いのちの水 2015年3月 第649号
生きた希望 | 見ないで信じる祝福 | 政治とは「正」なり |
聞き、かつ見る神 | 神の愛にとどまること | ことば |
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私たちが主イエスと結びつくとき、希望は実現しない空しいものでなく、生きた希望(living hope)となる。
(Tペテロ1の3)
それはその希望を持っているだけで力を与えられる、その希望が私たちに働きかけるという意味で生きている希望といわれる。
信仰、希望、愛はいつまでも続くと言われている。そこで言われている希望も生きた希望であり、神の命が込められた不滅の希望だからいつまでも続く。
パウロももう死ぬかもしれないと厳しい試練のときには死を覚悟した。そこで復活させてくださる神を頼りとするようになった。生きる望みは失ったが、復活させてくださるという神への希望がますます生きて働くようになったのである。(Uコリント1の8〜9)
主イエスと結びつくとさまざまのものが命を持って感じられてくる。
賛美を歌うことも、その賛美によって何か力づけられる、聖霊をより感じる―というようになる。それは生きた賛美―Living Praise となるからである。
また、自分の好みの者に対してしか働かない影のような愛であったのが、主イエスの霊を与えられるときに、そのような愛が神からの命を持つようになり、永遠的、だれかれの区別なく働くような愛へと変えられていく。
また、周囲の自然―木々や野草、夜空の星や青い空、風のそよぎ等々も、生物、無生物を問わず、生きたものとして感じられてくる。それらが私たちに語りかけてくるようになるからである。
今から2500年余も昔の預言者が、次のように歌ったのも、神の祝福のうちに豊かに入れられるときには、自然も生きて働くのを実感したからであった。
…あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、
平和のうちに導かれて行く。
山と丘はあなたたちを迎え歓声をあげて喜び歌い、
野の木々も手をたたく。
(イザヤ書55の12)
そして聖書の言葉もまた、単なる古代文書としてでなく、生きて働く言葉―いのちの言葉―となってくる。
(フィリピ書2の16)
一つ一つの聖書の言葉が、いわばむくむくと起き上がって、私たちに語りかけて来る。そしてその背後にいる神の啓示を受けた人からの語りかけとして感じられて来るようになる。
私たち自身も、かつては死せる存在であったのに、生ける者と変えられていく。
(エペソ書2の1〜6)
私たちの現実は、そうした神の約束、生ける希望の世界からともすれば遠く離れてしまいがちである。
そのたびに、立ち返り、主から新たな力を受けてそのような命の世界へと呼び戻されたいと思う。
主イエスの最後の言葉―それはヨハネ福音書によれば、次の言葉である。
「見ないのに信じる人は、幸いである」(20の29)
なぜ、このことが事実上の最後に置かれたのであろうか。それほどに重要だったからである。
見ずして信じる―このことは、聖書の巻頭から要求されている。
初めに神が天地創造をされた。神が光あれ! との言葉によって光が創造され、天地の万物もみ言葉によって創造されたと記されている。
これらのことも、誰も見たものはないし、見ることなどできない。
しかし、それを神からの直接の啓示によって示された事実であるとして、見ないで信じるものは祝福された人である―ということになる。
実際、こうした記述を人間が作ったものだ、単なる神話だ、などといって神の全能や聖書が神の言葉であることを信じないなら、霊的な恵みを十分には受けられなくなる。
そのような人は、次々と聖書の言葉を、神の言葉でなく、人間が考えて書いたのだ、作り替えた等々と言い出すであろう。そして祝福は次第に遠ざかっていく。
ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教において共通して―ということは全世界において特別に重要視されているアブラハム、彼もまた、見ないで信じた人だった。
約束の地というものが本当によい地なのか、今まで生活してきたウルというユーフラテスの河口近くの町を捨てて、親族も友人からも離れてそのような全く未知の場所に危険を犯して行くことに何の意味があるのか―そのようなことはみな神にゆだねて旅立った。
行く先を知らずして、見ずして神の言葉と信じたゆえに、はるかな遠い示された地へと旅立った。
そして、アブラハムの「見ずして信じる」ということの祝福は、それ以後、全世界に広がっていき、この神の言葉の真実性が明らかにされていった。
このように、聖書は見ないで信じる―ということの重要性が満ちみちた書なのである。
見たことがないのに信じる、それは、未来のことであれば常に要求されていることである。
求めよ、そうすれば与えられる、ということもそうである。死後の復活、再臨のことも同様である。
キリストが勝利しているということも。そしてキリストの処女降誕やキリストが神と同じであること等々。
もし、見てから、確認してから信じるのであれば、聖書の記述はほとんど意味をなさなくなる。
キリスト教信仰の根本である十字架のあがないの信仰においても、信じるだけで赦されるということも。
罪の赦しというようなことはそもそも見ることも触れることもできない。このように、信仰とは見ないで信じることである。
それは、ヘブル書にも、次のように記されている。
…信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである。
(ヘブル 11の1)
はじめに述べた、ヨハネ福音書におけるイエスの最後の言葉は、トマスに関して言われている。トマスが言ったこと―それはこの指で触れてみないかぎりイエスの復活を信じないということであった。すなわち確証がなかったら信じないということである。
このことは、今日でも大多数の日本人が唯一の神を信じない理由となっている。またすでに信じている者であっても、打ち続く苦難に遭遇するなら、神の愛を確証することができず、その逆の確証―神などいないということのように思われてきて信仰から離れてしまうこともある。
ヨブ記もそれ全体がそのテーマである。財産や家族も失い、しかもみずから耐えがたい病気となって誰一人その苦しみをわかってくれる人もいない、いやされることもない―そのような状況は、神の愛など信じられないという動揺となった。
その長い苦しみから救いだされるのはずっと後になってからである。
他方、確証などないものを見ないで信じることも数限りなくある。人間は都合のよいことはすぐに信じてしまう。
例えば、徳島県にあるJRの学駅の切符がよく売れるという。「学」という文字の切符を購入しても、入試の合格とは何の関係もないが、切符を買っておけば合格する可能性が高くなると信じて遠くからでも切符を買いにいく。
お墓の冷たい石の下に死んだ人がいる、と言われたりすることも単なる言い伝えにすぎないのにそれを信じてしまう。 近くの神社に祀られているといわれる神々の正体が何であるか知らないし、そこにいる確証もなくても信じる。
また、体の障がいがあれば、それは先祖のたたりとか、供養がちゃんとされなかったからだ、といったこともそんな根拠は何もないにもかかわらず、信じてしまう傾向がある。
