法制反対のデモに参加した。(KH)

・聖書講話を聞いて、目からうろこの思いがしたことがある。平和とか祝福といったことばについて、聖書での本来の意味をそれらのヘブル語などの説明や漢字をまじえて聞いた。 

・聖別ということの意味。聖書に記されている祝福はずっとつづいている。どんな時代になっても神様が与えるものとしての祝福の重要性は変わらない。アブラハムに与えられた祝福が今日まで続いている。

 神の言葉を聞くことによって祝福が及ぶ。 山上の垂訓、罪をしっている心が 心貧しいこと。 (KK)

 

・聖書は、何となく自分の思い込みとかで読むのでなく、きちっと読んでいかないといけないのだと。 月に一度 「いのちの水」誌を母のところに 必ず それをもっていって最初の巻頭言とそれにつづくひとつ二つを読んであげるととても喜んでいる。「いのちの水」誌のうちのどこかの言葉が心に響いている。親子ともどもよき学びとなっている。(NG)

 

・何気なく読んでいる創世記第一章から「祝福」ということが記されてあったことに気付かされた。創世記、申命記、民数記というところから学んで あらためて祝福という言葉を学んだ。パウロの書いた手紙の最後にも祝福を祈る姿がある。キリスト者には万事を益としてくださる神がいますゆえに、いかなることがあっても 究極的には祝福につながる。、

 

〇福島県での集会。

 福島では、湯浅鉄郎氏宅での集会で、そこには、木造製のほかには見られないよき集会場が備わっていて、ピアノもあり、奥様がそれで伴奏をしてくださるので賛美がより生きて働くと感じた。無教会では多くが、公共の会議室などを時間借りしているために、ピアノもなく、大きな声でも賛美てきない、伴奏もないことが多いので、賛美の力が十分に生かしきれていない状況があるのは残念なことである。

 

聖書講話の感想から

・私自身は心から戦争を絶対にしないと、どんな迫害があっても生きていきたい。主のしもべとして生きていきたいと。主の平和を具体的に受け取って、日々他者に分けあたえるように。具体的にはどうしたらいいかと。主から賜る本当の平和を祈り求めていきたい。そのような平和は求めたら必ず与えられる。

 生ぬるいところにいる我々だがいざという時、そのようになりたい。(T・Y)

・キリスト者となって、聖書で最初に暗唱したのが詩篇23。「主はわが羊飼い、私には欠けることない。」この最初の言葉のなかに、本当の平和(主にある平和)ということが書いてあるのだと、この年になって初めて知った。 折々に心の中にざわざわした思いがあるが、平和とはなにかとみ言葉から知らされて、私もとても穏やかな気持ちとなった。(R・Y)

・敗戦のとき 小学校6年。あのとき一番おそろしい言葉が 非国民といわれることであった。現在、現体制に反対することによって就職も難しいという状況になるのではないか。自分たちのように農業している者は体制におもねるのでなくとも生きて行ける。

 公務員になったり 会社員になる人は厳しい状況になるかもしれない。そのときに真実を守る人が必要となる。キリスト教の真実をしっかりもって歩みたい 。(JI)

・今日の聖書講話を聞いて、敗戦直後の小学校の時のことを思いだした。教科書に墨を塗るということをした。イエス様が残してくださった真実の価値。平和とはなにか、最近は安保法制のことがあり、新聞を読むのがつらい。「私の平和をあなた方に与える、おびえるな」この主イエスの言葉を、原語にさかのぼって説明され 出席してよかった。                     (H)

・今日のこの時間は、キュウリ収穫が私の仕事だが息子にかわってもらって参加した。「私はこの世に勝利している。」平和の問題思うとき、本当の生き方ができているのかを考えさせられる。私たちの近くでも江戸時代に殉教した人がいるということをこのごろ知った。殺されても相手のために祈る生き方。イエス様に満たされないと それはできない。

 一人でも多くの人にこの聖書の教えを伝えていかねばとあらためて感じた。(SO)

・聖日ごとにここに呼び集められて御名を賛美できることに感謝。いつも主に生かされていると頭でわかっているつもりだが日常生活のなかで、そのことを忘れていることがある。イエス様のみ言葉を信じてこれからも生かされていきたい。(S) 

 


リストボタンことば

 

(391)平和の基たるキリスト

 平和のために戦争をするのだという。それなら何ゆえ潤すために火を放たないのか。もし火によって潤すことができるのなら,戦争によって平和を来らすことができよう。

 しかし、西が東より遠いのと同様、平和は戦争によっては来ることはあり得ない。

 平和は平和より来る。人類の罪を自分が担ってキリストは世界平和の基を据えたのである。

 平和を世に来らそうと願う者は、すべてキリストにならうべきなのである。(内村鑑三「聖書之研究」1904年)

・平和―人間が会議や運動でもたらそうとしても、戦争のない世は数千年の歴史を見ても生まれなかった。

 そのために、キリストは平和の根源を人類にもたらすためにこの世に来られた。キリストこそは真の平和の礎である。 そしてそのことは、一人一人の魂の奥深くにおいて実感することができる。