原発にしても、大事故は絶対起こらない、何重にも防護されていると科学者たちも言っていたし、それを政治家も経済学者や経営者も国民全体が、その危険な現実を見ずして信じていた。
太平洋戦争でも、絶対勝つなどと根拠もなく信じていた。―アメリカの国力の実態を知っていた者は そのような大国と戦っても必ず負けると知っていたから、もし開戦となれば、莫大な被害、損失となることを知っていたが、大多数の国民は見ずして勝つと信じ込まされた。
以上のように、見ないで信じる―ということは至るところにある。
このような、見ずして信じるという一般社会のことと、聖書が特別に重要視している、見ずして信じるということと、どこが違うのであろうか。
聖書で言っているのは、見ないで何を信じるかが重要なのである。
それは、神の全能、愛や信実、正義、永遠性を信じることである。そこから聖書に書いてあるように、キリストは神と同じ本質であり、聖霊も同様であること、死後の復活やキリストと同じ栄光の姿に変えられること、最終的には神の愛の力が悪を滅ぼすこと、新しい天と地となること―等々、愛と信実にかかわることを信じるのである。
また、周囲の自然も神の御手が創造したのだということも信じる。そうした神に属するよきものは、すべて見ずして信じていくというその姿勢が祝福されているというのである。
神は制限をかけずに信じる者―神の存在やその力が大いなるものであると信じれば信じるほど、それを喜ばれる。
それでもなお、私たちはなかなか信じきれない弱さがある。その弱さをも顧みてくださる神は、見ないで信じることの幸いを万人に与えようと、聖霊を万人に送ってくださったのである。私たちはただ心を開いて求めるだけでよいという新しい時代がキリストとともにはじまったのであった。
今日の困難な時代にあっても、混乱や悪の状況を見るだけならば、私たちは次第に力を失い希望は失せていくであろう。
そのような状況だからこそ、神の愛や正義、その最終的な新しい天と地などを「見ないで信じる」者とされて歩みたいと思う。
政治のさまざまの腐敗、混乱を見るにつけても、政治において何が最も大切であるのか、はるか古代から言われていたことに驚かされる。
中国の孔子は、今から2500年ほども昔の人である。旧約聖書の預言者エレミヤの活動した時代より数十年後に生まれた。
彼の教えを記した論語には、霊的なこと、死後のことなどは、わずかしか触れていないが、この世での人間の生き方に関する多くの教えが含まれている。
その中で、政治に関して次の言葉が知られている。
…季康子、政を孔子に問う。孔子こたえて曰く、政とは正なり。(*)
子、師いて正しければ、たれかあえて正しからざらん。
(論語 巻第六 顔淵第十二)
(季康子という弟子が、政治について孔子に尋ねた。孔子は、政とは正だ。あなたが率先して正義を求めていくなら、誰もが正しくなろうと努めるであろうと。)
(*)政 という漢字の右の部分(旁)は、攻、教 という漢字に見られるように、「打ちたたく」という意味を持っている。それゆえ、「政」とは、打ちたたいて正しくする という意味である。
政治における重要なことは、正義であるというこの洞察は印象的である。現代に至るまで、政治とは、国民の食物を保障すること、言い換えると経済がまず重要だとする考えがごく普通に言われてきたからである。そのためには、国を守る、それゆえに軍備が重要だ、というのが多くの人たちの主張となってきた。
現在でも、経済第一、その経済のために、いったん重大事故あれば、日本が壊滅的な打撃を被る可能性が大である大規模原発をなおも、推進していこうとする考えが主張されている。
また、首相は、石油の輸送に重要なホルムズ海峡での機雷の除去が集団的自衛権の対象となる場合があると主張している。それは自衛隊が武力行使を目的として遠い外国にまで出動することを意味する。このような状況で、幅わずか数十qの海峡で陸からの攻撃を受ければ、どうするのか、武力の応酬となりかねない。
経済を守るためと称して、あれほどの福島原発の大事故にもかかわらず、やめようとしない考え方の背後にはエネルギー問題だけでなく、核兵器を作る技術を温存させておくという考えがある。
70年も守ってきた憲法9条に基づく平和主義を捨てようとするのは、ほかの国々とは大きく異なる徹底した平和主義を守るという世界史における日本の使命を捨ててしまうことになり、重大な損失である。
その武力の保障のために、沖縄に特異的に多大の基地をおいたまま、国から多額の補助金を与えて、沖縄の人たちを懐柔するという差別的な沖縄政策が続けられてきた。その結果、一部の沖縄の人には多大の富が集められてしまう状況となったが、沖縄全体の貧しさはよくならず、かえって基地の恒久化によっていろいろなひずみが生じてきた。
それに対して、去年からの一連の選挙で、県民の意志は明確に示されたにもかかわらず、それを無視して強引に美しい辺野古の海岸の埋め立てを強行しようとしている。
こうしたやり方は、まず正義を求めるという考え方とは、全く異なるものである。
福島に日本で初めて原子力発電所を造るときにも、多額の金で人々の心を買い取っていった。そのために、村の人たちの中に、大きな分裂を生じ、村は原発のために、深い亀裂を人々の心にも生み出したのだった。
太平洋戦争で数千万というおびただしい人たちの命を奪い、あるいは傷を受けることになった人たちを生み出したのも、他国の領土や人民を侵略していくという正義に反する行動のゆえであった。
子貢、政を問う。
子曰く、食を足し、兵を足し、民を(教育して)信(誠実)たらしめる。(*)
子貢曰く、やむを得ずして去らば、この三者において、いずれをか先にせん。子(孔子)曰く、兵を去らん。(子貢)曰く、必ず、やむを得ずして去らば、この二者においていずれをか先にせん。
子(孔子)曰く、食を去らん。
古より皆な死あり、民は信なくんば立たず。
(論語・巻6の12)
(*)「信」については、支配者を信頼する意だとも解釈されるが、ここでは、「信実」という意味が最もふさわしいと思われる。なお、朱子は、右の訳のように「教育して誠実(信実)にさせる」意味であるとし、荻生徂徠もこの解釈だという。
すなわち、食糧、軍備、そしてそして信実(*)、この三つだと。
(*)現在は、「真実」と表記することが多いが、本来は、「信実」。
そしてもしその一つをやむを得ず捨てねばならないとすれば何を捨てるのかとの問いに対して、軍備だと。それではその次に捨てるべきは何かと問われて、食糧だと。食糧なくば死んでしまうが、昔から誰にも死はある。
しかし、人は、信がなければ、立つことができない。人々の集合体である国家もまた、一人一人の人間の根本に「信」がなければ立ち行かない。
このように、信実ということが、軍備、食糧(経済問題)などより上位にあると答えた。
はるかな古代において、このように、現代にも通じる重要問題を明確に答えているのに驚かされる。
現代の日本においても、人間同士、他国の人との間での信実より、まず武力、軍備を整えようとする傾向が強いし、人間の真実(信実)といった問題よりも、まず経済、という考え方が日本でも当たり前のように主張されている。
日本国憲法の前文には、次のようにある。
…日本国民は、恒久の平和を念願し…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
ここでも、諸国民の信義に信頼し…とあり、「信」が重ねて用いられている。
この世界において、「信」の重要性は、はるか古代の中国で最も高く評価されてきた思想家においてはっきりと示され、日本の憲法にもその基本的精神として記されている。
ここにおいて、人間世界における「信」の重要性がわかる。
そして、はじめに述べた、政とは正なり、ということともつながりを知らされる。正しいこと、正義ということは、信実ということと深く結びついている。信実の逆は背信であり、欺きや裏切りである。このようなことは人間の正しいあり方に反することである。
民を全体として治める政治ということは、聖書ではどのように言われているであろうか。
聖書には、「政治」という訳語はない。(*)
(*)新共同訳、新改訳には一度も使われていない。ただし口語訳では、一度だけ 終末の状況においての神の支配について「政治」と訳されている。しかし、ほかの訳は、「支配」という訳語である。
しかし、人間の共同体を治めることは、当然繰り返しあらわれる。
王制ができる以前に、民を治めた人がいた。ギデオンはそのうちの特に知られた人であった。彼が民を治めたのは、自分の権力でなく、まったくそうした武力や権力もなかったにもかかわらず、神によって呼び出され、人々を導く力が与えられた。
このように神によって国を支配する能力が与えられるのであるから、神に対する忠実さ(信実)が失われるとき、いかに大きな力を与えられた支配者(王)であっても、たちまちその地位から追われる。イスラエルの最初の王であったサウル王がそれであった。
つぎのダビデは、サウル王によって命をねらわれ、荒れ野をさすらう長期にわたる苦難の中でも決して武力や憎しみによって当時の王であったサウルに敵対しようとせず、神にあくまで従い続けた。
こうした神への忠実によって、後にダビデは王となったが、その支配の力や導きはまったく神からくるのであった。
それは人間の正義感や武力でなく、あらゆる人間を超えた完全な英知のお方である神によって王は示され、その神の言葉にしたがって行なうのが民を治める指針となった。
その点では、今日の政治学といったものとは根本的な違いがある。かつての太平洋戦争の時代においても、政治学者は多くいたが、その学者たちは、戦争を間違ったものとして指摘したり、戦争に反対、あるいは抵抗したであろうか。むしろ逆であってほとんどの政治学者たちはあの侵略戦争を聖戦とすることを正当化していく道具として―ほかのマスコミや芸術家やあるいは教育などとともに―用いられたのではなかったか。
あの太平洋戦争に何らかの形で反対したのは、多くの政治学者でなく、一部のキリスト者や共産党の一部の者、新興宗教の一部、庶民のごく少数の者たちであり(*)、そのような考えはたいていは政治学といったものとは無縁であった。
(*)どういった人たちが、中国戦争、太平洋戦争などの期間に、戦争を忌避したり、反対ないし、批判したとして捕らえられたり尋問されたかなどの詳細な記録は、「昭和特高弾圧史」(太平出版社 全8巻、「戦時下抵抗の研究」同志社大学人文科学研究所編)などに詳しい。
ダビデには、その最晩年に、神がつぎのように言われた。「信実をもって、心を尽くし、魂を尽くして神の道を歩むなら、イスラエルの王座はいつまでも続く。」
(列王記上2の4より)
ダビデの後を継いで王となったソロモンについても、やはり同様に、神の言葉に聞き従うこと、神にいつも心を向けることによって、神の守りがなされ導かれることを告げた。
そのソロモンの祈りと願いはつぎのようなものであった。
…私たちの心を主に向けさせ、私たちをそのすべての道に従って歩ませ、先祖に与えた神の言葉を守らせてくださるように。
そして地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神はないことを知るに至るように。(列王記上8の58〜60より)
このように、旧約聖書の世界における政治とは、まず支配者たる王が、神の言葉を聞き、そのみ言葉に従うことであった。そして民もまたそのみ言葉に従っていくことによって、人々のゆたかな生活があり、王も国家も永続すると言われている。
政治とは、正であると孔子は教えたが、聖書では正義であるだけでなく、愛であり、全能でもある宇宙の創造主である神に聞き従って民に行なうことが本当の政治であると記されている。
新約聖書においては、政治ということは直接には出てこない。
それは、王や貴族などの支配階級のためでなく、病気や悪霊の働きのために、弱く死んでいるような者、深くみずからの罪に悩み、悔い改める者、この世で差別されて苦しむ者…等々の王や支配者とは対極にある人たちの救いのために主イエスはこられたからである。
だが、イエスはこの世界を―目には見えない世界をも含めて支配されている真正の王である。政治は正(義)であると言われたが、イエスは、完全な正義のお方であり、かつ王であるゆえに、彼こそは究極の政治家―正義によって治めるお方―だと言える。
主の生きたありかたこそは、真の政治家のありかたを指し示すものである。
また、主イエスは、まず神の国と神の義を求めよ、と言われた。神の国とは、神の御支配ということであり、それは当然、神の正義と愛による御支配を求めることであり、人間の私利私欲に基づく支配を求めるのではない。
またこれは私たちの心の世界においても、まず自分の欲望を求めるのでなく、神が私たちの心の世界をもその愛と正義をもって支配してくださることを願うことも含む。
それに加えて、神の義―神が持っておられるような正義、神から正しいと認められるようなことを求めよということである。
人を、何の理由もなく一人殺害することも、正義に反する重大な悪である。だからこそ、複数の人の命を奪ったりすると、長期の懲役刑や死刑となるほどである。
しかし、戦争というのは、大挙して攻め寄せて数知れない人たちを殺害したり、一発の爆弾で何千、何万という人を死に至らせる。
そのようなことは、もっとも大規模なかたちで正義に反する行動である。それゆえに、そのような戦争を全面的に禁止してきた憲法9条というのは、本来最も正しいあり方を示すものとなっている。
そして「政治は正」であるということから、さらには政治は愛―貧しい者、苦しむ者への―であるというところへと引き上げられるのが主のご意志である。
そのために、主イエスご自身が言われたように、神を愛し、隣人をも―さらに敵をも愛するという、もっとも大切なことを改めて私たちの信条としたい。そしてその大切なことを持続できるように、日々主に祈り求めていきたいと思う。
愛の神、真実で正義の神など、表面的に見れば、この世のどこにもいないように見える。毎日のニュースでもそのような神が存在するのなら起こるはずがない、と思われるようなことが日々報道されている。
しかし、この世界は、そのような表面的な現象だけでは決してわからないはるかに奥深い本質を持っている。
そして、聖書はその深く、神秘に満ちたこの世界、宇宙の本質を深淵な洞察をもって記している書物である。そのような深さは、人間の思考や経験、単なる直感でなく、そうした無限の深さを持つ神からの直接の啓示だからである。
その聖書には、私たちの叫び、祈りを聞き、私たちの苦しみや悲しみを見てくださる神の本質がさまざまの表現で随所に記されている。