 真の永続的な平和運動とは、このキリストを世に示し、キリストを一人一人の心に受け入れるように働くことである。 

 


リストボタン十月の夜明けの星々

 

〇明け方の星

・現在の夜明け前の東の空は、近年では見られなかったほどの星々たちのすばらしい輝きが見えます。

 今月号の「いのちの水」誌が届くと思われる11月17日頃には まず、明けの明星として金星がそのすばらしい輝きを見せて、午前3時ころには東から上ってきます。

 そしてそれに続いて、火星と木星が連れ添うようにして現れます。 木星は、金星に次いで強い輝きをもっているので、夜半の明星と言われたりするほどです。そのため、すぐ近くの火星は弱い光のように見えます。

 さらに、それらの星々の前に上ってくるのは、だれもになじみある星座であり、それらが含む一等星の数々です。

 オリオン座(リゲルとベテルギウス)、大犬座(シリウス)、小犬座(プロキオン)、御者座(カペラ)、双子座(ポルックス)、牡牛座(アルデバラン)等々の冬の星座として知られる一等星を持つ輝かしい星座です。

 また、金星のすぐ上のほうには、春の星座として知られるしし座の一等星レグルスが見えています。

 このように、年間で最も明るい星々が見える冬の星座のほかに、惑星でも最も明るい金星とそれに次ぐ木星、そして火星、さらに春の代表的星座の一等星レグルスまで見えるというのは、なかなかみられない状況と言えます。これらの星々のうち金星は動きが早く、毎日、少しずつ低く見えるようになります。そして11月になると、まず木星、火星、金星の順に見えるようになります。

 今年いっぱいは、これらの星々が夜明け前の東空から南の空を永遠の光を思わせる輝きを放ちつづけているのを目にすることができます。

 


リストボタン編集だより

 

秋の澄んだ空、そして明け方の東の空に輝く金星や火星、木星といった輝く惑星たち、そして南の空には、オリオンや大犬座、小犬座、等々のやはり何千年も前から、無数の人たちの心に光を投げかけてきた星々を見ながら、悠久の宇宙とその光に、大いなる神の創造の御手を思います。
なお、いろいろな事情のために時間がとれず、CDの申込、協力費やお手紙、またメールなどをお送り下さってもなかなか返信ができないことがしばしばといった状況です。申し訳ないことですが、お許しください。近畿無教会集会などの録音CDの送付もいましぱらくお待ちください。

 


 

リストボタン来信より

 

・(9月の「今日のみ言葉」について)
…「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 (マタイ11の28)
 この聖句は、初めて聞いた時から心に残り、イエス様の愛の大きさ深さを思わされています。感謝です。
 「野草と樹木たち」で、今回は「ソバナ」をご紹介してくださり、ありがとうございました。
 いつも思うのですが、色々な草花の美しい色や形や、険しい場所でもしっかりと美しく咲く姿を、かなわぬ思いとは判りながらも、もう1度見てみたいと思うことがあります。
 でも、見えない私達にとっては先生のとても判りやすいご説明は、ありがたく感謝の思いでいっぱいです。
ありがとうございます。(四国、全盲のKさん)

・いのちの水9月号を昨日頂戴いたしました。ありがとうございます。
「日本の前途が危険になってゆくのは、原発と集団的自衛権の行使と人を神とする宗教性の問題がある。」というご指摘は全く同感いたします。
たまたま見る機会のあった映画ですが、「日本の一番長い日」も東条と天皇を対比しつつ、敗戦を、天皇が、陸軍の抵抗のなかで、鈴木貫太郎首相、阿南陸将との君臣的信頼関係を基盤に進めたとして、臣民に篤い思いやりを示した天皇として、描かれているように思いました。
戦前は神として振る舞った天皇ですから、映画のそのような描き方だけでいいのかという疑問が残りました。
開戦をどのように主導したのか、敗戦をどのようにのばして、原爆、ソ連参戦をもたらしたかという視点が足りない。 敗戦時の「沖縄処分」、米軍統治に天皇がどのように関わっていったのかということも含めて、まだまだ、人々には真実が覆われているのではないかとおぼろげながら思いました。(中部地方の方)
・…この静かな山里にも、安保法制に関して連日政治の恐ろしい波が襲って落ち着かない気持ちでいました。9月号の[ただ信じ、祈る」を読み、歴史を統治し給う神様に祈りながら。
主の平和の道を歩みたいと思います。
日本の神道との関係をあまり深く考えたことが無かったので、10月号の記事で、良く分かりました。
現在の祝日・休日すらもこのように天皇と深い関係にあったのですね。
元号の問題についても、元号が平成に変わった時、西暦にすればよいのにと思った程度で浅い知識しか有りませんでした。
私もハルピンから引き揚げてきましたので戦争には敏感でいたい。武器輸出も心が痛みます。原発の再稼働のことも。
自らの罪を自覚し神様に祈りつつ歩みたいと思います。(中部地方のKさん)

 


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