…私たちが、神に助けを求めると、主は、私たちの声を聞き、私たちの受けた苦しみと労苦と虐げを見て、力ある御手を伸ばし、大いなる奇跡をもって私たちをエジプトから導きだし、この乳と蜜の流れる土地を与えられた。(申命記26の7〜9より)
私たちは、自分の苦しいときは、そのことで頭が一杯になるが、他人の苦しみや嘆きには、無頓着である。
彼らのそうした苦しみの叫びを聞き、また見ることが必要である。
そのためには、じっさいにその人のところに行くことで、その両者が可能となることが多い。
しかし、それでも、いかにそばに行ったとしてもなお、ひどい苦しみにある人は、その苦しみを語ろうとせず、あるいは語れないほどの状況に接することもある。
また、私たちが見舞いに行ったときは、その苦しみや悲しみを見せないこともある。
さらに、家族がそうした変わり果てた姿を見せたくないという場合もある。
そして、その苦しみがひどいときには、行っても何もすることができない。いたたまれない、ということで行こうとしなくなることもしばしばである。
このように、現実の状況が生じたとき、彼らの苦しみや悲嘆を見て、苦しみを聞くことは困難となる。
そのような困難を、神はもちろん越えてその状況を見ておられ、かつ聞いてくださっている―それは愛の神であり、真実な神であるなら当然のことである。
しかし、現実の苦難に直面したとき、神は聞いてくださっているのか、神は見ておられるのか ! という痛切な叫びが生じることは歴史においてもいくらでもあった。
主イエスご自身が、十字架での処刑のとき、その恐ろしい肉体の苦しみに遭遇して「神様、神様、どうして私を捨てたのか!」との叫びをあげられたのだった。
神は聞いてくださっていない、見てもくださらない―という気持ちがほとばしり出たのがこうした叫びに現れている。
旧約聖書においても、ヨブ記にそのような耐えがたい苦しみに遭遇したヨブという人が、その苦難のときに耐えて、はだかで母の胎から出たのだから、はだかで帰るのだ、といって財産がすべて失われたときでも神を仰いで耐えた。
それでも、ハンセン病のような耐えがたい皮膚病に襲われ、妻からも信仰など捨ててしまえというようなひどい侮辱の言葉を浴びせられ、夜も眠れないほどの苦痛に日夜さいなまれるようになったとき、自分の生まれた日をのろい、生まれてこなかったらよかった、と繰り返し叫んだのである。
ここには、神はまったく見てくださってはいない、自分の叫びをも聞いてくださっていない、という切実な心が表れている。
そして、このヨブ記に表されている状況は、歴史上で無数の人たちが体験してきたことであろう。
とくに厳しい迫害のときには、耐えがたい拷問、処刑、一家分裂、等々が次々と生じているのに 、そのようなことを止めてくださいと懇願し叫んでも、何の変化も生じない―ということが長くつづいた。
ローマ帝国の300年近い迫害の期間において、どれほどか、この聞いてくださらない、見てくださらないという嘆きが重ねられてきたことであろう。
現実の世界ではこのような状況がいくらでもみられる。
それゆえに、神への信仰を捨てる人も多くあるし、またそのような助けてもらえぬ信仰をあざける人たちも多くいる。
しかし、他方そのような神の沈黙、神の非情さ、ということを越えて、大いなる助けを受けた人たちもまた数知れない。
最初の殉教者となったステファノが、自分を殺そうとする人たちが石を投げつけてくるさなかに、天が開けて神とキリストが見えてそこから生涯の最高の霊的高みに引き上げられ、自分を殺そうとする人たちへの祈りがあふれだしたのであった。
このような深い霊的な助けがあった。それは神がたしかに見ておられ、聞いておられたしるしであった。
見ること、聞くこと―それは近くにあってもわずかしかできないことが多い。苦難にある人の苦しみの叫びは、表面的には分からない。
しかし、もし私たちがキリストの霊、神のまなざしを少しでも与えられるときには、沈黙のなかに苦しむ人の叫びを聞き取り、またその人が一人でいるときの苦悶をもまざまざと見る思いがするであろう。
見ることと聞くことは、肉眼で見て聞くことから、聖霊を与えられて霊的に見るという、限りない深さと高さにまで広がっている。
聖書にはその広がりと深みが随所に記されている。
天地創造の状況、それはだれが見たのか。宇宙創造のときなど、人間はだれひとりいないのである。だからそんなことはフィクションだ、神話だなどと言ってはばからない人たちが多い。
しかし、それは神の全能を知らない、あるいは信じない人の言うことである。神は全能であるゆえ、いっさいを見ることができる。時間をも越えて見ることができる。
その神の全能の一部を特別に選んだ人間に与えるときには、その人は、はるかな未来をも、また天地創造の状況をも見る力が与えられる。
そうしてそのときの神の声を聞き取る。
そこから記されていったのが創世記のあの記述である。
預言者においても、通常はまったく見ることのできないものを見て、また聞くことのできない神や天使の声を聞くことができるのも、そうした全能の神がとくに与えた能力のゆえである。
詩篇19篇の作者は、一般の人の耳に聞こえない宇宙に響く神のことばを聞き取っていた。それはふつうの日常的な言葉にはならない霊的な言葉であった。
哲学者ボエティウス(*)は、神がすべてを見ることができることを次のように歌っている。
《一切を見、一切を聞く》
ホメロスは、その見事な言葉で
太陽のすばらしい光を歌った。
しかし、太陽の弱い光は、
大洋の深みには届かず
大地の深みまでは照らすことはない。
しかし、この大いなる宇宙の創造者は
そのような限界を持たない。
大地のいかなる土塊も
夜のいかなる闇も
彼(神)の一切を見る目の妨げとはならない。
何があったか、何があるか、そして何が起こるか
それらを、一瞥によって見抜く。
彼のみが、一切を見うるゆえに
彼こそは、真の太陽と呼ばれ得る。
(「哲学の慰め」ボエティウス著 207〜208頁 岩波文庫1938年 )
All things surveying, all things overhearing.
Homer with mellifluous tongue
Phoebus' glorious light hath sung,
Hymning high his praise;
Yet his feeble rays
Ocean's hollows may not brighten,
Nor earth's central gloom enlighten.
But the might of Him, who skilled
This great universe to build,
Is not thus confined;
Not earth's solid rind,
Nor night's blackest canopy,
Baffle His all-seeing eye.
All that is, hath been, shall be,
In one glance's compass, He
Limitless descries;
And, save His, no eyes
All the world survey ? no, none!
Him, then, truly name the Sun.
(*)ボエティウスは、480〜524年頃のイタリアの哲学者、政治家。ローマのキリスト教徒名門の出。東ゴート王国において執政官、元老院議長、宰相となった。プラトンやアリストテレスの哲学に大きな影響を受け、彼らの思想を紹介した。晩年は、政治的対立のなかに巻き込まれて投獄され、処刑された。
「哲学の慰め」は、獄中で書きあげた書で、彼の死後も長く愛読されてきた。歴史上で獄中で書かれた最もすぐれた著作だと言われる。
神は万物を見ている。神はあらゆる目を持っている。そのことは、エゼキエル書のなかで、神の表れを記述したなかで、神をはこぶ車の車輪の周囲一面に目がついていたと記されている。そしてこのことは、ほぼ同様の記述が黙示録にも見られるところから、神には無数の目を持っているということを重視していたのがうかがえる。(エゼキエル書1章、黙示録4章)
そのことを本当に信じるとき、当然のこととなるがいかなるところに隠れようとも、また心のうちでどんなことを考えていようと、すべて神は見通しておられるということである。
私たちの傲慢さ、人を憎んだり、見下したりするような内心の罪ぶかい思いもみな神の前にはあらわとなる。
逆に、いかに小さき思いであってもそれが純粋な愛から出た思い―主にあっての思い―であれば、それをも必ず見てくださっている。
あるいは、いかに孤独な心、周囲から見捨てられた者であっても、なお神だけは見捨てずに見てくださっていることを信じることができる。
神が英知を与え、聖霊を与えた人間には、天地創造のこと、はるかな未来のこと、700年も先に起こるメシアの出現さえ、はっきりと預言したような預言者もあった。
そのような時間と空間を超えた洞察を与える神は、どれほどの無限の洞察、見抜く目を持っていることであろうか。
そうした神のまなざしは、選ばれた人に与えられる。それは聖霊が与えるのである。そのような人が書き綴ったのが聖書である。
それゆえに、私たちも聖書を聖霊の助けによって深く学ぶとき、神のまなざしの一端を与えられ、この闇の深まる世にあってもなお、最も大切なもの、そして本当に信実なものや美しいものをその与えられた目で見ることが許されるであろう。
―旧約のイザヤ書、詩篇等
わたしの愛にとどまっていなさい―この主イエスの呼びかけは、イエスが初めて言い出されたのではない。この呼びかけはまた、愛による命令であり、戒めでもある。
前月号において、この「我が愛に居れ」(文語訳)に関して、旧約聖書の創世記などでどのように記されているかの一部を記した。
このことは、聖書全体に記されているのであって、今回は、イザヤ書や詩篇、箴言などにその呼びかけがどのようになされているかを見てみたい。
「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。
金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。
なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。
わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。
耳を傾け、わたしにきて聞け。
そうすれば、あなたがたは生きることができる。
(イザヤ書55の1〜3より)
精神的に、霊的に渇いていること、それは万人の問題であり、日常的に存在する渇きである。それは肉体がふつうの水を飲まねば苦しくなり、ついには死んでしまうように、目には見えない霊的な水を飲まなければ、その苦しさは深まっていく。気晴らしなら、飲食や娯楽施設、テレビ、旅行…等々、いくらでもある。
しかし、そうしたものをいくら重ねても、魂の深いところでのもやもやしたものはどうしてもなくならない。それは、将来の希望ということも確たるものが決して持てないからである。
人間はだれでも、一日一日死に向っている。そしてこの社会は全体として良い方向に向っているのかということには、大きな疑問符が付く。資源を使い尽くし、環境は破壊され、核兵器は増大し、原発事故の可能性は高まり、民族的、宗教的なものと関連した深刻な紛争、テロの危険、高齢化、温暖化、また人間関係の悪化、性の乱れ―等々 どれをとっても、明るい展望や清い世界というのは見えてこない。
さらには、地球や太陽そのものは 何億年という長大な時間から見るとき、最終的には滅びてしまうものであるなら、いかに人間の努力や科学技術の進展などがあろうとも空しい―といった気持ちになる者も多い。
未来にたちこめるこのような暗雲の中にあって、現代の学問や科学技術等々は、永遠的な光を与えることはできない。
このような問題をつきつめて考えるとき、私たちの心は渇いてくる。そのような暗い展望ばかりが見えて来るのを打破するような確たる希望を指し示すものは、新聞、テレビ、雑誌など一般的な印刷物やマスコミには、まったく見られないからである。
このような深いところでの渇きを満たすもの―それをまさに永遠の書である聖書は一貫して記している。
ここにあげた旧約聖書の預言書の一つ、イザヤ書に書かれた内容は、いまから2500年以上も昔に記されたものと言われるが、そのような長い歳月を感じさせない真理が輝いている。それは、永遠の真理そのものである神ご自身からのメッセージだからである。
魂の渇きは、人間の根本問題であり、時代を越え、民族や国を越えて存在するゆえに、そうしたあらゆる人への呼びかけがここにある。
ただで、ぶどう酒やミルクを与えられる―これは、現在ではわかりにくい表現である。ぶどう酒とかミルクなど至る所で安価で手に入るし、ほかの飲食物、栄養の豊かな食物などいくらでもあるから、ぶどう酒やミルクなど、何ら特別に貴重なものでもないからである。
しかし、今から2500年ほども昔においては、これらのものは、最も貴重なものを象徴するものであった。
砂漠地帯あるいは、年間雨量がごく少ない地域にあって、山羊や羊、牛などから得られるミルクは、貴重な飲料であり、得難い完全栄養食品といえるものであった。ぶどう酒も飲料もとても貴重で、しかもミルクや水とは異なって、精神に作用する飲みものとして愛好された。
要するに、こうしたものによって言おうとしていることは、神のもとに来るならば、それだけで、だれでも何らの儀式や費用も建物も要しない、ただ神の招きに従って神を信じ、神を仰ぐだけで、霊的にもっともよきもの、力となるもの、心をうるおすものが与えられる―ということなのである。
ほかのいかなるものによっても与えられない、霊的な満たされた実感を与えられるというのである。人間の与える賜物はつねに限界があり、飲食物を考えてもすぐに分るように、過剰がある。
しかし、神からの賜物には過剰というものがない。
こうした招きこそは、神が愛であり、その愛のもとに来て、とどまれ―ということを意味している。
神のもとにとどまる人には、神はどのような力を与えるのか、それは次のような記述でうかがうことができる。
…主なる神は私の耳を開かれた。
私は逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けて下さるから
私はそれを嘲りとは思わない。
見よ、主なる神が助けてくださる。(イザヤ50の5〜9より)
神は、そのもとに行く者には、耳を開き、神のみ声を聞くことができるように導く。神の声を聞くときには、力が同時に与えられる。
その力は武力とか権力といったものでなく、悪の力が攻撃してきても、武力でやり返さず、黙してそれを受けるという力なのである。嘲られ、不当な迫害であってもなお、それを神のうちにとどまることによって与えられる聖なる力に支えられて耐えていくことができる。
そのような姿勢はかえって悪を増長させるだけでないのか、と考える人もいるであろう。しかし、この世では、悪を受けたらやり返し、復讐するということによっては悪の力は弱まることはなく、かえって増大していくのを、ここに記されている神のもとにとどまる人は「開かれた耳」に聞き取り、知らされていたのである。そうした姿勢こそが、悪を根底から滅ぼしていくことにつながることを、霊の耳が開かれた者は悟っている。
そしてそのような神の力によって悪の絶やされることを祈りつつ甘んじて受けることによって、神ご自身が働かれるのを知っていた。
これははるか後の使徒パウロが次のように言っていることにつながっていく。
…あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。
そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
(ローマ書12の20〜21)
このように、神の愛のもとにとどまることは、魂にほかのいかなるものによっても与えられない深い平安や喜び―それがミルクやぶどう酒でたとえられている―が与えられる。そのような力は、この世の厳しい現実に直面して苦しみ悩みに打ちのめされそうになるときにも、それを神を仰いで耐えていく、それによって神が働かれることを待ち望むことへと導かれる。
詩篇とは、言い換えると、わが愛に居れ、という神の言葉に従った魂の記録である。
まず、第一篇は、神の愛にとどまるとはすなわち、み言葉にとどまることであるという真理が明確に示されている。
み言葉にとどまるときには、川のほとりに植えられた木のようである。それは命を与えられ、成長し、花を咲かせ、実を結ぶ。
わが愛に居れ、というみ言葉に従うときには、何が与えられるのか、ということが簡潔に示されている。
他方、神のそのわが愛に居れという言葉に耳を傾けようとせず、ほかの人間や神々、あるいは金や権力、武力等々に頼っていくときには、必ずもみがらのように軽い存在となり、吹き飛ばされてしまうことになる。
これは、現代の私たちにもそのままあてはまる。自分を重んじるとき、自分に罪がないと強弁するとき、私たちの存在はとたんに軽くなって、飛ばされてしまうような存在となる。動揺が起こる。深い満足や感謝がなくなる。
他人のちょっとした言葉、批判や非難に動揺したり、憎んだり、嫌ったりするようになる。他人を憎み排斥する心は軽い。やはり動揺している魂である。
詩篇23篇は、わが愛に居れとのみ言葉に従うとき、どのような祝福が与えられるかについて、美しい表現で記されている。これは詩篇第一篇での、葉は茂り実を結ぶ―ということをより詳しく別の表現で述べたのである。
主はわが牧者である、ということは、いつも主が導いてくださるということであり、主の愛の内にとどまっていることにほかならない。
そのときには、緑の牧場に導き、安らぎを与え、豊かな牧草―霊的な食物を与えられる。水のほとりに伴って、生きるための水―いのちの水を与えられる。
それは、すでに述べたイザヤ書での表現―私のもとに来れ、乳とぶどう酒をただで与えるのだから―という呼びかけと同じ内容を持っている。
それほど豊かな霊的な食物を与えられるからこそ、敵対する者のただなかにいても、主は杯をあふれさせてくださるという。ここでも、ぶどう酒のたとえが用いられている。敵対する者と直面していてもなお、そのような悪の力にうち勝つ力と、平安を与えてくださることが暗示されている。
そして、主の愛のうちにとどまるならば、その愛のゆえに、神の恵みは絶えることがなく、その人に注がれる。それを次のように記している。
…たしかに、私が生きている限り、良きもの(*)と慈しみはいつもわたしを追ってくる。(**)
私はいつまでも、主の家に住む。(詩篇23の6)
(*)「良きもの」原語は、トーブ であり、この語は、美しい、愛する、かわいい、貴重、きれい、好意、幸福、親しい、幸い、善、善行、宝、正直、正しい、反映、福祉、恵み、安らか、豊か、良い、喜び、立派等々、数十種類の訳語が用いられている。エデンの園の中央にあった善悪の木と訳されている「善」も、原語はトーブであるから、道徳的善だけを意味しているのではない。
(**)追う と訳されている原語は、ラーダフであり、…アブラムは敵を「追跡」した(創世記14の14)のように用いられる。
神の愛のうちにとどまっていようとさえするならば、神からの良きもの(恵み)と愛がいつまでも追いかけてくる、というほどに、主の愛は必然的だというのである。
これは、現実の世の中を見るときには、到る所で悪があり、事件や災害、内紛、戦争などが身近にもまた国際的にも見られる中、そしてこのような人間世界の混乱は、はるかな古代から変ることなく存在しているにもかかわらず、神の愛がいかに強固なものであるかを告げているのは驚くべきことである。
詩篇の著者―ダビデとされているが、いかに彼がはっきりした啓示を受けていたかを示すものであり、そのように明確に啓示を受けていない私たちに対しては、それを神の啓示として受けとることが求められている。
この詩篇23篇のすぐ前に置かれている詩、それは、主イエスが十字架で釘付けられた最期のときの叫びとして記されている。
…我が神、我が神、どうして私を捨てたのか! (詩22の1)
その叫び―それは切れようとしている一本の綱に必死ですがっている、神に叫びつつ、すがっている状況である。
それは全身全霊をこめて、神の愛のうちにとどまろうとする姿に他ならない。
そしてそのような必死の叫び、神の愛にとどまろうとする心は、祝福される。
それが、後半の内容に表されている。
そのような絶望的な叫びをあげつつ、なおも神に祈り叫ぶことをやめなかった魂は、最終的には次のような平安な境地に導かれ、しかも自分だけの安心にとどまることなく、他者に対してその深い経験を伝えようとする気持ちが自然に生じる。
…わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。
主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。
主は貧しい人の苦しみを決して軽んじることはしない。
御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いて下さる。
それゆえ、わたしは大いなる集会であなたに賛美をささげる。
地の果てまですべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。
子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせる。(詩篇22の23〜31より)
それはゆたかな平安と祝福であり、それゆえに、そこで与えられた救いは単に自分だけの経験としてでなく、あらゆる人たちへと広がっていくものであることを直感した。
さらに、時代を越えて伝わっていくものであることも神から啓示された。
いかに困難があろうとも主の愛の内にとどまる、そのことはこのように空間と時間を越えてその祝福が伝わっていくのをこの詩は示しているのである。
詩篇19篇は、神の言葉がいかなるものかを宇宙、自然界に関して述べ、さらに人間の心においてどのような働きをしているかを述べている。
…天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩篇19の2〜5)
それとともに、神の言葉とは、人間に最も深く働く。詩篇では、神の言葉が、律法、定め、命令、裁き、戒め、教え等々、いろいろな言葉に訳されているが、それらは、訳者によっていろいろと変わり、個々の訳語の違いなどをいろいろ考えたりしていると、かえって詩篇の中心となっているメッセージがわかりにくくなる。それゆえ、こうした言葉は、「神の言葉」で、統一的に受け止めることが望ましいといえる。
主の律法―神の言葉は、魂を生き返らせる。さらに、真実で、何が本当に価値あるものか、永遠的なことかを洞察する英知を与える。
そして、清い喜びを与えられる。しかも深く魂を満たすゆえに、それはどんな地上の食物以上に魂の栄養となる。
そして、そのみ言葉が深い洞察を与えるゆえに、みずからの罪に関しても鋭い感覚を持つようになり、自然とその罪の赦しを心から願うようになる。
こうしたことが、詩篇19篇の内容となっている。
そして、それゆえに、地上にも天地宇宙においても、深淵な力をもっている神の言葉にとどまれ、と言う呼びかけが感じられる。
このことは、新約聖書において、とくにヨハネ福音書において主イエスが強調されたことであった。
…あなたがたがわたしにとどまっており(*)、わたしの言葉があなたがたの内にいつもとどまっているならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。(ヨハネ15の7)
…イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
(ヨハネ8の31)
(*)「とどまる」この原語は、メノーであり、「いる」、「つながる」、「(〜の内に)ある」など、日本語訳聖書で、いろいろに訳されている。
このように、主イエスは、イエスの言葉が私たちの内にとどまることと、私たちがイエスの言葉にとどまることを共に語っておられる。
こうした表現は、やはりヨハネ福音書において、主イエスが、「私の内にとどまれ、そうすれば私もあなた方の内にとどまる。」と言われていることと本質的に同じことを意味している。
主の内にとどまる、とは、み言葉にとどまることであり、また神の愛のうちにとどまることである。
それゆえに、こうした詩篇は、神の言葉の大いなるはたらきを語り、それゆえにその神の言葉にとどまれ、という呼びかけがなされているのであり、さらにそのみ言葉にとどまるときにいかなる幸いが与えられるかをも語っている。
…主の律法は完全で、
魂を生き返らせ
主の定めは真実で、
無知な人に知恵を与える。
主の命令はまっすぐで、
心に喜びを与え
主の戒めは清らかで、
目に光を与える。
(み言葉は)金にまさり、
多くの純金にまさって望ましく
蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
知らずに犯した過ち、隠れた罪から
どうかわたしを清めてください。(詩篇19より)
神の言葉、それは広大無限であり、単に地上の世界だけにあるのでなく、宇宙にも響きわたっている。そして全世界にそれはたえず送り出されているというのである。
み言葉は世界の果てにまで及んでおり、人間世界の動きに関わりなく、この世界、宇宙に響いているほどの大いなるものである。
天体や大空の自然は、神の言葉によって創造されたものであるゆえに、神の栄光とその全能をいつも語りかけている。それらの自然そのものが、神の言葉である。
たしかに、星の光やその輝きは、目に見えるものではもっとも清く、永遠的である。神の言葉もそのようなものでありつつ、しかも人間に神の栄光とその大いなる働きを語り続けている。
この19篇では、3つの部分から成る。そのうちの最初の部分では、自然の世界に現れた神の言葉である。そしてその終りには、神の言葉が世界に及ぶこと、また自然の代表としての太陽が、神の命令―神の言葉にしたがって喜んで日々、天空を動いている。自然の姿のなかに、神の言葉に仕える喜びをこの作者は実感していた。
そしてこの第一の段落の最後に、「その熱から隠れるものはない」と述べて、太陽の熱がすべてを覆っているのは、神の言葉が世界を覆っているのと同様であることを示している。
次に、神の言葉に関する内容が歌われている。そこでは、神の言葉のすばらしさが繰り返しいろいろな言葉で言われている。その最後に、あらゆるこの世の財宝、快楽、飲食などにも増して魂に良きものを与えると言われており、神の言葉はそうしたこの世のいっさいに増してよきものとなる。
それらは何のためか、そのような神の言葉の無限性、その響いている領域が限りないこと、永遠の昔からであること、そして生き返らせ、喜びや光を与える―それらは、神からの招きであり、そのようなよき神の言葉にとどまれ、とのメッセージが含まれているのである。
そしてそのために、さまたげとなるのは何か。貧しさや無学、あるいは健康や地位、民族の違いなどはいっさい妨げになることなく、ただ、それぞれの人のもっている罪が妨げとなる。
それゆえに、最後の段落で、罪を赦し、清めを祈っている。罪赦された魂が、神からのわが愛にとどまれ、を最も容易に実行できるからである。
このように、イザヤ書、詩篇なども表面的には、わが愛に居れ という言葉そのものはなくとも、その背後には、つねにそれと同じような呼びかけがなされているのである。
英知からの呼びかけ
また、旧約聖書の箴言には、直接的に英知が呼びかけるという形をとって、神の呼びかけが繰り返し強調されている章がある。
…知恵が呼びかけ英知(*)が声をあげているではないか。
高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち
城門の傍ら、町の入り口城門の通路で呼ばわっている。
「人よあなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる。
浅はかな者は熟慮することを覚え愚か者は反省することを覚えよ。(箴言8の1〜5よ)
(*)旧約聖書において、「知恵」と訳された原語は、ホクマー であり、「英知」と訳された原語は、テブーナー である。前者は、英訳ではほとんどの訳が wisdom あるいは、Wisdom と訳し、後者は、understanding と訳しているのが多い。いずれもこの世の一般的な知識や頭脳の明晰さを意味するのでなく、神や聖なる霊など目には見えない真理にかかわることの直感的理解、真に価値あるものは何かといった霊的な洞察力を意味している。
それゆえに、聖書においては、英知に完全に満たされた存在とは、神であり、キリストである。
じっさい、ホクマーの形容詞形である、ハーカーム は、神の心に関しても用いられている。 「神は心に英知のある方、力の強い方 (ヨブ記9の4)
しかし、日本語の「知恵」という語は、この世の利害にかかわる巧みさや(知恵をつけてやる 等)、遊び道具(「知恵の輪」)にも この知恵という語が用いられているために、原語の意味が正しく伝わらない可能性がある。
なお、叡智とも書くがこの場合、「叡」は、目 が付いているのは、その漢字が 「奥深くまで、眼識が及ぶ」意味を持っている。
この箴言の箇所では、意外なことであるが、英知が神と同じように人々に向って呼びかけているというのである。神こそは、英知の集合体、結晶とも言うべきお方であるゆえに、このような表現がなされている。
聖書における英知―これは次のようにも表現されていることから分るように、キリストの愛を知ることに尽きる。
…また、あなたがたがすべての聖徒(キリスト者)たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し…
(エペソ書3の18)
神、そしてキリストこそこの英知そのものであるゆえに、この箴言の箇所では英知が、人々に呼びかけているのである。
そして、その英知の呼びかけに従うとき、すでにあげたイザヤ書55章と同様に、「英知(神)のパンを食べることであり、英知が調合した酒を飲む。」と言われている。
(箴言9の5)
このような記述は、新約聖書においてもなされている。
主イエスが、私の与える水を飲む者は、渇くことがなく、永遠の命に至る水が湧き出る、と言われたこと、また、主イエスを信じる者は、命のパンである霊的なイエスを食べる―聖霊が私たちに与えられ、最大の霊的養分として与えられることが約束されている。
非暴力
(381)私は、広島が原爆で全滅したと聞いたとき、みじろぎもしなかった。
それどころか、一人ごとを言った、「もし世界が今非暴力を受け入れないなら、人類はきっと自滅することになる」と。 (「人間みな兄弟」ガンジー著)
I did not move a muscle ,when I first heard that an atomb bomb had wiped out Hiroshima.On the contrary , I said to myself,
Unless now the world adopts nonviolence,it will spell certsin suicide for mankind.
(spell 意味する, …の結果になる.)「All Men are Brothers」47頁。初版はユネスコとコロンビア大学出版局により1958年 発行。
・歴史上で初めての原子爆弾での破壊を知ったときでも、その重大性にもかかわらず、彼はじっとそれを聞くのみだった。それはその先のはるかに重大なことを予感したからであった。それはもし人間がこうした武力による戦いを続けていくその先は、人類の破滅となるはるかに重大な事態を感じとったからだった。
日本は現在、政府によって新事態といった新たな状況を作り出し、武力を用いての攻撃可能な状況を次々と拡大しようとしている。自衛隊の装備に対してさらなる増額がなされようとしている。中国も巨額の軍事費を投入している。
このような軍備競争は、かつては考えられなかったテロ、核兵器や大量の原発の存在を考えるとき、その行き着くさきはどうなるのか、誰も洞察できないまま進んでいる。
こうした状況にあっても、真理は変わらない。岩たる真理は、二千年前と同じように、キリストの言行のなかに示されている。
ガンジーの非暴力の思想は、トルストイから大きな影響を受け、そのトルストイは、聖書のマタイ福音書のキリストによる山上の教えを命をかけて生きた人であった。
この現代の闇にあってキリストの教え、そして復活のキリストそのものである聖霊こそますます輝きをもって現れるであろう。
試練の中の安全
(382)私は生涯のうちに多くの厳しい試練を経験してきたが、おそらく今回の試練が最も厳しいものとなるだろう。
私はそれを好む。試練が激しくなればなるほど、私の経験する神との交わりはより密接となる。
そして神のゆたかな恵みに対する私の信仰は、ますます深められる。その試練が続くかぎり、私は安全なのを知っている。(ガンジーの言葉)
I have passed through many an ordeal in my life.But perhaps this is to be the hardest.I like it. The fiercer it becomes, the closer is the communion with God that I experience.and the deeper grows my faith in His abundant grace.So long as it persists.I know it is well with me.
(同右 49頁) (*)ordeal 試練、苦しい経験。
(*)ガンジー1869- 1948年)は、インド独立の指導者。激しい暴力を受けても、非暴力を貫き、断食と祈りの深い力を示した。ヒンズー教徒の銃弾に倒れて死す。
・ガンジーの最後の居宅にはヨハネ福音書とインドの古い書が置かれていたという。 彼のここにあげた言葉は、新約聖書に記された次の言葉を思い起こさせる。
…主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 (Uコリント 12の9)
苦しい試練のとき、どうすることもできない弱さのただなかにあって、そこに神の力が完全に現れるという。
その力によって耐えていくことができる。またそのような厳しい状況にあって私たちはまっすぐに神のみを見つめて祈るようになる。神を仰いで叫ぶほかはないからである。
〇冬季聖書集会
1月23日(金)〜25日(日)、キリスト教独立伝道会主催の、第17回 冬季聖書集会は、去年と同様に、横浜市郊外の「上郷 かみごう・森の家」にて開催されました。
今年のテーマは、「私の愛にとどまりなさい」(ヨハネ福音書15の9)。それに従って、3回の聖書講話、そのそれぞれの講話に関する短い参加者全員による感話、DVDでの映画、このテーマに関しての各自の経験、讃美タイム、自己紹介、早朝祈祷等々の内容でした。
企画担当の方によって、時間もゆったりと計画され、予定外の時間オーバーなどもなく、主イエスがともにいてくださったと感じた三日間でした。
関東地域を中心として、岩手から2名、山形1名、長野3名、四国3名、大阪1名など、遠隔地からの参加者もあり、部分参加を含めて48名が参加。
このような冬の集会と、夏の集会を毎年続けていくのは、その準備にあたる方々は、相当な祈りとエネルギーを費やしておられることを思い、そのような御愛労を主にあって感謝です。
日頃の日曜日の礼拝集会以外に、こうした各地からの参加者による特別集会は、多くの祈りと労力が注がれるゆえに、ふだんの集会では与えられない恵みが注がれることも確かにあります。それは、私自身も四国集会、近畿無教会集会、全国集会などにおいて感じてきたところです。
・「いのちの水」、「今日のみ言葉」、いつもありがとうございます。私自身の思いに言葉を与えられるような感覚、眠っているものを新たに呼び覚まされるような感覚で読ませていただいています。
毎月の「今日のみ言葉」に添えられた「野草と樹木たち」、の植物、花のことは、とても楽しみです。
見た瞬間、ハッとする美しさに出会う幸いな時をいただいています。
今月は「野の花」もありがとうございました。多くの方の喜び、感謝、祈りの思いが届いてきます。…(四国の方)
・2月号の「いのちの水」、特に“翼ある言葉”は詩的で…多くのことを思わされ、気づかされます。
図書館に「翼ある言葉」という本があったので借りてきましたが、やっぱり聖書が一番!と言うより、別格だと思いました。(関西の方)
・…「いのちの水」誌の中の「本当に新しいもの」の記事、元旦礼拝のCD録音の中の、「新しくされる」の講話を聞いて、心に 覆いがかぶさっている状態の自分に気づき、主の方に向かえば、覆いが取り去られること、主は霊であるから、聖霊を新しく受けるため、集り、互いに祈ることの必要性を教えられました。
主人の介護のとき、徳島集会の礼拝の録音されたCDを聞いていたとき、どなたかが、お祈りのなかで、…家で介護しておられる方…と言われて、そのときに、「祈ってくださっているのだ」と一人ではないと、ホッとしたことを忘れることができません。
それ以来、自分のことだけで精一杯という自分を反省し、朝は今日も無事に起きることができたことを感謝と、介護されている方々への祈りは忘れません。(中部地方の方)
〇イースター特別集会
・日時…4月5日(日)午前10時〜午後2時。
午前の集会と、午後は食事と交流会でこの二つをセットにした特別集会です。
・会費…500円。(特別な事情のないかぎり、午前、午後の参加となり、会費は昼食代金です。)
・聖書講話講師
@清水 勝 (近畿大学 准教授・労働経済学)
・主題 「生きておられる方」
・聖書箇所…ルカによる福音書24章1〜7節
A吉村孝雄 (徳島聖書キリスト集会代表)
・主題 「復活と神の愛」
今回は初めて清水勝氏にも復活に関しての講話を、短い時間ですが、お願いすることになりました。
大阪聖書研究会の礼拝に参加するとともに、ご自宅においても家庭でのキリスト教集会を継続してこられた方です。
〇講演会
(キリスト教独立伝道会主催)
・日時 4月29日(水・祝日)
・会場 YMCAアジア青少年センター3階(東京都千代田区猿楽町2の5の5)
記念講演 15時〜16時
吉村孝雄 「神の言葉―その光、命、力」 懇談 16時〜17時
・連絡先 多田義国、
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